訪れた平穏、忍び寄る不穏
足取り軽く、険しさを微塵も感じない雪山の傾斜を一歩一歩踏みしめながら、プロクスはふと考える。自分のしている事はアステイルの住民からも受け入れられるような行為で、自分だけの独りよがりでないことだけは証明された。だが、しかし。果たしてそれは、クリスタロスの事を本当に幸せにすることが出来る方法だったのだろうかと。
確かにこの方法なら、争いそのものを止める事は出来る。アステイルの人々が吹雪の魔女という災厄に怯える必要はなくなり、クリスタロスも討伐隊との殺し合いを行わずに済む。昨日の様に、あわや殺されるという思いをする事もなくなるのだ。
だが、そもそも彼女が九年間も戦い続けてこれたのは、アステイルの人々に対する復讐心を糧にしていたからである。今となってはその対象がディカイオス一人に限定されたものの、彼女が今回の交渉によって復讐心を捨てる事を強いられたのには変わりない。
「……どうしようもねぇよ」
プロクスは吐き捨てるように呟き、雪山を登り続けた。
家族を、友を、隣人を皆殺しにされ、その元凶が分かっていながら復讐を遂げられない。クリスタロスの味わっているだろう苦悩を想像して、プロクスは下唇を噛み締めた。彼女にその選択を強いたのは和解を提案した自分自身だと、はっきり自覚していたからである。だが彼もまた、想い人がこれ以上手を汚す事は見過ごせなかった。
信じるしかないのだ。これからクリスタロスは、幸せを取り戻せるのだと。ディカイオスに対する憎しみに囚われず、新たな生き方を見つけられるのだと。その為になら、プロクスは自分の人生さえも全て彼女に捧げる覚悟があった。
アステイルの町を出発してから約一時間。プロクスが氷の城へと戻ってくるなり、城の壁は彼を迎え入れるように溶けて入口を作り上げる。一階部分の中央には、待ちわびたようにクリスタロスが佇んでいた。
「おかえり、ロック。思っていたよりも早かったじゃないか」
「ただいま。俺も一晩で話がまとまるとは思わなかったよ。でも、これで終わりだ」
プロクスが微笑むと、クリスタロスもそれに応えるように微笑を浮かべてプロクスの方へと歩み寄った。
「……全く、君は凄い男だよ。流石の私も、アステイルへの攻撃を一切やめようと提案された時には躊躇したが、いやはや、信じてみるものだな。交渉は成功したんだろう?」
「ああ、もう討伐隊と殺し合う必要なんてないんだよ」
「そうか……。なら、これからどんな風に生きていこうかな。君も一緒に考えてくれるだろう?」
「……当然、最初からそうするつもりさ、ステラ」
柔らかな笑みを浮かべて問いかけるクリスタロスに、プロクスは少し言葉に詰まりながら答えを返した。クリスタロスの表情に、僅かに憂いの色が潜んでいたからである。だが彼はその事に言及するような事はしなかった。出来なかった。クリスタロスが自分に気を遣っている事が分かっていただけに、その配慮を無碍にするような真似はしたくなかった。
しばし談笑を交わした後、二人はアステイルの人々にも成果を示せるようにと結界の展開に着手した。規模こそ遥かに大きいものの、展開する結界はプロクスが葡萄館で作った結界空間と同じ類のものである。プロクスとクリスタロス、二人の魔法使いが協力すればそう時間のかかる作業ではなかった。
「空中に魔法陣を展開するのが面倒だったので、新たに氷の塔を四つ建ててみたのだが……意外と良い絵面になったんじゃあないか?」
「いや、なんか、冒険小説とかに出てくる魔王の城みたいになってないか?」
「ふむ、そうか。まあそれはそれで構わんさ、もうこの城に近づく輩は居ないのだからな。気にする者も居ないだろう、町から城を見ている物好きは少々驚くだろうが」
地上に四点、四つの塔の頂点に一点ずつ、合計八つの魔法陣を繋いだ立方体が結界の展開範囲となり、その内部と外部で熱の移動を遮断する。プロクスとクリスタロスが共に注いだ魔力は魔法陣を難なく起動させ、次の瞬間には城を囲む巨大な結界が出現し、そして不可視化した。
