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9、ぜっくの今日子

   E


 アラームのけたたましさに起こされる前に今日子は目覚めた。手っ取り早く朝食を済ませ、一目散に学校へ向かった。

 ロッカーの前で朝間がとろとろと靴を履き替えていたので、今日子は明るく挨拶をした。

「おはよう朝間」

「あ……、早ぇーな今日」

 朝間はぎくりと振り返り、ぎこちない笑みを作った。

「ねぇ、茜と付き合うんだよね?」

「いきなりその話題かよ」

 朝間は呆れて顔をしかめる。

「そうなんでしょ? 付き合うんでしょ?」

 彼の態度を気に留めず、気が気でない今日子は探るように言い寄った。朝間は不自然に目を逸らし、辺りを気にすると、やんわりと今日子を責める。

「あんまりそういうこと、ペラペラ言うなよな」

「何嫌そうに言うの? 両想いじゃん」

 そうなるように書いたのだ。

「うん……」

 いつも馬鹿に元気な朝間なのに、やけにおとなしい。といっても、今日子にとってこの世界の彼とは初対面になるが。

「何かあったの?」

 また〝昨日〟想定外のことがあったのだろうか。今日子は疑り深くなる。

「んー……何も! 何にもない! テレビもぉーラジオもぉー、こんな村は嫌だなぁー!」

 朝間はいきなり体操をしながら適当に歌い始め、空元気に歩き出した。それはよくある行動だった。朝間はいつもふざけていた。今日子は半笑いだ。

「あ、ラジオといえばさ。お前昨日の回、聞いたか?」

 唐突に朝間は目を見開かせて振り向いた。

「何それ」

「えんじぇるすの」

 今日子はあっと思い出す。昨夜はえんじぇるすのラジオ放送があったのに、浮かれていて頭から抜け落ちていた。

「……ていうか、あんたもあれ聞いてたんだ?」

「はあ? お前早くもボケが始まって」

「んな訳ないでしょっ。それで昨日どんなだった?」

「実はな……」

 共通の趣味に会話が弾む。この世界では朝間もえんじぇるすのファンであるということに、やっと彼らの魅力を理解してくれたのかと今日子は嬉しかった。

 教室に入ると、今日子は即座に異変に気がついた。

 席が一つ減っている。ガラスにひびが入るように愕然とした。

「夕刻くんが、いない……?」

「俺ならいるけど?」

 夕刻が背後から現れた。

「はあ、よかった……」

 今日子はほっと胸をなで下ろす。

「ん? 何が?」

「ううん、いなかったから」

「俺は遅刻しないよ。できるだけ」

 彼はごく自然なウインクをする。アイドルに引けを取らないかっこよさだった。うっとりと見つめていると、彼は終夜の席に鞄を置いた。あんなミスをするなんて、思わず噴き出した。それから彼の席に安田(やすだ)という女子があくびを噛みしめながらのんびりと座った。

 ここで今日子は気づく。席が一つ減っている。教卓の上の座席表を見る。そこには終夜静平の名前がなかった。

 他のクラスなのかもしれない。これまでもクラスのメンバーの違いが実はあったので今回もそれが起こっているのだろう。まだ朝礼には時間があったので、二組と三組の教室をさりげなく覗いた。席は五十音順だからすぐわかる。

 しかし、背が校内一高い彼の姿はない。あの黒い壁が見当たらない。

 今日は休みなのかもしれない。そう納得して一組に戻った。

 峰岸は出席を取る時、茜は体調不良で欠席だと言った。昔から茜は定期的に風邪をこじらせては休むので、今日子は大して気にしなかった。

 終夜がいるクラスを把握しておきたかった彼女は、授業終わりに峰岸に尋ねた。ところが峰岸は彼を知らなかった。

「一年生の内に全員の顔は覚えてるつもりだけど、そんなに背の大きい子は先生見かけたことないなぁ。それに終夜って珍しい名字だし、いるなら尚更印象に残ってると思うんだけど」

「そうですか……」

「もしかしたら不登校になってるか、転校してるかもしれないから、先生が聞いてきてあげる」

 わざわざ峰岸は調べてくれた。結果、その男子は最初からこの山吹中に入学していないことが判明した。

 元の世界に夕刻がいなかったのと同じ。

 終夜だけがいる世界から、二人がいる世界。そして今は夕刻だけがいる世界。夕刻はネックラーのことを知らないのだ。

 今日子は同級生の姿を一人ずつ思い描いた。この前まで存在しなかった人が当たり前のようにいて、昨日まで当たり前のようにいた人がいない。それはとても怖いことだった。まるで終夜静平という少年の存在を、この世界の全ての人々がもみ消そうとしているかのようで。魔法の消しゴムか何かで跡形もなく。そして空いた席を代わりに突如現れた夕刻が居座っている。別にそういう訳ではないのに。

