蝶の刻印
怪人二十面相の許で働くお手伝いの娘や探偵助手の花崎マユミなど、少女たちの目線で語られるおなじみ明智小五郎、怪人二十面相、小林少年らのもう一つの物語。江戸川乱歩ファンの方にも、原作未読の方にも、幅広く読んでいただけたら幸いです。
目次
第一章 お化けが見える少年
第二章 毒草温室
第三章 降誕祭
第四章 亜種
第五章 夜の空に月は一つ
第六章 二少年怪図
最終章 蝶の刻印
第一章 お化けが見える少年
「笙子さん、雪が降って来ましたよ。」
裏庭の貯蔵庫から夕食用の野菜を取りに行った幸乃が、頬を真っ赤にして戻って来た。
「あら本当?どおりで冷えると思った。」
私は受け取った野菜を流しで手早く洗った。一年中治らないアカギレに、氷のような水が浸みる。
「十月にもう初雪だなんて。うちの田舎でもこんなに早くは降りませんでしたよ。山は違いますね。」
幸乃は会津の生まれらしい。日頃、お国言葉を使うことは控えているようだが、アクセントはなかなか治らない。本人はそれすら気にしているが、五歳年下の少女が思わず口にしてしまう東北訛りは、私にはとても愛らしく感じられた。
「じゃが芋に玉葱、人参、蕪。それから、これ。」
野菜を笊にあげた後、冷蔵庫から取り出した赤ん坊の頭ほどもある牛のランプ肉を見て、幸乃が眼を丸くする。
「今夜の献立は何ですか。」
「ビーツの缶詰が手に入ったから、ボルシチっていう真っ赤なシチュウを作るつもりよ。戦前、遠藤さんがソ連の田舎で召し上がって以来のお気に入りなんですって。」
料理に使う野菜の殆どは、裏庭の畑で作っていたが、それ以外の食材は、この山荘から車で一時間程下ったところにある村まで行かなくては手に入らない。遠藤の部下の青年たちは車の運転が出来るので、週に一度は買い物を頼むことにしている。それでも田舎の市場では手に入らないものも多い。例えば、遠藤が好む外国製の缶詰や乳製品、ワインや珈琲豆、煙草などは東京や横浜に行く用事がある者に、メモを渡して買って来てもらうのだ。しかしこれからの季節、遠出の買い物はますます不便になるだろう。
前任の中原さんが急病になり、厨房の仕事を任せられるようになってから三か月がたつ。最初のうちは女のコックなんてと、陰口を叩かれることもあったが、遠藤はまったく気にしなかった。最近になってようやく山荘の誰もが、私をいっぱしの料理人として扱ってくれるようになった。コックではなく、新しく幸乃を雇ったのも、女中としての仕事を少しでも軽減させてやろうというのだろう。遠藤は時々、
「君の作る料理は、銀座の洋食店にもひけをとらない。」
などと言うが、とんでもない話だ。何しろ、私にとって銀座のある東京という街は、パリやロンドンと同じくらい遠い場所だった。青年達の中には、例の『東京タワー』とやらに昇った者がいて、そこからの眺望の素晴らしさを私や幸乃に得意げに話してくれたことがあった。それを聞いて、私たちはどんなに羨ましく思ったことだろう。もちろん、銀座の洋食店にも行ってみたい。そんなことは誰にも言わないけれど、遠藤は気づいていたのだろう。先日、書斎に珈琲を運んだ際、
「御覧。これが銀座の洋食店だよ。」
と、彼が観ていた八ミリフィルムをわざわざ巻き戻してくれた。スクリーンには、雪の女王の氷の城を天井から吊るしたようなシャンデリアが映り、その下を盆を掲げ持った白の詰襟服のボーイたちが、ワルツでも踊るような優雅な身のこなしでくるくると歩き回っていた。だがこの映像は、銀座の一流店を記録するのが目的ではなかった。カメラの焦点はすぐ、この店で食事をしている三人連れの客に絞られた。一人は四十前後と思われる、背の高い非常に知的な感じのする紳士で、後の二人は学生服を着たきりっとした面差しの十五、六くらいの少年と、薔薇の蕾みたいな十八、九のお嬢さんだった。
この山荘に働く者の一人として、彼らのことは以前からよく知っていた。遠藤がこの山荘にいることはあまりなかったが、留守を預かる青年たちは、彼らのことを常々食卓の話題にしていた。村に下りた際に、彼らの顔写真が載っている新聞や雑誌を買って来ることもあった。しかしそれらの不鮮明な写真と、宮殿のような料理店で、寛いだ様子で談笑する彼らは全く別人に見えた。三人ともれっきとした日本人でありながら、外国映画に出て来る貴族の一家のようだった。
「よく撮れているだろう。ここの店長は僕の知り合いでね。タペストリーの後ろの壁に少々細工をしてもらって、カメラマンを忍ばせたんだ。」
遠藤は得意そうに笑うと、華やかではあるけれど、あまり面白いとは言い難い映像にいつまでも見入っていた。
半年前にこの山荘に雇われた当初は、資産家か成功した実業家か何かだろうと思っていたこの男が、天下にその名を轟かす大泥棒だということを知った時、私はすぐに解雇を申し出て、元の伊豆の温泉旅館に戻ろうと思った。だが、大勢の女たちとの関わりに、神経を擦り減らしながらの仲居としての日々を思い出すと、なかなか決心がつかなかった。ここに居れば、イギリス人実業家の元別荘を移築した、ハーフティンバー様式というらしい古風で趣のある洋館の、それでいて最新式の調理器具と電化製品が揃った厨房で、高級食材を使った料理を自分の采配で思う存分作ることができる。しかも給金は、仲居をしていた頃の二倍近い額だ。地元に長患いの父と、高等学校に通う弟がいることを知った遠藤のはからいでそうなったのだ。
結局、私は自分の良心に蓋をすることにした。この美しい山荘で美しい料理を作る。そして皆に喜んでもらう。ただ、それだけのことだ。それだけのことをしていれば良いのだ、と思い込むことは、然程難しいことではなかった。もしかすると、私は元々道徳心だとか倫理観というものに欠陥のある人間なのかもしれない。
夕食が出来上がった。盛りつけの済んだ皿を、数本のワインと一緒にワゴンに乗せて、食堂まで運ぶのは幸乃の役目だ。私にはもう一つ別の仕事があった。
「あの人はどうしているのですか。」
もう一人分の食事を、別の盆に用意していると、幸乃がおずおずと訊ねて来た。
「別に、元気にしているわよ。たまには、あなたがこれを地下に持っていく?」
幸乃は即座に首を振った。
「笙子さん。私、あの人が怖いんです。」
「怖いって、別に何かされたわけじゃないんでしょ?」
「ええ。でも、あの人を見ていると、何だかこの辺りがすっと冷たくなるような・・・・」
と、自分の胸元に手を置くと、そのまま下を向いてしまった
「了解。」
私は、彼女の肩をぽんと叩いた。そして盆を両手でしっかり抱え厨房を出た。
階段を降りかけるとすぐ、湿気を含んだぞっとするような冷気が這い上がって来た。地下の廊下の壁は石垣になっていて、ここに来るたびに、バスティーユ牢獄に幽閉されていたという『鉄仮面』の話を思い出す。もちろん、これから向かう廊下の突き当たりにいる人物は、囚人などではない。その部屋には、鍵すらかかっていなかった。だが、彼が部屋から出て来ることはめったにない。食事を部屋まで運んで欲しいと言ったもの彼だった。
ドアを軽くノックするが、いつも通り何の返事もない。
「オカダさん、入りますよ。」
白い箱のような部屋の中、オカダはベッドにぼんやり腰を下ろしていた。
彼は、半月ほど前に遠藤がどこからか連れて来た少年だった。彼がどこの誰で、何のためにこの山荘に連れて来られたのかは分からない。いつだって、私のような立場のものが教えてもらえることなど、ほんの僅かでしかないのだ。つまり、私は彼らにとって、とるに足らない者であった。したがって、青年たちは私の前で迂闊な話をよくした。それによると、遠藤が今年になってこの山荘の大規模な改築を行ったのは、オカダを迎えるためだったらしい。確かに、遠藤はこの少年のことを随分気に入っているように見える。山荘に居る時は地下に降りて来て、何時間も熱心に話をしていたし、二人っきりで食事をすることもあった。先日、書斎でフィルム映像に観入る彼の隣にはオカダもいた。
しかし殆どの日、オカダは一日中この部屋で過ごしていた。食事を運ぶたびに声をかけてみるのだが、無口な性質なのか、最小限の返事をする以外は、自分から話しかけてくることは一度もなかった。閉じこもりきりの生活の割には太りもせず、かといってやつれもしなかった。年は十六、七歳くらいだろうか。田舎の弟と同じくらいの年頃に見えたが、父親譲りのずんぐりむっくりとした弟と違い、手足がすらりと長く、均整の取れた体つきをしている。だが、容貌はとりたててどうこういう程ではない。決して醜いわけではないが、これといって特徴がなく、今さっき会ったばかりだというのに、どんな少年だったか、咄嗟に顔が浮んで来ないことがよくあった。そのくせ、その印象の薄い顔に、時々野犬のような獰猛さがよぎる。四姉妹で育ったというまだ十六歳の幸乃が「怖い」と言うのも分からなくはない。ただ黙ってそこにいるだけなのに、どこか危険な動物のような感じのする少年だった。だが、私からすればこの年頃の男の子など、子どもみたいなものだ。
「オカダさん、雪が降って来ましたよ。ストーブの火を強くしましょうか。毛布が御入用なら、遠慮なく仰って下さいね。」
テーブルに皿を並べながら声をかけてみる。案の定返事はない。黙ったままスプーンを手に取って、食事を始めている。愛想はまったくないが、彼の食事の仕方はとてもスマートだ。ナイフやフォークの使い方も器用で、選り好みせず、リズムよく食事をする様は見ていて気持ちが良いだけではなく、やや粗野な印象を与える雰囲気にそぐわない、品のようなものすらあった。
紅茶を淹れていると、今まで一度も喋らなかったオカダが声をかけて来た。
「おねえさんは、お化けを見たことがある?」
急に話しかけられたことと、その内容とに二重に驚いて、まじまじと彼の顔を見てしまった。
「いいえ・・・・。」
「ふうん。俺は昔からよく見るんだ。壁や地面や道端の塀なんかが、突然もくもくと動き出すんだよ。そして、牛や鶏みたいな化け物や、眼や脳やハラワタなんかが外に飛び出した人間がうじゃうじゃ出て来る。もちろん、俺以外の誰にも見えない。」
「・・・どうして、私にそんな話を。」
平静な声を出そうと努めたが、語尾が震えた。
「別に。ただおねえさんも、俺と同じようなものが見えるんじゃないかって気がしてさ。」
私は何と答えて良いか分からず、オカダの顔を見つめていた。
いきなり彼が吹き出した。
「冗談だよ、おねえさん。」
そして、私に話しかけたことなどすっかり忘れたような顔をして、血の色をしたボルシチを口に運んだ。
空の皿を持って階段ホールを通りかかった時、二階から降りて来た遠藤に呼び止められた。
「笙子さん。すまないが、三階の客用寝室を片付けておいてくれないか。」
彼は雇い人の私を、いつも『さん』づけで呼ぶ。よく通るバリトンの声は穏やかで、威圧的なところは少しもない。それでいて、有無を言わせない力があった。私は頭を下げた。
「かしこまりました。すぐに取りかかります。」
「いや、急がなくていい。客が来るのは明日の夕方だから。」
明日と聞いて、ふと雪はまだ降っているのだろうかと思った。雪が積もれば、山道を走行するのは無理だろう。ヘリコプターでも使うつもりだろうか。
「大丈夫。この雪はすぐにやむよ。」
遠藤はあっさり断言した。
「それから片付けの際に、部屋のカーテンやベッドシーツ、ソファカバー、クッションなどを黄色のものに取り替えてもらいたんだ。」
「黄色に、ですか。」
「部屋にすべて運んであるからね。」
何だか、ずいぶん変わった客人のようだ。一つの色に執着する人間がいる、という話は聞いたことがあるが、実際に会うのは初めてだ。となると、明日の夕食はすべて黄色のものにしないといけないのだろうか。例えば、南瓜のスープに、レタスを細かく刻んだ茹で卵の黄身で飾ったミモザサラダ、メインディッシュはビーフカツレッツあたりか。デザートにはスポンジケーキ、今の季節なら林檎のクランブルもいいかもしれない・・・。客人の好きな色が、青や紫でなくて良かった。
「手間を取らせるが、よろしく頼むよ。オカダのシュジイなんだ。」
シュジイという語が、「主治医」という漢字と結びつくのに、少し時間がかかった。
「・・・オカダさんは、どこかお悪いんですか。」
「いや、まったくの健康体だよ。」
ではなぜ、と訊き返しそうになって、慌てて口をつぐんだ。遠藤は私の顔を面白そうに見返すと、珍しくこんな長話をした。
「本来ならこのような話は、君に聞かせるものではないかのかもしれない。だが、君にはこれからオカダの看護もしてもらうことになるだろうから、ざっとだけ説明しておこう。明日、この山荘に来る客人は長くアメリカで形成外科医をしていた男で、名を楊尚徳という。アメリカ式の名前もあって、向こうの暗黒街ではそちらの方で名が通っているようだが、昔から僕は楊と呼んでいる。形成外科というのは、戦争や事故で身体や顔に損傷を負った患者を、元に近い状態に戻す医療のことだよ。我々のような仕事にも大きな怪我がつきものだが、かといってすぐ近所の医者に行くという訳には行かない。そこで、彼のような医者とのつきあいが必要になる。」
つまり、犯罪者専門の医者なのだ、ということは分かったが、なぜオカダが形成外科医の世話になるのだろう。彼の外観に、損なわれている箇所はどこにもない。ふいに遠藤が嗤った。彼が悪人であることは無論承知している。だが、普段それを意識することは殆どなかった。この山荘で接する彼は、知的で品の良い、物腰の柔らかい紳士であり、私たちのような者に対しても優しかった。しかし今、彼の形の良い唇に浮かんだ微笑みの、何と酷薄に見えたことか。
「詳しいことはおいおい話していくことにしよう。今夜は早めに休みなさい。明日は忙しくなりそうだから。」
立ち去る遠藤の背中を、廊下の常夜灯が橙色に照らしている。常夜灯は、天使が松明を掲げた優雅なデザインだ。だが、本来なら愛らしい筈の天使の顔が悪鬼のようになっていて、私はここに来た時から、この常夜灯が嫌いだった。
(やはり、ここは私のような者がいるべきところではないのかもしれない。)
猛禽類のような眼と、耳まで裂けた口をした天使が、「それなのに、なぜお前はここにいるのだ。」と、問いかけているような気がした。
第二章 毒草温室
その郵便物は、鏡のように磨かれたマホガニーの机の上に鎮座していました。犯罪に関わるものだと聞かされていなければ、晩餐会か何かの招待状のようにさえ見えます。明智先生は白手袋こそ嵌めてはいますが、あくまで無造作さに、そしてそれが反って粋に映る動作で郵便物を手に取ると、ざっと眼を通し、
「マユミ君、見てごらん。実に美しい筆跡だ。これなら、漆の盆で献上されても遜色ないだろうね。」
