17、ひれつの今日子
終夜は自宅に今日子を連れ込み、リビングのソファに座らせた。一つ一つの動作が優しい、と今日子は感じていた。
彼女は見えないのに室内を確かめるように首を回した。ほのかにヒノキの香りがする。
「開けてもいい」
「ほんと?」
「ここにはカコは来ないと思うから」
おずおずとまぶたを開かせると、見知らぬ黒髪のうりざね顔がすぐ目の前にあった。少女が驚いて柔らかい背もたれに倒れ込むのを女はニコニコ見ている。
「あなた、彼女」
「違う、お母さん」
終夜は顔をしかめながら自分の母を今日子から引き離す。
「違う、静平。あなたいい顔」
終夜は喜々と指差された自分の顔を手でこする。ああ、そういえば彼のお母さんは中国人だったなと思い出しながら、今日子はこの親子二人のやんわりしたやり取りを眺める。
「お母さん、茶ぁ出すヨ」
終夜の母はご機嫌麗しく、わざとらしい猫背でちょこちょこと台所へ。それでもモデルのようにすらっとした後ろ姿だ。
「綺麗な人だね。すごい美人。しかもふくらはぎがいいよ」
ほどよい筋肉がついたきれいな脚線だった。スポーツをやっているのだろうか。終夜は耳を赤くしながら首を横に振った。彼は容姿は母親の遺伝のようだ。もしかすると父親の方も高身長なのかもしれない。
「おじさん、家宝見つけたかなぁ?」
「見つけないと困る」
「それにしてもいい部屋だね。すごく片づいてて、おしゃれ」
自分の家と比べると余計なものがない。ソファに父親の脱ぎっぱなしの衣類があったり、床にレンタル中のDVDやまだ読んでない漫画が入った袋があったりしない。ヒノキの香りから大雑把に和風な感じかなと予想していたが、落ち着いたブラウンで統一された、アジアンなインテリアのリビングルームで、レコードが聞けるステレオもあった。
「お父さんがそういう、インテリアの仕事してて」
「へー。……そういえば男子の家に入るのって初めてかも」
「え、あ、それは。今日のはカウントされないよ。緊急避難だから」
彼も初めて女子を招いたことに気づいたのか、歯切れが悪く耳はさらに赤くなる。
鼻歌を歌いながら急須と湯呑を運んできた終夜の母は、息子の肩に付いた星に目が止まった。
「静平。ゴミ付いてやがるヨ。ほら見ろ」
彼女は満面の笑みでラメの付いたキラキラ星のシールをはがした。
前触れもなく〈センドシール〉の効果が切れ、崇城は立ち尽くす。右手の甲に貼っていた対のシールが矢印からバツ印に絵柄を変化させていた。
ええい、こんな時に。階段や坂道の多さが段々負担になってきている。この近くにいることは確かなのに。
真っ直ぐ進んだのは性格ゆえだったのだろうか。ここでもし右に曲がっていれば、『終夜』と達筆に書かれた表札に目が留まっていたのだが。
「いない、いない。いない、今日子。どこにおるげん? これじゃあ全然面白くないじゃん」
カコはダイダイ商店街から離れ、ドミノのような高低差のある団地や山吹中を転々とする。一番の大通りに出るとビルの屋上の縁に座り込み、西区を舐めるように見回した。
日記の出没の仕方はまるで間欠泉である。トラックが飲み込まれると、後列は次々と急ブレーキし、スリップし、玉突き事故を起こしていく。世界の終わりだとお祭り騒ぎする若い連中がいたので、カコは日記に指示を出してまとめて消した。これは世界の終わりなんかではない。Xの世界の今日子の終わりなのだ。
カコは鼻を鳴らす。面白くない。肝心の彼女が慌てふためく様子が見られなければ無意味。一体あの根暗はどこへ連れていったのだ。
「この野郎、ネックラー。あんたの家はどこ?」
苛立つ瞳の中に、ある物が飛び込む。
髭川。
「川、川、川。ああ、川だよ、川」
その場から消えたカコは川の上に浮かび上がり、ニタリと笑う。
「別世界のトラウマを流し込んでやる」
成長した日記が川の水を無限に飲んでいく。
?
