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吹雪の魔女

「ステラ。君は、一人で逃げろ」

「え?」

「俺の魔力を君に譲り渡す、だからどうにか逃げてくれ。残った魔力が尽きるまで、俺はあの男を食い止める!」

「無茶だ……! やめてくれ、ロック。それじゃあ、君が!」

「頼むから逃げてくれ! 頼む……っ!」

「っ……」

 ディカイオスの動向に注意を払いながら、プロクスはクリスタロスの肩を抱き寄せた左手に魔力を集中させた。クリスタロスの方へと流れ出した彼の魔力は、彼が持つ魔力の半分以上である。治癒に必要なエネルギーを得たクリスタロスの傷は急速に治っていったが、対するプロクスは急激な脱力感に襲われ、それでも戦意を保って踏みとどまっている状況だった。

「行ってくれ、ステラ。君さえ無事なら、俺はどうなっても構わないから」

「……分かった。君が、そう言うなら、私は……!」

 プロクスの懇願に応え、クリスタロスは走り出した。その刹那、ディカイオスは彼女に対して攻撃を加えようと構える。だがそれは、プロクスの放った巨大な炎によって妨害された。

「お前の相手は俺だ、ディカイオス!」

「どこまでも邪魔な野郎だ、お前はァ! 思い通りにならねぇ、理解が出来ねぇ! お前がその気なら、お前をしっかり殺してからあの化物を追ってやるよォ!」

 次の瞬間。爆発が、爆炎が、銀世界の白い雪を瞬く間に溶かした。同時に二人の魔法使いは、一様に距離を取り、距離を詰め、目を光らせて攻撃の機会を窺う。一方が攻めればもう一方がそれを防ぎ、気がつけば攻守が一瞬で逆転している様な死闘。愛する人を守る、ただそれだけの目的に従って命を賭けるプロクスは、格上を相手に凄まじい集中力を見せていた。

「理解してるのか、自分が何をしているのかを! アステイルの町を自ら襲い、英雄を演じて! お前は何を望んでいるんだ、町の平和じゃなかったのか!」

「ああそうさ、だから俺は英雄でなきゃいけない。俺が英雄でなくなれば、誰があの町を守れると言うんだ! 犠牲の上に成り立つ平穏を受け入れろとでも? ふざけるんじゃない、俺は英雄だ。英雄は常に正しい。英雄が滅ぼしたならそれは悪だ。犠牲じゃない、滅ぶべくして滅んだ敵だ!」

「嘘だ! お前が本当に守りたいものは、お前自身の心だろ! 町の為と言いながら、やってる事は自分の正当化ばかりじゃないか。お前はただ、自分が氷人を滅ぼした悪人だと自分で認めるのが怖いだけだろうが!」

「ッ……その煩わしい口を閉じろ小僧ォォォ!」

 辺り一帯を巻き込むような、大規模な爆発。ディカイオスを中心に、地面を抉るように空気が爆ぜたのだ。だがプロクスは、爆発に伴って発生した火炎を操ることでその勢いを抑える。そして、それだけでは終わらない。彼は制御した炎を、爆発の中心であるディカイオスに対して押し戻した。

「おおおぉぉぉぉッ!」

「小賢しいんだよ、邪魔くせぇ!」

 火炎を爆風で掻き消しながら、ディカイオスは自身の背後へ向かって爆発を放つ。指向性を持った爆発はそのまま彼を押し出す推進力となり、ディカイオスは一瞬でプロクスのすぐ目の前へと躍り出た。そして標的が接近に気づくと同時に、彼はプロクスの背後に土の壁を作り上げ、退路を塞ぐ。完璧な挟み撃ちの構図だった。

「終わりだプロクスーッ!」

 だが、ディカイオスの攻撃は地面から現れた氷の柱によって防がれた。咄嗟の防御に成功したプロクスは、すかさずライターを構えて炎を放つ。爆発で砕けた氷の破片を溶かしながら、真っ赤な炎の弾丸はディカイオスに直撃した。

「ぐぅお!?」

「お前に対してだけは、もう人殺しを躊躇しない。お前だけは、殺してでも止めてみせる!」

「偉そうな口を、叩くんじゃねえええええッ!」

 プロクスに操られた炎の弾丸は、ディカイオスの体にまとわりついて一向に消える様子がない。だがディカイオスは自身の体に向かって極小規模の爆発を放ち、強引に炎を吹き飛ばす事で火達磨になる末路を逃れた。体に負った火傷などまるで効かないとでも言うように、彼は口角を吊り上げて不敵に笑みを浮かべる。その姿は、およそ英雄と呼ばれる人間だとは思えないものだった。