と私に手渡しました。確かに、申し分のない水茎の跡です。しかし書かれている内容は、明らかに『脅迫状』、或いは『犯罪予告状』と称される類いの、非常に不穏で、しかも意味の良く分からないものでした。
『古来より、万物は陰と陽、表と裏、吉と凶といった相反する二つの性質を有すると申します。生命の糧となる水や、文明をもたらした火が、時として脅威となるように、人類に恵沢をもたらすものが、災厄の種となることもございます。
貴女の亡き夫君が秘中のものとされていました例のものとて同じこと。小生は、その稀有なるものの持つ負の力を封じ、ただひたすら人類の発展と幸福のみに、敬意をもって行使したいと考えております。しかし貴女は、縁もゆかりもない小生にそれをお譲りになろうとはお思いになりますまい。つきましては、誠に遺憾ではございますが、来たる六月九日、無断にて頂戴に上がる所存です・・・・。』
「差出人にお心当たりは?」
先生が長く端正な指をテーブルの上で組み替えながら宮埜夫人に訊ねますと、彼女はゆっくりと首を振りました。二年前に亡くなられた、医科大学の教授だったという御主人は五十代半ばと伺いましたが、奥様はその半分にも満たないような若さの、陶器で拵えた人形のように可憐な人でした。
「この手紙にある『秘中のもの』とは何か、お分かりになりますか?」
「さだかではございませんが・・・」
緊張した面持ちで、蜂蜜を舐めた小鳥のような声で話される夫人の言葉に先生は、
「心当たりがお有りなのですね。」と僅かに膝を乗り出しました。その強い視線から逃れるように、夫人は視線を膝に揃えたご自身の手元に落とします。
「脅迫状を送るような犯人が狙うのは、多くの場合、美術品や宝飾品の類いなのですが。」
先生は、夫人の白い指に嵌められた翡翠の指輪にそれとなく眼をやりました。
「いいえ。うちにある宝石は、どれも高価なものではないのです。」
夫人は指輪をした左手に、右手を庇うように重ねました。
「なるほど。ただ、世俗的な価値はあまりなくても、その道の好事家にとっては垂涎ものということもありますからね。例えば古書や書画、骨董などに多いのですが、この脅迫状の文面からするとこれもどうやら違うようですね。」
先生が穏やかな笑みを保ったまま、おずおずと顔をあげた夫人を見つめました。
「御主人は研究者でいらっしゃいましたね。専門は脳医学だとか。そちらの方面で何か貴重な研究をされていたのではありませんか。」
淡い憂いを帯びた奥様の美しい眼が一瞬たじろいだ後、何かを決心したような光を帯びて先生を見つめ返しました。
「植物、ですか。」
その夜、先生から宮埜家の話を聞いた助手の小林さんは、少し怪訝な顔をしました。
「と、奥様は仰るんだ。そこで、早速明日から君に宮埜家に行ってもらいたい。」
夫人の話によりますと、宮埜家の庭には、御主人が生前建てられたという大きな温室があり、その中で特殊な成分を含んだ植物が栽培されているというのです。
「特殊な成分?それは、毒草ということですか?阿片の原料になるケシの花のような。」
「いや、薬草の一種だと宮埜さんは仰っていた。夏の終わりに赤い花をつけ、その後に出来る種子が甲虫の形に似ているところから、『アカムシバナ』と呼ばれているそうだが、僕も初めて聞く名前だ。もしかすると、俗名なのかもしれない。問題の成分は、その種子を被う皮の部分に含まれてるらしい。」
「どんな成分なのですか?」
「この奥にあるのが前頭前野。」
先生はつっと手を伸ばすと、小林さんの額から眉間にかけてを指先で軽くなぞるように触れました。
「知情意といった高次の知的活動を司る脳の部分だ。そのさらにずっと奥にあるのが脳下垂体。生命活動そのものに関わるあらゆるホルモンを分泌するもっとも原始的な脳だと言われている。『アカムシバナ』の種子皮の成分は体内に摂取されると、この脳下垂体に作用し、主に成長ホルモンの分泌に影響を与えるらしい。全身の発育はもちろん、代謝にも関わるホルモンだよ。」
「それに影響を与えると、どういうことになるのですか?」
「つまり、女性にとっては是が非でも手に入れたいと願うもの。」
明智先生が、私に眼を向けました。
「是が非でもかどうかは、人によるでしょうが。」
私は肩をすくめながら、後を引き取って答えました。
「永遠の若さが得られるかもしれないんですって。」
「まさか。」
小林さんが眼を丸くしました。
「宮埜さんの御主人は、脳科学の権威だ。絵空ごとではなく、医学的に根拠があるものとして研究されていたに違いないよ、残念ながら志半ばでお亡くなりになってしまったのだが。」
「もし御主人がお元気だったら、人類史を揺るがすような新薬が誕生したかもしれませんが、それは同時にとても危険なものでもあるんじゃないですか。」
永遠に年を取らない、いや、年を取ることを緩やかにするだけでもいい。もし、そんな薬が存在したら、是が非でもかはともかくとして私だって欲しいと思います。でも、それを欲しいと願うのは、若い女性ばかりではないでしょう。老若男女が永遠に続く若さを求め、それを得るために狂騒する。それは確かに、ぞっとするような光景に違いありません。
「人が、順当に年を取らなくなれば、社会構造はもちろん、人間の生き方のそのものまでも変えてしまうような気がするね。」
明智先生の顔からも、いつしか微笑が消えています。
「植物の中には栽培してはいけないものがある。宮埜さんの御主人は秘密裏にアカムシバナを育てておられた。今は奥さんが後を引き継いで世話をされている。だから奥さんも警察ではなく、我々に相談されたのだろう。」
何だか、うすら寒いような心地になって来ました。吉凶兼ね備えた諸刃の薬草。もしそのような植物が悪人の手に渡れば、『人類の幸福』どころか、それこそ全人類に災いをもたらすような事態を招くことは充分に考えられることでしたから。
翌日から小林さんは、宮埜家に泊まり込むことになりました。脅迫状にあった六月九日までには、まだ日がありましたが、用心に越したことはありません。私の方は少年探偵団の子ども達と一緒に、夕方から宮埜家の周りを巡回することにしました。同じ探偵助手の小林さんが徹夜で頑張っているのに、私だけのうのうとしているわけにはいかないからです。
もう三日目ですが、今のところ特に変わったことはありません。今日も夕刻を待って、少年たちを引き連れて庭に入ります。庭は棕櫚や椰子といった熱帯樹が多く、それらの肉厚な葉陰に身を潜めていますと、何だか大きな獣に囲まれているような気がします。今日は昼過ぎまで雨が降っていたせいか、庭全体が湿った熱い空気に覆われて、むっとするような青臭い匂いに満ちていました。それがまた肉食獣の体臭のように感じられるのです。雨に濡れて、いっそう艶やかさを増した緑の葉陰から、六角形の屋根がちらりと見えます。例の温室です。あの中で、人類の未来を変えるかもしれない恐ろしくも魅惑的な力を秘めた植物が栽培されているのかと思うと、ふと覗いてみたくなりました。腕時計を見ると七時前でした。探偵団は、八時にはチンピラ別働隊と交代することになっています。
「井上君、ちょっと後を頼むわね。」
近くにいた大柄な少年に声をかけ、ズボンのお尻をはたきながら立ち上がりました。ようやく日没が近づいたようで、庭は薄い靄に包まれ始めました。
明かりのついた母屋の出窓から、感傷的なピアノ曲が聴こえてきます。宮埜夫人が弾いているのでしょうか。
温室のドアを細めに開けて、中をそっと覗いてみました。そこはまさに南国のジャングルでした。大蛇のようにのたうつ蔓性の植物や、眼にも鮮やかな原色の花々。奇怪な形態の木々。それらを日没間近の夕闇の中で見ると、なんとまあ異様なものであることか。ひたひたと押し寄せる夜の気配に一見息を殺しているようでありながら、旺盛な生命力は隠しようもなく、どれもこれも声なき咆哮を上げているようです。おそるおそる一歩足を踏み込んだ私の頬を、何かが掠めて行きました。はっとして振り返ると、それは十五センチはあろうかと思われる大きな青い蝶でした。次の瞬間、声をあげそうになりました。大ぶりの花や葉の陰を、青、紫、白、紅、黄、黒、藍、翡翠と色とりどりの、そして形も紋様もそれぞれ違う無数の蝶がふわふわと飛び交っていたからです。
「すごい・・・。まるで、楽園みたい。」
「楽園。確かにそうですね。」
思わず独り言を呟いていると、ブーゲンビリアの木の陰から小林さんが出て来ました。群れをなして飛ぶ蝶を見つめながら、
「でも僕は、なぜかこの温室が恐ろしい。見てはいけないものを見せられているような気がするんです。」
とわずかに眉をひそめた小林さんの顔は、緑陰が映っているのか、いつになく青ざめて見えました。その背後に、幹が樽のように膨らんだ木がありました。枝に妙な色合いをした大きな花が一つ、ゆらゆらと揺れています。
風?温室の中は無風なのに、と眼を凝らすと、それは数えきれない蝶がひと塊になっているのでした。
「山歩きをしている人からこんな話を聞いたことがあります。」
ちらりとそちらに眼をやってから、小林さんが話し始めました。
「どこか外国の山で、道に迷った時の話だそうです。歩き疲れ、頭も朦朧となって来てもう駄目かと思いかけた時、木々の間に、非常に大きな蓑虫のようなものがぶらさがっているのを見つけたそうです。さすが異国には奇妙な生き物がいるもんだなと思って近づいて見ると、その蓑虫の表面から何か黒い靄のようなものが、羽ばたきの音を立てて飛び立ったそうです。縊死した人の死体に、蝶が群がっていたんです。」
「なあに、それ?」私は顔を顰めました。「生死のはざまで見た幻覚なの?」
「そうかもしれません。ただ、蝶の中には花の蜜ではなく、動物の体液を吸うものがあるのは確かです。」
その時、私の肩先に黒い蝶がとまりました。小林さんがすぐに手を伸ばしてそっと払い除けてくれました。
「大丈夫よ。私は蝶なんか怖くないから。」
小林さんがにっこり笑いました。
「さすが、マユミさんですね。」
そして、「例のアカムシバナは、こちらですよ。」 と温室の奥にある木のドアを指差しました。
ドアの向こうは三坪程の小さな部屋でした。色褪せた水色のシェードを被せた電灯が吊るしてあり、どこか童話的な青い光に照らされていますが、床の隅には麻袋や鋤やスコップが立てかけてあり、どうやら物置として使っているようです。窓を隠すように置かれた棚には、大小さまざまな鉢植えが並んでいました。棚の脇には長椅子があります。小林さんの仮眠用に運び込まれたものかもしれません。
「こんなところに置いてあるの。」
「わざと、目立たない場所に置いてあるんでしょうね。」
そう言って小林さんが棚から取り出したのは、どこに置いてあろうと、殆どの人はまず気にも留めないであろうつつましい見た目の鉢植えでした。花はもちろん、蕾もついていません。
「これが、アカムシバナ?」
この、葉も小さく茎もほっそりしたひ弱そうな植物が、蠱惑の力を秘めた薬草なのだと言われても、すぐには誰も信じないでしょう。
「僕も色々調べてみたんですけどね。どの本にも載っていないんですよ。」
小林さんは鉢を棚に戻すと、長椅子の上に置かれていた数冊の本を手に取りました。宮埜夫人の亡くなった御主人の書斎から借りて来たのだそうです。いずれも外国語で書かれていて、ドイツ語やフランス語のものもあるようです。辞書を引きつつ読んでいるので見落しているのかもしれないけれど、と小林さんは苦笑いしながら付け足しました。
「御主人の書かれた研究論文のようなものは残っていないの。」
「そういった類のものは、ノートの切れ端すら一切見つからないのだそうです。」
しかし、今でもこうして栽培されているのだから、奥様はこの植物について、もっと色々なことを御存知なのではという気がします。
そうそう、これは本に載っていましたよと彼が指さしたのは、棚の一番下段で、俯くようにして咲いている紫色の花でした。
「この花の茎は、少量を煎じて飲めば喘息の薬になるのですが、大量に摂取すると、心不全を引き起こすのそうです。」
私はふと、花に喩えたら、白スミレのような夫人の顔を思い浮かべました。つい先ほど、密かに彼女を『蝶々夫人』と命名したばかりなのですが、むしろ『毒草夫人』の方が相応しいのかもしれません。
突然、雷鳴が鳴りました。また、雨が降るのでしょうか。そろそろ庭に戻らなければと思った瞬間、天井が落ちて来たような大音響と共に小部屋の電燈が消えました。
「大丈夫ですよ。」
真っ暗闇の中から小林さんの落ち着いた声がして、彼の体が発光したようにぱっと明るくなりました。いつも携帯している懐中電灯を点けたのです。私も持っているのに、一歩出遅れてしまいました。
「雷、苦手なんですね。」
小林さんの眼には、ちょっとからかうような色が浮んでいます。
「雷が得意な人は、そんなにいないと思うけど。」
言い返そうとした時、どこからか甘いバニラのような香りが漂って来るのに気がつきました。視界が制限された分、嗅覚が敏感になったのでしょうか。
「あら、何だかとてもいい香りがする。まるでケーキみたいな。」
「それはこの花の香りですよ。」
懐中電灯の光が、棚の隅っこにぽつんと置かれた鉢に向けられました。そこには、四枚の花弁が十字架の形に開いている白い花が植えられていました。
「まあ可愛い。何の花なの、これ。」
「・・・それも一種の毒草なのかもしれません。香りに媚薬の成分が含まれているんです。」
私は手で口を押えました。
何だか決まりが悪くなって、すぐに部屋を出ました。もちろん、突然の落雷と停電に驚いているに違いない少年たちのことが心配でもありましたし、懐中電燈の灯りに下から照らされている小林さんの顔が、一瞬見知らぬ男の人のように見えたものですから。
雨はまもなく上がり、夜が更けると雲間から月も顔を出しました。私は、八時に交代したチンピラ隊の子どもたちと、庭の木立に隠れるように見張りを続けていました。ここだけの話ですが、チンピラ隊は探偵団よりずっと頼りになります。懐中電灯なんてなくても夜目が利くし、草むらの中での張り込み中に、藪蚊の集中砲火を浴びてもけろりとしています。腕っぷしの強い少年が揃っているので、万が一の時も安心です。気が利く子も多く、今夜も肩から提げたズタ袋に餡パンをどっさり詰め込んで持って来た子がいました。袋の中に長時間入れっぱなしだったパンは、どれも無残にひしゃげていましたが、そんなことに頓着する子たちではありません。我先にパンに手を伸ばし、暗闇の中でかぶりついています。
「マユミさんも、どうぞ。」
パンを持って来た少年がにっと笑って、比較的かたちの整っているものを一つ差し出しました。ありがとうと受け取りながら、夜食代わりに小林さんに持っていってあげようかなと思いました。
