14、ふたりの今日子
F
不登校になって早一週間が過ぎた。母の呼び声が聞こえないように布団で身を守る。今日子は風呂とトイレ以外は部屋に閉じこもっていた。布団の中のわずかな空間だけが自分の世界だと言い聞かせた。
しかし、それでもこの場所も本来いるべきである今日子のもので、この布団も彼女のものなのだ。ベッドもそう。部屋も。この一日も。本物の今日子はどこにいるのか。自分がこの世界に来た時、彼女の身に何が起こったのか。わからない。
……まさか、殺してしまったのだろうか。違う世界へ飛ぶたびに、ドッペルゲンガーの法則で消し去ってしまっているのだろうか。消してしまうのだから、それから自分がいなくなっても、真午今日子が消えたという事実は残り続けてしまっているのではないのか。
(それだけは嫌だ!)
自分はこの世界にとって偽物。けして居てはならない人間。異物なのだ。まるでゾンビが這いずってくるかのような速度で、そして恐ろしさが身に染みてきた。悪魔の方法を使って独り善がりの生活を楽しんだ報いが来る。ただ帰れないだけでは済まされない……。そんな気がしてならなかった。
そう例えば、まだ怖いもの知らずの別の今日子がこの世界に来ようものなら、自分はどうなってしまうのか。消されてしまうのか。一つの世界に同じ人間は二人もいらない。だから闇の中へ押し出されてしまうのか。
どうか夢であってほしい。自分は単なる、ここは自分のいるべきでない世界だと思い込んでいるだけの、夢見がちな痛々しい女子なのだ。そうであってほしい。
「今日子! ねぇ、何があってん? お母さんに話してみ?」
ドア越しからの母の心配そうな声。この世界の今日子の母親。遺伝子レベルでは親子でも、自分にとっては偽の母。馴染みのある声すら悪魔の声に思えてきた。悪魔が家族のふりをしてあげているだけのように思えてきていた。ドアを開ければどこかへ連れていかれそうな気がしていた。
「ほっとけばいいじゃん」
むっとした。姉はどの世界でも共通して腹立たしい女だ。階段を下りる音が終わるとしんとする。しばらくしてインターホンが鳴った。
「今日子。茜ちゃんが顔を見せに来たけど、どうする?」
今日子は身を起こし、ぼうっとする。茜はいつも学校が終われば家に寄り、ノートのコピーを渡しに来てくれていた。どうせ顔を見せてくれないとわかっているだろうに、今日はわざわざ朝からY字路の所から折り返して様子を聞きに来てくれたのだ。その優しさがかえって苦痛となった。実は偽物だと知ったら、あの子はどう思うのだろう。
「ごめんって言っといて……」
「そう」
母は困り顔で階段を駆け下り、玄関にいる娘の親友に告げる。
「ごめんなさいね。あの子まだ具合悪くて」
「そうですか……」
茜は目を伏せる。
「ねぇ、あの子学校で何かあったかしら? ほらその、いじめ、とか……。学校を休むなんて初めてだから……」
「いえ、特に。そんな……」
そんなことある訳がない。あったなら許せない。必殺のアンパンチで今日子を苦しめた奴らを懲らしめてやるのだ。今までずっとからかう男子からたくさん守ってくれたから、困っている彼女を助けるのは自分の役目なのだ。
……ふと、茜はあることを思い出す。
「あの、最近マヒロと話が噛み合わなかったりしますか?」
「んんー。部屋にこもってばかりであまりしゃべってくれないから」
「そうですか……」
「本当にごめんね。学校遅刻しちゃいけないから行きまっし」
「はい。お邪魔しました」
「いってらっしゃい」
今日子の母は娘を送るように手を振った。茜は丁寧にお辞儀をして真午宅から出る。
垣根の陰から誰かが顔を覗かせている。目が合うと彼は慌てて引っ込んだ。
「朝間くん?」
道に出れば気まずそうに口を一文字にしている。
「もしかしてマヒロを心配して?」
「ちげーし。今日はこの道で学校に行こうと」
いいや。彼の家はここよりも〝上〟にある。ここを通るということは学校とは正反対に進んでいるということになる。茜はクスクス笑った。
「マヒロの奴、また休みか? 授業どうすんだよ」
唇を尖らせる朝間に対し、茜はか細くうなるだけ。
お互い無言でオレンジ階段を上った。朝間はちらりと茜を見る。茜はずっと足元に気をつけている。オレンジ階段の段差は何気なくばらついていて、慣れていないとつまずく。ハラハラしてくる。
気まずく感じているのは自分だけなのだろうか。友だちにからかわれたせいだ。東雲が自分のことが好きかもしれないなんて。
(そりゃあ、最近目が合うなあって思うけど)
