15、きのうの今日子
F
「今日子。お母さん買い物行ってくるけど欲しい物ある?」
「ないです」
「それじゃあ、行ってくるから」
あの母親は本当の母親ではない。母であって母ではない。心臓の形まで瓜二つの。クローンのような。ついに他人行儀がにじみ出る。精神科医に診てもらえばカプグラ症候群とでも判断されるのだろうか。
欲しい物はある。魔法の日記帳。あれさえあれば……。
寝返りを打つとただの日記帳がそこにある。気がつけばまた元の魔法の日記帳に戻っている。そんな、ほんのわずかな期待が小さな活力となっていた。
いつまでこんな暮らしが続くのだろう。ここ数日、この日記に書いたことといえば『ベッドでごろごろした。』ばかり。これが小さな活力の使いどころ。こういうやばい状況であっても忠実に習慣を守っていることに笑えてくる。そろそろ『運動不足でぜい肉がつき始めた。』と行を追加した方がいいかもしれない。
自分はこの世界の今日子ではない。日記を書かなくなれば今日子らしさが一つ失われる。自分は今日子でなくなってしまう。そうなれば自分がこの世界にいる理由がなくなる。誰でもなければ居ても居なくてもどうでもいいから。今日子は身震いした。
何気なく過去のページをめくると、たった一行だったはずの文章が増えていた。
『お姉ちゃんに24の続きを借りて来いと言われた。ツタヤに言ったら早根さんに会った。あの人が苦手だから気づかないふりした。――』
「どういうこと……? どうなってんの……?」
自分の筆跡。以前の内容が丸きり変わっている。今日子は日記を払い落とした。
怖い怖い怖い!
リビングのソファに飛び込んだ。
「ちょっと何?」
早めに帰宅していた明日花が怪訝そうに台所でオレンジジュースを飲む。
「ねぇ! あたし昨日どこにも行ってないよね……!?」
「ツタヤ行ったじゃん」
断言する姉だったが、すぐ「ん?」と首をひねる。
「あ、待ってよ? あれ、あたしだったっけか、ツタヤ行ったの? なんかごちゃごちゃしとるわ」
今日子はもう姉の話を聞いていなかった。
「もう一人のあたしが……ッ」
「は?」
今日子は血相を変え逃げた。パジャマ姿であることさえ気にも留めず外へ飛び出した。
昨日の自分が自分でなくなっている。本来あるべき道筋に書き直されているのだ。この世界の今日子は消えてはいない。アレがこの世界の真午今日子なのだ。彼女が現在に追いつこうとしている。もう一人の自分が現在に追いついたら、自分は……。
「あッ」
転んだ。スニーカーをスリッパのようにして履き潰していたせいだ。きっと膝が擦りむいている。せっかくかさぶたが取れて痕も消えかけていたのに。涙を我慢すると鼻が垂れてくる。鼻水をすすりながらスニーカーを履き直す。
誰かたすけて。
誰でもいい。
この世界から出させて。
「うっ!」
走り出すなり壁にぶつかり、両腕を掴まれた。
「真午さん」
終夜だった。
「これからきみの家に行こうと思って」
「へ……?」
「東雲さん、ピアノあるから。……大丈夫?」
久しぶりの顔に、今日子は顔を歪ませた。すがるように学ランの生地を掴み、情けない声を上げる。
「あたし……っ、あたし本当は、この世界の人間じゃなかったの……っ。帰りたいのに帰れなくなって……。みんな知ってる人なのに……ッ、一人だから……ッ」
「落ち着いて真午さん。ひとりぼっちが嫌なのはわかるから」
終夜は声を落とし、取り乱す彼女の頭をなでた。すすり泣き、落ち着きを取り戻していくのを確認すると、彼はゆっくり問いかける。
「昨日も、今日も、家にいたね?」
今日子は頷き、自身の恰好を見下ろす。薄ピンクの上衣と黒のズボン。おまけに素足でスニーカー。ピンクなんて室内専用の色と決めていた。瞬く間に恥ずかしくなったが、そんなことを知らない終夜はお構いなしだった。
「家は危ないから、文房具屋さんのところに行こう」
終夜は今日子の手首を掴み歩き出す。歩幅が広い彼に合わせて、今日子は袖で顔を拭いながら小走りする。
