7、ぎゃくじょうの今日子
D
今日子はどんな展開が待ち受けているのだろうかとワクワクしながらオレンジ階段を駆け上がっていく。いいタイミングで左の道から夕刻が現れてホッとした。彼はこの世界にもいる。彼は太陽の笑顔を見せてくれる。
「おはようマヒロ!」
二人で通学。こそばゆい胸の高鳴りを悟られまいと俯く。左側に歩く彼のスマートな脚が見える。だらだらとしない、靴底を擦らない、きれいな歩き方をするなあと今日子は思った。性格は歩き方に出ると信じている彼女にとって、夕刻はまさしくパーフェクトな人種だった。
そんな彼と同じ直感派。一昨日の彼の言葉を思い出すと、自然と口元がほころぶ。あの言葉はちゃんとその日の日記に書いて――
今日子は思わず「あっしまった!」と声を出してしまい、夕刻は目を丸くする。
「どうしたんだマヒロ?」
「う、ううん、なんでもない。忘れ物したかなって思っただけ」
「え、じゃあ一旦帰るか?」
「大丈夫大丈夫! ちゃんと持ってる」
動揺を無理やり胸に押し込めた。しくじった。昨日は書かなかった。終夜の説明通り、前のページは無効になるというルールなら、この世界の彼は例のセリフを口にしていない可能性がある訳だ。なんてことだ。今日子は愕然と頭を垂らし溜め息を漏らす。
「やっぱり戻る? 走ればまだ」
「大丈夫!」
今日子はのっしのっしと勇ましく坂道を上った。
口元が鬱血して青くなっている朝間が机の上でだらしなく脚を組んでいた。傍では茜が彼の怪我を祈るように見つめていた。
「まだ腫れてるね。痛い……?」
「べっつにぃ」
朝間は素っ気なく、自身の指に絡めたオレンジ色の輪ゴムをいじるのに夢中だ。一見ただの輪ゴムだ。オレンジはメジャーな色であるから、黄色がレベル2ならそれはレベル1なのだろうか。誤射して机が吹っ飛んだり、人が大怪我をしたりしないか不安にさせられる。そもそも魔法の文房具がこの世界にはあるのかどうか……。
「ご飯とか平気?」
「俺は子どもじゃねーよ」
ツン、としかめ面をする朝間。
「なんか、仲良くやってるな」
夕刻は今日子に耳打ちして自分の席に向かう。今日子は二人の様子を不思議に感じた。茜があんなに親身そうに朝間の傍にいるなんて、今までなかったことだった。昨日お見舞いに行けなかったことを悔いているのだろうか。
それはない。だって朝間は入院していないのだから。そういう世界になっているはずなのだ。単純に茜は小学校からの馴染みとして気にかけてやっているだけ。彼女は優しい女の子なのだ。
終夜が教室に入ってきた。いち早く夕刻が声をかけた。
「よう、おはようシューヤ。前髪切った?」
「うん」
終夜は席に着く。今日子の視線に気づいた終夜は今までになく優しい目を向ける。
「なんだい?」
「ああいや、おはよう」
笑ってごまかすと、終夜も微笑み返して鞄から筆記用具や本を取り出す。
昨日と全然違っている。Bの世界の終夜よりも表情に柔らかみがあり、さっぱりとした雰囲気だ。同じ夜の国の王子でも、雲ひとつない満月の夜か、曇天の新月の夜かくらい違う。それだけ心に余裕があるのだろう。夕刻がいるかいないかで性格が左右されているらしい。
人間関係って大事。納得しつつも、ひとまずは席に座り、鞄に手を突っ込む。すると、中に『二階建て空中楼閣のF』という見知らぬ本が入っていた。空に浮いている一軒家の屋根に天使が立っている表紙で、図書室のシールが貼られているが心にもない。しかし挟んであったしおりは間違いなく昨年の文化祭で作った、押し花を和紙に貼りコーティングしたしおりだ。
自分が借りたのだろうか。この世界ではそういうことになっているのだろう。
少し怖くなった。やってもいないことをやっている自分。この世界で生きている、もう一人の真午今日子。
笑い声が行き届く教室。
賑やかしい廊下。
先生の注意。
階段。
校庭。
登校してくる生徒。
町。
空。
見慣れたもの全て。
はたして同一なのか。ここはいわゆるパラレルワールドであって、自分の世界ではない。
しかし。だとすれば、この世界の自分はどこへ行ったのだろう?