六角形の温室は、興業の終った後のサーカステントのように、ひっそりと静まりかえっていました。ガラスの壁越しに、熱帯樹の影がぼんやりと見えます。蝶たちはもう眠ったのでしょうか。
闇に沈んだ温室から、一箇所だけ青白い光が洩れているところがありました。おそらく物置の小部屋です。確か、窓際には戸棚が置いてありましたが、幾らか隙間があったのでしょう。小林さんは今頃あの黴臭い植物事典と格闘しているところでしょうか。いや、そろそろ張り込みの疲れが出る頃です。案外、うとうと居眠りでもしているかもしれません。窓明かりを目指して近づいて行って、ガラスに鼻先をくっつけるようにそっと中を覗いてみました。ちょうど正面に長椅子が見えました。小林さんは眠ってはいませんでした。背中をこちらに向けて立っています。その右肩に、ほっそりした白い手が置かれています。小林さん自身の手ではありません。思わず窓から眼を離してしまいました。気を落ち着かせて、もう一度中を覗きました。小林さんのシャツの肩を絞るように掴んでいる華奢な手指には、翡翠の指輪が嵌められていました。
第三章 降誕祭
「今日の夕方、オカダの包帯を外すよ。」
遠藤が言ったのは、クリスマスの前の日だった。
「怖くはないの。顔も身体もすっかり違う、まったくの別人になってしまうのよ。」
手術の前日、私はオカダに訊ねた。
「怖いもんか。こんな顔と体、いい加減うんざりだ。」
オカダは古くなった靴を放り出すように言い捨てた。
「まあ、あんな女みたいな顔にされちまうってのも、ぞっとしない話だけどな。」
彼が、遠藤の8ミリフィルムに映っていた学生服を着た美少年と、寸分違わぬ顔に整形されることは既に知っていた。
「そうね。私も今もあなたの顔の方が好きだわ。お世辞にも美男子だとは言えないけれど。」
「一応、褒め言葉として受け取っとっておくよ。」
オカダは肩をすくめると、ちょっと甘えるような眼になった。
「でも、そんなこと言ってくれるのは、おねえさんだけだよ。」
「そうかしら。」
「そうだよ。ほらもう一人、幸乃っていうお手伝いがいるだろ。あいつなんか、野良犬でも見るような眼で俺を見るもんな。」
「今にも、噛みつきそうな気がするんじゃないの。」
オカダはかすかに笑った。犬歯の目立つ、やや不揃いな前歯が覗いた。
「いいじゃない。これからはあのフイルムに映っていたような、綺麗な女の子達とお近づきになれるわ。」
「面倒臭いんだよ。ああいうお嬢様は。」
まだ子どものくせに、いっぱしの手練れ男のような台詞を口にするのがおかしかったが、確かにあのプリンセスのような美少女は、私たちとは別世界の住人に違いなかった。
「そういえばさ。手術が決まってから、一つ良かったことがあるんだ。」
「なあに。」
「化け物を見なくなった。あれは、俺につきまとう呪いみたいなもんだから、俺という人間がいなくなれば、もう用無しってことなのかもしれない。」
「そう。良かったじゃない。」
「ということはさ、おねえさんも顔を変えたら、化け物の声なんか聞こえなくなるかもしれないぜ。」
「嫌よ。私はこの顔が気に入ってるんだから。」
「そうだな。俺も今のままのおねえさんの顔がいい。」
手術に備え、夕食はささみ肉の入った軽いリゾットだった。だが、オカダは殆ど食事に手をつけなかった。
「明日は朝から絶食なのよ。」
思わずため息が出た。
「食事は無理に摂らなくてもいいわ。でも今夜は早く寝なさいね。楊先生から睡眠薬を預かっているから、持って来ましょうか。」
「いらないよ、そんなもの。それより、おねえさんが接吻してくれたらいい。その方がよっぽど良く眠れる。」
あっけに取られてオカダの顔を見た。オカダは、妙に真面目な顔つきでじっとこちらを見ていた。やがてその眼に揶揄するような色が浮かんだかと思うと、にやっと唇を歪めた。
「嘘だよ。そんな怖い顔しないでよ。」
少し外を歩きたいと言うので、私も一緒について行った。私たちが門から出て行くのを見かけたらしい部下の青年が、慌てて後を追いかけて来た。オカダは青年を一瞥すると、抑揚のない声で、
「逃げるんなら、とっくの昔に逃げてるよ。」と言った。
早めに夕飯を用意したので、外はまだ薄明るかった。山荘の周りを少し歩いた後、オカダはポーチの階段に腰をかけた。そして、ヤマドリがチチチと鳴きながら木々の間を飛び交う様子を、日が完全に落ちるまでぼんやり眺めていた。
「おっ、今夜はターキーだな。」
甲高い子どもみたいな声がして顔を上げると、厨房のドアの隙間から、楊医師の小さな禿頭がぴょこんと覗いていた。
「オカダさんの包帯を外すんですって。」
「ああ。ついにこの日が来たよ。」
楊は袖も裾も余った黄色の寝間着を、ぞろぞろと引きずりながら入って来た。
「予想以上に危険な手術じゃった。骨格は元々似ておったとはいえ、それでも全身にメスを入れた。しかし、あいつは本当にたいした奴じゃ。あの命がけの手術を、弱音一つ吐かずに耐え抜いた。わしはこれまで、何十人もの荒くれ男どもを相手にしてきたが、あれほど肝の据わった奴は初めてと言ってもいい。さすが、遠藤さんが見込んだだけのことはある。」
「あの人は、自分の顔や身体を変えることに、少しも抵抗を感じていませんでした。」
琥珀色のシャンパンをグラスに注いで渡すと、楊は「メリークリスマス!」と叫んで中身を一気に空けた。そしてだぶだぶの袖で口を拭った。
「あいつは、旅芸人の一座に居たのじゃろう。自分以外の人間になるということは、あいつにとっては、与えられた役を演じるようなものなのかもしれんな・・・。何だ、知らなかったのか。」
私は黙って頷いた。
「そうか、君たちは随分と仲が良さそうじゃったから、てっきり聞いておると思っとったよ。まあ、わしも本人から聞いたんじゃない。遠藤さんからの情報じゃ。だが、相当きつい育ちをしとる筈じゃよ。体中に酷い傷や火傷の跡があった。しかも・・・・。おっとこれは、若い娘さんにする話じゃないな。むろん、全部綺麗に消してやったよ。今のあいつは生まれたての赤ん坊みたいなもんじゃ。つまり、今日は彼の新たな誕生日というわけさ。キリストより一日早い。」
ターキーのソースはオレンジで頼むよと言い残すと、楊はスキップするような足取りで厨房を出て行った。『荒れ野の果てに』を朗々と歌う声が、遠ざかっていくのを聞きながら、私は椅子に腰掛けた。そして、テーブルに肘をついて顔を覆った。
顔と身体を変えて、別人になったオカダ。彼がお化けを見ることは、もうないのだろうか。いくら見た目が変わっても、彼が彼であることは変わらないだろうに。
もし私が、遠藤や楊に「別の人間にしてやる」と言われたらどうするだろう。「そうすれば、お化けの声を聞くこともなくなるよ」と言われたとしたら。
あの声が聞こえなくなる。それは、信じられないことだった。この二年間、私はずっとあの声を聞いていた。あの声が二度と聞こえなくなる。それは絶対嫌だった。私は、あの子の声を聞いていたい。あの子がこの世の最後に感じた無念を、絶望を、そしてそれに気づいてやれなかった私を責め続ける声を、一言も洩らさず聞きとってやりたいのだ。一生、私が死ぬまで。
でも、オカダは違う。出来るなら、彼にはもうお化けなど見ないで欲しかった。あんな苦しい大手術をして、別人になったのだもの。
立ち上がり、大きく深呼吸をした。下味をつけたターキーを冷蔵庫に入れると、中に詰める玉葱と茸を刻み始めた。
オカダが自由に動けるようになると、看護婦としての私は用済みになり、また、厨房の仕事にだけ専念する日々に戻った。三度の食事を運ぶのも、年明けからは幸乃の役目になったので、地下に降りることもめったになくなった。包帯を取ったオカダの顔を初めて見たとき、幸乃は顔を真っ赤にした。それからというもの、彼が近くを通っただけで手足の動きがぎごちなくなり、話しかけられたりしようものなら、ろくに返事も出来ず俯いてしまう。それでいて、通り過ぎる後ろ姿をいつまでも眼で追っていたりする。おかしなことだ。以前はオカダのことを、得体の知れないチンピラでも見るような眼で見ていたのに、顔が変わっただけで別人のような態度だ。そう思いながらも、私自身オカダが変わったのは見かけだけなのか、正直よく分からなくなっていた。手術後の彼は、顔や身体だけではなく、どこか以前とは違うように感じられたからだ。
「手術をしたのは、本当に外観だけなのですか?」
楊がアメリカに帰国する日、思い切って訊ねてみた。すると、彼はディズニー映画に出て来るネズミのような仕草でせわしなく笑った。
「わしは、あくまで形成外科医で、脳外科医じゃない。だが、もし手術の後、彼の内面まで変わったように見えるのなら、この手術は本当の意味で成功したということじゃろうな。」
「脳の手術をすれば、別の人間になることは可能なのですか。」
「もちろん。人間がその人間でありうるのは脳のおかげじゃからな。例えば、このあたりをちょっといじってやれば、殺人鬼を温厚な人間に変えることも出来る。」
楊は背伸びをすると、短い指で私の額をこつんと弾いた。
「アメリカで広まり、日本でも戦後、鬱病患者や神経症に悩む元兵士の治療に用いられているロボトミー手術は、この前頭前野と呼ばれる脳の一部を切断することで、症状を改善するものだが、現場ではこの手術を受けた患者の中に、著しい人格の変容が見られるという報告も密かにあがっとる。術後、大人しかった人間が急に凶暴になったり、かと思えば極度の無気力状態に陥り、廃人のようになってしまったりする例もあるらしい。手術との因果関係はまだはっきりと証明されていないが、おそらく近い将来、この手術は禁忌とされるだろうね。おっと、話が逸れちまった。」
楊は赤い唇を猫のように舐めた。
「じゃが、別に脳をいじらんでも、人格が変化するきっかけは色々ある。人間ってのは実に針のぶれやすい、危うい生き物じゃからな。」
楊はにっと笑うと、片目をつぶってみせた。そして、私を眼で制して自分で外套を羽織り、丁寧な仕草ででソフト帽を被った。どちらも目立たない灰色をしているのが意外だった。身支度を終えると、彼は私の手を取り、甲に接吻した。
「毎日、美味しい食事をありがとう。君は将来、きっと一流の料理人として成功するよ。」
オカダの体力が回復すると、すぐに遠藤による厳しい訓練が始まった。まずは衰えていた筋力をつける体操から始まり、あらゆる武道の稽古がそれに加わった。英語や数学、文学、歴史、地理、物理、化学といった学校の授業のような時間もあった。さらに、部下の青年たちの言葉を借りると、『まるで忍者修行のようなこと』もしているようだった。そのうち、オカダは完全に元のオカダではなくなっていった。手術の後、暫くの間は残っていた粗野な感じも、いつのまにか消えてしまった。私に対しても、見えない一線を引くように用件以外の話をすることもなくなっていった。もちろん、お化けの話をすることなど二度となかった。
水が温み、根雪がとけ、ようやく咲いた山桜が散って、その後に芽吹いた若葉の緑がひと雨ごとに濃くなる頃、オカダは山を降りていった。
その朝、糊のきいた小綺麗な学生服に着替えたオカダは、私に向かって黙って一礼した。私は戦地に赴く少年兵を見送るような気持ちになったが、彼の方は淡々としたものだった。はっとする程美しくなった眼は凪のように静かで、これから彼が向かおうとしている新しい世界に対して、微塵の不安も抱いていないように見えた。
遠藤は、オカダと共に山を降りたが、真夜中過ぎに一人の少年を連れて山荘に戻って来た。
「その人は?」
「夜の空に、月が二つあったらまずいだろう。」
遠藤がつまらない質問をすると、言わんばかりの眼で私を見た。オカダと入れ違いに連れてこられた少年は薬物を飲まされているらしく、まったく意識がなかった。遠藤は少年を肩に担ぐようにして地下に降りていった。
第四章 亜種
温室の窓の隙間から眼にした光景を、どう解釈して良いのか分かりませんでした。心臓の鼓動はいつまでも激しいままで、庭の茂みの陰にしゃがみこんだチンピラ隊の少年たちが、「やっぱり、キムラヤの餡パンはうめえな。」「お前、この頃えらく羽振りがいいじゃねえか。」などと、肩をくっつけ合って小声で話しているのが、夢の中の会話のようにぼんやりと聞こえて来ます。
草を踏むかすかな足音がしたので、はっとして闇に眼を凝らすと、木々の間を古風なランタンを手にした宮埜夫人が、人目をはばかるような足取りで母屋に戻って行くのが見えました。
ああ、やはり見間違いではなかったのだ、小林さんは夫人と一緒にいたのだと思うと、すうっと胸のあたりが冷たくなりました。しかし、夫人がすぐに温室から出て来たことには、とりあえず安堵しました。少し気持ちが落ち着くと、もしかすると夫人は、ちょうど私が餡パンを差し入れしようと思ったように、夜食か何かを持って行っただけなのかもしれないと思い直す余裕もでてきました。そして小林さんは、彼女から『アカムシバナ』について、色々と聞きだしていたところだったのではないか、抱擁していたように見えたのは、『アカムシバナ』のことを話すうちに、亡くなった御主人のことを思い出し、涙ぐんでしまった彼女を慰めようとしていただけなのではないか・・・
しかしそう思う傍から、すがるように小林さんの肩をつかんでいた手指の細さや、青白い水底のようなあの部屋の佇まいやらが、特別な意味を持って蘇って来るのです。
ようやく夜が明けました。昨日とはうって変わって、眩しいような晴天です。チンピラ君がくれた餡パンは、すっかりしなびて小さくなっています。馬鹿馬鹿しいくらい晴れ上がった空の下、私はパンにかじりつきました。飲物がないので、喉に詰まりそうになりました。何とか飲み下すと、重い身体をひきずるようにして、明智探偵事務所に戻りました。
事務所の自分の部屋に入ると、すぐにブラインドを下ろし、ベッドに横になりました。いつもなら、枕に頭をつけるか早いか睡魔が襲ってきて、そのままお昼すぎまでぐっすり眼るのですが、今日は駄目です。まったく眠れません。同じ光景ばかりが八ミリフィルムを逆回転するように、繰り返し繰り返し頭の中のスクリーンに映し出されます。
ああ、やっぱり信じられない。私は、天井を睨みつけていた眼をぎゅうっと閉じて、赤ちゃんが駄々をこねるように頭を振りました。たとえばあれが明智先生なら。これもあまり愉快な想像ではないにしろ、考えられないことではありません。しかし、小林さんはまだ十六歳です。しかも、少年探偵団の団長なのです。そんな彼が、外国映画に出て来る探偵やスパイじゃあるまいし、出会ってから数日しかたってない依頼人の女性とただならぬ関係に陥るなんて、そんなことが有り得るでしょうか。しかも宮埜夫人は、御主人がお亡くなりになったとはいえ人の奥様で、おまけに小林さんとは十歳近く年が離れているではありませんか!
