20、今日子のあした
A
今日子は目が覚めた。しばらくぼうっとしていたが、思い出して、勉強机の上を確認する。魔法の日記帳はなく、あるのは以前に使い切ったノートだけ。次にリビングに向かい、カレンダーを見る。六月から五月に戻っていた。
過去に戻ったのか。いや違う。単純に元の世界の、あの花瓶を割って魔法の日記帳に嘘を書いた日の、本当の次の日に来たのだ。
慌てて昔の日記とアルバムを見た。間違いない。全部、自分の思い出だ。どんなに日記のページをめくっても夕刻の名前はないのは当たり前で、どんなにアルバムのページをめくっても、彼がどこにも写っていないのは当たり前だった。
「おはよう、今日子」
眠そうな明日花が台所でオレンジジュースを飲んでいる。
「お姉ちゃん……」
「何? そのしみったれた顔」
「ううん、なんでもない」
姉は不審な目をしながらジュースを飲み干す。この姉は何も知らない。何もかも元通り。あの奇妙な日々は、本当にただの夢だったのではないかと思えてくる。
「そういえばあんた、髪伸びたんじゃないけ?」
今日子は、そう? とニッコリ笑顔を作った。
部屋に戻り、学校への支度を始める。ズボンを脱ぐと膝の痣に目が留まった。Bの世界で転んだ時にできた怪我の跡が、まだ薄らと残っていた。
登校すると瑠璃色の花瓶はなかった。後頭部に何かが当たる。
「よっ」
朝間はオレンジの輪ゴムを拾う。
「何すんの」
「そーだよ、人に向けたらダメねんよ?」
着席している茜が彼に注意した。朝間は肩をすくませて口を尖らせた。頬を赤くしながら。
茜は言った。先生の花瓶が消えている、と。
終夜が現れた。前髪が元の長さに戻っていた。いや戻った訳ではない。
峰岸が来る。なぜか彼女は花瓶の件に触れず、そのまま朝礼を始めようとする。今日子は疑問に思う。まさかここに来てAの世界じゃない、なんてことはない。早根が素早く挙手して、花瓶が消えていることを指摘してくれた。
「ああ、いいのいいの」
なぜか峰岸は軽くあしらった。
放課後に職員室に向かった。
「峰岸先生!」
「んー?」
「あたし、昨日花瓶割っちゃいました! ごめんなさい!」
勢いよく頭を下げた。他の教員の視線が刺さる。崇城はというと小テストの採点を続けている。竹ものさしは鉛筆立てに挿してあった。
峰岸は頭部を凝視し、そして「うふふ」と笑う。怪訝に顔を上げる今日子。先生が怒っていない。
「正直者はよろしい。できれば昨日の内に言ってほしかったんだけど」
「ごめんなさい……」
「叱りたいところだけど、終夜くんに免じて許す」
「へ……?」
「彼、見てたんですって。真午さんがやっちゃったとこ」
「え、ウソ」
「先生のとこに来たの。『真午さんが割りました』って。あの野郎チクったなって思わないようにね。彼、こうも言ってたんだから」
「何をでしょう……?」
「『きっと明日、謝りにくると思うので、怒らないでください』って」
シューヤが。
「それにね」
峰岸は笑いをこらえ切れない様子だ。
「あの花瓶ね、五万円なんて見栄張ったけど、二千円だから。家にもう一個あるのよね! 二個セットでセールの二千円。クククッ」
今日子は苦笑い。なあんだ……。
「ちゃんと終夜くんにお礼言ってね。彼が全部お片付けしたんだから」
職員室を出て曲がると、黒い壁に差し掛かった。
「……見てたんだ?」
終夜は小さく頷く。目がよく見えない。
「ありがとう、お片付け。それに先生のことも」
そっと笑みを浮かべてあげると、終夜はまた小さく頷いて立ち去ろうとする。
「ああ、ちょっと待ってシューヤ!」
今日子は彼の片腕を両手で掴み、引き止めた。そこで人差し指には絆創膏が貼られていることに気づいた。
「指切っちゃったの? ごめんシューヤ」
血は流石にとまっているようだが、この絆創膏は昨日からずっと付けているやつだ。新しく張り替えた方がいいかもしれない。ちゃんと薬は塗ったのだろうか。
「あのう……。シューヤって……?」
終夜がそろそろと声をかける。
「終夜って終夜とも言うじゃん? だからシューヤ。いいあだ名でしょう? これからはそう呼ぶからね」
「はい……」
「あと敬語はダメだからね。ため口でいいんだから。あとそれから……、前髪! 前髪も切ろう! 朝間んとこでさ。理容院だから! 目が見えてる方がかっこいいと思うよ!」