峰岸が来て、朝間はずるりと机から降りた。あいつがどんな感じなのか、今日子は何となくざっくりとした質問を茜に投げかけると、彼女は不意を突かれたかのように驚き、はにかんだ。
「あ、うん。怪我ならもう平気みたい」
頬を桃色にして、言葉尻をか細くさせた。峰岸が、これから日が落ちる時間がもっと遅くなるが、帰宅時間まで遅くしてはいけないことや、塾で夜遅くなる子は必ず人通りが多い所を行くよう呼びかけている。その間、茜はまた祈りを捧げているかのような、神妙な面持ちでいた。
昼休み。今日子と茜は校庭の石のベンチに腰かける。茜はスケッチブックを広げてラフ画を描く。彼女曰く、ピアノの教師が表現力を養うためだとか言って勧めたことだという。
今日子は鞄の中にあった本を開いた。しおりは後半部分にあったが最初から読み始めた。返却期間に間に合わないだろうから、放課後にでも一旦返却して借り直すことにした。近年出版されたもので、なんとあのえんじぇるすのベーシスト、オギが主人公の小説だった。作家名こそ違うが、おそらく彼がこの本を執筆したのだろう。ラジオ番組で作詞だけでなく小説を書くことにも挑戦したいと言っていたし……。それにしても、バンドメンバーを登場させるにしても内容があまりにもフィクションだった。まあ、オギは自叙伝ではなくエンターテイメント性のあるものを書きたかったのかもしれないが、ファンである今日子は少しがっかりした。
たまに親友のスケッチブックを覗き込むと、そこには校庭ではないものが描かれている。いつも茜はありのままの風景をスケッチしようとしない。そこから浮かぶイメージをひたすら抽象的に絵にするだけだった。色づかいも、今日子に言わせてみればピカソのように斬新の一言に尽きた。
茜は手を止めた。
「ねぇマヒロ!」
「なに?」
「あ……」
絵から目を放さない茜の頬がぽっと赤くなる。
「あ、あのさ。朝間くん、なんて言ってた……?」
「何が?」
「エッ、ちょっと!」
茜はトマト顔を向けた。
「あたしのことどう思ってるか聞いてあげるって、マヒロ言ったじゃん!」
「あたしがっ?」
今日子は素っ頓狂な声を上げる。そんな約束した覚えが――いや、約束はしていたのだ。この世界の真午今日子が。
「もぉーっ、マヒロの嘘つき。無駄にドキドキしちゃったでしょ。針千本飲ましちゃうんだからねー」
茜はふくれ面になり、ますますトマトみたいだ。
「でもなんで朝間なん? どう思ってるって……?」
この世界の流れが読めない今日子は不覚にも尋ねてしまう。
「もう馬鹿。だからあたしが、き、気になるから。マヒロだから言えるんだからね!」
「えっ、そそそ、それって好きってこと?」
「ああバカッ。大声で言わないでッ」
「ゴ、ゴメン」
今日子は肩を縮こまらせる。
「ほら一昨日。あたしが高校生に無理矢理ナンパされた時、たまたま朝間くんが通りかかって助けてくれたから。あんなに必死であたしのこと守ってくれるなんて、初めてだったし……」
どうやら朝間が助けたという〝友だち〟は、この世界では茜になっているらしい。酷く怖い思いをしただろうに。どれだけ怯えて震えていたか考えるだけで抱きしめてやりたくなった。もし自分がその場にいたなら自分が守ってやったのに。
「何というか、ドラマみたいなこと現実にあるんだなぁって思った。相手はあの〈危険な輪ゴム〉を持っていて、それでも勇猛果敢に挑む。あたし朝間くんをすっごく見直した。あれが本当の朝間くんなんだって、本気で思ったの」
純粋な瞳を輝かせて熱弁する親友に、今日子は圧倒した。
「うん。なんかすごく本気なんだって伝わるよ」
「でしょ?」
「わかった! 親友のあたしが責任を持って朝間から茜のこと聞いてみる。なんてったってあたしは朝間とは保育園からの仲だからね」
「ありがとぉー!」
茜は胸を張る今日子の両手を強く握り、抱きしめた。今日子はそんな親友の乙女心が愛おしくなった。
「あ、でも百パーセントの期待はやめてよね。朝間の奴、結構鈍感だから」
「うん、わかった。でも期待しちゃうなぁ、女の子だもん。……って、似たような会話昨日もしたよね?」
今日子は苦笑いを浮かべた。