「小林君の偽物?」
明智先生は読んでいた本から顔をあげました。
「彼はずっと宮埜さんのところにいるんだろう。」
「はい。」
「その彼が、偽物とすり替わっているかもしれないっていうのかい。」
「ええ。」
先生は回転椅子をぐるりと回して、真正面から私を見据えました。
「小林君の様子に、どこかいつもと違うところがあったのかい。」
大人の男性に似つかわしくない澄んだ眼が、私をまっすぐに見つめています。
「それは、」
口ごもってしまいました。
先生はしばらく黙って私を見ていましたが、やがて唇にいつもの穏かな笑みを浮かべました。
「確かに、見張り役の小林君を偽物とすり替えてしまえば、アカムシバナを盗み出すことは造作もないことだ。だが、本物そっくりの偽物を作りだすとなると、これは誰にでも出来ることじゃない。」
「この事件には、怪人二十面相が関係しているのではありませんか。」
先生は私の質問には答えず、机上のケースから取り出した煙草を咥えて、火を点けました。紫色の煙が、不思議な模様を作りながら天井に吸い込まれていきます。一本ゆっくり吸い終わると、
「僕はこれから出掛けて来る。君はこれまでどおり小林君と接してくれたまえ。もちろん、団長が偽物とすり替わっているかもしれないなんて話は、探偵団の子ども達にはまだするんじゃないよ。」
と、行き先も告げず、事務所を出ていきました。
夕方になって、ようやく先生から電話がありました。
「今夜の宮埜家の見張りは探偵団に任せて、君は少し休んだ方がいい。」
すでに出かける準備をしていた私は、吃驚してしまいました。
「どうしてです?十二時を過ぎれば、期日の六月九日ですよ。」
「さっき会った時、顔色がひどく悪かった。自分では気づかないかもしれないが、かなり疲れが溜まっている筈だよ。」
それだけ言って、先生は電話を切ってしまわれました。今までどこにいらっしゃったのか、本当に小林さんが偽物と入れかわっているのか、色々訊ねたいことがあったのに、先生の居場所すら分からないので、掛け直すこともできません。
(今夜は休むようにですって?)
壁の鏡を覗き込んで、自分の顔を映してみました。確かに、顔色はあまり冴えません。眼の下には隈まで出来ています。でもこれは、昨日よく眠れなかったからです。体調が悪い訳ではないのです。けれども言いつけに背くわけにもいきませんので、探偵団とチンピラ隊に連絡を取り、今夜の指示だけ与えて事務所に留まることにしました。
六月の太陽はなかなか沈みません。それでも、陽の光はゆっくりと時間をかけながら、力を失っていきます。窓から見える澄んだ空色に少しずつ紅の色が混じり始め、深い菫色に変化していきます。
小林さんは(まだ偽物だと、確定は出来ないので、とりあえずそう呼ぶことにします)蝶の乱舞する温室にいるのでしょうか。宮埜夫人は今夜もまた会いに来るのでしょうか。
夜になりました。一度はベッドに入りましたが、やはり眠れません。まるで不眠症になってしまったようです。いつの間にか、日付が変わってもう六月九日です。もう眠ることは諦めました。ベッドから起き出し、紅茶を淹れて、それを飲みながら考え続けました。
もし、あの小林さんが偽物だとしたら、一体いつ入れ替わったのでしょう。温室で見張りをしている時でしょうか。それとも、宮埜家に行く前に、既に入れ替わっていたのでしょうか。ああ、まったく分かりません。どこから見ても、あれは小林さんでした。小林さんに見えました。それ程までにそっくり偽物を、たとえ二十面相でも用意することができるのでしょうか。
いや、二十面相なら出来る筈です。小林さんは以前、明智先生に変装したあいつに騙されて、事務所の床下に作ってある地下室に落されたことがあるそうです。二十面相は、先生の一番身近にいる小林さんの眼すら欺くことのできる、魔法使いのような変装の名人なのです。彼なら、小林さんにそっくりの偽物を作りだすことも可能でしょう。そう、外観だけならば。しかし、中身はしょせんまがいものです。今から思うと、あのとき温室で話をした小林さんは、いつもとどこか違いました。どこがどうとはうまく言えないのですが、普段の溌溂とした感じがあまりなく、何だか元気がありませんでした。少年たちを残して、のこのこ温室にやってきた私に何も言わなかったのも、今から思うとあの人らしくないような気がします。
紅茶のおかわりを淹れたついでに、書斎から本を持ち出して来ました。昆虫について書かれた本です。蝶のページをめくっていると、興味深いことが書いてありました。蝶は変種の多い昆虫だということです。元々本種だったものが、天敵から身を護るために他の蝶に擬態しているうちに、独自の進化を遂げ変種となったものもありますが、本種の生息地と隔絶した地域で生まれることも多いのだそうです。実に不思議なことです。さらに、変種、あるいは亜種と呼ばれるそれらは、なぜか本種よりも翅の色が美しいものが多く、収集家の間では、希少なことも相まって珍重されるのだそうです。
また、こんな話も書かれていました。蝶の翅の美しい模様を作っているのは鱗粉だそうです。翅を触ると指につく、あの粉のようなものです。鱗粉を取ってしまうと、蝶は飛べなくなってしまうのですが、他にも大切な役目があるそうです。たとえば雄の蝶の鱗粉の中には、発香鱗と呼ばれる香りがあり、雌の蝶を引き寄せ、交尾を促す役目があります。これにあやかって、インドネシア諸島にある部落では、収穫祭の夜に、若者たちが蝶の鱗粉を混ぜたおしろいで化粧をし、娘たちに求愛する風習があるのだそうです。化粧をし、美しく装って異性を誘うのが女性ではなく男性であるというのは、妙な気がするのですが、考えてみれば生き物の多くはそれが自然な姿です。人間だけが例外なのです。祭りの夜の仮装は、人間以外の生き物の擬態なのでしょうか。
ページを捲って、魔性のように美しい蝶の細密画を幾つも眺めているうちに、突然はっとしました。もしも、あの小林さんが偽物だとすれば、彼は今後、宮埜夫人にもっととんでもないことをするのではないでしょうか・・・。
無意識のうちに立ち上がっていたようです。テーブルの上の紅茶椀がカタンと揺れて、中身が少し零れました。それを手早く片付けると、大急ぎで服を着替え、出掛ける支度をしました。明智先生は、宮埜家には行かず、事務所で待機するようにと仰いました。でも、小林さんが宮埜家の温室で何をしたかまでは、先生に話していません。これから、彼が何をしようとしているのか気づくことができるのは私だけです。私も探偵のはしくれです。アカムシバナの盗難は絶対阻止しなければなりません。さらに、依頼人の安全を護ることは、私達探偵にとって犯行を防いだり犯人を捕まえたりすること以上に大切な仕事なのです。
玄関から出ようとした時、自分の足が震えていることに気がつきました。少し考えて、いつもの七つ道具の他に、頑丈そうな棍棒を上着の内ポケットに忍ばせました。
突然、事務所の電話がけたたましく鳴りました。
先生かもしれません。急いで受話器を取りました。
「マユミさんですか。小林です。」
心臓が一瞬不規則なリズムを刻んだ後、激しく打ち始めました。
第五章 夜の空に月は一つ
翌朝、私はトーストとオムレツとスープを載せた盆を持って、地下に降りた。夕べ遅くに遠藤が連れ帰って来た少年は、オカダが使っていた部屋の向かい側にある、内側の戸が鍵付きの鉄格子になっている部屋に入れられた。少年を閉じ込めたあと、遠藤は私に小さな鍵を渡した。
「明日から、彼に着替えと三度の食事を用意してやってくれないか。このような部屋に閉じこめておいてと思うかもしれないが、彼は大事な客なんだ。」
地下室に行くと、少年はすでに眼を覚ましていた。あの八ミリフィルムに写っていた少年に違いなかった。これが明智小五郎の片腕と言われる小林少年か。これが・・・。
あまり見つめては失礼だと思ったが、視線が外せなかった。
「あなたは、ここのお手伝いさんですか。」
少年は私の凝視に臆する様子もなく、笑みを浮かべて尋ねて来た。動転しながらも何とか頷き、エプロンの前ポケットに手をやって鍵を探す。食事を入れるための小窓の戸を開けようとしたが、なかなか錠前の鍵穴に鍵が入らない。指が震える。何しろ、声までオカダとそっくりなのだ。いやそうではない。オカダの方が、この少年の声を真似ていたのだ。元々の彼の声はもっと違っていた筈だ。それがどんな声だったのか、とっさには思い出せなかった。
ようやく錠前が外れた。
「虜の身にしては、豪勢な食事ですね。」
差し入れた食事を受け取りながら、小林が言った。
「どうもありがとう。」
敵の家の使用人である私に礼を言うと、静かにフォ―クを手にした。
厨房に戻ると、幸乃に地下室での話をした。
「驚いたわ。顔も声も、本当にそっくりなんだもの。」
「そんなに似ているのですか。」
「あなたも後で行って見てみるといいわ。昼食を運ぶのを代わってあげるから。」
「いいですよ、私は。」
「あら、また人見知りが始まった。」
昨日の朝、オカダが出て行ってからというもの、幸乃は何かが抜け落ちたみたいに元気がなくなっていた。本物の小林少年に会ったら、この子はどんな顔をするのだろう。ちょっとは元気になるのかしら。私は、自分が意地悪な気持ちになっているのに気づき、少し恥じた。
昼になると、今度はチキンフライとトマトのサラダを用意して地下室に行った。どのようにして、オカダがこの少年と入れ替わったのか気になったので、食事をとっている彼に訊ねてみた。
「あなたは、昨晩ここに来た時、睡眠薬か何かを飲まされて気を失っていました。どうやって連れて来られたのか覚えていますか。」
小林はナフキンで口を拭うと、紅茶を一口飲んだ。
「昨日の夕方、事務所の近くを一人で歩いていたら、急に後ろから麻酔薬を染みこませた手拭いを口と鼻に押しつけられたんです。脇に黒っぽい乗用車が停まったような気がしましたが、よく覚えていません。気がついたら、この檻の中でした。」
こういうことはよくあることで、何でもないという口ぶりだった。まだあどけなさすら残した可愛らしい顔を眼の前にすると、何だか信じられないが、彼は日本一の少年探偵なのだ。そして、オカダはこの少年になりすまして、東京にいる。おそらく、明智小五郎の事務所だろう。宿敵である名探偵の少年助手を、自分の息のかかった別の少年とすり替えてしまう。これが遠藤の計略だったのだから。
私は、小林と共に八ミリフィルムに映っていた男の顔を思い浮かべた。あの名探偵の眼を、オカダは誤魔化すことができるのだろうか。それは、とてつもなく難しいことのように思われた。今朝会った時は、何もかもオカダそのままだと思ったが、あらためてこうして本物の小林少年と間近で対面してみると、私にすら、やはりオカダとはどこか違うということが分かるのだ。確かに顔は瓜二つ。体つきも、声も、喋り方も、食事の仕方もそっくりだ。それなのに違う。決定的に何かが違う。どんなに容貌を変えようとも、しょせん、人は自分以外の何者にもなれないのではないか。それは去年の秋、遠藤からこの荒唐無稽としかいいようがない、人間の入れ替えの話を聞かされた時からずっと引っ掛かっていたことだ。この少年が十六歳だとしたら、十六年分の彼だけの人生があるように、オカダにもオカダとしての十六年間があった筈だ。まったく別の両親のもとに生まれ、まったく別の幼少時代を過ごし、まったく別の喜怒哀楽を経験している。それが脳に刻まれ記憶となり、その記憶の蓄積が他の誰でもないその人を作っていうのではないだろうか。楊も言っていた。「人間がその人間たらしめているのは脳なのだ」と。
眼の前にいるこの少年は、壁や地面から這い出してくるお化けを見たことはないだろう。その代わり、もっと別の恐ろしいものを見て来ているかもしれない。何しろ、探偵の助手なのだから。
オカダは、本当に小林少年になり代わることができるのだろうか。もしできなかったら、オカダはどうなる?
