19、だっしゅつの今日子
F
巨人の頭部が弾け、日記は靄から露出した。文字が雨のようにざばりと降り注ぎ、交差点の周りに面する建物が黒く染まった。まるで墓石だ。鉛の臭いが立ち込め、朝間はくしゃみをする。唾の噴霧に文字が見え隠れした。
「うわ、すっげぇ何これ。気持ちわりぃ……」
「まだ日記は動いてる」
駄々をこねる子供のように暴れていた。
「朝間! 東雲! そこで何をやっている!」
驚いて振り返ると、光る円形に崇城の厳しい顔があってさらに驚く。彼はかき分けるように出てきた。
「うげげ、崇城先生!」
「終夜くん! それに、文房具屋さんまで!」
三人は魔法のコンパスを使って壁に書いた魔法円から移動してきたのだ。
「すごい景色だなぁ。黒い雨でも降った?」
店主は頭をかいてふけを散らせる。
「今何をした! まさか輪ゴムか!」
崇城は朝間に詰め寄った。
「マヒロを助けるためなんだってば!」
「あたしが言い出したんです! 怒るならあたしだけお願いします!」
茜が乗り出すようにしてかばう。おとなしそうな彼女の凛とした態度には崇城も驚いた。
「ほら、先生。おかげで日記が丸見え」
店主が眼鏡の距離を調節しながら指差す。日記の表紙に今日子が一体化しているのがぼんやりと見えた。
「マヒロだ!」
「あの中に俺たちの知ってる、最近の今日子ちゃんがいるんだよ。要はあの表紙を壊して今日子ちゃんを引っ張り出せばいいんだよね。ただ硬いよー、あの革は。燃やすしかないんだよね」
朝間は「燃やすってどうやって?」となぜか茜に聞いている。
「だから先生。輪ゴムも今回は穏便に。切羽詰まってるから」
マイペースなままの店主に気が抜けそうになる。崇城は仕方なく意見をのんだ。
「解決したら、その輪ゴムは全て取り上げて処分する。いいな?」
「ちぇ」
「朝間!」
「はいはい、わかりましたぁ!」
日記の周りに文字が生まれ、また人の形をかたどり始めた。
「おじさん急いで!」
「急かさない静平くん。わかってるから」
店主は〈透明人間の鉛筆〉を地面に置いた。
「みんな下がって下がって。久々にでっかい絵を描くから。なんせ相手が馬鹿でかい。あとこの家宝。誰か持ってて」
「じゃああたしが」
「よろしく。コレを使って今日子ちゃんを保護して、帰らせるんだよ」
「はい!」
茜にコンパスを渡し、全員をロータリーから遠ざけた後、店主は目を閉じ、うんと頭を集中させた。鉛筆が立ち上がり、何かを書き始めた。
「一体、おじさんは何を書いているんだ?」
鉛筆が描く直線や歪曲線、重なり合う図形、そこに沿って連なる謎の方程式や文字を眺めている内にコレの正体を掴んだ。朝間は感嘆の音を漏らす。
何てでっかい魔法陣なんだ。
完成した部分が先に白光を生んでいた。ロータリーをキャンパスに、繊密に描かれていく魔法設計の図に圧倒される朝間。こんなものが、能天気そうな店主の頭の中にあるのだ。
紙でないだけあってガリガリと削れていく鉛筆の芯。リンゴの皮むきのように木の部分が自動的にクルクル削れ、金粉となって宙を舞う。
黒い巨人からざらめいた音がする。頭部から水が噴き出した。
「川の水だ!」
終夜が叫んだ。黒い水が制作途中の図へ。鉛筆もろとも流すつもりだった。
「私が行く!」
崇城は鉛筆を蹴らないよう円の中心へ駆けた。左手の魔法の三角定規を上にかざすと三角形の光の壁が発生し一気に広がった。水は跳ね返り、魔法陣は守られた。
「すげぇ! 〈トライアングルシールド〉!」
