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十五年前の恩人

 昼過ぎの食堂は騒がしく、沈黙という概念が存在しない。午前の実験を終えた研究員たちが次から次へと昼食を目当てに集まり、正午にはまばらに残っていた空席も、半刻を過ぎた頃にはいつの間にかなくなっていた。談笑の声と声の合間では食器を運ぶ音が聞こえ、誰も彼もが仕事の合間に与えられた僅かな休憩時間を楽しんでいる。

 そんな食堂の一角。プロクス・ヘリオはサンドイッチを無言で口に押し込みながら、不機嫌そうに眉をひそめていた。誰も目を向けないような部屋の隅に好んで席を確保し、さながら他人から隠れるように。

「よう、ロック。そこ空いてるか?」

 一人の同僚が、そんな彼に声をかける。彼はプロクスの正面、つい数十秒前に食事を終えた別の職員が立ち去った席を指差し、そこが空席かどうかを尋ねていた。

「空いてるよ」

「んじゃあ、この席もらい、っと」

 実験室から出てきてそのままらしい白衣を着た同僚は、ランチプレートをテーブルに置くと、白衣の裾を気にしながら椅子へ腰を下ろす。湯気のたつコンソメスープが衝撃で僅かに溢れたが、彼は気付いていないのか、そのままパンへ手を伸ばし食事を始めた。

「機嫌悪そうだな。新人も入ってきたばかりだし、午前の実験で失敗でもされたのか」

「いや、フレッド、そうじゃない。機嫌が悪いのは事実だが、理由は実験じゃない」

「じゃあ、あの件か。ヒーローって柄じゃねえもんな、お前」

「……うるせえ」

 フレッドと呼ばれた同僚のフレデリックは、プロクスの反応に笑い声を漏らし、スプーンですくい取ったポテトサラダを口に運んだ。三年前の春にこの研究所で仕事に就いてから、同期の二人はそれなりに仲が良い。プロクスが機嫌を損ねるような話題に触れられるのは、無神経な先輩研究員を除けば彼ぐらいのものである。

「良いじゃねえか。火事の現場から子ども二人助けたなんて、一生自慢できる武勇伝だぜ」

「そうだな、俺がもう少し名誉欲を持っていたら今の状況は最高だったかもしれない。なるべく目立たず静かに生きていきたい俺にとっては、不都合なことこの上ないけどな」

「……お前らしい悩みだ」

「ありがとう」

「いや、褒めてはいない」

 苦笑するフレデリックを無視しながら、サンドイッチを最後の一つまで食べ終わったプロクスは、騒がしい食堂の中をぐるりと見渡した。席がなくて座れていない様子の職員は見当たらず、このまま居座っても迷惑はかからない。そう判断した彼は、ひとまず目の前の友人が食事を終えるまではこの場で話を続けることにした。

「やっぱ消防隊から礼を言われたりしたのか? その時の状況は新聞で見ただけだから詳しく知らないけど、鎮火まで手伝ったんだろ」

「まあ、礼は言われたよ。結果的に延焼も防いだしな。でもそれより、どうして装備もなしに子ども二人を助けて無傷なのかを質問攻めされた事が堪えた。お陰でその日は、家に帰るのが随分遅くなったし」

「ははっ、お前の使う魔法は珍しいからな! 操炎魔法だっけ? 便利だよなあ、物を燃やすのにも火を消すのにも役立つんだから」

「この仕事もこいつのお陰で就けたようなものだしな。魔法の勉強は十五年前からしてるんだ、同い年の魔法使いと比べれば結構やってる方だと思うぜ」

 そう言うとプロクスは、おもむろに懐からライターを取り出した。内部がオイルで満たされた火打石式の点火器具である。

「欠点があるとすれば、愛煙家でもないのにこいつを持ち歩かなきゃいけないことか」

「ああそうか、お前の魔法は炎を出す魔法じゃないのか。そういう点で言えば、単純に炎やら雷を打ち出す脳筋な奴らにも長所ってあるんだな」

「お前、さらっと酷いこと言ったな」

 呆れながらライターを懐へ仕舞い、プロクスは背もたれに体重を預けた。昼休みはまだ十五分ほど残っている。午後の実験が行われる耐火実験室に移動するには、まだもう少し時間があった。

「ところでロック、話は変わるんだが」

 ようやくランチプレートを完食したらしきフレデリックが口を拭きながらそう切り出し、プロクスは天井に向けていた視線を彼の方へ戻した。さっきまで談笑していた様子とはうって変わり、今のフレデリックは締まりのないニヤニヤ笑いを浮かべている。