「これで、私が城の内部に居る限りは私の力が外部に及ばないと、そういう理屈だな?」
「ああ。町の気温が元に戻るには少し時間がかかるだろうけど、それほど長くはかからないはずだ。俺の休暇もあと二週間程度は残ってるから、こっちに滞在している内に変化は確認できると思う」
「そうか。君が言い出した事とはいえ、忙しそうで同情するよ。この城と町を行き来しなければいけないのだろう? 私は君の事を信用しているが、町の連中は違うだろうからな」
「とりあえず、少なくともあと一回はアステイルの町を訪ねて、結界の展開が完了したと報告する必要があるかな。でももう宿は引き払ってしまったから、寝泊まりはステラの厄介になると思う」
「遠慮するな、むしろ私の望むところだ。この間も言ったと思うが、好きなだけ泊まっていくと良いさ」
申し訳なさそうに苦笑するプロクスに、クリスタロスは余裕のある表情でそう答える。だがその直後、ふと視線を逸した彼女は不意に顔色を曇らせると、やや俯き加減でプロクスを上目遣いに見やりながら小声で尋ねた。
「君は、これからどうするつもりなんだ?」
「え?」
「さっき、君は休暇の残りが二週間程度だと言っただろう。その後の事だ。都会の人間である君がこの場所を去らなければいけないことは理解している。だがロック、これは私のわがままかもしれないが、君には遠くへ行ってほしくないんだ」
「ステラ……」
プロクスは少し戸惑い、それからどう答えたものかと言葉を選んだ。だが彼も、今後の事を考えていなかったわけではない。それどころか、クリスタロスと一緒に居る為にはどうすれば良いのかと、あらゆる手段を想定して選択肢を用意していたほどである。
しかし彼は、簡単には答えられなかった。単純に自分の理想を述べるのであれば、都会での仕事を辞めてこの城へ移り住むと言えば良い。だが現実的に、それは周囲の説得や仕事の後始末に苦労する方法である。なんらかの理由で引き止められる可能性が無いわけでもなく、無責任に実行を宣言出来るほど簡単な手段ではない。
そんなふうにプロクスが答えに迷っていると、クリスタロスは少し震えたような声で話を続けた。
「きっと君は、私が復讐心を無理に抑え込んでいると思っているだろう。ああ、それは間違いじゃない。今でもディカイオスの事は憎いし、出来る事なら殺してやりたいとすら思ってる。でもそれを実行してしまうのは、私が君の隣に居られるような方法じゃない。私は……ああ、正直に言おう。君が私と共に居てくれたらと、そう望んでいるんだ」
「っ……!」
「実のところ、不安なんだ。今まで復讐の為に生きてきたようなものだから、これから私自身、どうしていけば良いのか。やりたいことが無いわけじゃない、でもそれだけじゃ足りないんだ。私一人じゃ、楽しくもなんともない。孤独は何よりも辛いんだ。私には、君しか心を許せるような相手も居ない。君にも都合があるのは分かっているんだ、だけど……頼む、絶対にもう一度、戻ってきてくれ。君の為なら、いつでも部屋を用意しておくから」
泣きそうなほどに不安を露わにしたクリスタロスの表情に、プロクスは胸が潰れる思いを抱いた。僅か数日前には全人類を憎むような復讐心の権化だった吹雪の魔女が、ただ一人の人間との別れを拒んで落胆している。自分が彼女をそんなふうに変えたのだという事実と、自分がこれから果たすべき責任を実感し、プロクスは決意を固めずにはいられなかった。
「……ステラ」
「っ、ロック……!?」
おもむろに広げた腕でクリスタロスを抱き寄せ、プロクスは無言で力を込める。人肌とは程遠い氷の冷たさが伝わってきたが、彼はそんな事を気にしてはいなかった。
「約束するよ、ステラ。必ず戻ってくる。本音を言うと、俺も君と一緒に居たい。でもそうするには少し時間がかかるんだ。だから、それまでは待っていてくれ。必ずここに帰ってきて、君とこの先ずっと生きていく。その決意は、もう既にしているんだ」
「……信じて良いんだな? 言っておくが、裏切ったりなんかしたら容赦しないぞ。君が私を探し出したように、私も君を探し出して、きっとこの城へ攫ってやる」
