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18、ひたんの今日子

   F


 茜と朝間は未だに自分たちの住む町へは着けずにいた。あの恐ろしい巨大の化け物がいつどこから出現するか予測できないからだ。二人は路地にひそみ、様子を見ていた。

 ペイズリー柄になった不気味な空と不穏な風。電気屋のショーウィンドウに並ぶテレビの音や、新聞や空のペットボトルが風に吹かれて鳴る音が通っている。この付近の人のほとんどが逃げおおせたか、食われたのだろう。建物内からこっそりと外を覗く人や、自転車やバイクで必死に遠くへ逃げる人に目がついた。

「みんな無事だといいけど……。消化されてたらやだなぁ……」

「ん、ええい」

 茜がピタリと背中にくっ付いてくるので、朝間は顔を赤くさせ身をよじった。

「怖いこと言うなや」

「ごめん」

 二人は同時に家族の顔を浮かべた。茜の父は幸いにも遠方へ出張中だ。母はカトリックの保育園にいて、もしかしたら園児共々……。朝間の両親は共に朝間理容院にいて……。父は腰を抜かすだろう。母は勝気だから客を守るために、無茶にもハサミを片手に立ち向かうかもしれない。朝間の方が深刻な面持ちで、茜は早々に気持ちを切り替えていた。

「マヒロ、無事かなあ」

「あいつを助けるったって、どうやって助けるんだよ?」

「うん。やっぱり、あの日記の化け物を倒すしかないと思う」

 朝間はぎょっとする。マジで言う?

「だって、マヒロを元の世界に戻せるの? あたしたち」

 朝間は言葉を詰まらせる。

「文房具屋さんなら何かいい道具を持ってる。だからあたしたちはマヒロが無事に本当の家族のところに帰れるように、倒すことができなくても引きつけておくの、日記を」

「割に合わなねぇー。もし俺たちまで食われたらどうすんげん……」

 幼馴染のために体を張る、命をかける俺ってマジいかすぅ! なんて、寒過ぎる。

「無償の愛よ!」

「あ、アイ?」

「そう、友愛。友、愛」

 揺らぎない大きな瞳を間近にされて、朝間の心臓が跳ね上がりっぱなしだ。アンパンマンと言われた赤い頬が色っぽく見える。吊り橋効果が始まっているのだろうか。これから危険を冒すかもしれないから。

 朝間は手首にはめている〈危険な輪ゴム〉を見る。どんなに神出鬼没だろうが、この魔法の文房具のスピードには敵わないだろう。回収しない限りこれは消耗品だし、場合によっては本当に消えてそれっきりになる。だが朝間が手持ちにある輪ゴムは一つや二つではなかった。

「見て朝間くん!」

 遠く指差した先に黒い靄が発生していた。文字だ。一つ一つがこすれ合い、ひしめいている。

 二人には見えなかったが、その中心部に日記を背にしたカコがいた。唇を青くさせて、ぶつぶつとしゃべっている。

「嫌いなんだって。いじめられっこに嫌われるっておもしろいね。夕刻くんはどう? これじゃあどうでもいいよ。だってあたし、魔だ彼と出会ってないよ。だってあいつが先に出会ってるもん。運命の出会い取られてどうさ? 魔ぁ許せねーよねー。あーなんかいやだなぁー魔ったく。あたしもぉーいいやー。どーでもいいなー。壊してやれあたしのこと。壊してやる魔午今日子」

 カコが支離滅裂なことを吐くごとにつれて文字が貼りつき、黒くなっていく。彼女は日記にめり込んでいった。

 黒く禍々しい靄が形を変えながら移動していくのを二人は見る。

「昔から集め続けて正解だな」

 朝間は物心ついた頃から理容院の客の頭を見ていた。男性だけでなく女性も頻繁に訪れていて、彼は女性の色々なヘアースタイルを眺めている内に、ある物に目が留まった。

 ヘアゴム。女の特権だ。彼はより興味を抱き、いつしか魔法の輪ゴムに行き着いた。カラフルで、かつ危険。それが魅力的だった。喧嘩はそこそこ強かったので、相手が持っていれば戦利品として頂戴していた。無論、相手が使ってきたら危ない。幾度となく大怪我しそうになった。まぁ、中には偽物もあったが。