「なんだよ気持ち悪い」

「いやさ、実はまだ誰にも言ってないんだけど、俺この間の休日に彼女ができたんだよ」

「……は?」

「信じられねえだろ? 俺も信じられねえ。でもできたんだよ、彼女が。妹の友達のお姉ちゃんっていう妙な関係だったんだけどさ、何回か会う内に意気投合して、遂にこの間……な」

「惚気話か? それなら俺じゃなくて、噂好きのゼシカにでも話してりゃ良いだろ。あいつに話せばその日の夜には全職員に伝わるだろうさ」

「いや、それは勘弁。で、これはちょっとした誘いなんだが……今度の休日、彼女と彼女の友達が日帰り旅行に出掛けるのを手伝う約束になってるんだが、ロックも来ないか?」

「はぁ? なんで俺が。全く初対面の奴と日帰り旅行なんて気まずすぎるだろ。ましてや、その二人ってどっちも女だろ。同性ならまだしも、初対面の異性は距離感掴めねえよ」

「お前、今まで一度も彼女居たことないんだろ? 俺の彼女は当然可愛いが、彼女の友達も中々のもんだぜ。チャンスだと思わないか? それにほら、お前は今、名の知れた有名人な訳だし」

 フレデリックの誘いを聞いて、プロクスは苦笑を浮かべると、それから大きく溜息を吐いた。そうか、成程、そういう親切心か。彼は友人の意図を察すると同時に、フレデリックが大きな勘違いをしている事に少し失笑する。自分がそんなふうに見られていたとは考えたこともなかったが、少なくとも友人が手を貸そうと考えてくれたことに関しては嬉しかった。

「なんだよ、その反応は」

 顔をしかめるフレデリックに対し、プロクスは誤解を与えた事を謝りながら、自分にはその気遣いが不要だと伝えた。

「悪いけど、俺はそこらの女と付き合う気はない。ほかを当たってくれ、誘えば来そうな奴なら何人か居るだろ。マクスなんて良いんじゃないか、頼りになりそうだし」

「そこらの女と付き合う気がないって……なんだ、お前にしては珍しく高望みでもしてるのか? いつも目立ちたくないとか静かに生きていたいとか言う割に」

「いや、そうじゃない。あー……くそ、恥ずかしいからあまり言いたくないんだよ。片思いしてる相手がいるんだ、浮気するつもりはない」

 勘違いされ続けるのも癪だと理由を明かしたは良いが、プロクスはそれが愚策だったと気付き後悔した。何故なら、目の前の友人が初めて聞いたプロクスの秘密に興味を示したように目を見開き、驚愕を顔に浮かべていたからである。

「片思い? 誰に? 俺の知ってる奴か?」

「違う、お前が知ってる奴じゃない。それに、俺もずっと会えてない」

「ずっと会えてないって、ちょっと待て、その片思いはいつから続いてるんだ」

「十五年」

「……冗談だろ?」

「冗談なもんか。あの子の名前は今でも覚えてる、クリスタロス・ナイアトス。今はどこで何をしてるかも知らないけどな、俺が初めて心から好きだと思った相手で、恐らくこれからも彼女以外にそんな感情を抱くことはない」

「なんじゃあ、そりゃ……」

 呆れているのか信じていないのか、フレデリックは言葉を失ったようだった。

 追及がそれ以上続かないと判断すると、プロクスはサンドイッチが乗っていた皿を片手に席を立ち、食器の回収棚に片付けた。まだ休み時間は残っていたが、早めに移動するに越したことはない。

「そういう訳で、ほかの奴を誘ってくれ。あと、この話は広めるなよ、ゼシカにだけは絶対話すな。これ以上、俺の日常が騒がしくなったら堪ったもんじゃないからな」

 彼は呆然とする友人にそう念を押すと、フレデリックが首を縦に振ったのを確認して食堂を後にした。

「さて、白衣は午前中に耐火実験室で脱いだままだったな」

 研究所一階の中心に位置する食堂を出て、階段を下り地下二階へと向かう。都市部に建てられたせいか敷地の狭いこの研究所は、縦に長く移動が面倒くさいのだけが難点だと、プロクスは常々思っていた。

「プロクスさん」

「ん?」

 背後から声をかけられ、プロクスは歩調を緩めながらちらりと振り向く。見ると一年後輩の研究員、アイシャが人懐っこい笑みを浮かべながら彼の後ろをついてきていた。身長の低い彼女は歩幅も小さく、しゃかしゃかと早足で歩いている割にはプロクスと歩く速さがそれほど変わらない。