朝間が手に汗を握る。崇城は歯を食いしばって三角定規を支えている。
「朝間くん! 水の所!」
茜が巨人の頭部を指差す。朝間は赤い輪ゴムを水が放射されている部分に向かって放った。轟音と共に日記が飛び上がった。大して表紙はへこんではなかったが、放水が止まり、また文字が破裂するように飛び散った。
「よし!」
崇城は魔法の壁を解除させて右手の竹ものさしを振り上げた。光線が命中した。革に少し傷ができた。続けて朝間も赤い輪ゴムを飛ばす。日記はさらに弾かれた。
「あと三分の一で出来ます!」
茜は魔法の完成間近を崇城に伝えた。足元を見れば一目瞭然だ。物凄いスピードで描かれた線の大部分が今か今かと輝きを放っている。それらを大きな円で囲みきれば、完成だ。
ところが、店主の足元が光り出した。
「おじさん避けて!」
店主は動かない。ずっと集中していて聞こえていないのだ。終夜は背後から腕を回し、彼を引きずった。間一髪、牙をむき出して現れた日記の分身から逃れた。足がもつれ尻もちをついた。日記の分身は消えることはなく、大きな口を開かせて直進する。
「なんだよもう!」
朝間は赤い輪ゴムを弾いた。
「やばっ」
即座に違うと気づいた。ただの輪ゴムは虚しくアスファルトの上に落ちる。終夜は日記の真下へスライディングし、頭突きした。鈍い音がして、日記は一回転。そこから膝をついて頭を押さえている終夜に目がけて落下した。彼は避ける間もなく飲み込まれ、アスファルトの中へダイブした。
その束の間にも第二撃が来る。今度は茜の足元だ。茜は逃げる。アスファルトの光は急に崇城の方へ方向転換し、顔を出す。崇城は魔法の竹尺を振りかざす。光線は次々とページの中へ吸い込まれる。
「何!?」
崇城は咄嗟に三角定規をかざし、逆流してきた光線を防いだ。日記の鋼鉄な体当たりに崇城はうめき倒れ込む。日記は上から凶悪な歯を鳴らす。そこに朝間の緑色の輪ゴムだ。当たった日記は消える。しかし新たに出現した分身が店主を狙った。近くには誰もいなかった。
「駄目ぇえーーッ!」
茜は叫んだ。店主が飲み込まれ、日記は直線上にあったビルの中へ消えた。
「おい嘘だろ?」
朝間は立ち尽くした。周囲の真っ黒になったビル群がきしゃきしゃと笑っている。
あと少しだったのに。世界が文字たちに支配され、茜はがっくりと膝をつく。その地べたにもこぼれ落ちた文字がキュルキュルと小躍りしている。悔しくて手提げ鞄からピアノの教科書を出して叩いた。視界を横切る鉛筆。未完成の魔法陣にポツリと残されている鉛筆は、一本寂しく動いている――。
「え……?」
鉛筆が動いている? 店主はもういないのに。
「あの人……、食べられたことに気づいてないんだ!」
凄まじい集中力で意識が鉛筆とつながっている。丸飲みされた感覚さえなかったに違いない。今でも目を閉じたまま、描くべき図を念じているのだ。
「すげぇな、あのおじさん!」
短くなった魔法の鉛筆はラストスパートをかける。いい具合にカーブを作り、図を囲んでいく。黒い巨人は手を伸ばした。崇城が図の外側から何度も食い止めた。しかし全てを食い止められない。光線の間をくぐり抜け、そいつらは押し寄せる。
「まだか!」
「鉛筆が倒れた!」
完成した。魔法円は白光から赤光に。歯車の如くパーツが回転する。外側から内側へと赤光は集まり発火し、噴き上がった。黒い巨人は火柱に包み込まれた。何かが甲高い声で叫んでいる。文字が崩れ、粉になり、火柱が消えると日記から黒い塊が落ちてきた。