早口を済ますと、終夜は呆然とした後、困ったようにクスリと笑った。
「必死だ。真午さん」
「マヒロでいいよ。茜も朝間もそう呼んでるから」
「……マヒロ」
「そうそう」
「画鋲、ありがとう」
「え?」
「小学生の時。マヒロが片付けてくれた。でしょ? 指、こうやって絆創膏貼ってた」
彼は覚えていた。それが今日子は嬉しかった。
「そのまま放置していたら危なかったからね。でも、できればあたし、先生に言えばよかったんだよね……。ずっとあたし、見てないふりしていたから。ほんとにごめん」
「僕も、素直に言えばよかったんだ。『助けて』って」
今日子は彼の腕を強く握る。
「あたし、助けるよ。今は強いからね、精神面が。まぁ戦力なら朝間もいるしね!」
終夜は可笑しそうに微笑んでいた。前髪で見え隠れする目は優しかった。今日子は心の中に突き刺さっていた画鋲がぽろりと取れた気がした。
今日子は文房具屋へ急いだ。『閉店セール』と書かれた紙の上には、『本当に』と書かれた小さな紙があった。
「おじさん! 本当にやめちゃうの?」
「やめるー」
以前のように奥で作業をしている店主。商品棚ががらんとしていて寂しくなっていた。逆さに吊られたテルテル坊主も、ツバメの巣もなくなっていた。
「ツバメはどうしたん?」
「説得して転居してもらった」
嘘なのか本当なのかわからなかった。
「ねえ、なんでやめちゃうがん?」
「今のうちにね世界の美術館を巡っとこうと思って。これ僕の夢ね。いつ死ぬかわからないし」
「ここはどうなるん?」
「当分は閉める。買いたいものあったら今のうちに大人買いね。さっき朝間くんのお母さんがハサミを買い占めてったよ」
店主は背を向けたままで、肩甲骨が代わりにしゃべっているようだ。何だかもうこの町に興味がなくなったかのような、あっけらかんとしていて、今日子は無性にさみしくなった。おじさんは茜の次に親友だと考えていたが、それよりも特別な、家族のようなものだった。自分が結婚しても、いつまでもここにいると思っていた。
「美術館って楽しい?」
「別に楽しくないでしょ。あれは楽しむもんじゃなくて浸るもんなの」
何がどう違うのかわからなかった。
「魔法の日記帳のことなんだけど」
今日子は切り出す。店主は手を止め、振り返る。何だか以前よりも老けているような気がした。
「てっきり普通の日記帳だと思って。それで使って……。今はもうない、んだよね」
「ないって、どういう意味で?」
「うん……。誰かが『燃え切るぞ』って言ってたから、燃えちゃったんだと思う」
「じゃあ、いいんじゃない?」
店主はやんわりと口角を吊り上げ作業を再開した。
「どうりで普通のノートが残ってた訳だよ。出した覚えはないからさ、きっと日記が勝手に出てきたんじゃない? 誰かに使ってもらおうと思って」
「そうなんかなあ……」
腑に落ちない。
「そうそう、俺が魔法道具の技師の子孫って話、知っちゃってる? それ内緒ね。道具のことも。こっちの世界じゃ魔法なんて存在しないんだし」
「輪ゴムも、押しピンも、便箋も?」
「全部内緒。こっちじゃそんなもの存在しないの。そういう話にしとくの」
「どうして? 納得いかない」
「その方がいざ魔法を目の当たりした時に感動するから、って言ったら信用する?」
「しない」
「だよね」
ガムテープを引っ張り、段ボールに封をしていく店主。
「まあ、金の問題なのね。もし魔法が常識になったら、SFだのファンタジーだのっていう娯楽? 漫画とかアニメとかね、見る? 見ないんじゃない?」
「さあ。多分」
「霊感商法だってそう。ありえないものこそ金になる。俺たちはそれを知ってる。魔法だって金になるかもしれないけど、何かに怯えるよりも心から娯楽を楽しむ方がよっぽどいいからね。魔法は科学よりもずっと訳分かんなくて危険だし」
「悪魔の方法だから?」
「そう。どっかの僕がそう言ったのかな? いっそきれいな法則がある科学で問題になってくれた方が、まだ対処しやすい。そういうこと」
「難しくて訳分かんないんだけど」
「いいの難しくて。わかってくれない方が、誰も魔法なんかに手出ししない。――ま、他の世界の事情は知らないけどね」