 そういえば彼女は男性職員の中で人気があったな。プロクスはフレデリックとの会話の流れからそんな事をふと考えながら、アイシャに自分を呼び止めた理由を尋ねた。

「ああ、いえ、用という程の事でもないんですがね。午後の実験ではご一緒する筈だと思ったので、実験室に向かうついでに先輩の意見をお聞かせ願えないかなと」

「意見? それはこれから確かめる、結界耐久温度の意図的な操作についてかな」

「ええ。なにせプロクスさんは炎を扱う魔法使いの中では特に実験の参加回数が多いですからね、より参考になると思っています」

「成程ね」

 随分と熱心な研究者だ。プロクスは感心しながら返答を考えた。だがこの調子で歩き続ければ、実験室に到着するまで数えるほどの時間もない。期待されているだけにそれなりの意見は出しておきたかったのだが、残念ながらプロクスが得意とするのは炎を操ることであって、午後の実験でメインとなる結界魔法は殆ど専門外であった。

「実験結果を見てからじゃないと、俺にはなんとも言えないかな。俺は所詮、優秀な火力調整器なもんでね」

 実験室の前まで辿り着いたプロクスはアイシャに対しそう答え、部屋の中へ放置した白衣を取りに向かった。

 既に実験室の中には何人かの研究員が集まり、実験の準備を始めていた。午前の実験で使用した部屋中央の炉は、中に溜まった灰が取り出され、代わりに新しい薪が投入されている。

「おはよう、マクス。なにか手伝えることはあるか?」

「ん、おはよう、プロクス。君は実験中にしっかり働いてもらうから、準備には参加しなくて構わん」

「そうか」

 立方体の内部のような、炉以外に何もない実験室。椅子もないのでその隅で壁にもたれかかり、プロクスは実験の開始を待った。

「はぁ……早く仕事終わらせて帰って寝たいな」

 無気力な彼の独り言は、誰の耳に届くこともなくどこかへ消えた。

 それが、彼にとってはいつも通りの日常。魔法研究所で日夜実験に励み、得られた実験結果は巡り巡って色々な人々の生活に役立っている。それがどう役立っているのかも分からないまま、プロクスは毎日を働いていた。朝起きて、研究所に向かい、実験をして、昼食をとり、午後になって実験をして、家に帰って、そして寝る。いつも通り、毎日同じことの繰り返し。この日も大きな違いなく、彼が送る日常の中のある一コマでしかなかった。筈だった。

 彼がこの日こそ転機だったのだと気付くのは、それから一週間が過ぎた休み明けのある日のことである。


 その日、いつも通りに午前の実験を終えたプロクスは、いつも通りに食堂の隅に席を確保し、買ったばかりのサンドイッチを食べ始めるところだった。その直後の事である。

「ロック! ロックは居るか!?」

「……フレッド?」

 慌ただしく食堂に飛び込んできた友人が、自分の名前を叫びながらこちらへ近づいてくる。なんらかの異常事態を察したプロクスは口に運ぶ途中だったサンドイッチを更に戻し、フレデリックの接近を待ち構えた。

「どうしたんだよ、血相変えて。何かあったのか?」

「ロック、お前がこの間言ってた片思いの相手、名前はクリスタロス・ナイアトスで合ってるよな」

「ばっ、お前! 声が大きいんだよ、内緒にしろって言ったろ」

「合ってるんだよな!?」

 プロクスの制止も気に留めず、フレデリックは問い詰める。その緊張した面持ちを見て彼がふざけているのではないと確信したプロクスは、自分の秘密を暴露された怒りはさておき、彼の問いに対し肯定を返した。クリスタロス・ナイアトス、十五年片思いし続けてきた相手の名前をプロクスが間違える筈もない。

 その答えを聞いて、フレデリックは小さく溜息を吐く。騒ぎの原因を知らない周囲の職員が怪訝そうな顔をしているのも意に介さず、彼はやがて決心したようにまっすぐプロクスの目を見つめると、言いにくそうにゆっくりと口を開いた。

「ロック、俺の彼女の話はしたよな。彼女の友達も含めて、日帰り旅行に出かけるって話も」

「え? あ、ああ。で、結局行ったのか」

「行ったさ。でも重要なのは旅行の話じゃない、旅行中に彼女の友達から聞いた話だ。その子の名前はミスト・ミレイン、この辺りの出身じゃなくてもっと北の方、エトワンゼ地方の生まれらしい」

「なんの話だよ、何が言いたいんだ? とりあえず落ち着け、周りがほら、訳分かんなくて戸惑ってる」

「エトワンゼ地方の東側に位置するアステイルって町には、定期的に襲撃を仕掛けてくる吹雪の魔女と呼ばれる魔族と、それに対抗する為の討伐隊が居る。ミストから聞いたんだ、その魔女が本当に居るんだって話を」