 今日子は気を落とす。そんな彼女にさらにショックを与えたのは、他でもなく夕刻だった。

 下校途中、彼は今日子の行き手を遮り、もみあげをいじりながら言った。

「月曜日、学校帰りにさ、一緒に墓参りしない?」

「え?」

「シューヤの。命日だからさ」

 今日子は言葉を失う。

「ごめん、一緒に来て。じゃないと今年も泣きそう」

 夕刻は自身に語りかけるように言った。後ろに広がる空には彼の心情を表しているかのように、薄くちぎれそうな雲が絨毯のように広がり、緩やかなカーブを描いていた。

「……ウン」

 今日子は表情をその空と同様に曇らせ、か細い声で答え、頭を垂らした。


   E


 約束通り、今日子はこの世界にとどまった。終夜が眠っているという墓は高台にあり、眺めのいいフェンスの向こうには街を分かつ横一直線の川が見えた。髭川(ひげがわ)だ。緑山(みどりやま)から流れてくる風神川(ふうじんがわ)が枝分かれしたのがあの川だ。真上から見れば、竜の髭のようにうねっているらしい。

 夕刻はバケツに水を三分の一ほど入れて運ぶ。墓には白菊の花束と線香が添えられていたが、ロウソクの火は消えていた。

「もうお母さんが来たのかな?」

 夕刻が言った。墓には『終夜静平之墓』と掘られている。彼は線香にかからないようにゆっくりと水を墓の頭にかけ、しゃがみ込んで手を合わせる。しばらく目を閉じていると、スンと鼻をすする。開けた目は充血していた。

「あはは。駄目だ、やっぱり涙出るわ」

 夕刻は頬ごともみあげを触り、立ち尽くしている彼女を見上げて空笑いした。今日子もほのかに微笑む。

 彼のように悲しくなれずにいた。死んだという事実を突きつけられても、この目で終夜が生きているのを見ているから。

「もう二年になるんだな。早いな」

「うん。小学……、六年生だよね?」

「うん」

 中二の今でも、見かけは変わらないんだよ――心の中で彼女は言葉を投げかけた。

 帰り際、今日子は墓地の入り口手前で止まった。

「ねぇ」

「うん?」

 振り返る夕刻。

「もし、あたしが違う世界の人間だったらどうする?」

 今日子は上目遣いで問いかける。

「違う世界?」

「うん。それでいろいろと違う世界に行ってる」

「あはは、どうやって?」

「日記」

 夕刻から笑顔が消えたかと思いきや、また優しい微笑みを浮かべた。

「魔法の日記帳?」

 よかった。彼は知っている。彼は冷静だ。

「持ってる?」

「いや持ってないよ。確か初版で絶版になって、ほとんどを文房具一家が処分したんじゃなかったかな? ああ、この世界ではさ。マヒロの世界では違うのか?」

「わかんない。でも文房具屋のおじさんは売ってくれたから。信じてくれる?」

 夕刻は頷く。

「でもよく売ってくれたな? そっちではブラックツールじゃないのか?」

「ブラックツール……?」

「じゃあないのか? まぁでも、そっちではちゃんとした作りになってるのかもしんないし……。でも何で? どうしてこのタイミングで?」

「あたしの世界には夕刻くんはいないの、最初から。転校してきてないから。でも日記を使ってた途中で夕刻くんが出て、それから今のところは他の世界にもいて」

「……シューヤは?」

 じゅくじゅくとした傷を恐る恐る触れるように、夕刻は尋ねた。

「あたしの世界にはいるよ。次の世界にもいたし。夕刻くんの前の席に終夜がいて。でも途中、あたしと同じ魔法の日記で他の世界から夕刻くんに会いに来たっていう終夜と会ったんだよ」

「それって……」

 夕刻の顔色が困惑へと変わる。

「そいつの世界では夕刻くんは死んでて、それで僕が殺したって」

 彼は青ざめていた。

「教えてくれなかったから。……何が、あったの?」

 真相を尋ねられるのは今しかないと思った。

 夕刻は呆然と目を彼女から逸らす。ほどなくして、彼は消え入りそうな声で途絶え途絶え言った。

「おんなじことを……、考えてた……」

 夕刻は重い足取りでフェンスに寄りかかる。今日子はそっと近くに。夕刻は深呼吸を繰り返した。呼吸をやめれば心臓が止まりそうなくらいに、彼の表情は氷のように張り詰めていた。指はもみあげから口元に下がる。唇をわななかせ、彼は言う。