「度しがたい、本当に理解しがたい。何故お前たちは、人々の安心を脅かすんだ。氷人を完全に滅ぼせば、人々が脅威に怯えることも無いというのに!」

「……たち?」

 プロクスはディカイオスの言葉に違和感を覚えた。お前たち、という言葉が、プロクスとクリスタロスの二人を指しているのであれば、ディカイオスの言葉は氷人であるクリスタロスに対して投げかけられるものとしては不自然である。

「どういうことだ、誰の事を言っている」

「一年前だったかな、フィリップも似たような事を言い出した。あいつは俺とアレクスが掃討作戦を実行させる為に民衆を煽った事を知らなかった筈だが、どこかで余計な事を見聞きしたんだろうな」

 攻撃の手を休めず、ディカイオスは語り出す。プロクスは防御と回避を徹底しながら、彼の話に耳を傾けた。

「馬鹿な男だ、俺の嘘を市民に明かすだと? だとしたらどうなる、人々は悔やむだろう。自分たちは無実の人々を殺してしまったのではないか。そんな無用で無意味で無価値な後悔をするかもしれないない。だが黙っていれば済む話だ、吹雪の魔女が死ねば全てが終わる。害悪を全力で振り払った、そういう歴史が記されるのだから」

「一年前……? まさか、お前……っ!」

「アステイルの英雄、フィリップ・オーガンは吹雪の魔女との戦いで命を落とした! 名誉の戦死だ、奴も喜んでいるだろう! 彼は、町を守る為に死んだのだから! そして、そうだ、お前もそうしてやろうか。無謀にも吹雪の魔女に歩み寄ったプロクス・ヘリオは、哀れ氷人の女を信じたが為に利用され、最期には殺された。その方が、町を陥れた罪人として俺に殺された事になるよりは、格好がつくだろ?」

「お前……ッ、お前のどこが英雄だ! どす黒い、悪そのものじゃないか!」

「言ってろ、どうせ死んだら話せやしねぇんだからな」

 ディカイオスがそう言い切るが早いか、プロクスは足元から現れた氷の柱によって身長の三倍はあろう高さへと投げ出された。彼自身の操氷魔法によるものではない。目の前で小馬鹿にする様な笑みを浮かべた、英雄を名乗る男の仕業である。

「が、ぐあぁ……っ」

「あの化物と同じ力だ、爆死するよりはこっちの方がお前も嬉しいだろう?」

「黙れ……ステラの力は、誰かを殺す為にあるものじゃない!」

「討伐隊の隊員は何人も殺されたがな」

「お前がそうさせたんだろうがッ! 彼女は、吹雪の魔女なんかじゃあない。同胞を殺されて歪んでしまっただけの、どこにでも居るような女の子だ……!」

 高所から地面へ叩きつけられ、プロクスの体は激痛を訴えている。だが彼は、それでも再び立ち上がった。愛するクリスタロスを、偽りの英雄から守る為に。

「お前が、お前こそが! 全ての元凶、諸悪の根源! アステイルの町を脅かす吹雪の魔女とは、ディカイオス・ロア、お前のことだ! アステイルの住民を騙し、罪のない氷人を滅ぼし、真実を知ったフィリップ・オーガンを殺し、自ら生み出した復讐者を悪者に仕立て上げて殺そうとした! お前が、お前こそが! 忌むべき災厄、吹雪の魔女そのものだ!」

「くっははははは! 成程、そうきたか。ならそうだな、そういうことで良いさ。フィリップと同じく、氷漬けになって死ぬが良いぜ。お前も、吹雪の魔女に殺されるんだ」

 辛うじて立っているのがやっと。そんな状態だったプロクスは、自分の足元から何かが這い上がっていくるのを感じて下を向いた。雪が形を変え、氷となって、二つの足は氷の中に埋もれている。まとわりついた氷は徐々に、その範囲を広げて今やプロクスの膝まで届くかという場所まで到達していた。

「これは……っ!? くそ、動きが……!」

「溶かせるか、試してみるか? 無理だぜ、それは俺の魔力が混ざった氷だ。お前のちゃちな魔力じゃ、溶かすことも操ることも出来ない。この町の問題に首を突っ込んだことを、後悔しながら凍りつけ」