「ああ、信じてくれ。君を裏切るものか、これまでずっと探してきたんだ」
「なら、私も君の事を待ってやるさ。君が私を探し続けた十五年に比べれば、大したことはないだろうからな」
体を離して顔を見てみれば、クリスタロスは笑みを浮かべながら一筋だけ涙を流していた。もう災厄と呼ばれた吹雪の魔女はどこにも居ない。憎悪に凍てついた心は氷の如く、思い出の少女を追い求め続けた追憶の炎に溶かされたのである。
そして、それから二週間と幾日か。結界の効果は明確に表れ始め、数日も経たない内に、アステイルの住民は十五年に及ぶ冬の支配から解放された事を確信した。不定期に発生していた雪狼の襲撃も当然起こる訳がなく、討伐隊の活動もそれに伴い縮小。監視塔に配置された隊員も異常のない毎日に平和を実感し始め、次第にアステイルの町全体が長年に渡る争いが終わったことを理解していった。
プロクスも最初の何日かは、城と町の間を行き来しては、吹雪の魔女が最早敵意を持たぬ存在であることを再三に熱弁していた。だがそれも一時的なものである。アステイルの住民が気温低下の停止を体感し始めた頃には、もう彼が重ねてクリスタロスの無害性を説明する必要もなくなっていた。
「じゃあ、プロクスさんはこれから吹雪の魔女……いえ、クリスタロスさんの城で生活を?」
「ええ、いずれは両親にもきちんと説明をして、彼女と共に暮らすつもりです。研究者としての仕事を辞める事にはなりますけど、ずっと望んでいた事ですからね」
「そうですか。なんだかお伽話みたいな話で想像もつきませんけど、頑張ってください。応援してます!」
「ありがとうございます。ラクスさんも、お元気で」
葡萄館でラクスとそんな会話を交わした後、プロクスは一人で氷の城へと戻り、それから彼がイストラムの町へと帰る当日までアステイルの町には姿を現さなかった。
半月近い時間、彼はクリスタロスと二人きりで過ごしていた。時間は多く、暇を持て余してもおかしくはないように思えたが、しかし二人の心境は充実の一言に尽きる。文字通り何もないような氷の城ではあったが、無二の想い人を前に時間は有限。会話のない沈黙の時間すら愛おしく、やることなすことが全て楽しかった。
そんなある日の事である。
「そうだ、ロック。一つ、簡単な魔法を覚えてから帰るというのはどうだろう。君ほどの実力があれば、それほど難しくはないと思うんだが」
プロクスの休暇が終わる数日前、クリスタロスはふとそんな話を持ちかけた。
「そりゃあ、魔法がどんなものかによるけども」
「操氷魔法、君が得意とする操炎魔法の対象が氷になったものだ。ああ、君が言いたいことは分かる。操作系の魔法は習得に時間がかかるものだからな、でもこれに関しては反則が出来るんだよ」
「反則?」
「氷人である私の魔力を君が取り込めば、氷に対する魔力の適性が大幅に上がる。既に操炎魔法という操作系の魔法を習得している君なら、練度は多少そちらに劣るだろうが、ある程度は一気に扱えるようになるだろうさ」
突然の提案だったが、プロクスはなんとなく彼女の意図に気づいて快く承諾した。実際のところ、魔法の習得云々は建前である。重要なのは、クリスタロスの魔力をプロクスが取り込むという点。それは彼女が魔力を通じ、短期間ではあるがプロクスの居場所を感じ取れるようになる方法である。
「回りくどいことしなくても、それくらいするのに」
プロクスはクリスタロスに聞こえない様な小声で呟く。彼もまた、想い人の魔力を取り込むことで彼女を身近に感じられる事を少し喜んでいた。それに加え、操氷魔法は本来なら簡単に習得できる魔法ではない。そんな魔法を短期間で覚えられるとなれば、クリスタロスの提案はプロクスにとっても一挙両得な申し出にほかならなかった。
「では手を貸してくれ、私の方から魔力を流し込む。少し体が冷えるかもしれないが、少し辛抱してくれ」
「ああ、よろしく頼む」
