2、ひていの今日子
A
四月末。
二年一組学級担任の峰岸は鼻歌を歌いながら、片足を使って戸を開けた。わざわざ彼女が足を使ったのは両手が塞がっていたからだ。
「峰岸先生また買っちゃったよ」
茜が隣の今日子にそっと声をかけた。教卓の上に鮮やかな瑠璃色の、下が膨らんでいて上につれて細くなっている花瓶が置かれた。峰岸は軽快に手を叩き、お披露目とばかりに両腕を広げる。
「じゃーん。どう、綺麗でしょう? 五万円で買っちゃった」
「えー、ゲームたくさん買えんじゃん」
窓際一列目の男子、朝間光がぼやいた。今日子が「馬鹿朝間」と呟くと茜はクスクスと、小動物のくしゃみのように笑う。今日子と朝間は保育園からの縁だ。
生け花部顧問でもある峰岸は焼き物が趣味だ。私物を学校に持参しては、部活で花器として使って廊下に飾ることがある。今回彼女が財布を緩めてしまったそれは、クジャクのような細い首を見ればわかるように単に花を挿し込むだけのもの。彼女曰く、焼き物は人生の鏡であり、作り手の人間味がにじみ出ているものだというが、実際は買い手の理想が表れているのではないか。こうやってお披露目する焼き物はどれもこれも細かったりくびれがあったり……。そんな女子の会話を聞いたことのある今日子は首が細長くなった姿を想像し、クッとばれないように笑った。
「これはここに飾っておきます。割らないでよぉ? 五千万円だからねぇ」
峰岸は適当なことを言いながら、角にある小さな本棚の上に置いた。教室が少しだけ鮮やかになった。
一組は一限目から体育だった。五〇メートルのタイム測定で、グラウンドに出ればスカートよりも丈が短い短パンから覗く膝に風が当たってひんやりする。順番待ちの今日子と茜は、男子の様子を眺めながら雑談した。
「やっぱ男子は足早いねぇ」
「そう? 男子より早い女子だっているよ」
陸上部ほどではないが、自分は結構いける方だと今日子は自負していた。彼女は何かにつけて男子と張り合う傾向にあり、原因は朝間にあった。園児の頃から、追いかけっこにしろ、砂山の高さ競いにしろ、彼にやいやいと鼻にかけて挑発させられ、負けまいと意地っ張りになっていたのだ。彼女にとって朝間が男子代表だった。皮肉なのが、朝間は背が低く一組男子の列では最前であることで、五十音順でなくても代表だった。
「ねえねぇマヒロ。あの中だったら誰が一番いいと思う?」
「はぁー? いいって、どういいん?」
茜は面白そうにしゃべる。アンパンマンと男子にからかわれた経験からか、彼女は小さな仕返しとばかりに男子の優劣をつけるのが好きだった。
「顔的にいいのと、性格的にいいのと、運動神経がいいのと、頭がいいのと」
「パーフェクトな奴はいないよね」
今日子の断言に茜は拳を口元に当てて大笑い。
「まず朝間ね。運動神経はいいの。だけど頭が駄目なの。すぐ調子にのるしね」
「あーわかる。小学校からそうだもん」
「身長だって、あたしと全然変わらないしね」
おまけに鼻ぺちゃだし、笑顔はフレンチブルドッグみたいだ。今日子の批評に茜の首元はすっかり真っ赤。まるで豪快に笑ってしまうのを喉で耐えているかのようだ。
「じゃあ……、あの人は?」
茜は終夜を指差した。彼は列の最後尾にいて、長い前髪をだらりと垂らして俯いている。人数上、彼は一人で走る。
「あれはヤダ。だって暗いもん。ネックラーだもん」
「一年の時もずっと一人でいたよね? 小学校から社交的じゃないっていうか。友だちいないのかな?」
「いないんじゃない? だってネックラーだもん」
終夜は夜のように静かで暗い。他の男子は各々の話し相手がいて、ちょっかいを出し合ったりしては体育教師に注意される。朝間がいい例だ。それに対して終夜は誰からも接されずに、距離を置いている。彼が誰かとしゃべっている場面を今日子は見たことがなかった。せいぜい授業中に先生からの問いに答えたり……。そんな程度だ。
「なんか仮面ライダーのショッカーみたいだよね、響きが。『ネックラー』って」
「ショッカーの方がまだ楽しいよ。『イィーッ!』って」
茜はまた大笑いして、呼ばれて走る寸前ではすっかり頬が赤い。良い家柄の娘だということを彷彿させながらも、それがいやらしくない雰囲気が今日子は好きだった。
その晩、今日子は勉強机の前で日記を書いた。
『先生がまた花びんを買ってきた。五万円だった。朝間バカが「ゲームたくさん買える」と言ってバカらしかった。体育であかねとクラスの男子の中で誰が一番いいか話した。――』
