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3、きゆうの今日子

   B


 目覚めが悪かった。ロールパンのウインナーみたいに布団にくるまり唸った。ロールパンのまま床に転げ落ち、うーん、と大きく唸った。

 このまま目が覚めれば、いつもと変わらない日常が待っている。何事もなく一日が終わる。そう願いながら頭だけ布団から出して片目を薄らと開けると、真っ白と眩しい窓に顔をしかめた。日光の力が脳を強制的に活性化させていき、昨日やらかしてしまったことを間違いのない記憶として再生される。

「あーん……もう」

 酷い夢を見た。ロールパンとして皿の上に転がされ、巨人の峰岸にウキウキと鷲掴みされて大きな口の中へと運ばれていく……。

 髪が爆発したまま制服に着替え、ぼんやりとした足取りでリビングに向かった。既に用意された朝食。ナッツが香ばしいベーコンとほうれん草、半熟の目玉焼きは頬杖つきながらフォークでつつくだけで、アロエヨーグルトしか口に入れられなかった。

「具合でも悪いん?」

 心配する母に、今日子は曖昧に唸る。

「どうせ仮病でしょ、いつもの」

 明日花(あすか)が高校のブレザーのリボンをつけながら隣に座る。今日子は斜め上目遣いでにらみ、ようやく意味のある言葉を発した。

「違うもん」

「じゃあ生理だ」

「違うもん!」

 今日子はフォークを持ったままテーブルを叩いた。姉はいつも失礼なことを澄まし顔で口にする。どんなに怒り散らしても、この人は素知らぬふりをする。襟足をいじくっていればからかっている証拠だ。

「昨日髪をちゃんと乾かさんと、寝冷えしたんじゃないん?」

 母が訛りを強めに批判した。

「違うもん……」

「それ食べたら、がんばって学校行きまあよ。髪もシュッシュして」

 また今日子は唸った。

 髪にスプレーをかけても寝癖はしつこかった。ええい、こなくそ! と、髪を団子にしてごまかし、うだうだと学校に向かった。

 赤い軽自動車も天気の良さすらも小憎らしかった。オレンジ階段に至っては、(きびす)を返したくなるほどだった。何が悲しいかって、足取りは重くなるどころか快調なところだ。ずんずん上れる。

 一時間どこかに隠れて、母がパートに出かけた頃合いに家に戻ろうとも考えた。峰岸が電話をかけてくるだろうから、声をかすらせて仮病を決め込むのだ。こう見えても女優に憧れていた時期があるし、それくらい簡単にできるだろう……。

 何だかんだ考えているうちに校舎前だ。こうなれば猫でも泥棒でも怪奇現象でもいい。何かのせいにして、他と調子を合わせてやろう。今日子は腹をすかしながら二階に上がった。

 教室の戸は全開していた。俯きながら、怖い大人に対するかのようにちらりと棚を見る。

「え?」

 今日子は立ち尽くした。

「おい、マヒロ。何石化してんだ?」

 背後から朝間が声をかけた。

「ねぇ、あれ」

 今日子は花瓶を指差す。朝間はきょとんとする。

「あれがどしたん?」

「青い花瓶」

「今まで何色やと思ってたん? 赤?」

 なんやねんこいつとばかりに今日子は舌打ちしてにらむ。

 後に峰岸が現れ、今日子はあの花瓶はもう一つあるのか問う。峰岸は「えっ」と目を丸くして、笑った。

「ないないない。あれは世界に一つだけの花瓶。真午さんには売らないよ? なんせ五億円だから。ささ、席に着いて、みんな」

 混乱した。どうかしたのか尋ねてきた茜に微笑み返し、また花瓶に目をやった。

 どういう訳なのか青い花瓶は元のままだ。休憩時間にこっそりと観察してみれば、接着剤で直した痕跡はなく、花も昨日と同じだった。

 思い当たる節はなくもなかった。帰宅してすぐに例の日記を確認した。


〝私は花瓶を割ってない――〟


 日記はその日の出来事を書き留めるノート。真午今日子はあの花瓶を割っていない。この日記の中ではそれが事実として残されているのだ。

 だから実際に、割っていないことになった? これは過去を変えたってことなのか?