「どうして家が危ないの?」
「今頃帰っているかもしれない。もう一人の真午さんが」
「あ、日記が! 知らない間に知らないことが書いてあった!」
「魔法の日記帳?」
「本当はあの時おじさんに日記のこと言った方がよかった……。ああなんで言おうって思わんかったんかなあ……? いっつもそう! いっつも不都合なことは黙っててさあ! 最低!」
「落ちついて」
「見たら普通の日記帳になってたし……。もう魔法の日記帳じゃなくなってた。それって、もう一人のあたしが取ったってこと?」
大事なプリクラも。
「そうかもしれない。この世界の真午さんは元々魔法の日記帳を持ってなくて。だから修正しようとしている……のかも」
「終夜も持ってないし……。Bの世界ではね、あたしよりも先に日記を手に入れてるんだよ」
「なら文房具屋さんに日記が一冊、まだどこかに残っている可能性はあるってことか」
「だといいんだけどね……」
何事もなく文房具屋に到着する。店主の姿はなく――
「なんか焦げ臭い」
「まさかだけど……」
終夜は靴を脱ぎ捨て、中に上がり込んだ。
「ちょっと待って」
彼に続く。終夜はどんどん奥へ進む。裏庭に出ると店主がいた。あっと今日子は声を上げた。
「おいおい、勝手に人の家に入ってくるんじゃあないよ」
「何してんの」
「いやね、整理整頓してたら〈ドッペルダイアリー〉が一冊残ってたんだよ。だから遺言通り、燃やしてる」
呑気に。魔法の日記帳は古新聞と共に燃やされ、煙を上げていた。真っ黒に焦げて舞い上がるページの欠片は金色の粒子と化してペイズリー柄を描きながら消えていく。パチパチと音を上げながら、魔法が一つ世界から消滅していく。
今日子は途方に暮れ、縁側でへたり込む。
「なんて、タイミングが悪いんだ……」
呆然と立ち尽くす終夜の呟きに、店主は「え?」と間抜けに聞き返した。
明日花は母に連絡しようか悩んだ。
どうせすぐ戻ってくるだろう。あの子だって、ドラマを楽しみにしていた。えんじぇるすのCDも中古だが買い直してある。メンバーが入れ替わったショックでナイーブな妹は捨ててしまったのだ。しかし新メンバーのオギは脱退した彼の意思を継いでいるし、パフォーマンスには彼女も納得し、感情的にCDを処分したことを後悔していた。まったく単純な妹である。
受話器を戻し、テレビの前に置いてあるそれを探す。
あれ、ツタヤで借りたDVDがない。しゃがみ込んでデッキの下を覗き込む。確か今日子がここに置いて……。いや、確か自分で置いて……。
違う。
(最初から、借りてない?)
記憶が複数枚に重なっている。本当の昨日の事を思い出せない。この歳でボケてしまったのか。
「お姉ちゃん」
妹がドア前に立っていた。
「はは、早いじゃん帰ってくんの」
ほら、思った通りだ。どんなに喧嘩して突発的に家を飛び出そうが、結局さみしくなって帰ってくるのだ。
しかし、ついさっき見た妹とは異なる点があった。
「今日子。なんで制服着てんの?」
「だって今学校から帰ってきたんやもん」
今日子は鞄を見せつける。
「え、今日、休んで……」
「それはあたしじゃないよ」
「え?」
「それはきっとXの世界のあたしなの。あたしはそいつの日記に食べられちゃったんだよ」
今日子は鞄から魔法の日記帳を取り出す。
「何言ってんの?」
歩み寄って来る妹。明日花は立ち上がり、一歩後ずさりすると背中がDVDラックに当たる。
「さっさと帰ってくれないから、あたしはずっと昨日と今日の間にいるの。もう詰まってるんだよ。ずっとつっかえてたら、あたしたちはどうなるの? あいつにとってあたしたちはただの過去。でもあたしたちにとってあいつは未来じゃない。邪魔なんだよ。これって、自己嫌悪だと思う?」
「今日子……?」
今日子は立ち止まり、ささやいた。
「〝明日花〟って、いい名前なんだよね」
日記が光り、輪郭だけになる。立体の中で光の粒子が渦を巻く。それは何重にも層となっている銀河だった。立体は大きくなり、半分にページが分かれた。