「よし、オッケー」
机の明かりを消して布団に潜り込み、眠りについた。
A
ゴールデンウィークが明けて数日。それは些細なことから始まった。
日直の彼女は黒板と黒板消しをきれいにしてから、学級日誌を職員室の峰岸に渡した。
「お疲れ。お花の水も換えた?」
「あ、まだです」
「それが終わったら帰っていいから」
今日子は教室へ引き返した。誰もいない。担いでいた鞄を床に置き、花瓶を両手でがっしりと持って早歩きで運んだ。先生が換えればいいのにと、彼女は唇をお猪口のように縮ませた。
手洗い場に隣接してある清掃用のシンクに花瓶を入れ、花束を抜き取り古い水を捨てる。花独特のツンとした臭いにしかめっ面になる。今日子は見る分には花が好きだったが、生き物係を避けて通ってきたほど、世話は大嫌いだった。
先生が花瓶を持ってきたのだから先生がやればいいのに。そうぼやきそうになるのを耐えながら、二回ほど花瓶の中をゆすぎ、新しい水を入れ、教室に戻った。早く帰ることだけを考え、花瓶を棚に置き、足元の鞄をさっと持ち上げて担ぐ。
その瞬間、鞄が花に当たった。今日子はてっきり花瓶に当たったのだと思ってしまった。とっさに振り向いたその勢いがまずかった。
どうして花瓶は陶器でできているのか。世に問おう。瑠璃色の綺麗な花瓶は棚からぐらりと倒れ落下し下半分が砕けてしまった。スローモーションに見えた訳でもない。あっという間の出来事に、今日子は呆然とそれを見下ろした。
入れたばかりの水が上からも下からもこぼれ、花束の水切りされた茎が丸見えになっている。瑠璃色の欠片一つ一つがきらめいて、磨けば宝石になりそうだった。
(五万円……)
状況を認識してくると、はっとして、体が強張ってくる。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。ああ、どうしよう、どうしよう、どうしよう。やってしまった。やってしまった。あたしがやってしまった。言わないと、あの人に。先生に言わなきゃいけないよ。いや違う。これは何かの間違いで。ああ、そう。これは。いや、いや、いや。
違うんだ――
パニックになった少女は後ずさりし、教室内をぐるりと大きく遠回りして反対側の戸から逃げた。学校を飛び出した。一生懸命に走った。
家の玄関のドアを引くが開かない。「何で、何で!」と焦っているうち僅かばかりの冷静さを取り戻し、首にかけていた鍵を引っ張り出してドアを開けた。
一目散に自室に入ってぐるぐると部屋の中を歩き回った。やがてふらふらしてきて、ベッドに倒れ込む。あたしじゃない、あたしじゃないと、自分のしてしまった行為を否定する。
時をやり過ごそうとした。いつもなら寝る前にすることだったが、今日だけはすぐやろうと思い至り、勉強机の上の革のノートを広げ、書き殴った。
『私は花びんをわってない。何もしてない。私は花びんをわらないで帰った。』
二回もシャーペンの芯が折れた。はち切れんばかりの罪悪感を封印するかのように書き終えるとシャーペンを転がすように手放し、布団に潜り込んだ。母親が夕飯の用意ができたことを知らせに来るまでじっと丸まって息を潜めていた。
あまり食欲がなかった彼女はコーン入りポテトコロッケと豆ご飯を半分残し、豆腐の味噌汁だけ飲みきった。入浴したらドライヤーで髪を乾かす気にもなれず、ハンドタオルだけ頭に添えて寝に上がった。具合でも悪いのかと母に心配されたのが余計に不安を掻き立てた。
寝つけず、CDプレーヤーのスイッチを入れた。一時間タイマーをセットして、地元で活動しているバンドえんじぇるすのミニアルバムを流した。
明日、もし花瓶のことを尋ねられたら何て説明しようか、どう状況を回避するか考えた。
ああ、タオルに染みついたシャンプーのいい匂い。逃避のために歌を聞いて、曲が三周目に入る頃に眠りについた。
不安は夢の中までも押し迫り、彼女は何度も唸っては寝返りを打つ。
言わないと、先生に。
そうじゃなきゃ終わらないよ――
デジタル時計が午後一一時五八分を表示させた。日記帳の中の、最新の文章が頭から一画ずつ、一文字ずつ光り始める。文章一帯に輝きが及ぶと、次はペイズリー柄のレリーフが、次に日記帳全体が光を帯び、文章の光線を放った。
光線は壁を伝い、外へ突き抜け、ドーム状に空に文字を広げていった。プログラミングに似て非なるものが、午前零時を迎える瞬間、世界を変換させた。