きっとこの世界でも、誰も知らないところで、とてつもなく恐ろしい何かが、不都合なことが起きていたのだろう。だから魔法なんてでたらめだとか何とか、子供たちは教育されてきたのだろう。そしてこれからも。一般人を巻き込まないためにも、彼らは魔法をひたすら歴史の裏に隠し続けている。今日子はそう思った。
「でもあたし、使って良かった。シューヤのことも知ったし、素敵な出会いがあったから。自己満足だけど」
正直な気持ちだった。すると、店主はガムテープを段ボールの上に置き、手のひらで回し始める。
「俺ね、美術館巡りって言ったけど、もう一つ理由あるんだよね。……そんな風に、先祖が作った魔法の文房具で幸せになった人を探してみようかと思って。俺、ヤなんだよねー、不幸になるから技師をやめて処分だのなんだのって。要は使い道じゃない? モラルだよ。大麻だってそうだったじゃない」
「〈危険な輪ゴム〉は?」
「あー、あれうちの製品じゃないよ。MBB弾と同じ業者。三十年くらい前かな、表じゃあサバイバルゲーム用の玩具作ってさ、裏じゃあ文房具屋の伝統をかたってガチ戦闘用のやつ作って輸出してんだもん。親父めちゃくちゃキレてたよ。だってさ、もともと魔法の文房具は子どもたちが楽しく勉強できるように作られたものだし。でも魔法は存在しないんだから、メディアに訴えても無駄でさ。僕も何度かネットカフェで本当のことを掲示板に書いたけど、『嘘乙』『プギャー』でさ。結局、記事丸々消されてさ。本当、あの時マジで親父はブッチギレでさ、胃に穴が開いちゃったんだよ」
淡々としゃべり続ける店主が気になり、今日子はそっと近づいた。ゆっくりと膝立ちで畳を進み、顔を覗き込む。
「嫌なこともあったけど、嬉しいこともあったよ、おじさん。いっぱい」
彼の牛乳ビンの底のような眼鏡に水滴が一つあった。
ツバメが飛んできて、店主の頭にとまった。今日子は驚いて声を上げた。
「転居させたはいいけれど、遊びに来るんだよね」
「そこは別荘なんだよ」
今日子は大笑いした。
三週間して、文房具屋の店主はアタッシュケース片手に、「東京ブギウギ」を口ずさみながら町から出ていった。くもりの日だった。そんな少ない荷物でいいのかと隣の古本屋は尋ねたが、コンパスを見つけたから問題ないとだけ彼は答えた。
A
二度目の六月。他の世界と同じ授業を繰り返すという面倒な事態はまだ終わっていないが、今日子はごく普通の学校生活を迎えている。髪も随分と伸びたので朝間理容院で切った。朝間の母は失恋でもしたのかと冗談交じりで、フレンチブルドッグのように笑った。
今日も今日子は終夜と下校だ。茜はピアノで別の道。だから二人きり、足並み揃えて歩いていた。只今の話題は終夜の母親のことだ。空手の全国大会に向けて張り切っているらしい。
「凄いじゃん! あたし応援行きたい!」
「行きたい……?」
「行きたい行きたい! すっごい美人だし! 茜と朝間にも言おうかな?」
「恥ずかしいから」
終夜は困惑しながらも笑っている。
「でもマヒロ、僕のお母さんに会ったことあった?」
「いやいやいや、道端でね。道端会議」
そういえば、まだこの世界では初対面を果たしていない。向こうでは迷惑をかけたから、機会を作って、お詫びの気持ちを隠しつつ、お茶菓子を持っていこう。
「そうだマヒロ。朝間くんのことなんだけど」
「んん」
「朝間くんが、東雲さんに気になる人がいるのかってマヒロに聞けって」
今日子はわざとらしく笑って首を傾げた。
「いるかなぁ? 聞いとく。聞いたのをシューヤに言えばいいの?」
「そこは、そうだね、一度僕に。じゃないと怒られそう。俺のことばらしたのかーって」
今日子はさらに大笑いした。
「そっかぁ、朝間は茜が好きなんだねぇ……」
初めからだろうか。しみじみ思う。
「マヒロは好きな人いない?」
唐突に終夜が言う。今日子は動じなかった。
「ふふふ。それがねぇ、あたしこう見えても付き合ってたんだよ?」
「え、本当っ?」
「ちょっとした都合でね、すごい短い間だったけど」
「寂しくない?」
「それが全然。夢だと思えばいいから。それに世界のどこかにはいるからね」
今日子は遠くの空を見つめ、「どーん」と指を遠くへ差す。
同じ時間を生きているから。日が昇っては朝が来て、昼になり、日が沈んでは夜になる。春が来て夏が来て。雨が降ってもいつしか晴れて、雪が降っても溶ける。同じ世界に居さえすれば、太陽も月も見ているものは同じだから。いつからポエマーになっちゃったんだろう?