「どうかしたのですか。」
はっとして顔をあげると、訝るような眼で小林が見ていた。
「いえ。何でもありません。」
「僕の方からも、一つ質問していいですか。」
「どうぞ。」
「ここは、怪人二十面相の隠れ家ですか。」
もちろん答えられる筈がない。
「私はよく知りません。ただの料理番ですので。」
「あなたが、この食事を作ってくれているのですね。」
小林が微笑んだ。口許から、綺麗に揃った白い歯が覗いた。
それから五日の間、食事を地下室に運び続けた。五日目の晩、戸締りをして部屋に戻ると、幸乃がベッドの上で海老のように体を丸めていた。肩で荒い息をしている。厨房の後片付けをしているとき、少し気分が悪いからと先に部屋に戻ったので、気になってはいたのだが、まさかこれ程具合が悪かったとは思わなかった。
「どうしたの、どこが苦しいの。」
抱き起そうとして、はっと息を呑んだ。敷布団の上に、椿の花びらのような赤いものが点々と散っている。捲れ上がった寝間着の裾から覗いた、青みがかって見えるほど白い太腿の内側に、奥から流れ出たらしい鮮血の一筋があった。
「お願い、誰にも言わんといてっ。」
幸乃は泣き叫ぶような声をあげると、自分の腹を、私から隠すように腕に掻き抱いた。
黒い幕がすとんとが降りたように眼の前が暗くなった。続いて落雷のような衝撃が身体を貫いた。
「ごめんなさい・・・」
「・・・何で、謝るの。」
幸乃は黙ったまま、苦しげな呼吸を繰り返している。
「とにかく。とにかく病院に行きましょう。」
掛布団ごと小柄な身体を抱こうとすると、幸乃がしがみついてきた。
「笙子さん。後生やけえ、誰にも言わんとって。うち、ここさ出たら行ぐどごねえから。」
「分かった。でも、病院には行かないと。」
私は幸乃の身体をしっかりと抱いた。だが、病院に行くといっても、どうしたらいいのだろう。この山荘から病院のある集落までは、車で一時間はかかる。間が悪いことに、今日に限って、遠藤も部下の青年も出払っているのだ。行先は分からない。いつ帰って来るかも分からない。車はある。彼らは三台ある車のうち、二台の車に分乗して行ったので、車庫にはもう一台残っている筈だ。だが、もちろん私は運転などできない。もう一人、外回りの仕事を主にしている老人が山荘に残っているが、彼とて同じだろう。ふと、地下にいる小林のことを思い出した。あの人に頼んでみようか。だが、彼の助けを借りてもいいのだろうか。
その時、腕の中の幸乃が呻き声をたてた。声を出すまいと歯を食いしばっているが、声は否応なく洩れる。顔はさっきより、さらに蒼白になっている。
幸乃をベッドに寝かせると、部屋を飛び出し地下に駆け下りた。これまで幾度ともなく昇り降りした階段を、これ程長く感じたことはなかった。やっとの思いで鉄格子の部屋までたどり着くと、小林は椅子に腰掛けて、腕を組んだ格好で頭を垂れていた。
「小林さん、起きて、起きて!」
鉄格子に口をつけるようにして叫ぶと、小林が眼を覚ました。
「笙子さん、どうしたんですか。」
「幸乃が・・・。」
言いかけて声が詰まった。何とか、気力を奮い立たせて続ける。
「体の調子が悪いみたいなの。病院に連れて行かなくては。あなた、車を運転できる?」
「できますけど・・・。」
いつになく歯切れの悪い口調だ。
「でもそれは、僕をこの檻から出すことになるんですよ。」
分かっている。ここから出ることが出来れば、彼はすぐに東京に戻ろうとするだろう。東京にはオカダがいる。本物と鉢合わせたら、どう考えてもオカダの方が不利だ。遠藤の企みは失敗する。そうなれば、遠藤はオカダをどうするつもりだろう・・・・。
「幸乃さんは、そんなに悪いのですか。」
小林の声に我に返った。経験のない私にはよく分からないのだが、お腹が目立たないところみると、臨月ではない筈だ。それなのに、あんなに苦しむのは只事ではない。しかも、あの出血・・・・。身体が震えてきた。いったい誰が、幸乃をあんな目に遭わせたのだろう。青年達の誰かか?
いや、さっきからずっと考えていたが、幸乃を孕ませたのは、オカダなのではないだろうか。整形手術の後、幸乃はオカダに夢中になっていた。オカダからすれば難なく捉えられる小鳥のように見えたことだろう。
ふと、オカダはこのことを知っていたのだろうかと思った。幸乃のことだから、身体の変調に気づいても、打ち明けることは出来なかったのではないか。いずれにしても、オカダは東京に行ってしまった。もう二度と、ここに戻って来ることはないだろう。
お姉ちゃん、お姉ちゃん
それは唐突に始まった。あの子の声が耳もとで聞こえた。地下室の闇が、あの日の波のようにあやしくうねった。その波間から、細い手が伸びるのが見える。
助けて、お姉ちゃん
ああ、さっきよりもっとはっきり聞こえる。いや、いまだかつてないほどに鮮明に、あの子の声が切っ先のように耳を刺す。脳髄まで刺す。
あんなに、必死に叫んでいたのに。私は助けてやれなかった。いや、気づいてすらやれなかった。あの子がたった一人で苦しんで苦しんで、あの朗らかで健やかな若い命を消してしまうまで苦しんでいたことを。
「笙子さん、大丈夫ですか。」
小林が心配そうな顔でこちらを見ていた。知らないうちに鉄格子を握りしめていたらしい。血のような鉄の匂いが強く鼻をついた。
「あの子を助けてやらないと。」
そう、助けてやれなかったあの子の代わりに、何が何でも幸乃を助けなければ。
「小林さん、力を貸して下さい。」
そう言おうと口を開きかけた時、あることに気がついた。思わず、あっと声が出る。私はこの鉄格子の扉の鍵を持っていないのだ。遠藤から預かっているのは、食事を出し入れするための小窓の鍵、それだけだ。扉の鍵はどこにあるのだろう。遠藤の書斎だろうか。しかし、書斎にだってもちろん鍵はかかっている。
「あなたさえ協力してくれたら、僕はこの鍵を開けられますよ。」
まるで、私の心の中を見透かしたように小林が言った。
「針金さえあれば、僕はたいがいの鍵は開けられます。いつも何本かの針金と、工具セットを携帯しているんですが、気を失っている間に全部取り上げられてしまったみたいなんです。」
私は納戸に飛んで行って、太さの違う数本の針金と工具一式を持って来て、小林に渡した。彼は、その中から錠前の穴に合う太さの針金を選び出し、ヤットコを片手に器用な手つきで針金細工を始めた。
やがて、数分前までただの針金だったそれは、精巧な複製キーとなり、頑丈な錠前をいとも簡単にこじ開けたのだった。
山を降りる車の中で、去年の秋にどこからかあの山荘に連れて来られた『オカダ』という少年が、小林少年そっくりの顔に整形され、東京に向かったことを話した。小林はこちらに背中を向けたまま黙って話を聞いていた。私は後部座席で、幸乃を抱きかかえながら座っていたのだが、彼がなるべく幸乃に負担をかけないように、気をつけて運転してくれるのがよく分かった。それでいて、スピードは落とさず、普段なら一時間以上かかる集落に、夜道にも関わらず五十分足らずで到着した。そこで病院を探すのに手間取ったが、何とか小さな助産院を見つけ幸乃を運び込んだ。幸乃が手当てを受けている間、小林はいったん外に出ていった。おそらく、明智小五郎と連絡をとるため、電話をかけに行ったのだろう。
小林が戻ってからも、私たちがいる廊下と幸乃を隔てる襖は閉まったままだ。私が不安でたまらなくなった頃、ようやく産婆が出てきた。そして、お母ちゃんは大丈夫、お腹の赤ん坊も無事だと告げた。
「強い子じゃ。母ちゃんの腹にしっかとしがみついてくれたわ。きっと丈夫に育つじゃろうて。」
思わず廊下の床に座り込んでしまった。シュロボウキのような寝癖のついた白髪頭の産婆が、観音様のように見えた。
正直に言えば、お腹の子どもは流れてしまえばいいと、その瞬間まで思っていた。その方が幸乃のためだと。それなのに、幸乃はもちろん、子どもも一緒に助かったことに、心から安堵していた。自分でも不思議だった。
「本当にありがとう。あなたのお陰です。」
「良かったですね。」
小林は軽く微笑んだ。
「一つお願いがあるのですが。」
「なあに。」
「さっき東京に電話をしたら、あなたの言っていたとおり、僕の偽物が現れているようです。僕はすぐに東京に戻ろうと思います。すみませんが、車をこのままお借りしても構いませんか。」
そうだった。はっきりと約束したわけではないが、幸乃を助けることは、あくまで交換条件だったのだ。彼は東京にすぐにでも戻りたいのだ。一刻も早く東京に戻って、自分と同じ顔をして周囲を騙している偽物の化けの皮を剥ぎ取ってやりたいのだ。そのはやる気持ちを抑えて、今まで付き添ってくれたのだ。
山荘を出ていった朝の、オカダの顔が浮かぶ。これから向かおうとする新しい世界に不安もないが、かといって何の希望も抱いていないような顔。鉛のような塊が喉の奥から込み上げてきた。窒息しそうな程に固くて重い、苦い味のするそれをを必死に飲み込み、「いいわ」と答えた。小林がほっとしたような顔になる。土壇場で拒否されるのではないかと懸念していたのかもしれない。
「笙子さんはどうしますか。ここに残って、幸乃さんについていてあげますか。」
幸乃は、二、三日静養した方がいいという話だった。部屋は空いているので、しばらくここに居てもいい、と産婆は言った。私たちが訳ありなのを見抜いたのだろう。それならば、私もここに残って幸乃が眼を覚ました時、そばにいてやりたい。
だが、私は小林を逃がしてしまった。遠藤に知れたら、彼はすぐに後を追って来るに違いない。この村は、青年たちが頻繁に買い出しに訪れる場所だ。狭い村である上に情報収集に長けた彼らのこと、深夜の助産院に身重の娘を運び込んだ女と少年の素性など、瞬くまに知られてしまうだろう。
「私も、一緒に東京に行っていい?」
思いきってそう言うと、彼は意外そうな顔をした。暫く思案するように私を見ていたが、やがて黙って頷いた。
山荘を出る時、私は自分の部屋の引き出しに仕舞っていたお給金を持ってきていた。実家への仕送り分以外は、ほとんど全て残していたので、かなりの額があった。そこから治療代と入院費用を多目に払い、数日中には必ず来ると告げて助産院を出た。その間に幸乃は見つかってしまうかもしれない。だが遠藤は悪人ではあるが、それ程非情な男ではない筈だ。身重の幸乃を悪いようにはしないだろう。
外に出ると、月の光が辺りを銀色に照らしていた。ふと、目の前を歩く小林の白いシャツの背中に、血痕がついていることに気がついた。さっき、幸乃を背負った時についたのだろう。
車を停めていた空き地に戻る道に公衆電話があり、小林はどこかに電話をかけた。
「本当にいいのですか。このまま東京に行って。」
車に乗り込む直前、小林が念を押すように訊ねた。
「あなたを脱走させちゃったんだから、もうあそこには戻れないわ。」
私は首をすくめた。
「それに、このまま遠藤さんのところに居ていいのかどうかは、ずっと悩んでいたことなの。彼は私たちには優しい人だけど、悪人には違いないのですもの。」
用意していた言葉ではなかった。だが口にしてしまうと、まさしく私の本心のような気がした。私は、ずっとあの山荘を出るきっかけを探していたのかもしれない。
車はしばらく寂しい里山を走り、再び下りの山道に入った。黒い魔女の爪のような木陰の間から、月が見えた。月は当然、夜空に一つきりだ。見え隠れしながらついて来る仄白い月を見ているうちに、ふと話がしたくなった。今まで誰にも、幸乃にすらしたことのない話だ。
「三つ下の妹がいたの。」
声が震え、胸の奥がおののいたが、構わず続けた。
「十六の時、妹は亡くなったの。私たちは焼津の生まれで、妹は日の暮れた時分に一人で岩場に行き、海に飛び込んでしまった。私たちが二人で使っていた箪笥の引き出しに、手紙が残されていた。妹は近所の顔見知りの男に乱暴されていたの。何度も何度も。」
こんな話をしているのにも関わらず、鼓動は静かだった。すぐ傍に妹の気配を感じた。生きていた時と同じ優しい眼で、私を見ているような気がした。
「だから、私はオカダを赦せないの。」
小林がぎょっとしたように振り返った。車が一瞬左右に激しく揺れた。
「幸乃さんをあんな目に遭わせたのは、オカダなんですか。」
「たぶん、そうだと思う。あなたになりすまして、今、東京にいるのは、そういうやつなの。」
彼は黙ったまま正面を向いたが、ハンドルを握る両手に力がこもるのが分かった。
「あいつは、これからもっととんでもないことをするわ。小林さん、彼を止めて。あの人が、もっと恐ろしい悪事に手を染める前に。」
その時、車の窓の内側に、蝶が止まっていることに気づいた。いつのまに入ってきたのだろう。夜飛ぶ蝶がいるとは知らなかった。或いは蛾の一種だろうか。月の光の中から生まれたような、白く透き通った翅をしている。
「気をつけてください。それ、毒を持っていますから。」
彼が窓を開けた。蝶はふわりといったん宙に浮かび、今度は天井に止まった。
「さあ、山へ帰るんだよ。」
犬か猫に声をかけるような言い方だったが、蝶はその声が聞こえたかのように白い翅を広げ、名残惜しそうに車内を一巡した後、開いた窓から飛び立った。