「それって、魔法……」
明日花は身動きが取れず、パクリと頭から飲み込まれた。
「明日はないんだよ。キョウコ……」
ニタリと笑い、日記に吸い込まれるように消えた。
「確かに間が悪かった」
店主は縁側に腰かけながら、茶をすする。反省している色はない。彼は遺言を忠実に守っただけなのである。まだほのかに燃える紙くずを眺めながら、店主は言う。
「そっか……。時間に挟まっちゃった今日子ちゃんが、次の日に行こうと強行突破しようとしてる訳だ。それもついでに見つかった」
彼は終夜に古書を手渡す。終夜は茶色に色あせたページを慎重にめくると、文房具一家が作ってきた魔法の文房具について記されていた。日記帳、輪ゴム、押しピン、鉛筆、便箋……。今日子が知らない品物まで。
日記帳の項目には数々の場面を描いた白黒のペン画があった。
「処分対象になった決定的瞬間がそこにある。生存者が語るには大規模の話だ」
「大規模?」
「といっても、終われば何事もなくなるらしいけど。つまり使用者が元の世界に帰るか死ぬかすれば混乱もすっきり収まる」
今日子は縮まったまま黙っていた。
「これは何ですか?」
終夜は一つの場面を指差す。そこには人の形をした黒く大きな物体があった。
「それは日記に食われ明日に行けなくなった過去たちの集合体っていうか、それが〈ドッペルダイアリー〉の本質っていうか……。この目で見たことないからわっかんないなぁ」
店主は汚らしく頭をかく。
「とどのつまり、それが魔法の〝魔〟ってこと。あよっこらしょ」
彼は立ち上がって腰をひねり、背中をぱきりと鳴らした。
「そんじゃ、俺は整理整頓の続きするから。ここでやめたらいつやる気起きるかわかんないし」
「待ってください。何か方法ないんですか?」
見捨てられると思った終夜も立ち上がり、店主を目を三角にして見下ろす。店主は肩をすぼませる。
「待って待って。そんな顔しなくても。整頓してれば自然と家宝も出てくるだろうから」
「家宝……?」
「そうそう、家宝家宝」
「それも魔法の文房具ですか?」
「万が一、魔法に関して問題が起きたら使えってね」
「それがあればあたし、帰れる!?」
今日子は希望を胸に湧き上がらせる。
「確か桐の箱にね、入ってるらしいんだけど。親父が教えてくれないまま死んじゃってさー。……じゃあ俺が見つけるまで、今日子ちゃんを過去ちゃんに目を合わせないようにがんばって、男の子。じゃっ」
店主は終夜の肩を叩き、庭に出ると縁側の角に消えた。他人事のように危機的状況を感じないのか、足取りは変わらず。残された二人は互いに目を合わせる。
「がんばって、だって」
「目を合わせなかったらいいん?」
「たぶん、自分と出会ったって認識しなかったら、いいんだと思う」
「じゃあ簡単だよ。こうやって、目を閉じてればいいんだよ」
今日子は目を閉じては開き、笑いかける。たった一つの希望が彼女を笑顔にさせる。
「そういうことか」
「それじゃあ、本格的に」
目を閉じる。そのまま維持した。終夜は彼女の隣に腰を落とす。
「早く家宝が見つかるといいんだけどさ。ね、どんな文房具だと思う?」
今日子は見えない終夜に問いかける。
「僕にはわからない」
「例えば消しゴムとか」
「わからないよ、僕には」
「つまんない」
「ごめん……。女の子と話すなんて、経験ない」
「中国でもなかったの?」
「小さい頃は、男も女もないと思う」
「男も女もね……。哲学的なことを言うもんだ」
「そう?」
「保育園の合宿、みんなでお風呂入ったこと思い出した。そういや、朝間の馬鹿もいたっけ。よくヘアゴム取られたなぁ」
まぶたに閉ざされた真っ暗闇の中、合宿先の大浴場で記念撮影した風景がぼんやりと浮かび上がる。あの頃は油断していれば朝間が背後に回って髪を引っ張り、ゴムを盗まれた。思えば当時から輪ゴムだのなんだの遊んでいたのだ。成長がない奴だ。
今日子は終夜の『女の子と話すなんて』という言葉から話を続ける。
「あぁ。じゃああたしのことちゃんと女の子として見てるんだ? あっははは」
