5、きまぐれの今日子
終礼後、茜は今日子と終夜に一声かけてから教室を去った。茜と終夜は図書委員だ。
「じゃあ、夕刻くん。明日」
終夜は夕刻に軽く手を振った。ちらりと今日子の方も見るが、何も言うことなく茜のあとに続いた。何なんだろうと、今日子は怪訝な表情を浮かべていると、また夕刻がひょっこりと視界に入り話しかけてきた。
「マヒロ、一緒に帰ろう」
「えっ、ウン」
まさかの一緒に帰るお誘い。小学校が一緒だったのだから、通学路も大体同じなのだろう。何だか気まずいなぁと、今日子は目を泳がせる。
「どうしたの?」
「えーと……。えっと、そう! その前に」
今日子はいいことを思いつく。スカートのポケットから輪ゴムを取り出し、朝間に近づいた。
「何」
「くらえ!」
輪ゴムが朝間の額にバチッとヒットした。
「いってぇ!」
「逃げろ!」
今日子は邪魔な席を左右に押し出しながら教室を飛び出し、朝間は額を赤くして怒った。
「てんめえ!」
「あっはは! 不意打ち食らったな!」
夕刻は可笑しそうに彼女を追いかけた。
「光が来るぞ光が!」
はしゃぐ夕刻。階段をばたばたと下りて、靴を素早く履き替える。
「急げ急げ」
昇降口を出てからも走っていた。朝間は追いかけてこない。それでも今日子は息を弾ませながら速度を緩めなかった。もし走るのをやめれば、わざわざスピードを合わせてくれていると思われる夕刻が会話を始めようとするに違いなかったからだ。
横切っていく緑の並木。風を感じる。風に向かって突進しているみたいだ。
いつもの坂道の前では足を止めた。さすがに下り坂をこんなへとへとな状態で走るとなるとまた転んでしまう。彼女は息を切らした。
「はあ、はあ……。きっつ」
鞄がずっしりと重く感じる。胸もドキドキしている。
夕刻も隣で呼吸を整えていた。空を見上げていた彼の耳元からは一筋の汗が光っていた。
「はーあ……。走ったなあ、マヒロ」
「うん……」
今日子は手の甲で額の汗をぬぐった。
「えっと、夕刻くんはさ……」
「うん?」
「ああ……、いいや」
帰り道はどこまで一緒なのか気になったものの、そんなことを聞いて、余計変に思われたくはない。
「何?」
「いいの、忘れちゃったの!」
歩いた。まだ胸のドキドキが収まらない。
「あはは。今日のマヒロ、面白いなあ」
今日子は唇を尖らせる。〝今日の〟だなんて。昨日まではいなかったくせに。
まだついてくる。人懐っこそうな笑顔で鼻歌まで歌っている。知っている曲だった。えんじぇるすの名曲『君の頭にはヒマワリが咲いている』だ。この人もあのバンドが好きなのだろうか。何をきっかけに知ったのだろうか。
しばらく肩を並べて歩いていると、彼は口を開かせる。
「ところでさ。俺、思うんだけど。長年の付き合いでお互いよく知ってるのと、短い付き合いだけど直感的にこの人だって思うのと。どっちがいい?」
「え? うーん、どっちがいいって言われても……。そりゃあさ、よく知ってるのと、相性がいいと思うのは違う気がする」
「じゃあ直感?」
「そー……だね、直感、かなぁ」
「へぇー、そっかそっかぁ」
「何なん?」
夕刻は一人で満面の笑みでいそいそしい。
「じゃあ俺、こっちだから」
オレンジ階段の手前で止まる彼は、右の道を指差した。
「そう、じゃあ」
あっちに彼の家があるのか。確認した今日子はオレンジ階段を下りていく。
「マヒロぉー!」
何段か下りた所で呼び止められた。彼女は振り返った。
「俺も直感派ぁ! そんじゃあ!」
夕刻は大きく手を振り、建物の陰へと消えた。
夕日のように輝いた笑顔だった。今日子はあっけらかんとしたが、言葉の意味を捉えようとすると、どうしてもそういう答えに行き着いてしまう。
「あはは、まっさかぁ……」
お互い直感派だということがわかっただけであって、別にそういうことではない。変に深読みして、恥ずかしい。短い付き合いって、まだ一日しか経ってないじゃないか。
今日子は早足でオレンジ階段を下りていった。
(ううーっ、嘘だ、嘘。うそ。ウソっ)
最終的にはまた走り出して、そのまま家に着いた。鍵はかかっていなかった。
「何よ、バタバタバタバタ」
母がリビングのソファで横になってサスペンスドラマを見ていた。
「お母さんッ、中学の頃告白されたことあるッ?」
「はぁ? ある訳ないやんけ」
「うん! あたしもない!」
言い捨てて二階へとバタバタ上がった。また部屋をうろうろうろうろ。グルグル回ってから、ベッドへ膝立ちで乗り上げ、上半身を何度も左右へひねらせ、枕を強く抱きしめ横になる。頭が熱くなる。
「んおぉーーーーっ!」
ハンマー投げ選手のような、踏ん張りの利いた奇声を発した。
