4、おどろきの今日子
C
今日子は目覚めるや膝を見る。絆創膏が貼られていた。かさぶたがまだ形成されてない、ジュクジュクした赤い傷口が下から現れた。怪我は消えていなかった。
がっかりだ。花瓶の件は何だったのだろう。割ってしまったこの記憶は夢だったのか。そう考えると、そんな気もしてくる。
アハアハ、魔法の日記帳な訳がないでしょ、今日子ちゃんは夢見る少女だね――と、陽気に述べる文房具屋の店主の顔が浮かび上がった。小学生の頃に比べて、店まで道草を食う頻度が減って関わりが薄れたていたせいか、日記を買い換えてからあの男のことを思い出したのは今が初めてだった。
詐欺だ! 信用してたのに! 放課後になったら店に乗り込んでやる! 今日子は勝手に憤慨しながら制服に着替え、リビングで新しい絆創膏を貼ることにした。
「今日子あんた、どないしたん、その怪我?」
ソファでオロナインを塗っていると、朝食を用意していた母が言った。
「え?」
「今日子はおっちょこちょいだから、寝ぼけて階段転げ落ちてんろ」
明日花が食卓に着きながら言った。
「ちっがうもん」
むくれながら姉に続けて席に着いた。
朝食を済まし、玄関先で膝の絆創膏を確認する。去年に比べて、随分と脚が伸びたようだ。ぎりぎりスカートに隠れている。
確か今日も体育があった。女子の短パンは膝よりも上の丈なので丸見えだ。今日子は「みっともないなあ」と独り言ちた。
「それ、どうしちゃったの?」
案の定、体操着に着替えると茜に指摘された。
「ほら昨日体育で」
「いつ?」
茜は目を丸くした。彼女は嘘をつかないし、忘れる訳がない。だから、昨日の今日子は体育で転んでいない。だとすれば、どうしてこの怪我は治っていないのだろう。花瓶は元通りだったというのに。
では、朝間は? 遠目で見やると、彼は日記に書き記した通り、膝に怪我をしていた。脛にも長細く傷がついていた。
「昨日あんな転び方するんだもん。びっくりしちゃった」
朝間は今日子以上の大転倒を〝昨日〟してしまったのだ。やっぱりあれは魔法の日記に違いない。今日子は衝撃のあまり文房具屋に行くことをやめた。いや、店主の存在をまたもやすっかり忘れてしまったのだった。
その代わり、何だか申し訳ないことをしたかもしれないと彼女は思い始めた。しかし朝間はぴんぴんしていて、彼は両人差し指を使って両目を吊り上げる。キツネの顔で彼女におどけてみせた。
「心配して損した」
今日子のぼやきに茜は吹き出した。
また昨日のように茜としゃべりながら順番待ちをしていると、今日子は見覚えのない人を見つける。終夜の隣にもう一人、見かけない男子がいる。
「あれ誰? 終夜の隣の奴」
「え? 夕刻くんでしょ?」
「ゆうこく?」
「マヒロこの前言ってたよねぇ。『パーフェクトな奴』だって」
「え、嘘?」
「大丈夫? 記憶喪失になってない? 転んだ時に頭打ったん?」
茜はにやにやしながらも心配そうに頭をなでる。今日子は横目で彼を見つめた。その男子は気さくにも終夜に話しかけている。もう一つ発見した。終夜の長かった前髪が短く整っていて、表情も穏やかだった。
不思議な光景を観察していると、夕刻と目が合った。
微笑みかけてきた。今日子はぎこちない愛想笑いをして目を逸らした。
「うん……。かっこいいかもしんない」
「うふふ。『しんない』じゃなくってかっこいいんでしょー?」
茜はいたずらな笑みを浮かべながら、彼女のほんのり赤い両頬をこする。
「やめてよー」
「やめないー」
茜は調子に乗って頬をむにむにと揉んだ。
あの彼は存在していなかった。今日子がそうこう胸の内で戸惑っている間にも、夕刻と終夜が走り出した。夕刻の方が速かった。
今日子は机の数を数えた。
一つ増えている。教卓にある五十音の座席表を見ても、終夜の席の前に夕刻の席が割り込んでいるのだ。
夕刻未来。
それが彼の名前だ。