「吹雪? ……まさか、フレッド、いや待て、それ以上言うな。……嘘だろ?」

「……吹雪の魔女が名乗っている名前はクリスタロス・ナイアトス、お前が言ってた女の名前と同じだ」

 その言葉を耳にした瞬間、プロクスの視界は一瞬にして真っ白になった。何も見えない、何も聞こえない。驚き、という一言では表せない衝撃が彼を襲った。そしてその視界は徐々に十五年前に見た地獄の光景へと姿を変え、彼の意識は、クリスタロスと初めて出会った頃の記憶を鮮明に蘇らせたのである。

 その日、六歳になったばかりのプロクスは、両親と共にエトワンゼ地方の雪山へと旅行に来ていた。彼の父は魔導書の作家であり、当時から現在に至るまでずっと、裕福ではないが貧乏でもない生活を送っている。年に一度の旅行はプロクスの家族が行う恒例行事の一つで、プロクスも人生で初めて見る雪景色に心を踊らせていた。その事故が起きるまでは。

 夕方、宿に戻るという時になって、プロクスの母は息子の不在に気がついた。プロクスはいつの間にか両親とはぐれ、道を逸れたまま雪山で迷っていたのである。そして運の悪いことに、腕の立つ魔法使いが揃いも揃って予想できなかった、異常な猛吹雪が雪山を覆い尽くした。自然を観察し自然を力に変える高名な魔法使いにとって、天候の移り変わりを読む事など容易いこと。しかしそれでも、その猛吹雪は唐突に発生したのである。

 愛する両親と離れ離れになり、どこまでも色のない景色の中、肌を裂くような寒さに幼いプロクスは震えた。耐えられる筈がなかった。魔法を使う技術など当時の彼が持っているわけもなく、雪遊びを楽しむ程度の軽装備で吹雪の中を動き回れる子どもなど居ない。いや、たとえ誰が同じ状況に放り込まれたとしても、結果は同じだろう。幼いプロクスは自分の魂が凍えていくのを確信し、死の恐怖に怯えながらうずくまるほかに何も出来なかった。

 しかし、その時である。彼が、彼女と出会ったのは。

「君、名前は?」

 どれだけの時間が経った頃か、実際には僅かな時間であっただろう。彼の肩を叩き、名前を尋ねる者が現れた。流せば流すだけ凍っていく涙でプロクスはまともに目が開けられなかったが、顔を上げて声のした方を向くと、そこには確かに人の姿があったのだ。

「ねえ、名前は?」

「……プロクス、プロクス・ヘリオ」

「そう。プロクス、ちょっと待ってて」

 彼女はプロクスに辛抱するよう促すと、吹雪から彼を守るように風上に立ち、何かを唱えた。すると次の瞬間には地面が僅かに揺れ始め、気がつけばプロクスと少女を囲むように小さな氷の壁が出来上がっていたのである。

「屋根、屋根が足りない。寒いよね、今作るから」

「……お姉ちゃん、魔法使いなの?」

「プロクス、何歳?」

「えっと、六歳」

「私は八歳だから……お姉ちゃんで合ってるか。うん、まあ、魔法使いかな」

「凄い。僕まだお父さんに魔法教えてもらってないから……」

「簡単だよ。あ、扉も作ってない。これじゃ出られないじゃない」

 いつの間にか、さっきまで凍えていた筈のプロクスはすっかり元の体温を取り戻していた。目に張り付いた氷は溶け、そこでようやく彼ははっきりと恩人の姿を視界に収める。すると、この吹雪の中を平然と歩いてきた筈の彼女は、何故か布一枚で作ったような質素なワンピースを着ていた。

「寒くないの?」

「私は平気。プロクスは?」

「えっと、今は……大丈夫」

 二人をすっぽりと囲み吹雪から守る氷の箱は、その材質に反して内部を適温に保っていた。今思えばあれも彼女の魔法だったんだろうと、プロクスは大人になった今、確信している。

「じゃあ、私は行かなきゃいけないから。多分、すぐに吹雪は晴れるよ」

「え、もう行っちゃうの?」

 どうにか助かったという安心感はあったものの、プロクスにはまだ孤独感が襲い続けていた。このまま彼女を見送り、そのまま誰にも見つけてもらえなかったら。そんな恐怖が、彼の不安を煽り続けていた。