第六章 二少年怪図
受話器を取ると、聞こえて来たのは小林さんの声でした。
「マユミさん?マユミさんですよね。」
そうだと答えながら、受話器を持つ手が震えて来るのを感じました。
「明智先生はいらっしゃいますか。」
「先生は、お昼過ぎからずっとお留守よ。」
「何か事件でもあったのですか?」
一瞬、絶句してしまいました。
「もちろん、宮埜さんの事件に決まってるじゃない。」
「宮埜さんの事件?」
小林さんは、聞き慣れない外国語でも耳にしたかのように訊き返しました。
「落ち着いて聞いて下さいね。」
小林さんの淀みない声が、受話器をもったまま呆然としている私の耳に流れ込んで来ます。
「僕は六日前から、山梨県の山中にある怪人二十面相の隠れ家に監禁されていたんです。」
六日前。
急いでカレンダーに眼を走らせました。今日が六月九日ですから、六日前といえば、六月三日です。宮埜夫人から依頼を受ける前日です。
「マユミさん、僕の声、聞こえてますか?」
「・・・聞こえてるわ。」
ようやく返事をすることが出来ました。
「今から、ちょっと変なことを言いますが、実は僕が監禁されている間に、そちらにもう一人の僕が送り込まれた筈なんです。いるんでしょう、そっちにも僕が。」
「ええ、いるわ。」
ごくっと喉がなりましたが、思いがけず落ち着いた声が出ました。やっぱり、と電話の向こうで小林さんが呟いて、私も心の中で同じ言葉を呟きました。
「マユミさん、そいつは偽物です。今、近くにいるんですか?なるべく、二人っきりにならないほうがいい。とにかく、僕が戻るまで充分気をつけてください。」
「大丈夫よ。こちらにいる小林さんが偽物だってことには、とっくに気がついていたから。」
二、三秒沈黙した後、小林さんが吃驚したような声をあげました。
「気がついてたんですか!」
「ええ、そうじゃないかと思っていたの。」
「よく分かりましたね。そいつは恐ろしいほど僕とそっくりな筈ですよ。」
「確かに、顔も声もそっくりだわ。」
「じゃあどうして、偽物だって分かったのですか?」
「それは・・・」
少し躊躇しましたが、宮埜家の事件についてざっと説明した後、思い切って偽の小林さんと宮埜夫人のことを話しました。そうなると、覗き見の件も白状しないといけませんが、仕方ありません。話を聞き終えた小林さんは、暫く押し黙った後小さな溜息をつきました。
「分かりました。すぐ東京に戻ります。」
「今どこにいるの?電話がかけられるってことは、脱走出来たのでしょう。」
山梨県と神奈川県の県境にあるTという村まで下りて来ていると彼は言いました。二十面相の隠れ家で働いているお手伝いさんが、脱走の手助けをしてくれて、車まで手に入れることが出来たと言うのです。
「それは良かったわ。とにかく早く帰って来て。おそらく、今日中に偽物はアカムシバナを奪って逃走する筈よ。何とか阻止しなくてはいけないわ。」
何だかこうして電話をしている最中も、偽物のあいつが、すぐ近くで私たちの会話に聞き耳をたてているような気がします。とりあえず、小林さんが戻って来たら一緒に宮埜家に行くことにして、夫人にはそれまで何も知らせないことにしました。偽物に勘づかれては困るからです。
受話器を置いた後、胸の中で渦巻いていたどす黒い霧が、一気に吹き飛んでしまったような気がしました。
小林さんが帰って来たのは、それから二時間近くたってからでした。二十歳くらいの、慎ましい感じの女性も一緒です。電話で聞いていましたが、門野笙子さんといって、二十面相の隠れ家でお手伝いをしていた方ということです。彼女が疲れているので、今夜はここで休ませてあげてほしいと小林さんが言いました。もちろん、異存はありません。二十面相の部下とはいえ、彼女のお陰でこうして戻って来ることが出来たのですから。
それにしても、敵の家の女の人に脱走の手助けをしてもらうなんて、まるで『魔術師事件』の、若い頃の明智先生のようです。探偵としては大先輩とはといえ、どこか弟のように思っていた彼が急に大人びてしまったような気がして、少し寂しいような気分になりました。けれども、小林さんの気持ちは、宮埜家の事件、そして宮埜さんの温室にいる偽物のことだけに向けられているようでした。居間に入っても、腰をおろそうともしません。
「これからすぐに宮埜さんの家に行って、僕の偽物と会って来ます。」
その声と表情。ああ、やはり本物の小林さんです。偽物も顔かたちは確かにそっくりなのですが、どこかが違います。醸し出す雰囲気というのでしょうか。内面から滲み出すものが違うのです。姿かたちを変えただけで別人になれるなんて、人間はそんな浅はかなものではないと、二十面相に言ってやりたくなりました。
「待って。私も行くわ。」
今にもドアから飛び出しそうな彼の腕を、慌てて掴みました。
「 庭で見張りをしているチンピラ君たちのことも心配だし。」
「あの、私も一緒に行って構いませんか。」
遠慮がちな声がして振り返ると、門野さんが思いつめた表情で私たちを見ていました。
「危険ですよ。」
小林さんが眉をしかめました。
「それに一睡もしてないんですから、ここで休んでいてください。マユミさんは彼女についてあげてくれませんか。」
「いいえ、私、見たいんです。」
門野さんはきっと眦を吊り上げました。
「オカダが、本物の小林さんに敗れるところを。」
大人しそうに見える彼女の表情の険しさと、語気の激しさに私は少し驚きました。『オカダ』というのが何者なのか、すぐには分かりませんでしたが、おそらく、小林さんになりすましている人物のことでしょう。二十面相の許で働いていた彼女が、その人物を知っていたとしても不思議ではありません。そしてなぜか、彼女はその人物のことを良く思っていないようです。だからこそ、小林さんに協力したのかもしれません。
結局、小林さんが折れて、彼女も一緒に行くことになりました。オカダに、門野さんだと気づかれない方がいいだろうということになり、彼女に私の変装用の服を貸してあげることにしました。門野さんが、私の部屋で着替えている間、私たちは居間で待っていました。
「あら、血がついてるわ。」
「えっ?」
「ほら、シャツのここ。」
小林さんが振り返るようにして自分の背中を見ました。
「どこか怪我をしているんじゃないの。手当てをしなくては。」
「大丈夫ですよ。これは。」
門野さんが、カーキ色のシャツに黒いズボン、鳥打帽という姿になって部屋から出て来ました。
「こんな時間にいきなり訪問したら、宮埜さんも驚かれるだろうから、今からお伺いすると電話だけでも入れておきましょう。」
「偽物に気づかれないかしら?」
「詳しい話は向こうに行ってからした方がいいかもしれませんね。僕が一緒だということも黙っていて下さい。それから、中村警部にも連絡をお願いできますか。」
「今回の件は警察には知らせてないのよ。薬草のことを公にしたくないそうなの。」
「オカダの身柄を確保してもらうんです。二十面相が関係しているとなれば、警察に言わないわけには行きませんよ。」
私は宮埜さんと中村警部に電話をかけました。明智先生からは何の連絡もありません。おそらく宮埜さんのところだとは思うのですが、もし行き違いになった時のために、走り書きのメモを先生の御机の上に置きました。
宮埜家に着くと、夫人は裏門の陰で私たちが到着するのを待っていました。玄関から呼び鈴を鳴らして訪問すれば、オカダに勘づかれるかもしれないので、そこで待っていて欲しいと電話でお願いしておいたのです。
「お話されたいこととは、どのようなことでしょうか?」
宮埜夫人が声を潜めて訊ねました。青ざめた顔が、月の光に透き通るようです。私を一心に見つめる眼に、吸い込まれるような心地になりました。温室での光景が映画の一場面のように蘇り、気まずくなりましたが、私に覗き見されていたことなど知る筈もない夫人に、臆する様子はもちろんありません。
「電話を差し上げてから、何か変わったことはありませんでしたか。」
声を潜めて尋ねました。
「いいえ、特に何も。」
「小林さんは、温室ですか。」
「ええ。見張りをして下さっていると思います。」
「宮埜さん、驚かないで下さいね。」
私は、後ろに控えていた小林さんに目配せしました。彼は夫人の前に立つと、目深に被っていた学帽を取ってみせました。
夫人があら?という顔になりました。頬がかすかに紅潮したような気がしましたが、然程驚いた風ではありません。温室にいた彼が、いつのまにか外に出て来ているとでも思ったのでしょう。これから私たちがしようとしている話を聞いて、夫人が受ける衝撃の大きさを考えると、気が重くなりましたが仕方がありません。私は彼女の細い手を取り、両手で包み込むように握りました。
「どうか落ち着いて聞いて下さいね。今、温室に居る少年は、明智先生の助手の小林芳雄さんではありません。脅迫状の送り主の仲間が変装しているのです。」
宮埜さんは虚を突かれたような顔になりました。そして、目の前の小林さんの顔をしばらく探るように見つめました。徐々にその表情が強張り、手がぶるぶると震え出しました。
「心配はいりません。今から僕は温室に行って来ます。そして、奴を」と、そこで夫人の顔をちらりと見ました。夫人の顔は魂が抜け落ちた人形のようです。その表情を見て少し声の調子を落としたものの、「警察に引き渡します。」と続けました。
「私も一緒に温室に行ったら駄目ですか。」
笙子さんです。しかし、小林さんは即座に首を振りました。
「あいつが逆上したら危険ですから、笙子さんはマユミさんと一緒に、宮埜さんに付き添ってここに居て下さい。」
その時、「団長!」という声がして、表門の方からチンピラ隊の少年たちが三人走って来ました。
「あ、君たちか。ご苦労さん。いよいよ正念場だよ。君たちはマユミさんとここで待機してくれ。何かあったら呼子の笛を吹く。その時はすぐに中村警部に知らせるんだ。この先の裏門を出たところに車を停めているからね。」
「はい!」
「合点承知!」
久しぶりに、団長から直接の指令を受けた少年たちは、背筋をぴんと伸ばして張り切って答えました。
「警察の方がいらしているというのは、本当なのですね?」
宮埜さんが、掠れた声で尋ねました。
「警察に介入して欲しくないというお気持ちはお察しします。しかし、どうやらこの事件には怪人二十面相が関係しているようです。申し訳ありませんが連絡させてもらいました。」
二十面相と聞いて、少年たちが色めきだちました。お互いの顔を見て頷き合ったり、指をぽきぽき鳴らしたりしています。しかし、宮埜さんは度重なる衝撃に今にも倒れそうな様子です。私も、急に不安になって来ました。
「ねえ、本当に一人で大丈夫?中村警部と一緒に行ったらどう?」
小林さんはにこっと笑って、
「オカダ一人なら、僕だけで充分ですよ。」 と温室に向かって勢い良く駆け出していきました。
どこからか、小鳥のさえずりが聞こえたような気がしました。一番鳥でしょうか。まだ星は瞬いていますが、東の空がほんの少し明るくなったようです。美しい色でした。ふと傍らを見ると、門野さんも宮埜さんも放心したように、暁の空を見上げています。
不意に奇妙な物音がしました。重い砂袋をひきずるような音です。はっとして身を固くすると、まだ夜の名残を濃厚に残す闇から、一人の男が少し片足を少しひきずるようにして、こちらに向かって歩いて来るのが見えました。頑健な体つきをした鉄灰色の髭を胸まで垂らした老人です。少年たちがさっと身構えます。
「あら、木村さん。」
宮埜さんが意外にも親しげな調子で男に呼びかけ、私たちに、「週に一、二度、庭の手入れをしてもらっている方です。」と紹介しました。ほっと肩から力が抜けました。少年たちも、全身の緊張を解いたようです。
「どうしたの、木村さん。こんな早くから。」
「いえ、裏の方で声がしたものですから。奥様こそ、こんな時間に何をされてるんです?しかも・・・」
と我々を不審そうに見ました。
「若い娘さんに子どもたちですかい。こんな時間にうろうろしちゃいけねえなあ」
何と言い訳しようか思案していますと、突然男が吹き出しました。
「おいおい、まさか、僕が分からないっていうんじゃないだろうねえ。」
「えっ?・・・・まさか明智先生?」
宮埜さんも少年たちも門野さんも、唖然として庭師の老人に扮した先生の顔を見ました。
「今夜は休むように言ったのに、困ったお嬢さんだな。」
「もう朝ですわ。それに、私がいないとチンピラ隊の士気が下がりますもの。」
「おやおや、君たちのマユミ隊長が、あんなことを言ってるよ。みくびってもらっちゃ困ると言ってやれ。」
と、少年たちに笑いかけましたが、ふと門野さんに眼をとめました。
「一人だけ女性が混じっている。この方はどなたかな?」
彼女がここにいる経緯を話すと、少年たちがどよめきましたが、素早く唇に手を当て、詳しい話は後でするからと制しました。
「先生は、昨日からずっと庭番に変装されていたんですか?」