冗談めかした。
静まり返った。
「え、なんで黙んの? あ、女性らしさがないってか……。アハアハ」
パジャマのまま飛びだすような女なのだ。我ながら仕方ないと思った。
「でも今はまだ中二だし、あと何年かすればあたしだってもう少し身長は伸びるし……、あと胸も、あ、それは別にいっか」
独り言だけが続く。
「ねぇ、さっきから何でしゃべらないの? ちゃんと隣にいる?」
「いるけど……。………………絶対に目を開けないで」
「わかってるよ」
「絶対に」
終夜は厳しい表情で夜空を見ていた。その次には朝焼けを。電気のスイッチをいたずらに押しまくるかのように、チカチカと空の色が入れ替わる。
「こんなとこにいたんだ」
今日子がしゃべる。
「え?」
今日子は目を開けて振り返ろうとする。
「開けるな!」
「わっ」
終夜は手を彼女の両目に押しつけ、後ろにいる今日子――過去を見る。彼は顔を険しいものにして、低い声で言った。
「出たなドッペルゲンガー」
「あたし、カコっていうの。今はね」
ニコリと微笑み、スカートを翻した。
「あたしが。今そこにあたしがいるってこと!?」
「目は開けない。逃げるよ、真午さん」
終夜は冷静に今日子の手を取り立ち上がり、カコを横切る。
「お姉ちゃんはどうするがん?」
カコは呼び止めた。
「明日花お姉ちゃん、どうしよっか?」
「お姉ちゃんに何かしたの?」
目前にいる、自分と同じ声の相手に問いかける。
「うん。この日記が食べちゃった。今は過去でも未来でもないところで漂ってる」
「なんで!?」
目を開けてにらみつけたい。蹴りを入れてやりたい。きっと醜い顔をしているのだ。そうに違いない。
「ねぇ、お願い。あたしを見て。現実を見て。そしたらお姉ちゃんだって帰って来るよ。日記だって返してあげる」
「開けないで真午さん。死んでしまうから」
終夜が代わりにカコをにらむ。
「怖い顔しないでよ。だからいじめっ子しか寄ってこないんでしょー」
「うるさい!」
声を荒げたのは今日子だった。終夜はぎょっとした。
「何も知らないくせに! あたしは……っ、あたしだって知らなかったけど! あたし……っ、そんなこと言わないでよ!」
同じことを思ったかもしれない。そう考えると余計に自分が腹立たしい。
「大丈夫だから。僕は気にしてない」
「気にしてよ……! 今のあたしなら、あの頃のあたしにあんたと仲良くしろって言えるのに! だって夕刻くんが来なかったらずっと一人だったのに! 根暗だけどっ、でも本当は優しい顔で笑うのに!」
感情的になって、強く閉ざされたまぶたの隙間から薄らと涙がにじむ。
「きみの世界には彼はいるんだろうか?」
ポツリと終夜は言った。
「いない」
何度もそんな風に答えてきた。
「別の世界で夕刻くんが、魔法の便箋を使ってあたしの世界の夕刻くんを日本に呼ぼうとしてくれたけど、断っちゃったから。だから、そうでなくても来るかもしれないけど、やっぱり来ないかもしれないから……。ごめん」
「じゃあ、元の世界に戻ったら話しかけて。その世界の僕と友だちになって」
終夜は今日子を引っ張り駆け出した。
「お姉ちゃんはどうする気!?」
カコが怒鳴る。
「彼女が戻ればいいだけだから!」
終夜は振り返らず叫んだ。
ダイダイ商店街の人々はそろって空を見ていた。太陽が消え、月が消え。朝から夜へと行ったり来たり。終夜は頭がおかしくなりそうだった。
「ちょ、ちょっと待って! 走りにくい! ストップ!」
今日子の言葉に足を止める。急停止に彼女はもつれるが、それを終夜は受け止める。彼は辺りを見渡す。カコはついてきていない。
「今開けてもいい?」
「駄目」
「……ごめんね。性格悪いよね、あたし」
ふ……、という息遣いが聞こえた。
「大丈夫。日記の力で変になってるだけだから」
「……今、笑ってる?」
「たぶん」
今日子は少し緊張が解けた。
「これからどうするの? どこへ行くの?」
「どこでも。おじさんが家宝を見つけるまで逃げないと」