今日子は有言実行すべく、その日の放課後に朝間を手招きして校舎裏に呼び寄せた。
「何だよ?」
朝間は怪訝そうに眉間にしわを寄せる。できたてのかさぶたがむず痒いのか、口元を人差し指で引っかいている。今日子は辺りに誰も生徒がいないことを確認する。
「ちょっと聞くんだけどさ。茜のことどう思うん?」
「何なん?」
唐突な話にキョトンとする朝間。どうやら〝昨日〟の今日子はまだ彼に茜のことを聞いていないらしい。
「最近、なんか雰囲気というか、様子が変だとか、いろいろ思わん?」
「なーん、別に?」
鈍感マンめ。予想通りの反応を忠実にしてくれて、今日子は舌打ちをこらえる。苛立ちを通り越して呆れかえってしまう。
「だって一緒にいること増えたよね?」
「んー……、増えたっけかな?」
朝間はぼんやりとした表情で脚を交差させたり、つま先をぐりぐりしたり、腕を横にぐんと伸ばしたりしてストレッチする。
「要するに怪我心配してんじゃね?」
「まあ、それもそうなんだけど……」
肝心のところに気づいていない。感情のメーターが呆れから苛立ちへと傾き、気づけと言わんばかりに、彼女の拳も口調も力がこもっていく。
「だって必死で助けたんでしょ? きっとものすごーく感謝してるよ」
「感謝してるかどうかはともかくさ、お前の親友だから助けただけであって」
「は?」
今日子の片眉がぴんと跳ね上がる。どういう意味だ、それは。
「それにほら、小学校もおんなじだったし。あいつお嬢様かなんだか知んないけどさ。もうちっと男に気をつけるべきというかさ。もうすぐ暗いって時に街中ひとりで歩くとかおかしいじゃん。ピアノだかなんだか知んないけど……」
目線をあちらこちら移しながら、ところどころ口ごもりつつ、べらべらしゃべる朝間。今日子はますます腹が立ってきた。
「それはそうかもしんないけどさ。その言い方はおかしくない? 茜はすごく怖い思いしてんよ? それをあんたが助けてくれたんだから、好意ぐらい寄せるやろが」
「好意?」
朝間は目を丸くさせ、交互にしていた脚をもたつかせた。
「そーよ。イイじゃん、茜ってめちゃくちゃ可愛いし。あの子絶対にもててるよ。それをあんたなんかに好意寄せてんだよ」
「い、いらねーよっ」
朝間は声を尖らせた。
「俺は女友だちはいらねーのっ。マヒロだけで十分だ」
「はぁ? 何気持ち悪いこと言ってんの?」
「なっ」
朝間はかっと目を見開く。
「ああそうかよ。このブサイクマヒロ」
「ん何ぃッ?」
倍に言い返そうと思った矢先、ヒューヒューと歓声が沸いた。二階から同級生の男子らが首を伸ばしていた。
「おい朝間! ふられてやんの!」
「ひっひひひ!」
はやし立てられた朝間はぶるぶると耳を真っ赤にさせた。一瞬すぼめた肩を爆発させた。
「てめぇらぁーッ!」
取り乱した彼は右手首にあった白い輪ゴムを取り出して、野次馬に向かって発射した。大声を上げながらしゃがみ込む同級生たち。輪ゴムは校舎内には入らずに隣の窓に当たり、クモの巣状にヒビが入って白くなった。今日子はのけ反った。
「魔法の輪ゴム!? なんで持ってんの!」
「うるっさい! あほんだらぁ!」
校舎内では悲鳴が上がっていた。二階の別の窓から、終夜がこちらの状況を不安げにうかがっている。
「あっそうか、ネックラーの輪ゴムだ!」
今日子はBの世界の彼の言葉を思い出した。
「おい! 何やってんだ!」
教員たちが凄い剣幕で二人を怒鳴った。朝間は逃げ出そうとするが、とっさに今日子はその腕を掴んで引っ張った。
「何逃げようとしとれんて!」
「うるさいブサイク!」
今日子は突き飛ばされ尻餅をついた。「あ、やば」と朝間は言葉を漏らす。
「朝間ぁ!」
立ち上がった今日子は怒りで鼻を大きく膨らませ、勢いに任せて彼を殴った。身長が近いお陰で、見事に顔面右ストレートが決まった。上から女子の歓声が沸いた。
「いってぇ!」
「こんのッ、ふざけんな!」
今日子はもう一発拳骨を食らわせようと左手で彼の肩を掴み、右腕を振り上げるが、朝間は必死で抑えつける。
「おい落ちつけって! ごめんって!」
「真午! 朝間! やーめーんーかー!」
駆けつけた教員が仲裁に入った。