 そう、今手持ちの輪ゴム全てが本物とは限らない。だからこそ思う存分に試せるチャンスだった。


 終夜の母は考えていた。どうしてこの子が、それも文字を全身に這わせているこの子が何人もいるのか理解できなかった。とりあえずは、息子がそうさせていたように、初めからいたこの子に目をつぶるよう言った。可愛らしい子が怯えている。震える手を胸の前にしてじっとしている今日子をかばうように、彼女は黒い木製テーブルの上に乗り上げ、輪になって並ぶカコたちを見回した。

「今日子。そろそろ目を開けようよ。現実と向き合おうよ、ねぇ?」

 カコの囁きに、今日子は顔をしかめる。

「マヒロちゃん。これは敵? 女の敵かヨ?」

「敵というかなんというか……。もし目を開けたらあたし、死ぬみたいなんです……」

「魂取られるのかヨ? こいつ悪霊かヨ?」

「ちょっと違うような……」

 カコたちは不敵に笑い合う。

「さぁ、まぶた上げようよ」

 カコが押し寄せて、こじ開けようとした。終夜の母は足を振り上げた。彼女の硬い踵がカコたちを跳ね飛ばす。カコたちは真っ黒になったかと思うと、文字になって弾け散る。終夜の母にそれがかかる。彼女は気にせず今日子を抱え、玄関へ向かった。カコの一人が両手を広げて立ち塞がると、その足を足で振り払う。今日子を下ろし、玄関のドアを開けた。

「マヒロちゃん外出ろ! 静平探せ!」

 今日子は裸足のまま外へ押し出された。前が見えず両手で探る。

「ネックラーぁ! ……シューヤーぁ! 夕刻くーん!」

 誰かが彼女の手を掴む。

「夕刻くんならこの世界にいないよ」

 カコは笑った。

「マヒロちゃん逃げろ!」

 終夜の母はもがいた。彼女に文字が絡みつき、全身へと回った。壁から日記が現れ、飲み込まれた。

 今日子は必死で相手の手を振りほどこうとした。離れない。文字がまとわりつき、足が浮いた。

「いやだ! いやぁあっ!」

 どんなに暴れても無駄だった。

 終夜は叫び声が聞こえた。小さな黒い靄が移動している。中に彼女がいる。

「あの本体に連れていこうとしているようだな!」

 この竹ものさしを使おうにも彼女に当たってしまう。崇城は街上空にある巨大な靄をにらむ。

「せんせぇーい。静平くぅーん」

 間の抜けた声。文房具屋の店主が手を振りながら走ってきた。

「家宝が見つかったんですね!」

「ようやくですよ」

 桐の箱を開けると、螺鈿(らでん)の光沢を放つコンパスが収められていた。

「〈インスタントマジックコンパス〉と言って、お望みの魔法円が簡単に書けるんですよ。例えばただのノートに円を書いて魔法の日記に変えるとか。……で、今日子ちゃんはいずこ?」

 肝心の今日子は空の上。崇城は眉間にしわを深く作り、竹ものさしを自分の額にコツリと当てた。

「なんて、タイミングが悪いんだ」

 終夜は心から肩を落とした。


 人の形に変化し始めた黒い靄。長く伸びる脚が地面に触れると、わさりわさりと文字が浸食していく。空気に文字がまざる。細菌のように繁殖し、ペイズリー柄を浮かばせ地上で波打たせる。

 長身で前かがみになって歩いて行く巨人の先に、茜と朝間はいた。そこは大通りの交差点、ロータリー。車が来ることはない。

 やがて、黒い巨人の長い頭部が真上に。

「来たよ朝間くん!」

「よぉし!」

 朝間は腕をまくる。まず緑の輪ゴムを指にかけ、真上に目がけて飛ばした。輪ゴムは靄の中に吸い込まれたが、反応はない。勢いが足りないのか。

 今度は赤い輪ゴムを指にかける。

「〈デンジャーゴム・レベル4〉。本物かどうか」

 弾き飛ぶ輪ゴム。すぐに落ちてくる。

「やっぱ偽物か!」

 威嚇する為に色を塗っただけの偽物。朝間はまた別の赤い輪ゴムを準備する。放つ。すぐ落ちてくる。

「やっぱレア色はそんなに出回らないのかな!」

「可能性の話だもん! やってみないと!」

 茜に励まされながら新たな輪ゴムを指にかけた時、いつもと違う感覚があった。光沢を出している。ゴムを触れている指にちくちくとした熱を感じた。危険に対する憧れが神経を貫く。