「ずっとではないよ。他にもいくつか確認したいことがあったからね。それで、本物の小林君はどこにいるんだい。一緒じゃないのかい。」
そこへ当の小林さんが、駆け戻って来ました。
「マユミさん、ちょっと温室に来て下さい。」
息を乱し、珍しくひどく動転した様子です。しかし、さすがに人間が一人増えていることにはすぐに気づいたようです。先生は、たちまち老人らしい朴訥した表情に戻り、小林さんに向かって慇懃な礼をしてみせました。
「・・・明智先生ですね。」
「おお、一目で見破ったね。さすが小林君だ。」
先生が満足したように頷きました。
「いったい、どうしたの。オカダは?まさか逃げたの?」
「いえ、まだ温室にいます。でも、大丈夫です。もう逃げられる心配はありません。ただ訳の分からないことが起こって・・・。とにかく一緒に来て下さい。」
まだ温室にいる?それなのに、もう逃げられない?いったい小林さんは何を言ってるのだろう。訳が分からないのはこちらの方ですが、小林さんは、それだけ言うとすぐ走り出してしまったので、とりあえず私たちも後について行きました。
「小林君。シャツの背中に血がついているよ。」
先生が走る小林さんに声をかけます。けれども、彼は振り返りもせず、一言「大丈夫です。」とだけ返事をしました。
温室が見えて来ました。小林さんが勢いよくドアを開けます。まだ闇に沈んでいる蝶の温室は、真夜中のジャングルのように静まり返っていました。
「奥の小部屋です。」
小林さんが一声叫んで飛び込み、続いて、先生、少年たち、門野さん、そして最後に私と宮埜さんという順に駆け込みました。
部屋に入るや否や、私は息を飲んで立ちすくんでしまいました。細い悲鳴が上がり、宮埜さんの体が大きく傾きました。かろうじて彼女を抱きとめ、もう一度床の上に倒れている少年を見ました。蝋人形のように真っ白な顔をして、仰向けの姿勢で倒れているのは、小林さんでした。
いえ、違います。これは、小林さんではなく『オカダ』という偽物です。一昨日、私がここで言葉を交わした人物、私にアカムシバナを見せ、そして、おそらく宮埜さんを誘惑した奴です。
「いったい何があったんだ?」
明智先生が、小林さんに問い質すように訊ねました。
「・・・僕にもよく分からないのです。」
小林さんもまた、血の気の失せた顔でオカダを見つめています。それは何とも異様な光景でした。こういう光景を眼にすることは、部屋に入る前から予想していました。しかし、いざ目の当たりにすると混乱しそうになります。双生児のようにそっくりな人間が二人、しかも一人が倒れ、その傍らにもう一人が立っているという図は、死体と、肉体から遊離した魂のように見えました。
「部屋に入ると、この長椅子に彼が座っていました。」
皆の視線を一斉に浴びた小林さんが、話し出しました。顔はまだ青いままですが、口調は明晰で冷静なものに戻っていました。
「僕が、『君は誰だ?オカダなのか。』と訊ねると、彼は『お前こそ、誰だ。』と訊き返してきました。『僕は、明智先生の助手をしている小林というものだ。』と答えると、彼は『小林は俺だ。』と言いました。『何を言っている。君は偽物じゃないか。』と言い返すと、彼はふっと笑って、『分からないのか。思ったよりぼんくらだな。やはり、俺の方が探偵としての技量は勝っているってことか。つまり、俺の方が本物の小林少年に相応しいということだ。今日から俺が小林になる。消え去るのはお前の方だ。』そう言って、いかにして僕と入れかわったのか、得意そうに話し始めました。しばらく、調子よく話していたオカダの表情が、突然さっと変わりました。眼が吃驚するほど大きく見開かれ、呼吸が荒くなり、まるで何かの発作を起こしたみたいでした。そして、いきなり立ち上がると、『やめろ、これ以上俺に近づくな!』と絶叫して両肘で顔を庇うようにしました。そのまま二、三歩ふらふらと歩いた後、仰向けに倒れました。駆け寄って声をかけましたが、完全に意識を失っていました。」
「・・・を見たんだわ。」
門野さんが何か呟きましたが、よく聞きとれませんでした。
「大丈夫、脈は正常だ。だが、意識がないのが気掛かりだな。」
オカダの頸動脈に指を当てていた先生が宮埜さんを振り返りました。
「電話は母屋ですか?すぐに救急車を呼んでください。」
「待って!」
声をかけると、ふらつきながらドアから走り出ようとした宮埜さんが立ち止まって振り返りました。
「中村警部が裏門の近くに待機しています。警察の車が使えないか頼んでみて下さい。その方が救急車を呼ぶより早い筈です。」
宮埜さんは真っ赤に充血した眼でこっくり頷くと、部屋から出ていきました。
後に残った者は言葉もなく、倒れたオカダの顔を呆然と見つめるばかりです。
「おや、これは、いったい何だろう。」
明智先生がふと呟きました。自分の指を見て、首を傾げています。そして何を思ったのか、もう一度オカダの上に屈みこむようにして、オカダの青みを帯びてみえる閉じた瞼、そこから耳の前を通って首筋にかけてを指でなぞるようにしました。
「これは、・・・鱗粉?」
「えっ?」
訊き返そうとした時、再び部屋のドアが開きました。先程出て行ったばかりの宮埜さんと、怯えきった表情の彼女をエスコートするように寄り添っている、黒ずくめの服を着た長身の男が立っています。男は、凍りついたように立ちつくす私たちに向かって、舞台俳優のような仕草で一礼しました。
「麗しいご婦人に庭でお会いしましたのでね。思わずお連れしてしまいましたよ。」
「・・・二十面相だね。」
先生が静かな声で言いました。
「もちろん、それが素顔かどうかは知らないが。」
思わず門野さんの顔を見ました。門野さんは黙って頷きました。
二十面相!
やはり現れたのです。早く、はやく捕まえなくては!と思うのですが、なぜか指一本動かすことが出来ません。二十面相も、捕まることなどまったく念頭にないように、悠々と私たち一人一人を見回し、最後に床の上で倒れているオカダを見ました。それから、その足許に立っている小林さんに、
「君の勝ちか?」
と、尋ねました。
「偽物が本物に勝てるなんて、そんなことはありえませんよ。」
二十面相の唇が片側だけ捲れ上がりました。
「それより、二十面相。すぐに彼を病院に運んだ方がいい。」
「それには及ばない。俺が連れて帰る。」
先生の言葉に、二十面相は冷笑のまま答えました。
「この少年は俺が作った。つまり俺の作品だ。残念ながら、失敗作のようだったが。」
「そんな、酷い!」
悲鳴のような声が上がりました。
「おお、チンピラ隊の一人かと思ったら、笙子さんじゃないか。その恰好はなかなかよく似合っている。だが、『酷い』とは奇妙なことを言うね。小林君を檻から出したのは君なんだろう?こうなることは、承知の上じゃなかったのかい?」
門野さんの顔が真っ青になりました。
「まあいい。君には随分世話になった。彼の脱走を手伝ったことを差し引いたとしても、退職金は弾まないといけないね。」
「オカダさんを、どうしようっていうんですか?」
「どうしようもこうしようもない。失敗作は回収するだけだ。」
二十面相はオカダを抱き上げました。非情な言葉とは裏腹に、その動作はひどく優しく、まるで恋人を抱くように見えました。
オカダを肩に担ぎ上げると、二十面相は姿勢を正して先生に向き直りました。
「明智君。小林君は素晴らしい少年だ。類まれなる希少な宝だ。これからも君の片腕として、大いに活躍してくれることだろう。せいぜい大事にしてやってくれたまえ。」
「そんなことは君に言われるまでもない。」
「これは失敬。」
二十面相はまた皮肉な笑いを浮かべました。
「二十面相。僕からも頼みがある。その少年を助けてやって欲しい。」
「ずいぶん、優しいんだな。」
二十面相が猫のように眼を細くしました。
「違うのか。君にとって、その少年は何者にも代えがたい大切な存在なのだろう。僕にとって、小林君がそうであるように。」
二十面相は、やや不自然な程長い間、先生の顔を見返していました。まるで、解けない謎があって、その答えが先生の顔の中にこそあるとでもいうように。やがて、二十面相は我が意を得たりというようににやりと笑うと、今度は宮埜さんに向かってこう言いました。
「僕はとんだ失敗をしてしまいました。ですので、例の品を頂くことはきっぱりと諦めようと思います。それからもう一つ、御忠告を。あれらは、あなたが思っておられるより、ずっと危険なものだ。第二、第三の僕のような者が現れないとも限らない。だが、それ以上にあれらの存在そのものが危険なのです。あなた一人の手に負えるものではない。なるべく早く処分された方がいい。」
謎のような笑みと言葉を残し、二十面相は入ってきた時と同様に、音も立てずにドアから出て行きました。
ドアが閉まると同時に、門野さんが膝から床に崩れました。思わず、その肩に手を置くと細い身体がぴくんと震え、やがて押し殺したような嗚咽が切れ切れに聞こえて来ました。
気がつくと、私の眼からも涙が流れていました。どうして涙が出るのか、自分でも分かりませんでした。
長い夜が、ようやく明けたようです。部屋が徐々に明るくなって来ました。
ふとどこからか、かすかな翅音が聞こえたような気がしました。二十面相がドアを開けた時、隣の温室から紛れ込んだのでしょうか。一昨日私が覗き見をしたあの窓ガラスに、青い大きな蝶が、朝の光に翅を透かせるようにして、ひっそりととまっていました。
最終章 蝶の刻印
銀座通りを一本入った立地にあるフランス料理店『ルーベール』は、仄暗い典雅な灯りのもと、笑顔と和やかな会話に満ちていた。明智はコース料理を締めくくる珈琲を運んで来た笙子に声をかけた。
「どの料理も本当に素晴らしかった。店長に伝えてくれたまえ。」
「ありがとうございます。」
笙子は深々と頭を下げた。
「こちらのお店をご紹介下さったこと、どんなに感謝しても足りません。」
「小林君が、笙子さんには素晴らしい料理の才能があるから、ぜひ銀座の有名なレストランで働けるようにしてやって欲しいと、あまりにも熱心に頼み込むもんでね。」
「才能だなんて。こちらでは、まだ給仕と皿洗いばかりです。けれども最近ようやく前菜の下拵えを手伝わせてもらえるようになりました。と言っても、野菜や果物の皮剝きばかりですが。」
「これからは、女性のコックさんも大勢出て来るわ。笙子さんはその先駆者ね。」
華やかな深紅のワンピース姿のマユミが、片目をつむってみせた。
「笙子さんも一緒に珈琲をいかがですか。」
小林が笑顔で言った。詰襟の学生服の金ボタンが、電灯を受けて眩く輝いている。店長の許可が下りたので、笙子もテーブルについて、話の輪に加わった。
「幸乃さんは先月、無事にご出産されたそうね。」
「ええ。とても可愛らしい、元気な男の子です。」
笙子はそう言って眼を細めた。
四人が顔を揃えたのは、あの温室での一件以来初めてだった。おのずと、宮埜家の事件の話題になった。
「事件から一か月程たった頃、予告状を送ったのは自分だと、警察に自首してきた男がいたそうですね。」
「以前、宮埜氏の研究室にいた人物だったらしいわね。でも、警察は相手にしなかったのでしょう?あの事件が、二十面相の仕業だったのは明らかなんだし。」
「大怪盗、怪人二十面相の名前を騙りたがる犯罪者は大勢いますからね。」
「そういえば、あの後すぐに宮埜夫人がご体調を崩されたとお聞きしましたけれど、大丈夫なのかしら。」
「ひどい幻覚に悩まされておいでね。今も、ご実家の近くの病院に入院されているそうだ。」
「幻覚?」
明智の言葉に、笙子が顔を強張らせた。
「蝶の群れが、絶えず自分の周りを飛び交っているのが見えるらしい。それで温室の蝶もすべて処分されたそうだ。」
「まあ、随分大切にされていたようですのに。」
「僕の友人に、空軍にいたのがいてね。過酷な空中戦を幾度も掻い潜って、九死に一生を経て復員したのだが、昼も夜も絶え間なく、飛行機のエンジン音が聞こえると言っていた。優秀なパイロットだったのに、未だに飛行機に乗ることも出来ないらしい。酷い暴力や折檻を受けて育った子どもが、長じてからも、幻覚や幻聴に苦しんでいるという例もある。」
「幻覚や幻聴は治るものなのですか?」
「治癒する場合もあれば、しない場合もある。不安や恐怖を取り除いたり、抑制したりする画期的な薬でもあれば良いのだろうが、これは今後の精神医学や、脳医学の発展に期待したいところだね。」
「そういえば、あのアカムシバナの成分には、宮埜さんが仰っていたような効能はなかったのですってね。」
「警察が押収した後、大学の研究室に回して調べてもらったのだが、結論はそうだ。永遠の若さを得られる薬など、しょせん夢物語だったんだよ。温室にあった他の植物についても、毒草という程のものはなかった。植物に多少の毒性があるのは当然だからね。だからこそ、宮埜さんご自身には法的な御咎めはなかったわけだが。」
「御主人の妄想だったってことでしょうか。宮埜さんはそれがショックで、体調を崩されたのでは?」
「・・・中村警部もそう言っていましたけど、それだけではないと思うわ。」
「えっ、どういうことですか。」
「何でもないのよ、笙子さん。」