日記の中には魔法で圧縮された時空の塊がある。条件を検索し、ヒットしたものを識別し、筆者が理想とする世界を解凍し開く……それが魔法の日記帳の本質である。
あらゆる人が時空を漂っている。明日花もいる。ただ彼女が先ほどの彼女とは限らない。過去か未来か、はたまた別の世界の。飲み込まれた人々は眠っているのが大半のようだ。
ここは酸素が、大気そのものがない。しかし時空が、例えば呼吸の代わりを成している。すべてが無意識で、人々は苦痛を感じない。どちらかといえば心地よい。夢境といっても差異はあまりないのかもしれない。
水の球が出現し、膨らむ。水風船のように弾け、滝ができた。見る角度からしてみれば川でもあった。たまたまそこにいた人は遠くへ押し流されていく。
とある世界の、前髪の長い終夜はその様子をぼんやりと見つめている。激流に音はない。川の始点に目を向けると、見覚えのある人物がそこにいた。
「一体、日記はどうしたんだ?」
もう一人の自分がいる。これは夢か。前髪が自分よりも短い。そいつは真剣な眼差しをしていた。
「この世界の僕は大丈夫なのか?」
手首にある魔法の輪ゴムに目を落とし、頭上を見上げる。バスがゆったりと横切っていく。乗客は意識を失っている。
上の方に何かがある。前髪の短い終夜は泳ぐように上へ進んだ。
F
日記は上昇する。適当な高度で止まり、ページを開かせた。水が湧き上がり地上へと落ちていく。打ちつけられた地面に大きくひびが入り、轟音が響き渡る。駐車していた無人の車は潰され、跳ね返った水しぶきが八方の窓を割った。
「何の音?」
「目を閉じて」
終夜は今日子に言う。カコの仕業なのか、彼は外をこっそりうかがう。遠方で滝のようなものが見えた。
「マヒロぉ――……」
今日子は思わず目を開ける。
「夕刻くん!」
「マヒロぉ――……ッ!」
遠くから聞こえてくる。終夜は立ち上がる彼女の手首をつかみ止める。
「待って、外は駄目だ」
「でも夕刻くんが!」
「僕が行ってくるから! だからここで待ってて! お母さん、彼女を見てて!」
「あいヨ」
終夜は夕刻を探した。空は点滅をやめ、朝と夜が渦を巻く。薄暗くなり、朝と夜の隙間が怪しい赤紫に染まる。その中で日記は輝き、水をどんどん流しこんでいる。
日記の表紙に大きな目玉が一つ開いた。ぎゅるり、とまばたきをすると、日記は水に溶け込み、下降する。その間にも水の量は増えていく。
あの水はなんだ。彼が危ない。
終夜は焦った。水は道から道へと流れ込み、住宅街を囲い込む。かつては山だった地形が助長する。
「マヒロぉーーッ!」
オレンジ階段とはまた別に位置した階段の下で、夕刻は呼び続けていた。
「夕刻くん!」
「シューヤか!」
駆け降りてくる終夜を見上げる夕刻。ドドド、と轟音が押し迫ってきた。
「受け取れ!」
夕刻は音の正体を知るや否や、鉛筆を投げた。終夜は慌てて立ち止まって受け止めた。
「文房具屋に! マヒロを頼む!」
早くこっちへ。終夜は手を伸ばし、そう叫ぼうとした。その前に夕刻の姿は消していた。急流に潜んでいた日記がクジラの如く、彼を丸飲みして横切っていった。残されたのは光の尾を引く川だけであった。
終夜はその場に崩れ落ちた。夕刻くんが――
「さぁ絶望したか、終夜」
小さな涙を一つこぼして面を上げれば、カコが宙で悠然と立ち、口角をグニャリと醜く吊り上げて笑っていた。
「全部。全部全部。今日子のせいなんだよ。あいつがいつまで経っても魔法を手放さないから、こうなるんだよ」
「真午さんのせい……」
「さぁ、今日子を恨んで。喜んであいつを消してあげるよ。そうすれば夕刻くんも戻って来るからね。日記も生まれ変わって、新しい持ち主を待たなきゃいけないから」
「……そうですか」
終夜はうなだれたまま立ち上がり、涙の跡を右手でこすり上げた。
「全部、真午さんのせいだ。僕は真午さんが嫌いだ」
低い声で、恨みを込めて彼は言う。
「そうそう、それよ。だから教えてよ、居場所」
カコは満足気に消えたかと思うと終夜の後方に現れる。終夜は顔をこすり続けながら振り向き、階段を上り詰めていく。