プロクスが差し出した右手をひしと両手で包みこみ、クリスタロスは魔力の一部を譲り渡した。冷気を司る氷人の魔力はそれそのものが冷気に近い性質を持ち、プロクスは一瞬身を震わせる。だが決して手を離すことはせず、本来自分が持っている以上の魔力を体内に取り込んだ彼は、それがクリスタロスのものだという実感を噛み締め僅かに微笑んだ。
「少し妙な感覚だけど、割と馴染んでいる気がする。じゃあステラ、ご教示願おうかな」
「ああ、今すぐに始めよう。なにせ時間は少ないからな」
クリスタロスの見立て通り、既に操炎魔法という同種の魔法を習得していたプロクスは、操氷魔法を覚えるのに時間がかからなかった。彼女の様に氷を新たに作り出す力はないものの、雪と氷で視界が占領されるような銀世界で素材の不足はありえない。彼が休暇を終える前日には、時間をかければある程度大きな氷像も作り出せるほどになっていた。
しかし、彼は決定的な勘違いを犯していた。クリスタロスがプロクスに操氷魔法を覚えないかと提案したのは、決して彼の居場所を知る事が最大の目的ではなかったのだ。それも理由の一つではあったが、一番の理由ではない。その事にプロクスが気づいたのは、今まさに氷の城を去ろうという時の事だった。
「……しばらくまたお別れだな、ステラ」
「ああ。だが待つさ、そう約束したからな」
休暇最終日、プロクスは午前中に荷物をまとめて下山の準備を整えた。空は雲一つない晴天で、かつてこの場所が吹雪の荒れ狂う禁足地だったことを忘れさせる。まるで、二人の別れを明るく照らそうとしているかのような空だった。
「じゃあ、ステラ……名残惜しいけど、きっとすぐに戻ってくるから」
「準備が出来たのなら早く行け。これ以上顔を合わせていると、余計に名残惜しくなる」
「はは、確かにそうだ」
無感情な声色で言い放ちながらも寂しげな表情を浮かべるクリスタロスを見て、プロクスは彼女の決心を無駄にしないよう帰路へと一歩踏み出す。その背中にクリスタロスは、ともすれば聞き逃してしまいそうなか細い声で呟いた。
「祈っているよ、たとえどれだけ離れていようとも、私の魔力が君の助けになることを」
プロクスは振り返らない。だがクリスタロスの言葉は、しっかりと彼の耳に届いていた。
彼女から譲り受けた自分のものではない魔力を体に宿し、プロクスはアステイルの町を再び訪れると、誰とも別れの挨拶を交わすことなく駅へ向かった。少しでも気を緩めれば、押し留めた寂しさが胸からこみ上げてきそうな気がしたからである。
そして彼は、約三週間半ぶりにイストラムの町へと帰っていった。
久しぶりに都会の空を見上げたプロクスの目には、何故か空が少し汚れているように映った。
昼過ぎの食堂は騒がしく、沈黙という概念が存在しない。午前の実験を終えた研究員たちが次から次へと昼食を目当てに集まり、正午にはまばらに残っていた空席も、半刻を過ぎた頃にはいつの間にかなくなっていた。談笑の声と声の合間では食器を運ぶ音が聞こえ、誰も彼もが仕事の合間に与えられた僅かな休憩時間を楽しんでいる。
そんな食堂の一角。職場に復帰して一週間が経ったプロクスは、しわだらけの白衣を身にまとったまま、浮かない顔でサンドイッチを口に運んでいた。まるで今から、勝ち目のない戦いに挑まざるを得ないかのような面持ちである。
「なんつー顔して飯食ってるんだよ」
「……ああ、フレッドか」
呆れ気味に溜息を吐きながら、フレデリックは何も言わずプロクスの正面に席を取る。彼の顔にはさながら卑しいという言葉が似合いそうな笑みが浮かんでおり、プロクスはより一層表情に陰りを見せたが、フレデリックはお構いなしというふうに話を始めた。
「いやぁ、それにしても驚きましたなぁ、あのロックが女作って仕事辞めるとはねぇ」
「何度目だよその話。会う度に言ってないか?」
「それほど衝撃的なんだよ、客観的に見てみろ、お前。急にストレスで倒れた筈の職員が、休み明けの開口一番に辞職宣言って、驚くなって方が無理だろうが」