日が暮れ始め、明日花とソファで再放送の刑事ドラマを見ながらくつろいでいると、電話が鳴った。「どっちか電話出てよ」と、夕飯の支度で手が離せない母が言った。
「出て今日子」
「いや。今いいとこじゃん」
「早く」
明日花に命令され、今日子は低い声でふて腐れつつ電話に出た。
「はい真午です」
母を真似て声のトーンを上げた。
『終夜だけど』
なんだ、ネックラーか。今日子は拍子抜けをする。小学校時代の連絡網を見たのだろう。気分が下がり、棚に寄りかかった。
「何?」
『真午さんて、毎日日記書いてるよね?』
「それが何よ?」
『……最近、日記変えた?』
どきり。
「え、何でそんなこと聞くん?」
『始業式の日、行ったでしょ? 文房具屋さん』
「うん、行ったよ。鉢合わせしたじゃん」
ほんの数秒、受話器の向こうが黙る。ぶう、と彼の鼻息が漏れ、思わず受話器から耳を数センチ放した。
『あのさ……。あの日どっち先に入った?』
「文房具屋? あたしでしょ? だってあたしが外出たらあんたおったやん」
今日子は語調に苛立ちを含ませた。
『……そう』
何か言いたげな、押し殺した声だった。
「もしかしてそれを確認したかっただけ?」
『あ、いや違う』
はっきりしない男だ。言いたいことははっきり言って用を済ませてほしい。すぐ傍に彼がいるようで、今日子は嫌だった。
「ねぇ、相手誰? もしかして彼氏?」
明日花がドラマを見ながら茶々を入れた。「あほんだら」と今日子は電話口を押さえ怒る。「そんなわけないよねー」と姉はケラケラ笑う。
「で、何?」
自分とそっくりな後頭部をにらみながら、今日子は終夜に問いかける。もう苛立ちを隠す気はなかった。
『昨日、体育で転んだ?』
「うん、だから――」
声が引っ込んだ。
過去は変えた。茜だってこの膝の傷が何なのか覚えていなかった。それなのにこいつは知っている?
「あっ、違う。体育じゃないよ。昨日学校の帰り坂道で転んでん」
危機感に駆られて修正する今日子。
『百メートルで転んだんじゃないの?』
「だから違うって。しつこいよ」
『うん、ごめん……』
素直に謝られた。気持ち悪かった。
『でも僕、心配なんだ。それだけは本当。もし明日になってもきみが残っていたらって思うと。僕も人のこと言えないけど……』
口ごもる終夜に、今日子は余計にイライラした。
「ねえ、何の話しとれん?」
『使い方、わかってるよね?』
「何が?」
『日記』
「わかるってば普通。馬鹿にせんといてよ」
通話が切れた。
「何なん?」
「で、相手誰?」
「終夜」
ぶっきらぼうに姉の問いに答えてソファにどかりと座った。
「あーあの、大きい割にはいじめの対象になってた子やんねー? 小学生ん時、何人かに囲まれてたの見かけたわー」
人事のように明日花は言う。今日子も何もできず見て見ぬふりをしてきた。上級生に死角へ連れて行かれていた終夜。サンドバッグのように腹部にパンチをされ、脚を蹴られる。倒れることはなかった。彼は自分よりもチビな奴らに乱暴されているのをただ静かに見下ろしていた。黙認していたのかどうか、教員らがこれらを発見することはなかった。終夜も諦めていたのか、そいつらが飽きるのをじっと待っていた。
一度だけ、今日子はそんな時の終夜と目が合ったことがあった。先に目を逸らしたのは彼の方だった。まるで期待していない。その通り、今日子は先生に知らせる勇気がなかった。
その時の彼の表情を忘れられなかった。それが嫌で、嫌で、彼が視界に入るたびに目を背け続けてきた。
明日花が言う。
「でもあれやんね? 帰国子女くんのおかげで何ともなくなってんろ?」
「誰それ?」
「何それ、転校してきてんろ、あんたのクラスに。なんだっけ、夕刻くんだっけ?」
「え! 帰国子女なのッ?」
「なぜにあたしに聞き返す?」
それを一番知っているのは今日子なのだ。
「あーいや、そう、うん、そうだった、そうでした」
「まぁ、よかったんじゃないん? ひとりぼっちじゃなくなって」
ひとりぼっち。
そうだ、夕刻が現れる前まであいつはずっと独りだった。今日子はもう少し優しく、根暗な彼に接してあげようと思った。
日記を書き終えると、今日子はふと思い立つ。本棚の下段に作られたアルバムや過去の日記帳のスペースから、小学四年生時代の日記をあさった。夕刻のことが書かれているのを見つけた。
『今日、アメリカから夕こく未来くんが来た。――』
汚い字に思わず笑みがこぼれた。ページをめくっても彼のことばかり。
今度は卒業アルバムを見た。懐かしい場面と、覚えのない場面。秋の遠足の写真では、紅葉の山を背景に満面の笑みの今日子と茜、夕刻、そこへ割り込む朝間。その後ろの隅で木の影のように棒立ちしている真顔の終夜。雰囲気の温度差に、なんじゃこりゃと失笑した。