 プロクスを嘲るかのように、ディカイオスは下卑た笑みを浮かべてそう吐き捨てる。彼が言う通り、プロクスの足を固定している氷は何をしても溶ける様子がなかった。ディカイオスは邪魔をするでもなく、ただそこに立っているだけ。じわじわと追い詰められるプロクスの焦りを楽しんで眺めているようですらあった。

 だがその時、何かが起きた。

「成程、なら私の力ならどうだろうな」

「……は?」

 プロクスの体を飲み込まんとする氷が瞬く間に綿毛のような雪へと変わり、ほんの一瞬だけ吹雪が吹き荒れる。困惑するディカイオスの後方で深い霧の中から現れた彼女は、二人から少し離れた場所で大きく声を張り上げて、精一杯の大笑いをしてみせた。

「生憎だが、ロック。私は君を見捨てて逃げられるほど、薄情な女ではないのでね。立場がさっきと逆のようだが、こう言うべきかな。助けに来たぞ」

「ステラ!? どうして、逃げてくれって、言った筈だろう……?」

「君を失っても一人で生きろと? それこそ、君の方が薄情じゃないのかい」

 クリスタロスは余裕のある表情を装っていたが、しかし依然として体は満身創痍。いくら動けるようになったとはいえ、戦えるような状態ではなかった。

「はっ、こりゃあ都合が良い。獲物が自分から戻ってくるとはな」

「駄目だ、ステラ! 今の君じゃ、この男とは戦えない!」

「誰が戦うと言った? 私はこう言ったんだ、助けに来た、と」

 そう彼女が告げた瞬間、クリスタロスの背後に広がっていた霧の中から、幾つもの人影が現れた。彼らは彼女の少し前へと躍り出て横一列に並ぶと、装備した火炎放射器を構えてディカイオスの攻撃に備える。彼らの表情は一様に困惑と混乱で満ちていたが、しかし、戦うべき敵が誰なのかを間違えてはいなかった。

「アステイルの英雄、否、真なる吹雪の魔女、ディカイオス・ロア! 今一度聞かせてもらおうか、お前がこれまでにしてきた所業の数々をな!」

「な、どうして……! 討伐隊の連中が、何故ここにッ!」

「ロックから魔力を譲り受けた後、一か八か、私は空間転送魔法でアステイルの町へと飛び込んでみたんだ。驚いたのは、転送先がお前の家だったことだな、ディカイオス。だがお陰で色々と手間が省けた。空間転送魔法の魔法陣は、文字通り出入り口だ。双方向に移動が可能な、空間を超越した通り道の、な。だからこうして、私が餌となって連れて来れた。お前が今まで騙してきた、討伐隊の連中を!」

「なんだと……ッ!? くそ、お前ら! その化物に何を言われたのかは知らないが、目を覚ませ! そいつはアステイルの敵だぞ、今までにどれだけの仲間がそいつに殺されたと思ってる! その武器を向けるべきは、そいつの方だろうが!」

 焦りの表情を浮かべながら、ディカイオスは討伐隊に向かって怒鳴りつける。だがその理不尽な叫び声は、隊員の誰かが放った火炎によってかき消された。

「誰だ、今、俺に攻撃しやがったのは……ッ!」

「無駄だ、ディカイオス。彼らはもう、お前がしてきた事を全て知ってしまった。ほかでもない、お前の自白によってな」

「なに?」

「幻霧域、私の得意とする空間異常だ。目的地には決して辿り着かず、私に対して敵意を持つ者を捉える魔性の霧。彼らはこの場所に転送されてから、今までずっとその中で彷徨っていた。いや、途中からは私が強引に動きを封じたが、しかしお前が勘付かなくて良かったよ。お陰で、ようやくお前自身の口から九年前の自白を聞くことが出来た」

「……まさか」

 ディカイオスは理解した。討伐隊は、クリスタロスによって誑かされた訳ではない。彼らは単純に真実を知り、そしてそれが本当に真実であると判断するに値する理由を目の当たりにしたのだ。

「ロック。君の傍に居ながら、君の窮地をただ見守ることしか出来なかったのは心苦しかった。しかし、その成果は今ここにある。君の覚悟は無駄ではない。アステイルの英雄が築いた偽りの栄光は、今ここに、その悪辣な真実が白日の下に晒されたのだ!」