「急げ急げ!」
茜はコンパスでピアノの教科書に円を書いた。ただの円は魔法円になり、楽譜から五線が飛び出し、茜は尻もちをついた。長く伸びる五線はいくつも折り重なりネットになった。その上に黒い塊が落ちてバウンドした。ついでに音符もオタマジャクシのように跳ねてポンポンポンッとピアノの音が鳴った。
黒い粉がはらわれ、今日子が出てきた。
「マヒロ!」
「早く元の世界に! 日記が燃え切るぞ!」
崇城に急かされ、茜はページを開いて円を書く。別の魔法円ができあがった。
「茜……?」
彼女の声に反応する今日子。
「もう帰れるよ!」
楽譜の中の五線がバラバラに動き始め、アスファルトに扉を作り出す。扉が左右に開くと時空の穴が現れた。
「キョウコォオオオォオオォオオオオオオォオ!」
真っ赤に燃え盛る日記はもがき苦しみながら、彼女たちを押し潰そうと滑空してきた。
「せんせぇーッ!」
崇城が三角定規を構えた。激しくのしかかる日記。熱くはない。熱はこの三角の盾が遮断していた。重圧に彼は片膝をつく。ぐぐ、と歯を食いしばる。額に汗がにじみ出る。
「今、何が……」
「大丈夫だから! バイバイマヒロ!」
「じゃあなマヒロ!」
「朝間?」
彼もいるのか。
「ねぇシューヤは」
茜は話を聞かず、今日子を扉の中へと無理矢理に押し込んだ。
「きゃ――」
今日子は真っ逆さまに落ちた。ピアノの音が無作為に四方八方と聞こえてうるさい。それでも彼女は目を開けなかった。
やがてピアノの音のボリュームが下がり、消える。
一線を越えた。
落ちていく感覚が失われていく。ゆったりとして、重力を感じさせなくなった。
?
ここどこだろう。まぶたの裏が明るい。
誰かが手を取った。
「目を開けてマヒロ」
「夕刻くん?」
「ドッペルゲンガーはいないから」
目を開ける。
「夕刻くん」
彼がいた。真っ白な世界だ。それは眩しい光のせいだとわかる。この光は優しく温かい。この空間はとても静かだった。
「あなたはどこの世界の夕刻くん?」
「どこでもいいさ。俺は俺だから」
夕刻はどこか悲しげな笑みを浮かべている。これで本当にお別れなのだと今日子は悟る。
「俺のこと、俺の顔忘れないでくれないかな? 声も忘れないでほしい」
「忘れないよ」
「ああやっぱりやめ。忘れていいから」
「なんで? あたし忘れないよ」
「俺のことはいいから、マヒロの世界の俺を愛してくれるかな?」
「愛、か……」
「ああそんな、深く考えなくていいよ。俺は、ただどんな姿をしていても受け入れてほしいだけなんだ」
彼は何かを知っている。今日子はあえて詮索しないことにした。
「受け入れるよ」
「よかった……」
夕刻はそう小さく溜め息をついた。
「戻るよ、俺は。朝だからさ」
「朝?」
「朝だよ、もう。また次の日が始まるんだ。マヒロも、本当の次の日に行くんだ」
「本当の次の日」
「そうさ。今までマヒロが見てきたものは未来じゃない。これからがきみの未来なんだ。もし目が覚めたら、こう思えばいい。全部夢だった――ってね!」
夕刻は今日子の手を握る力を強くして、そのまま誘導させるように勢いよく一回転半。最後に優しく手を放せば、彼女は光がある元へと引き寄せられていく。
「夕刻くん!」
彼の姿が遠ざかる。戻りたくても背中が引っ張られた。
「おはようマヒロ! ちゃんと峰岸先生に謝れよ! シューヤをよろしくな! さよならぁーーッ!」
彼はいつまでも手を振り続けた。