 少女は今すぐにでも出ていきたいという様子だったが、幼いプロクスにそれを察して引き下がる程の思慮はない。そんなわがままに対して、少女の方はいくらか大人だった。

「プロクス、私がここに居ると吹雪はなくならないの。それでも良いなら、少しだけ話し相手になってあげるけど」

「それでいい! もう少しだけ一緒に居て、ここで一人は怖いよ」

「……分かった。でも少しだけだからね。大丈夫、出ていく時は君のパパとママに伝えておくから」

 それからしばらく、プロクスと少女は他愛もない話に盛り上がった。彼女はプロクスの知らないお伽話をいくつも知っていて、プロクスはその内の一つを今でも忘れられずにいる。

 お伽話をいくつか聞いた頃、プロクスはふと緩やかな眠気に襲われた。それが安心感のせいなのか、それとも適度な暖かさのせいなのか、今となっては分からない。しかし、ついさっきまで怯えていた少年がすっかり恐怖を忘れたのだと認めると、少女はプロクスに別れを告げた。

「じゃあ、今度こそ私はもう行くね」

「……待って」

「もう駄目。これ以上は遅れられないから」

「名前、お姉ちゃんの名前、まだ聞いてない」

「名前?」

 プロクスの予想外な呼び止めに、少女は少し驚いたような様子を見せ、それから静かに、しかしはっきりと聞こえる声で自分の名前を伝えた。

「クリスタロス」

「クリス……タロス?」

「クリスタロス・ナイアトス、それが私の名前。君の名前は、プロクス・ヘリオ。うん、覚えた。じゃあね、助けが来るまでここから出ちゃ駄目だよ」

 そう言って氷の箱を出ていく彼女は、最後にプロクスへ笑顔を向けて、吹雪の中へと消えていった。水色の瞳と銀色の長い髪、そして白く雪のような肌を持つクリスタロスの姿が、幼いプロクスの脳裏に焼き付いた瞬間である。

 クリスタロスが去ってから数十分後、救助隊の人々が彼を助けに現れ、プロクスは無事に両親のもとへと帰ることが出来た。両親から「不思議な女の子がプロクスの居場所を教えてくれた」と聞かされた彼は、クリスタロスが約束を守ってくれたことに、心から感謝した。

 それがプロクスの初恋であり、叶わない片思いの始まりでもあった。どこから来てどこに向かっていたのかも分からない、名前だけが分かる不思議な少女。一途に彼女を想い続け、一時は彼女との再会を夢見て情報を集め続けたこともある。だが、容易く魔法を扱うクリスタロスへの憧れから父に頼み込んで始めた魔法の修行は厳しく、実家のある都市部から離れることは中々出来なかった。それは魔法学校を出て研究員となった今になっても変わっていない。

 再会を諦めたことは一度もない。ほかの誰かに、彼女へ向ける以上の好意を持ったこともない。だが望みが薄いことは理解していた。もしかすると、既に彼女が別の誰かと結ばれている可能性も考えたことはある。だが、しかし。

 プロクスが十五年もの間欲し続けてようやく手に入れた新たな手掛かりは、彼にとってあまりに衝撃的なものであった。

「吹雪の魔女……討伐隊が結成される程の、魔族だって?」

「なあ、ロック。この間は時間がなかったから、お前にその子とどんなふうに知り合ったとか、どこで遊んだとか、そんなことは聞けなかった。けどお前、その反応だよ。……もし、お前が言ってるクリスタロスって女が吹雪の魔女本人だとしたら、悪いことは言わない。今すぐに諦めろ。ミストから話を聞く限り、吹雪の魔女は……災害そのものだ」

 その日、午後の実験をプロクスは放り出した。研究所で働き始めて三年間、彼が仕事を放棄したのは初めての事である。

 そしてその翌週、彼は長い休暇を申請し、数日の内に受理された。彼自身は心身のストレスによる療養の必要と理由を説明し、上司もそれに理解を示したが、プロクスの目的は当然、寮の自室に籠もりゆっくりと休むことなどではない。

「……確かに、悪い知らせではあった。でも、よく考えてみれば、進歩には変わりないんだ」

 玄関で、彼は荷物を詰めてすっかり重たくなった旅行鞄を担ぐ。旅先で何が起きるか分からないから、両親には何も伝えていない。止められても止まるつもりは毛頭なかったが、それよりも自分の無鉄砲が原因で無駄な心配をさせたくなかった。

 吹雪の魔女は自分の知るクリスタロスなのか。もし彼女ならば、自分のことを覚えているだろうか。ただそれだけのことを確かめる為、プロクスは一人でアステイルの町を目指し旅に出る。彼が誰にも頼らず故郷を離れるのは、この時が初めてのことだった。

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