「難しい顔してどうした?」
出し抜けに本人が親しげに声をかけてきた。夕刻にとってはそうでなくても、今日子にとっては今日が初対面だ。彼女は人見知りをしない性格だが、今回ばかりはそうもいかない。
夕刻は間近にするときれいな二重瞼をしていた。中学生ならではの幼い丸みが残っている、中性的な顔で、瞳は焦げ茶色だった。まつ毛も長い。
「あ、いや……。えっと。あ、あなたはいつからいるんですか……?」
「ん、どういう意味?」
夕刻にしてみればいつもと様子がおかしいといえる。それでも彼は怪訝な顔一つせず、語調にも落ち着きがあった。それに反して今日子はたじたじだ。
「えっと、だから……この学校に……」
夕刻は首をかしげる。
「よくわからないけど……。最初からいるけど?」
「転校とか……」
「あはは! 俺は小四の時に転校してきたんだぜ? 同じクラスだったじゃないか」
「そう……そうだったよね。うん、そうだった。まだ寝ぼけてるみたい」
戸惑いをありありと見え隠れさせながら、適当に会話を合わせた。
過去がものすごく変わっている。
夕刻未来という人物が転校してきた。そんな出来事は自分の脳の記憶をつかさどる部分にかけてなかった。それでも彼の態度から察するに、気軽に会話ができる仲であるらしい。日記で話を作ったのは体育での怪我の件だけなのに、こうも大幅に過去が変わってしまうなんて……。
あの日記帳の力の強さを目の当たりにした今日子は、滅多なことで過去を変えてしまうのはやめておこうと誓った。
夕刻の背後に終夜がいた。音もなく現れた彼は今日子を真顔でじっと見下ろしていた。背後霊のようだった。彼女が不審な表情を浮かべたのに気づいた夕刻は振り返り、笑顔を向けた。
「どうしたシューヤ?」
「いや、なんでもない」
終夜は仏のように静かに微笑んで席へ戻る。あいつがあんな風に笑うなんて、今日子は意外に感じた。一人も友だちがいなかった奴。今は違う。夕刻の存在が彼を変えているのだ。
なら、これで良かったんじゃないか。日記帳を使って正解だったんじゃないか。今日子の不安はころりと安堵に変わる。
すると夕刻は顔を近づけ耳打ちした。
「きっとあいつ、マヒロともしゃべってみたいんだよ」
「は?」
「だってクラスで小学校同じなのって、俺とマヒロと光と茜だけだろ? あいつ人見知りだし、それで話下手だから」
「そう――イテッ」
後頭部に何かが当たった。足元に白い輪ゴムが落ちていた。朝間が机の上にあぐらをかいてニヤリと笑っている。彼が指を銃のようにして輪ゴムを飛ばしたのだ。
「もう、信じられん!」
今日子もやり返そうと拾った輪ゴムを飛ばそうとするが、その前に数学担当の崇城が来てしまう。彼は手持ちの三十センチの竹物差しで彼女の頭を軽く小突く。
「おい、人に向けんなや」
「すいません……」
細く吊り上がった目に、肩をすくめる今日子。夕刻が「どんまい」と肩を指で小突いた。
崇城は生徒指導に積極的だった。よく竹刀を常備して生徒を監視し、注意する熱血教師を漫画やドラマで見かける。剣道部の顧問でもある彼だが、常に手にしていたのは竹物差しだった。竹刀だと威圧感があって生徒も怯えるだろう。それに比べて彼の使い込まれた竹物差しは可愛い物で、裏には『一ねん三くみ そうじょうりけん』とマジックインキで書かれているのだ。とはいえ、本気で叩かれれば痛いことには変わりない。
今日子と夕刻はおとなしく着席する。その間にも朝間は両まぶたをつまみ上げ、ニュッと赤い部分を見せてニヤニヤしている。今日子は悔しかった。
〝先生が来る前に輪ゴムを当てた〟……。いや駄目だ。そんな簡単なことで日記の力を利用してはいけない。過去を変えたところで、〝自分自身〟は輪ゴムを当てていないのだから。今の自分が当てなければ意味がない。今日子はもやもやとしたものを抱えたまま授業を受けることになった。