「こ、この……化物がァァァ! 余計な真似を! お前は今日ここで、必ず殺してやる!」

 自身の守ろうとした英雄としての立場を穢され、ディカイオスは怒りのままに、叫び、狂ったようにクリスタロスへと襲いかかる。彼女との間には討伐隊の面々が構えていたが、しかし、彼は攻撃をやめなかった。何故なら最早、真実を知った彼らもまた、ディカイオスにとっては排除すべき存在に変わっていたからである。

「爆ぜろォォォ!」

 火炎放射器による攻撃を意に介さず、ディカイオスは隊員の数人を爆発でなぎ倒してクリスタロスへと迫る。だがその背後を、プロクスは既に追っていた。

「させるかぁぁぁあああああ!」

「ッ!」

 左手ですくい取った雪を氷の刃に変え、プロクスは力任せにディカイオスへと叩きつける。反射的に防がれた刃はその一撃を最後に砕け散ったが、彼はすかさず右手に持ったライターをディカイオスの腹部へと押し付け、最大火力で炎を噴射した。

「畜生め……邪魔を、するんじゃねェェェ!」

 爆発によって炎を掻き消し、ディカイオスはプロクスの攻撃範囲から飛び退く。そしてプロクスの足元からわざとらしく土の柱を突き出させる事で注意を引きつけた彼は、指向性を持たせた爆発をでプロクスの手からライターを弾き飛ばし、プロクス本人をも爆風によって大きく吹き飛ばした。

「つ……ぅ!」

「ロック!」

「他人の心配をしている場合かよ、化物がよォ!」

 注意を逸したクリスタロスに対して、ディカイオスはさらなる接近を試みる。だがその進路を、討伐隊の隊員たちが壁を作るように立ち塞がって妨害した。

「邪魔だ、雑魚ども!」

「ぐ、うあああぁぁぁぁぁ!」

 容赦のない爆発に巻き込まれ、隊員たちは勢い良く弾き飛ばされる。ディカイオスは自身の起こした爆煙の中に飛び込んで姿を隠すと、魔力が尽き防御策を失ったクリスタロスのすぐ目の前へと現れた。

「っ!」

「死ね、最後の氷人」

 その刹那、倒された討伐隊、その内の一人が地面に横たわりながらも、ディカイオスの背中へ向かって火炎放射器を向けた。しかしディカイオスはそれすらも察知し、辛うじて放たれた炎も彼を傷付けるには及ばない。

 筈だった。

「使ってくれ、プロクス・ヘリオ!」

 火炎は不自然なほど巨大に膨れあがると、まるで意思を持って動いているかのようにクリスタロスを避け、ディカイオスだけを的確に包み込んだ。ただそれだけなら、彼にとって対処するのも容易な他愛もない攻撃である。だがその炎は、今までの炎と何かが決定的に違っていた。

「ぐ、うううウウウウウォォォオオオオオ!? あ、づぁ、なんだ……!? 消えねぇ、どうして消し飛ばねぇ!?」

 今まで彼がそうしてきたように、ディカイオスは自分の体にまとわりついた炎を掻き消そうと小さな爆発を何度も起こしていた。だが、それでも。火は消えない、決して離れない。彼を包み込んで、業火は依然として燃え上がっていた。

「……魔力は、魂のエネルギーそのものだ」

 悲鳴を上げる全身を奮い立たせ、プロクスはゆっくり立ち上がる。その目はしっかりとディカイオスを見つめ、片時も逸らされはしない。燃え盛る人型の炎を瞳に映しながら、彼はゆっくりと語り始めた。

「お前はアステイルの人々は騙し、罪なき氷人を滅ぼし、真実を知った仲間を殺し、そしてステラをも殺そうとした。それだけでも、俺がお前を許す理由は何一つとしてありはしない。だが、今、俺はかつてないほど憤っている! お前は、今まで自分が利用してきた人々を、邪魔だと罵り攻撃した、躊躇いすらなく! お前みたいなクズ野郎に、ステラはこんなにも傷つけられたのか!? 俺の魂は今、お前への怒りで燃え滾っている! その炎は、俺の怒りそのものだ、思い知れディカイオスッ!」

 感情の高ぶりに合わせ、プロクスは徐々に声を荒げながらそう叫ぶ。炎は未だ燃え続け、ディカイオスは遂に怨嗟の言葉すら吐くことなく雪の上を転げ回って悶えていた。その場に居る誰もが、苦しむ彼を助けようとはしない。最早あとは、ディカイオスが力尽きるのを待つのみという状況だった。