「最悪だ。もう顔も見たくない」
「そうそう、そうそう。可愛くないよねぇ。性格ブスが顔にも出ちゃってさあ。今頃不安がってるよ。だから連れてって」
一段ずつ近づいていく。あと二段の所で、終夜は止まった。この位置で頭一つ分、彼は踊り場のカコよりも下にいる。
「あんたが、大丈夫だよ、目を開けて、って言えば、簡単に終わるから。こうして嫌いな今日子が一人消える。よかったよかった」
ここで終夜は顔をこするのをやめ、その右手を真っ直ぐな眼差しと共に上げた。
「でもあの子は好きなんだ」
彼はしたたかに、指にひっかけていた緑色の輪ゴムを弾いた。至近距離で放たれた魔法の輪ゴムはカコの額に命中し、首が後ろへ直角に折れ曲がった。輪ゴムは上へと弾かれ、電信柱の天辺に当たった。電気がほとばしり、辺り一帯の明かりが消える。一定の衝撃を受けた輪ゴムは光の粒子となり飛び散った。
「とんでもない奴だよ!」
カコは消え、また宙に現れる。また別の彼女なのか、それとも修正されたのか、首は元通りだった。彼女は笑った。
「いじめられっこって危ない一面があるってこと? いじめ返したいってこと?」
「僕はきみと違って、まともな人間です」
カコは鼻を鳴らす。
「もういいや。今日子は自分で探すから。なんかあんたの暗い目ぇ見てるとこっちまで暗くなるからさ」
川の音の様子が変わった。下から川を身にまとった日記が勢いよく上ってきていた。
「こん中で夕刻くんと再会といこうよ」
終夜は託された鉛筆を強く握り、残りの段を駆け上がった。
間に合わない。残り一つの踊り場で左折した。日記は角にぶつかりながら追いかけた。表紙の両端から文字がはみ出し、魚のような長いヒレが形成される。平たい長方形の体をうまく傾けさせながら狭い道を飛んだ。
家へ戻っても危険なだけだ。終夜は日記を振り切ろうと、道から道へとあみだくじの要領で逃げた。いじめっ子から逃走した経験が皮肉にもいかされている。
「あっ!」
細道に乗り捨ててあった自転車に足を引っ掛け転んだ。身を起こすと目前まで奴は迫っていた。自分の身長を生かして垣根を乗り越え、他人の家の庭を突っ切って小路を突き進む。そこを抜けた先に人が。
「真午はどうした!」
崇城は生徒に迫りくる魔に目を見開かせた。竹ものさしの赤い丸が光った。〈侍の竹尺〉は、持ち主が敵を認識した時に初めて力が発揮される魔法の文房具である。
終夜が崇城の元にたどり着いた。同時に崇城は〈侍の竹尺〉を縦に一線振り上げた。目盛りの一つ一つが光線となって、魔に目がけ発射された。鋭い攻撃が続々と刺さり、日記は川と同化して地面に叩きつけられた。流れが止まった。
「真午さんは今、僕の家にいます」
息を切らしながら終夜は告げ、鉛筆を見せる。
「これを、夕刻くんから。文房具屋のおじさんにって」
「〈透明人間の鉛筆〉? 何でこれを?」
「わかりません。必要になるんだと思います」
「家宝が見つかり次第、店主も合流すると言った。まずは真午の所に引き返そう」
崇城の左手の甲にはキラキラ星の〈センドシール〉が貼ってあった。
?
終夜はバスの背に乗り上げようと手を伸ばす。すると、上からも手が伸びてきて彼の手を取った。
「夕刻くん!」
「久しぶりだな、シューヤ。意味合いはどうかな?」
夕刻は終夜を引っ張り上げる。お互いどこの世界の人間なのか。そんなことはどうでもよかった。
「あれが気になるんだろう?」
夕刻は上を指差す。その一点には黒いぐちゃぐちゃがある。
文字の塊だ。さらにその上には、背景に溶け込んでいる今日子たちが絡み合うようにして密集して石化していた。
「砂時計みたいなものだな。あの塊が通り道を塞いでいて、マヒロたちはこっちに来れないでいるんだ」
「どかすことはできんけ? 例えば輪ゴムで」
「駄目だ。もし一気に流れ出したら、今この世界でピンチになっているマヒロは時間に押し出されてどうなるかわからない。ただ、あれが一つの出入り口であることに変わりはない。……シューヤ。俺はさっき、ほんの少しだけ未来を見た」
「未来?」
夕刻は真剣な目つきでうなずいた。
「マヒロは目を開けてしまう」