つかの間陰った顔を、すぐに朗らかな笑顔に戻したマユミは、顔の前で手を振った。
「だけど、二十面相ともあろうものが、薬効の疑わしい植物をよく確かめないまま盗もうとするなど、私はいまだに腑に落ちないのですけれど・・・。」
マユミが、笙子の休みの日に二人で横浜に遊び行く相談をしたいと言うので、明智と小林は先に店を出た。銀座通りは人で埋め尽くされていた。広告塔のネオンサインが、浮足立った人々をさらに煽りたてるように、忙しない点滅を繰り返している。その上に、冷たく瞬く星々を浮かべた晩秋の夜空が広がっていた。
四丁目の交差点で、市電が通り過ぎるのを待っている時、どこからか白い蝶が飛んで来た。蝶の羽化の時期を決めるのは日照時間なのだという。日が落ちてからも、昼間の賑わいと明るさがいつまでも続くこの不夜の街では、うっかり暦を読み違えてしまったのだろうか。間違って生まれてしまった蝶は、秋の終わりの冷え込みに、今にも力尽きてしまいそうに見えた。木の葉のように落下する蝶に、小林がそっと手を伸ばす。信号が変わった。蝶が小林の掌から、ふわりと舞い上がった。先程よりも、いくらか力のある羽ばたきで、いずこともなく飛んでいく。
「君は蝶と意思疎通ができるようだね。」
蝶の行方を眼で追っていた小林が、明智を振り返った。
「君の生まれた島には、本土にはいない珍しい蝶がたくさんいたのだろう。」
長い睫毛が影を落とすオニキスのような眼で、明智をじっと見つめていた小林がにっこりと笑った。
「意思疎通なんて出来ませんよ。ただ幼い頃の僕には、鳥や獣、それから昆虫などの方が、人間より余程近しい存在だっただけです。」
「なるほど。宮埜さんの御主人が研究されていたのは、君の馴染みの方だったのだね。」
黙って自分の靴先に眼を落していた小林が、おもむろに顔をあげた。
「馴染みなどではありません。あれらの生息地はインドネシア諸島のごく限られた地域です。先生の蔵書の中にありませんでしたか。」
「祭の夜に、若者たちが蝶の鱗粉で化粧をする島の話だね。」
「やはり、ご存じだったのですね。書物にはそこまでしか載っていませんでしたが、あの話には続きがあるんです。若者たちの中には、その後何年たってもなかなか年を取らず、いつまでも若さと容色を保っている者がいたそうです。」
「・・・それをなぜ彼に施そうと?」
「あの夜、温室であれらが飼育されているのを見て、僕から二十面相へのこれ以上ないはなむけだと思ったものですから。」
明智の眼が細められた。
「ただ、鱗粉で化粧をした若者の全員が永遠に続く若さを手に入れたわけではありません。それどころか、意識障害を起こして倒れる者もいたのです。彼の体質がどちらなのかまでは分かりませんでしたが、もし効かないなら、山荘を出た時に持ち出した麻酔薬を使うつもりでした。」
小林が口許を綻ばせて明智を見た。
「でも心配は要りません。二十面相は、彼を助けた筈です。あの人には有能な医者がついていますから。」
コツコツという二種類の靴音だけが、しばらく響いた。
「しかしよく彼を打ち負かしたね。腕力なら、ほぼ互角だっただろう?」
「彼の能力については、事前に調べ尽くしていましたが、予想以上に手強い相手でした。ただ、彼には人を傷つけることへの躊躇があった。」
「それが彼の美点でもあったのだがね。ともかく、君は彼の身体の自由を奪ったうえで、重篤な副作用のある蝶を使った。すべて君の独断専行だったというわけだね。」
「ええ。二十面相が与えた僕への最後の課題は、山荘で一番親しかった笙子さんに本物だと思わせること、それだけでしたから。」
小林の眼の奥に、青白い焔が揺らめいている。その眼で彼は明智をじっと見つめた。
「期間は一週間。それに合格して初めて、僕を東京に連れて行くつもりだったようです。」
「なるほど。」
明智は笑って頷いてた。
「それが予想以上に巧くいったもんだから、いっそこのまま入れ替ってしまおうと思ったわけだ。」
「まあ、そういうことです。」
小林も微笑み返す。
「二十面相から事前に、あなたがある事件に関わっていて、助手の彼が張り込みをしていることは聞いていたので、山荘を出た後は直接そちらに向かうつもりでした。しかし、笙子さんと一緒に東京に行くことになってしまった。それで、とりあえず明智探偵事務所で彼女を預かってもらおうと、事務所に立ち寄ることにしたんです。その後、すぐに宮埜家に行こうとしたのですが・・・」
「マユミ君だけではなく、笙子さんまで一緒に行くと言いだした。」
「そうなんです。」
「さすがの君も困っただろうねえ。」
明智がさも愉快そうに笑った。
「そこまでは、怖いくらいに順調にことがすすんだので、まあ、それくらいのアクシデントは仕方がないかなと思いました。一応、想定内ではありましたし。それより、一番緊張したのは事務所に電話をかけた時です。最初に出たのがマユミさんではなくあなただったら、この計画は諦めるつもりでした。」
「それは君にとっては幸運だったいうべきなのだろうね。さらに、そこにマユミさんの錯誤が重なった。何しろ、本物の彼を偽物だと思い込んでいたのだから。」
「あれには面食らいました。マユミさんが、笙子さんに次ぐ第二の関門だと思っていたので。」
「つくづく君は運がいいよ。だが、悪運の強さも探偵に必要な素質だ。怪盗もそうだろうが。」
「そうでしょうね」
「あの夜、二十面相にも君は連絡をとったね」
「ええ。事務所に電話する前に。当初の計画より早いが、このまま入れ替わってもいいかと訊ねると、君の好きにすればいいと言われました。」
「驚いていただろう?」
「どうなんでしょう。さもありなんと思っていたような感じもしました。」
「二十面相は、僕が宮埜さんの事件に関わっていることは知っていたようだが、その詳細については殆ど知らなかった筈だ。あの僅かな時間に部下に情報を集めさせながら、自分は東京に来た君の動向を伺っていた。そして、温室であの大芝居を打った。君もそうだが、彼も名優だよ。」
「先生こそ。あの時の先生と彼のやりとりは、即興劇とは思えませんでしたよ。事前に打ち合わせをしていたのかと思ったほどです。」
「まさか。」
明智が微笑んだ。
「それは冗談ですが。」
小林も笑った。
「ところで、先生が、宮埜夫人が本当に護りたかったのは、植物ではなく蝶だったことに気付かれたのはいつですか?」
「温室で、昏倒した彼の様子に不審な点があったからね。もしやと思った。さらに事件後、夫人が蝶を全て処分したという話を聞いて合点がいった。そこで、宮埜氏の元同僚に会って確かめた。夫人はもちろん、夫君が研究している蝶に危険な副作用があることをよくご存知だった。宮埜氏は、薬効のみを精選する研究をしておられたのだが、志半ばで倒れた今となっては、ただの毒蝶だ。毒蝶を飼育していることを世間に知られるのは困る。しかも、非正規なルートで国内に持ち込んだものでもある。だが夫の形見には違いない。いずれ誰かが、夫の志を継いでくれるという期待もあったかもしれない。だから手放したくないし、まして悪漢に奪われるなどもっての他だ。そこでアカムシバナの話をでっちあげて、護衛をしてもらおうと考えたんだ。」
「二十面相が有能な医師団を総動員して、その志を継いでくれますよ。元々、二十面相が、あの少年のレプリカを作ろうと思ったのは、あなたを陥れるためだけじゃない。僕と入れ換えて、代わりにあの少年を手元に置きたかったからです。二十面相にとって、あの少年こそ唯一無二なんです。しかも、その彼が永遠に若く美しい姿のまま留まることが可能なら、彼にとってこれ以上の歓びはないと思いますよ。僕にはよく分からない話ですけど。」
小林はそこで、ちらっと明智を見た。
「嫉妬しませんか。」
「嫉妬?僕が誰に?」
「いや、何でもありません。」
二人は、雑踏に流されながら歩いた。しばらくして小林が再び口を開いた。
「先生は、初めて僕に会った時から気づいていらしたのでしょう?」
「ああ、あの時君は、庭師に化けた僕を一目で見破ったね。マユミ君ですら、直ぐには分からなかったのに。」
「昔から勘だけはいいんです。」
「そして悪運も強い。」
「そうかもしれません。」
「君を見ていると、悪魔ですら味方するような気がするよ。」
「それはどうでしょう。でも、確かに僕は昔から化け物には好かれていたみたいですよ。蝶や鳥より、むしろね。」
二人はまた沈黙した。夜が更けるとさらに寒さが増してきた。凍てつく空気の中、ネオンライトはいっそうその輝きを増すように見えた。ようやく小林が口を開いた。
「ねえ、先生。」
「なんだい。小林君。」
「先生は、なぜ僕をお選びになったのですか。」
「不思議かい。」
「ええ。そして今もお傍に置いて下さる。その理由が僕には分かりません。」
「君はこの五か月間、一度も僕を裏切ったことはないだろう。」
「もちろんです。」
「それに、君は探偵としても、少年たちの指揮官としても、申し分のない程優秀だ。こんな少年は二人とあるまい。」
「でも僕は、かつてあなたの傍にいた彼のような純粋無垢な少年ではありません。顔を変えたかったのも警察の眼から逃れたかったからです。あなたはよく知っている筈だ。少年探偵を名乗れるような人間では、とてもないってことを。」
やや声を昂ぶらせた小林に、明智は慈しむような眼を向けた。
「小林君。僕の相手は、二十面相のような美や芸術をこよなく愛する紳士怪盗ばかりじゃない。もっと残虐非道な犯罪者たちも大勢いる。むしろ、そっちの方がずっと多いんだ。僕は、最近つくづく思うのだが、探偵という職業は、修羅の道を歩くようなものなんだよ。一人で歩くには、あまりに孤独で過酷な道だ。古今東西、探偵に助手や相棒がつきものなのは、何も便宜上の理由だけではないと思うね。」
「僕が、その相棒に相応しいと?」
「ああ」
明智は大きく頷いてみせた。
「初めて君と、宮埜夫人の庭で会った時、君は今まで監禁されていたとは思えない程、清々しかった。それなのに、真っ白なシャツに、どす黒い血痕をつけていたんだ。まるで蝶が翅を広げたような形のね。あれを見たとき、僕は思ったんだ。僕の、これからも続くであろう地獄巡りの道連れは、この少年をおいて他にいないんじゃないかと。昔から僕は、燃えたつ青白い熾火を内に抱えた人間に惹かれる性分なんだよ。」
小林は暫く固い表情のまま黙り込んでいたが、やがてふっと表情を緩めた。
「あなたが僕を選んだのは、今まであなただけを見ていたあの少年が、初めてあなた以外の誰かに心を奪われたことが赦せなかったからではないかと思ったりもしたのですが、とんだ勘違いでした。あなたは、そんな卑近な感情で動くような人じゃない。だからこそ、僕はあなたに惹かれた。あなたの傍で働きたい、そしていつか、あなたの目線の高さでこの世界を見たい、そう思ったのです。」
「では、お互い利害が一致した訳だ。」
「お互い、ですか?」
「もちろん」
「・・・しかし、僕はしょせん」
苦いものを吐き出すように言いかけた小林の言葉を、明智は遮った。
「僕にとっては君こそが紛れのない本物の宝石なんだよ。君は同志だ。この暗夜行路の行きつく先を、二人でじっくり見届けてやろうじゃないか。」
息を詰めて明智を見ていた小林がかすかに笑ったように見えた。滑らかな頬に、ネオンの色が映り込んでいる。それは、毒々しい人工の仇花だ。その色を打ち消すように、内側から沸々と、赤い血の色が立ちのぼって来た。
・・・ところで、小林君。君はもうお化けは見ないのかい。
子どもの頃から愛してやまない、私にとって生涯消えない刻印のような江戸川乱歩の「少年探偵団シリーズ」には、明智、二十面相、小林少年といった主要人物以外にも、鮮烈な存在感を放つキャラクターが大勢出て来ます。例えば、「黄金豹」の終盤、小林少年にハニートラップ?を仕掛けるネコ娘とネコ夫人、「悪魔人形」(原題は「魔法人形」)の半人間半人形の紅子さん、「奇面城の秘密」で、二十面相に寄り添う真珠の首飾りの女性などなど。なぜか、圧倒的に女性が多いのですが、何といっても、私にとってもっとも印象深いのが、シリーズ最終巻の「黄金の怪獣」(原題は「超人ニコラ」ですが、私はこちらの方で馴染んでいます)に登場する小林君の替え玉少年でした。小林君と瓜二つの容姿をしながら、明らかに悪の匂いのするこの少年に魅入られて、バックグラウンドをあれこれ想像しているうちに出来たのがこの作品です。元々はもっと長編で、彼の生い立ちから描いていたのですが、あまりに冗長なものになってしまったので、幼少期の部分を削除し、後半部分を書きなおしました。
オリジナルの小林少年は、もちろん唯一無二の存在。この物語に出て来るのは、彼がいなければ絶対に存在しえない人物です。にも関わらずのこのラストは、原作ファンであればあるほど、不快に思われるかもしれません。私も悩みました。まったく別のラストシーンも描き、読み比べてみたりもしました。それでもやはり、この物語の最後は、自分としてはこちらに載せたものなのかなと思うのです。それが是なのか非なのか、その辺りも含め忌憚ない意見や感想をお聞かせ下されば幸いです。