 事実は小説より奇なり。それ以外考えつかない。花瓶が割れていたことを先生が隠す理由も思いつかない。普通は朝礼で報告して、犯人に向けて自首を訴えるだろう。みんな目を閉じて、犯人は手を上げるようにと。

「すごい! すごいすごい!」

 今日子はベッドの上で飛び跳ねた。そしてすぐにこの喜びを記さざるを得なかった。


 『花びんはそのままだった。すごい日記。きっと魔法の日記なんだと思う。夢かと思ったけど違うよね? 先生に怒られなかったからよかった。すごくうれしい。ちょー安心した。』


   B


「何だかご機嫌だね」

 茜が朝礼前に言った。今日子は「むふふ」と小気味悪く笑う。

「どうしたの? 教えてよ」

「教えなーい」

「ずるいー」

「いいのずるくてー」

「いいもーん、今からあたしはマヒロのご機嫌を下げちゃいます。今日は体育だよぉ」

「ああーっ、それを言わんといてよぉ」

 机に突っ伏すと、今度は茜が「むふふ」と無邪気に笑った。

 百メートル測定だった。グラウンドで茜が走る。ゴールをしてしばらくすると、彼女は右手の人差し指を立て、左手で丸を作って今日子に見せてはにかむ。『一〇秒台』という意味だ。

 今日子の番。体育委員がフラッグを下に振り、今日子ともう一人は全力疾走。陸上選手気分で腕を振り、足を前へ前へと出した。ぐんぐんと相手との差を広げた。

 あと少しでゴールだという時に、力の入れ具合を間違えたのか膝がガクンと落ち、視界が急降下して、グラウンドのアップが映った。

「あちゃあ……」

 ゴール地点の茜は指を組み、大転倒した親友を憐れむ。今日子はすぐさま立ち上がり、残りの距離を一歩二歩三歩。ウサギとカメの勝負だった。

「大丈夫マヒロ? うわ、血が出てる」

 手のひらと膝小僧はざらざらの砂まみれ。砂の茶色と血の赤色で汚い。教師の催促で、今日子は茜に支えられながら近くの水道へ向かった。

「おーいマヒロ! 猪突猛進!」

 朝間が遠くの方でゲラゲラ笑っていた。

「朝間ぁーッ!」

 今日子は血が上った。彼はまだ笑っている。両人差指でイノシシの牙を作ってくねくねと腰を振って馬鹿にしている。

「ほらマヒロ。砂落とさないと、バイ菌入るよ」

 茜は腕を引っ張った。蛇口をひねると冷たい水が傷口に当たる。顔をしかめる今日子。

「痛い?」

「ちくしょう朝間。性格最悪!」

「悪気はないんだよ」

 朝間はその名の通り朝のように明るくて爽やか。意味として言葉は合っているが、今日子は爽やかな奴だなんてちっとも思っていなかった。むしろニワトリのようにうるさい奴でしかなかった。

「また明日体育あるね。さらにご機嫌下げちゃうけど」

 洗い流した傷口は、しばらくするとまた血がぽつぽつとにじんでくる。

「保健室行って絆創膏持ってくるね。ちょっと先生に言ってくる」

 茜は素早く事情を告げにいく。駆ける彼女の可愛らしい後姿を見ていると、終夜が遠くでこちらに顔を向けていることに気がつく。目は見えなかったが、彼の方から逸らされた。転んだことが気になったのだろう。あいつにも醜態を見せつけてしまったのかと思うと今日子は鼻を鳴らした。


 彼女は夜まで朝間を根に持ち続け、この出来事を否定することにした。これは実験も兼ねていた。


 『今日の体育は100メートル走だった。朝間はゴール直前でころんでけがをした。ざまあみろ。私はころばずに走りきった。――』


「これでよし!」

 本当にこの日記に過去を変える力があるのかどうか、明日になればはっきりするぞ。

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