「これ……。まさかのまさかぁ!」

 興奮が冷めやまない内に、ギリギリまで輪ゴムを引っ張り、放った。

 赤い輪ゴムが甲高く鳴いた。赤光の尾を作った。目にも留まらぬ速さで昇っていった。

 勢いに押された黒い靄が円形に分散した。そんな風に朝間の心も解放感で満たされた。


   ?


 雷鳴が轟き、今日子は驚いた。何が起きているのか、知る術がなかった。手足を振り回しても空を切るだけで、ずっと宙ぶらりんな感覚が続いていた。

「ちょっとカコ! 何かしゃべってよ! 今日子!」

 さっきからカコは言葉を発さない。

 夕刻くんならこの世界にいないよ――これを最後に。

 みんな、どうなっちゃったのだろう。それくらい言えるだろう。

 あの綺麗なシューヤの母はどうなったのだろう。夕刻を探しに向かったシューヤはどうなったのだろう。家宝を探している店主に、親友の茜、朝間。全員無事なのか知りたい。

 お姉ちゃん――夕刻くん――。

 きしゃきしゃきしゃきしゃ。

 文字同士のすり合う音は、耳を塞いでも聞こえてた。

 きしゃきしゃきしゃきしゃ。

「もう目を開けるからさぁ……。そうしたら、元に戻るんでしょ……?」

 きしゃきしゃきしゃきしゃ――。

 我慢の限界だ。

「もういいよ! もううんざりだから! みんなは関係ないんだから! みんなあたしが悪いげんから!」

 この両目さえ開ければすぐに終わる。だったら終わらせよう。

 開けちまえ!

 ……視界の先は闇だった。

 何も起こらない。何かあるとすれば、熱だ。

 誰かが目を抑えている。耳障りな音が聞こえなくなっている。

「あれほどこの世界の僕が、目を開けるなって言っているのに」

「シューヤ?」

「そのあだ名で呼んでくれるんだね。ネックラーじゃなくて」

「好きで根暗じゃないんでしょ?」

 ふ、と笑う終夜。

「この世界のシューヤじゃないなら、どこの世界の?」

「久しぶり。Aの世界の真午さん」

「どうして……? どうやって……?」

「そんなことより、目を開けてどうするつもりだったんだ? これじゃあみんな必死にやったことが無駄になる」

「だって!」

「もうじき帰れる、大丈夫。真午さんは優しくて、それでダメところもあるから、だからみんな助けようって思うんだよ」

「ダメダメだよ。全然あたし、優しくなんか」

「手紙、届いたよ。僕のためにありがとう。だから、泣かないで。夕刻くんは生きている。僕の世界にはもういないけど、それでも生きている。別に自己満足でも構わない。本当に日記を使って良かったって思っているんだ。君は今こんな目に遭っているけど、それでも使って良かったって、いつかは思ってほしい」

 終夜の頬に文字が這う。

「本当に、よかったって、思えるかなぁ……」

「うん。だからここで消えちゃ駄目だ。じゃなきゃ会うべき人も会えないし、何よりAの世界のみんなが悲しむよ」

 今日子は彼の黒くなっていく手に触れる。

「分かった。がんばる。あたしはちゃんと自分の世界で生きるから。それと、Aの世界のシューヤと仲良くなるからね。友だちになるからね」

「約束だよ」

「うん。Bの世界のあたしをお願いね?」

「約束する。じゃあまた目を閉じて」

 今日子は改めて目を閉じた。

「今度こそ、さよなら。Aの世界の真午さん」

「さよなら、Bの世界のシューヤ」

 終夜は彼女の顔から手を放した。

 また文字の擦り合いが聞こえ始める。

「シューヤ」

 今日子は心細さに両手で探ったが、彼はもうどこにもいなかった。

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