 だが、一人だけ。唯一彼女だけが、ほかの誰とも違う確かな意思を持って行動を起こした。

「駄目だ、ロック」

 クリスタロスは傷だらけの体でよろめきながらもプロクスの傍へと近づくと、ディカイオスへの憎悪で歪んだ彼の顔へと両手を伸ばし、その頬へ触れた。

「今すぐ、炎を消すんだ。後戻り出来なくなる前に」

「ステラ? 一体、何を……」

「いいから、私の言う通りにしてくれ。頼む」

 彼女の懇願するような、それでいて真剣な表情に気圧されたプロクスは、彼女の言う通りにディカイオスを包む炎を鎮めた。辛うじて意識を保っていたディカイオスは十数秒ぶりに触れた空気を吸い込んで激しく咳き込んだが、立ち上がれる様な素振りは見えない。クリスタロスは彼の無事を確認すると、再びプロクスの方へと視線を向けて安堵の溜息を漏らした。

「ロック、君が私の復讐を止めた理由がよく分かったよ。そんなに怖い顔をしないでくれ、見ているこちらまで辛くなる」

「ステラ……でも、あの男は、君を……! 君だけじゃない、アステイルの人々や、氷人も、皆……ッ!」

「分かっている、私だって奴の事は殺してやりたいさ。だが、ロック。君に人殺しはさせたくない。たとえ憎きディカイオスが相手でも、君の手を汚してほしくはないんだ。それに……」

「……それに?」

「私が復讐心に支配されるのを止めてくれた君に、そんな恐ろしい顔はしてほしくない。言っただろう、君は私の希望なんだ。居なくなられたら困る、死ぬなんてもってのほかだ。それと同じくらい、君が君でなくなるのも嫌なんだ、分かってくれ」

 頬に添えた手の居場所は、次第に肩へ、そして背中へと移り、いつしかクリスタロスはプロクスを優しく抱き締めていた。力が入っていないのは、彼女の体力が失われているからだけではない。それは荒れ狂ったプロクスの魂を鎮める為の、彼女が捧げる慈愛の形だった。

「そうか、ステラ。俺は、君を……心配、させて……っ」

「ロック? おい、しっかりしろ。立てないのか?」

「ごめん、力が抜けて……」

 怒りと共に魔力を全て炎に込め、既にプロクスの疲労は限界を越えていた。ディカイオスに対する敵意によって支えられていた彼の体は、クリスタロスの言葉で憎悪を取り払われた今、力を失い倒れるのみである。支えるクリスタロスもまた既に限界は近く、二人は抱き合った姿勢のまま静かに膝を地面に突いた。

「ステラ。ごめん、俺は勘違いしてたみたいだ。君を助ける事さえ出来れば、俺はどうなっても良いと思ってた……でも、違うんだよな」

「ああ、そうさ。君は私と共に生きてくれ、生きる糧を失った私を導いてくれ。その為に、私に出来ることなら君の望むままに叶えるから」

「そりゃあ良い。君にそんな事を言われるとは、まるで夢のようだ」

 だが、その時。人間の男と魔族の女が今まさに互いの愛を認め合っている最中、彼はゆっくりと体を起こし、立ち上がった。全身に負った火傷は中途半端に治癒が進んでおり、魔法によって強引に回復させた事は誰が見ても明らかである。黙っていれば焼死体とも見分けがつかないのではとすら思われていた彼の復活に、プロクスたちのやり取りを見守っていた討伐隊の面々は、誰一人として瞬時に対処出来なかった。

「殺す……お前ら、だけはァァァァ!」

「っ! ディカイオス、お前まだ……!」

 焼けた喉でガラガラに荒れた叫び声を上げながら、ディカイオスが余力を全て使い果たす覚悟で走り出す。目の前で起きる異常事態に気づいたプロクスは、対処しようにも既に万策は尽きていた。

 だが、しかし。ディカイオスがその目的を果たす事は、遂ぞ無かった。

「が、あが……ァア……ッ」

 攻撃を放とうと構えた瞬間、硬直し受け身も取れぬままにディカイオスは地面に倒れ伏す。彼の肉体がどれだけ損傷しているかを考えれば、それは至極当然の結末だった。むしろ、再び立ち上がっただけでも異常である。それもまた彼の並外れた執念の成せる技だったが、当たり前の現実は正しく彼に限界を突きつけた。倒れたディカイオスは身動きも取れないまま、憎き二人の男女を睨みつけることしか出来ない。