「俺も……、あいつを殺した」

 今日子は息を詰まらせた。

「助けなきゃならなかったのに……、助けられなかった……。なんで俺だけ生きてるのか……、ずっと、考えてた……」

 渇いていた涙がまた目を潤ませていて、視線が震えていた。

「そっちの世界では、大雨降らなかったか……?」

「二年前?」

 頷く夕刻。

「こっちの世界では、まだ梅雨じゃないのに大雨警報が出てた。シューヤは、俺の知らないところでまだいじめられてたみたいでさ。何かあったら内緒であげた輪ゴムを使えって言っておいたんだ。そうすればいじめる奴らも逃げるだろうって、俺は単純に考えてたんだ。でもあいつは、輪ゴムを使ったところでそいつらが先生にチクッて、逆に俺や自分自身が責められるってわかってたんだろうな。それにせっかくもらった輪ゴムをそいつらに取られて、余計に怖い目に遭うのも。

 ……だからあの日も、何もできなかったんだ。川が氾濫はんらんしてたのに、そこでシューヤは逃げることもできないで、そのまま取り残されて、川に流されたんだ。いじめていた奴らは、助けを呼ばないで逃げた」

 今日子は黙って聞いていた。終夜は逃げることをしない奴だった。ひたすら終わるのを待つだけで。大雨もいつかやんでくれると信じていたのだろうか。

「たまたまだったんだ、俺がそこに居合わせたのはさ。ただ助けなくちゃって思いで、俺も川に飛び込んでた。案の定、俺も流されてさ。水は汚くて濁ってて、目も開けていられない。息だってできなくて。でも腕は掴めたんだ、ちゃんとこの手で……、掴んでたんだ……」

 力強く握る右手は小刻みに震えていた。

 荒ぶる川の中で確かに掴んでいた終夜の腕は、目を覚ました時にはなかった。

 何度も虚ろな目で宙を探った。何も掴められない。意識がはっきりしてくる内に、絶望が波になって押し寄せてきた。腕がこの指から引き剥がされる瞬間が、親友を奪われた瞬間が蘇った。

 学校内を歩いた。彼の名前があるんじゃないか、すぐにでもあいつが見つかるんじゃないか。それで、やあシューヤ、生きてたか! なんて、けらけらと笑ってみせるのだ。あいつもクスクスと笑ってくれるだろう。高校に進学した頃には武勇伝になっているに違いない。

 そう信じて疑わず、屋上へ辿り着いた。ここがゴールだった。

 しまった。知らぬ間に行き違ったのだ。もう一度、学校内を歩いた。屋上へ辿り着いた。

 あれ。おかしいなぁ。あれ。ここは学校じゃあなかった。ここは病院だ。

 一体あの大雨はどこへ行ったのだろう。雲一つ消えてしまった空は目に突き刺さりそうに青く広がっていて、瞳さえその色に染まってしまいそうなほど、吸い込まれそうになった。

 なるほど。あいつはあそこに吸い込まれてしまったのだ。竜の髭に足を取られ、さらわれてしまったのだ。どんなに腕を伸ばそうとけして届くことはない、あの青い天井の彼方へ。


 シューヤは死んだ。


 笑いが込み上げた。勝手に顔が笑うから、その筋肉を止めようと両手でぐちゃぐちゃにしてやる。

 ぐぐぐ。ぐぐぐ。

 笑いは指の間からすり抜ける。

 ぐぐぐ。ぐぐぐ。ぐぐぐ、ぐう。

 よだれがこぼれ落ちる。鼻筋が熱くなる。笑えば笑うほど、苛めていた奴らと自分に対して汚い暴言を吐いた。髪を引きちぎった。顔をかきむしった。

 自分が妬ましい。生きている自分が妬ましい。

 看護師が止めに入った頃には何も言うことがなくなり、喉を潰すほど泣くしかなかった。その声さえもあいつには聞こえないのだろう。俺もあいつの声が聞こえない――

 大粒の涙が夕刻の右目からポタリと落ちる。

「あの終夜は逆だったんだね……」

 ようやくできた友だちが簡単に失って。それでBの世界の終夜の心はひん曲がってしまったのだ。本当は心から優しい表情で笑えたのに、あの終夜はそれが不可能になってしまったのだ。