「ていうか、あんたはいないの? 好きな人」
終夜は眉をひそめ、首を傾げる。
「好きになるっていう、感覚がいまいちわからないんだけど……」
「え、初恋はまだなの? もう中二だよ?」
「ドキドキする感覚って、あるのかどうか」
「あるある! 走った後とはちょっと違うんだよ。なんかねぇ、胸がきゅっと締まるよ。それでちっちゃくドキドキすんの。ドキドキというよりトキトキだよ」
「へぇー」
終夜は興味深そうに相槌を打つ。今日子は彼が可愛く思えて面白かった。
「じゃああたしは? ドキドキする?」
「えーと、しない」
「うっははぁ!」
「だって、一緒にいると落ちつく」
「それはどうも。あたしも落ちつくよ、シューヤといると」
「それは良かった。ずっと友だちでいてくれる?」
「あったりまえじゃん」
彼のホッとした表情に、今日子はにんまりした。
「じゃあまた明日ね」
「また明日」
今日子は終夜と別れて、一人オレンジ階段を下りていく。
シューヤをよろしく――か。
終夜をひとりぼっちにさせない。約束は守っている。今まで無視してきた分、明るく優しく接したい。彼のことはもっと好きになれそうだ。でも、心にはぽっかりと穴が開いている。
それは本来開くことはなかった穴だ。心にくっ付いて、心が大きくなって、くっ付いたものがまた離れてできた穴だ。心の大きさはそのまま変わらない。世界のどこかにいるとはわかっていても、目の前にいてくれないと。どんな形でもいい、会いたいと願ってしまう。
世界は少しずつずれている。見えない所で人々はまばらに動いている。見えない所で、くしゃみをしたか、あるいはあくびしたか。猫が鳴いたか、あるいは犬が吠えたか。鳥が羽ばたいたか、あるいは蝶が羽ばたいたか。魔法の代わりにその微弱なずれが、誰にも気づかれることなく多大なる影響を世界に及ぼす。
それとも、悪魔が何かにそそのかしたのだろうか。悪魔は見えない。見えない所で――。
そうだとしても、それ自体は何ら関係もない。重要なのは人生に及ぼされる事象。もしも最後にいた世界とこのAの世界が、一分だけ、一秒だけ、話にずれがあるとすれば。
そろそろだ。
「あのぉ!」
今日子は振り向いた。そのシルエットは挙動不審で、踊り場でおどおどしていた。今日子はその姿を焼き付けた。
そうか、そういうことだったのか。
「何ですか?」
今日子は下りてきた階段を、肘を意識しながらぐんぐん戻る。一段ずつ確かめるように踏みしめる。なくなった二つ結びの後ろ髪の代わりに、何らかの力が後押しする。足元が橙色に変わっていく。ぽっかり空いた穴が、オレンジ色の魔法で埋まっていく。
相手は不安そうに今日子のセーラー服を確認した。
「山吹中学校の方ですか?」
「そうです」
「もう、帰る途中ですよね……?」
「まあ、ね」
「実は、明日から転入することになりまして」
「本当? 二年生?」
「はい」
「一組?」
「はいそうです!」
「あたしも一組だよ」
「本当ですかっ?」
表情が明るくなり、頬をほんのり赤く染めた。
「そのちょっと、まだ道がよくわからなくて。だから呼び止めたんですけど」
「じゃあ明日、一緒に行こうよ。ここで待ち合わせ。家あっちでしょ?」
今日子は左を指差す。
「はい! そうです!」
「あたしの名前は真午今日子。あだ名がマヒロだよ」
「マヒロ……?」
「うん。マヒロ」
「会えた……」
確かにそう呟きながら、涙でにじました目を大きく開かせた。だから今日子は「え?」とわざと聞こえなかったふりをした。
「ううん、何でもありません」
緊張の残った可愛らしい笑顔を目一杯に見せた。震える小さな手にはあの便箋と、覚えのないプリクラがある。
「わたし、夕刻未来って言いますっ! よろしくお願いしますっ!」
彼女は頭を下げる。するとちょうど、そこに隠れていたでっかいミカンが今日子の目に入った。
〈了〉