「まあ、そりゃ否定はしないが。でも今進めてる企画が完了するまで仕事は辞められないし、辞表を出してから周りの目が奇人を見るようなものになるし……はぁ、早く辞めたい」
「多分、俺の人生で後にも先にもお前だけだと思うぜ。魔族の女と二人暮らしする為に仕事辞めて移住する奴はな」
「そりゃ名誉なことだ」
「褒めてねぇっての」
プロクスはサンドイッチをすっかり完食すると、苦笑する同僚を無視して席を立つ。食器の回収棚に皿を片付けた彼は、そのまま午後の実験が行われる地下の実験室へと向かっていった。
終わりを待つだけの日々は退屈を極める。無気力にただ与えられた仕事をこなしながら、プロクスはクリスタロスとの再会を夢に見ていた。ほんの一週間、されど一週間。十五年という月日に比べれば塵芥も同然の数日に思えたが、全くそんな事はなかったのである。ただ毎日が、寂しさを募らせるには十分な空虚の暴力だった。
「……いや、暗くなっても仕方ないか」
逆に言えば、自分が現在関わっている企画さえ完了してしまえば、再びクリスタロスに会えるのだ。プロクスはそう考えて、自身の頬をぱしりと叩く。周囲の向ける好奇の目など最早気にもならなかった。今はただ一つの目的に向かって、目の前にある障壁を越えるだけである。
「ステラはきっと待ってくれている筈。気を急いても空回りするだけだし、しっかり仕事を終わらせよう。ああ、そうしよう」
そう自分に言い聞かせ、プロクスは悠然とした態度で午後の実験に挑んだ。
だが、彼は知らない。知る由もない。アステイルの町で、その時なにが起きていたのかを。
彼の望んだ平穏は、既にそこから消え去っていた。彼が作った信頼は、既に脆くも崩れていた。吹雪の魔女は、再びアステイルの町を脅かす災厄として復活を遂げていたのである。
「襲撃だ! 雪狼が……吹雪の魔女がまた、襲ってきたんだ!」
暖かさを取り戻したアステイルの町。役目を失った監視塔から、慌てふためいた討伐隊の放送が流れる。だがそれは、襲撃を報せるには遅すぎる呼びかけだった。
「ガァァァァァルルァァァ!」
夥しい数の雪狼が、雪山からさながら雪崩の如く押し寄せる。それは凄まじい勢いでアステイルの町へと襲いかかり、平和な日々に安心しきっていた町の人々へ容赦なく牙を立てた。
子どもも、大人も、男も、女も、雪狼は視界に捉えるや構わず襲いかかる。圧倒的な物量を前に討伐隊は役に立たず、町の至る所で怪我人が出ていた。
「ひっ、こ、来ないで……来ないでぇ!」
葡萄館のガタついた扉は、雪狼の突進によって容易く破られた。唸りを上げる魔獣の群れを前にして、戦う術を満たないラクスは怯える事しか出来ない。突然の出来事に理解が追いつかぬままに壁際へと追いやられ、彼女は必死に助けを求めて叫び続けた。だが討伐隊の基地という役目を失った葡萄館に、彼女以外の人間はもう居ない。
「嫌、ヤダ……なんで、だって、吹雪の魔女は、もう……!」
疑問を口にしたところで、雪狼は止まらない。恐怖に満ちた表情を浮かべ、ラクスは自身の死を半ば確信した。逃げ場など、どこにも見当たらない。
だがその直後、小さな爆発が彼女の目前で起きた。かと思えば、爆風はラクスを傷付ける事なく雪狼の群れだけを葡萄館の外へと吹き飛ばしたのである。
「は、はぁ……っ、た、助かっ……!?」
「怪我はないか、ラクスちゃん」
「っ! 貴方は……どうして、ここに」
何が起きたかも分からず、ラクスは腰を抜かして座り込む。すると館の入口から、一人の男が現れて彼女に声をかけた。アステイルの英雄、ディカイオスである。
「心配だったから見に来たんだよ、知らない仲じゃないしな。そうしたらこの始末だ。ラクスちゃんは地下室に隠れてな、この騒ぎは俺が鎮めてやるからよ」
「は、はい。でも、なんでまた、雪狼が……」
「馬鹿正直に理想論なんかを信じるからだ、畜生め。騙されたんだよ、最初から信じるべきじゃなかった。やっぱり、俺が思っていた通りだったんだ」
反撃を試みる雪狼を片手間に爆殺し、ディカイオスはラクスの方に目を向けて言い放つ。