「ただ助けるだけじゃ駄目だな……。ちゃんと二人で助からなきゃ……。その世界の俺もまぬけだなぁ、死んじゃうなんて……」

 無気力に笑う夕刻。氾濫してしまった涙は止まらない。ぼたぼたと落ちた。

「二人とも生きてる世界はあるのにね」

「それだけが救いだよなぁ……」

 空を見上げ、鼻をすする。えへへ、と笑う。これ以上、どんな言葉をかけて慰めればいいのか。彼を泣かせてしまって、今日子はやるせなくて、いたたまれなかった。

「俺がいなくて、そっちのシューヤはどうなんだ……? 友だちいるのか……?」

「あたしの世界……? いない、と思う……」

「そっか……」

「でもあたし、何で終夜がいじめにあってたのか全然わかんないんだけど……」

「ああ、マヒロは知らないのか……。あいつのお母さん、中国人なんだ」

 初耳だった。

「小学校に入るまでずっとお父さんの仕事関係で中国にいたんだって。あまり家に帰って来なくて、それでお母さんがあまり日本語をしゃべれない人だったからシューヤも慣れてなかったんだって。あいつ日本人と見かけ変わんないだろ? それでいてみんなよりも背が高くて、ランドセルも背負えないから『大人のくせに日本語しゃべれない』って馬鹿にされてたんだってさ。別にみんなよりも早めに大きくなったってだけなのに。言葉だって、みんな最初はうまくしゃべれてないのにさ。そうだろ?」

「うん」

 なぜ彼が終夜と仲良くしていたのか。今日子はわかった気がした。お互いひとりぼっちだったからだ。日本の学校に転校することになって、不安でいっぱいで、そんな中、同じ目をしていた終夜。似た者同士、寂しさを分かち合おうとしていたのだ。

「何でだろうなぁ……? なんで……」

 それは独り言。

「ごめん、夕刻くん……」

「いいんだよ別に。知らないことを知りたいって思うのは当たり前じゃないか」

「大人だね」

 おかしなことを言ったつもりはないのに、夕刻は声を殺して笑った。彼は手招きする。今日子は一歩手前まで近づく。

 夕刻は両手を伸ばして彼女を引き寄せ抱きしめた。今日子は全身を緊張させ、つま先まで動けなくなる。石になる魔法にかかったようだった。肌寒かったのが一瞬にして熱くなり、胸が苦しくなった。

「この世界のマヒロには内緒」

「そ、そっか、つ、付き合ってるんだ、っけ?」

「お墓の前で不謹慎だけどな」

「う、うん」

 墓石の一つ一つがこちらを向いているように錯覚する。それでいて見えない幽霊たちがこの様子を見ているんじゃないかと思うと恥ずかしい。全身から汗が噴き出しそうだ。

「やっぱりどの世界のマヒロもマヒロだ。全然変わんない」

「そう……?」

「そっち、まだ俺とは出会ってないんだっけ?」

「う、うん……」

「てことはそっちの俺はまだアメリカにいるのか……。なあ。マヒロは元の世界でも俺に会いたいか?」

「え?」

「それだけ聞きたい」

 今日子は予想していなかった質問に戸惑った。確かに、元の世界の夕刻は最初から存在しないと決まった訳ではない。

「あ、会えるなら……」

 夕刻は彼女の両肩を掴み、まっすぐ見つめる。

「魔法の便箋。アメリカのじいちゃんからもらったやつ、一枚だけ持ってるんだ」

「何それ?」

「〈ワールドメール〉。〈国境のない便箋〉だの〈密告便箋〉だの言われてる。送る相手さえ理解していれば、ポストに入れるだけで別世界の郵便受けにだって届くんだぜ?」

「そんなのがあるんだ?」

「それでそっちの世界の俺に手紙を出す。同じ夕刻未来なら、きっとマヒロに会いたいって思う。同じ便箋を持っているとするなら尚更、こっちの言うことを信じてくれる。今すぐって訳にはいかないだろうけど、高校大学ってチャンスは何度でもある」

 自分の世界の夕刻くんが、会いに来てくれる。それは願ってもないこと。それなのに、今日子は何だかはっきりとは頷けられなかった。彼の気持ちはとても嬉しいはずなのに。こんなに胸がドキドキしているのに。

「ちょっと考えていい?」

「いいよ。だってこれって運命を変えることだし。マヒロの世界だからさ、今の話はただの俺の理想」

 理想。

「明日ね、明日言うから」

「あはは、そんな焦らなくても」

 夕刻はまたいつものように明るく笑ってみせた。初めて出会った時と同じ笑みだった。違っていたのは、口元に小さな一筋の傷跡が残っていたことだった。親友の死を笑った愚かな唇をもぎ取ろうとした痕跡だった。


 一晩中、悩んだ。

 魔法の便箋で運命を変える。元の世界でも夕刻に会いたい。

 でも。

 せっかくのそれを、自分のために使っていいのか。たった一通のみ。異世界の運命も変えることができる手紙。もっと有意義なことに使わなければ……。

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