「くそが……見下しやがって、殺してやる……化物め……お前は、生きてちゃいけないんだ」

 さっきまでなら、怒りに震え反論していただろう。だがプロクスは今、ディカイオスの言葉に何かを言い返すような気が全く起きなかった。それは意識が遠のきかけているからでも、まして彼の言葉が正しいと思っているからでもない。ディカイオスに対してプロクスが抱いていた感情は、最早、哀れみ以外の何物でもなかった。

「ディカイオス、お前の事はこの先、ずっと許すことは無いと思う。アステイルの人々も、氷人も、お前のせいで滅茶苦茶にされてるから。だけど、なあ、ディカイオス。お前、もしかして……氷人を皆殺しにした事、悔やんだりはしてないか」

「知ったような口を利くな……ッ! 俺は正しかった、間違っていない。だから、その化物も、殺すべきなんだ……!」

「……そうか」

 それ以上、プロクスは彼と言葉を交わさなかった。うわ言の様に殺意を口にするディカイオスは既に半ば正気ではなく、自分のすべき事を思い出した討伐隊の面々が彼を拘束する為に恐る恐る近づいても、彼がかつての仲間に対して意識を向けるような素振りはない。瀕死に陥った彼の目にはもう、殺したくても殺せない怨敵の姿しか写っていなかったのである。

「おいアンタ、まだ意識はあるか」

 偽りの英雄が捕らえられる一方で、数人の隊員がプロクスとクリスタロスの傍へと駆け寄り、声をかける。自分のことを呼んだその男の顔を、プロクスはどこかで見た覚えがあった。

「……貴方は、確か」

「ああ、俺はアンタに雪狼から助けてもらった事がある。それなのに、悪かった。今の今まで、アンタの事を本気で町の敵だと信じ込んでたんだ。償わせてくれ、アンタたちは町で手厚く介抱させてもらう」

「それは、ステラも一緒にか?」

「もちろん。だってもう、敵対する理由だって無いだろう。むしろ彼女も恩人だ。吹雪の魔女……いや、そう呼ぶのは失礼か。彼女が居なければ、俺たちはいつまでも真実を知らないまま、アンタの事だって悪者だと思ったまま見殺しにしてたかもしれない」

「はは、ステラも助けてもらえるなら……そりゃあ良い、安心した」

 プロクスが軋む体を無理に動かしてクリスタロスの顔を見ると、彼女は既に気を失っているのか、目を閉じて静かに呼吸をしていた。

「……守れたのか、な」

 安堵からか、プロクスの意識がすっと途切れる。それでもクリスタロスが倒れないように、彼は気絶しながらも、彼女の事を支え続けていた。


 その日、アステイルの町は一晩もの間、騒ぎが収まることがなかった。英雄ディカイオス・ロアの自作自演が暴かれた事で、彼の支持者は大いに困惑しただろう。フィリップ・オーガンの死が彼の仕業だったという真実、そして九年前の掃討作戦が彼の嘘によって引き起こされた事実は、ディカイオスを信じたいアステイルの人々には中々受け入れられなかった。だが葡萄館の主であるラクス・エレスタが持ち出したアレクス・ヘイゲル直筆の手紙によってその信憑性は保証され、長年英雄視されてきたディカイオスとアレクスへの信用は失墜。アステイルの人々に、多大な衝撃を与える結果となった。

 一方で、彼らの悪行を暴いたプロクス・ヘリオに対する認識は一転した。アステイルの敵という扱いから瞬く間に英雄としての地位を与えられたが、しかし病院で眠っている彼には知る由もない。そしてそれは、吹雪の魔女として恐れられていたクリスタロス・ナイアトスも同様である。討伐隊の面々によってアステイルで保護された彼女は、真実が知れ渡った事で忌むべき災厄としての認識は薄れ、むしろ惨劇の被害者として同情すらも寄せられる身となったのだ。当然、襲撃に巻き込まれて被害を受けた人々は、必ずしも彼女への敵意を捨てた訳ではなかった。だが、彼女を完全な悪人として見る者は、アステイルの町にはもう居ない。

 プロクスが目を覚ましたのは、激闘から丸一日が過ぎた日没後。痛みと疲れがまだ残る体を起こし、彼が病室の中で最初に目を向けたのは、隣のベッドで安らかに寝息を立てる大切な想い人の顔だった。

「……これから、始まるんだな。君の、俺たちの、新しい日常が」

 そして、それから半月の時が過ぎた。

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