「吹雪の魔女は最初から襲撃をやめるつもりなんてなかった。全ては俺たちを油断させる為の罠だった。そういうことだろうがよ」
「そんな、そんなこと」
「プロクスにどんな印象を抱いてるかは知ったこっちゃないが、冷静に現実を見た方が良いぜ。俺は最初から氷人を信用してなかった、だからこうしてすぐに動けている。だが町の連中はどうだ、あの男の言うことを信じたがためにこの有様だ」
「っ……」
「やっぱり、吹雪の魔女は殺しておくべきだった。これでもう、誰も吹雪の魔女に歩み寄ろうなんて馬鹿なことは思わないだろう。俺はもう一度この町に討伐隊を結成して、そして今度こそあの化物を討ち取ってみせる」
吐き捨てるようにそう言うなり、ディカイオスは簡易的な結界を葡萄館の入口に張ってその場を去る。その顔には以前と同じ、吹雪の魔女に対する敵意がありありと浮かんでいた。
「そんな……プロクスさん、これは、どうなってるんですか……? 吹雪の魔女は、本当に、説得出来たんですよね……」
虚空に語りかけながら、ラクスは何が起きているのかを混乱する頭で理解しようとした。だが、何も分からなかった。何が正しいことなのか、考えるだけで頭が痛くなる。
ラクスはディカイオスに勧められた通り、地下の自宅へと閉じこもった。まだ館の外では、雪狼が住民を襲っている。今の彼女に、外の様子を確かめる勇気はなかった。
一方、葡萄館を去ったディカイオスは、市街地に到達した雪狼の群れを手当たり次第に爆殺していた。誰が襲われ、どれだけ被害が出ているのか。そんな事は一切確認せず、ただひたすらに侵入者を排除する。救助や治療は自分以外にも出来ると彼は信じていたが、それと同じくらいに、雪狼の相手は自分しか出来ないという強い確信があった。
「鎮圧は俺がどうにかする、怪我人の保護を優先しろ!」
「は、はい!」
立ちすくむ市民を一喝し、ディカイオスは駅前の広場へと向かった。町中の道に繋がった立地と広い敷地から、駅前広場は彼がこれからやろうとしている事に最適な場所だからである。
「数の多い敵は、一箇所に集めるのが一番だ」
住み慣れたアステイルの町、だからこそ彼には多少の無茶が出来る。広場に着いたディカイオスは地面に強く右手を叩きつけると、町を端から端まで内側に留めるような巨大な魔法陣を展開し、魔力を流し込むことで起動した。
「ここで一網打尽にしてやる」
瞬間、町のあちこちに溢れていた雪狼が一斉に駅前広場の方へと顔を向け、一目散に走り出した。狙いは当然、ディカイオスである。魔法陣は、雪狼を誘い出す為の細工だったのだ。
「グゥォォォァァァアアアア!」
「哀れなケダモノだ、殺される為に呼ばれたとも知らずに」
荒れ狂う雪狼の濁流を、ディカイオスは近づく傍から爆破し、処理していく。最後の一匹になるまで雪狼は彼に襲いかかることをやめなかったが、あまりに相手が悪すぎた。
「これで終わりだ」
「ゴァァアアアアアッ!」
遂に一つの傷すらも彼に負わせる事が出来ぬまま、アステイルの町を襲った雪狼はその全てがディカイオスの手で爆殺された。
「……これで分かっただろう」
怒りと、失望と、悲しみを全て混ぜ込んだような苦々しい表情を浮かべ、ディカイオスは呟く。その声は、まるで呪いの言葉でも吐くかのように寒々しく、重苦しいものだった。
「吹雪の魔女は敵だ! これが真実だ! 今一度、俺たちは武器を手に取らなければならない! 次こそは、あの憎き化物を地獄に落とさねばならない! これが現実だ、プロクス・ヘリオの掲げた理想など絵空事に過ぎなかったのだ! さあ、アステイルの市民よ、再び問おうじゃないか。吹雪の魔女は、我々にとってなんなのかを!」
ディカイオスの叫びが、雪狼の死骸に埋め尽くされた駅前広場に響き渡る。彼の叫びは、しっかりと町中の市民へと届いていた。
誰かが答えた、吹雪の魔女はやはり敵だと。また誰かが答えた、吹雪の魔女は災厄だと。
アステイルの町は、再び吹雪の魔女がもたらす恐怖を思い出した。ディカイオスを中心に討伐隊が再結成されたのは、その晩の事である。