それはたぶん、ないと思う。だって東雲よりも少しだけ、ちょびっとだけ、背は低いし、顔も微妙だし。フレンチブルドッグに似てるってマヒロに言われたし。お前だってブサイクやん。ブツブツ……。
「え、何?」
「へ?」
きょとんと顔を覗き込まれ朝間はぎくりとする。無意識に声にしていたらしい。
数メートル先にもう一人、山吹中の制服を着た少女がぐんぐんと歩いていた。二つ結びの後ろ髪が肩甲骨の辺りをとんとんとんとリズミカルに打っていた。
「なぁ、あれマヒロだよな?」
「え、ウソ?」
茜は上にいる彼女を注意深く見る。本人は自宅にいるから、そんなことする必要などないのだが。
「後ろ姿が似てるだけだよ」
「でもさぁ、この町で山吹中に通ってるのって……」
少女は階段を上りきる。朝間は残りの段を一気に駆け上がった。これ以上、茜と二人きりなのはきつい。今日子がいてくれる方が気楽だった。
しかし、見えたのは少女ではなく夕刻だった。
「今マヒロ通らなかったか?」
「見てないけど。マヒロ、今日は学校来れるのか?」
夕刻は目を見開いた。
「マヒロは今日もお休みだよぉ」
長い階段途中の茜が息を切らせながら手を振る。朝間は諦めきれずに辺りを見渡すが、少女はいない。
「絶対さっきのマヒロだって! 俺わかるもん!」
「そんなこと言ったって……マヒロのお母さんが」
「まあまあ。自分のそっくりさんは世界に三人は存在するっていうからさ」
夕刻は朝間をなだめた。
「真午さんは今日も欠席かぁ」
峰岸が出席簿を書き込みながら言う。
「まだ具合が悪いそうです」
茜が弁解した。
「先生。真午さんが外出しているところを見ました」
学級委員長の早根が挙手して言った。
「昨日、私がツタヤ一階の本屋さんにいると、真午さんが入ってきて二階のレンタルコーナーに行きました。普通に元気そうでした」
「待って、それ何時の話?」
茜は早根の顔が見えるように席を立ち後ろを向く。
「四時半くらいね」
「じゃあ違う。あたしがマヒロんちに行った時、お母さんが部屋にいるって言ってたもの」
「抜け出したんじゃないの?」
「マヒロは仮病なんかしない。ね、朝間くん」
急な名指しに朝間はがたりと椅子を鳴らした。
「ま、まぁ、あいつ小学校は皆勤賞だったし。でもやっぱりアレ、マヒロ……」
「朝間くん!」
尖った声音に首をすくめる朝間。
「落ちついて東雲さん」
峰岸は誰が正しいのか判断しかね、三人の顔色を見比べる。
「だって先生、皆勤賞だった人が仮病なんてしないでしょ?」
茜は手を組み、悲しげに先生を見つめた。守ってあげたくなるような表情を前列と横列の男子は見つめた。
「じゃあ私が見た真午さんはなんなの?」
メガネザルのような早根の眼力にたじろぐ茜。
「それは」
早根は神経質で、どんな些細なことも見逃さない。彼女がクラスメイトを見間違える可能性なんて、抜き打ちテストの鬼である崇城が採点ミスをするかどうかと等しいのだ。
「……ドッペルゲンガー」
苦し紛れのセリフにポカンとする峰岸。失笑するクラスメイト。
「とにかく、先生が確認しておくから」
早根は勝ち誇った笑みを浮かべ、茜は顔をアンパンマンのように赤くしながら着席する。
「ごめん、東雲さん。僕のせいだ」
夕刻が後ろからこそりと声をかけた。朝の会話のことを言っているのだろう。茜は否定の意味を込めて首を横に振った。彼女は終夜とも目が合うが、彼は無表情のまま視線を前に向けた。
その後、さらに学級全体を混乱させた出来事が起こった。それは数学の授業で、崇城のさりげない一言で始まった。
「今日は真午も出席だな」
ざわつく教室。茜は隣を見ると、今日子が当たり前のように座っていた。
「マヒロぉ!?」
「うわッ、いつの間にいたんだ?」
朝間も驚いて立ち上がる。夕刻も早根も唖然として驚きを隠せない。
ところが。
「最初からいたよね」
「うん、いた」
こそこそと会話が始まる。
「ちょっと待って。朝礼の時はいなかったでしょ!」
早根は今日子を指差し咎めた。今日子は笑みを浮かべる。
「はぁ? あたしずっといたよ? ね、茜」
「へっ? え、あ、と」
「嘘つけマヒロ! お前いなかっただろっ!」
朝間は自分の記憶に自信があった。今日子は彼を白い目で見る。
「何言ってんの? 馬鹿朝間」
「なっ、馬鹿マヒロブサイク!」
「馬鹿朝間ブルドッグ!」
「静かにしろ! 真午、お前はいつから学校にいるんだ?」
崇城はことの発端である今日子に尋ねる。彼女は澄まし顔で、
「朝礼からずっといました。峰岸先生に聞けばわかります」
それでも口々に「いなかったよね?」「いたって」と、意見が半々に分かれていた。
一体何が起こっているのか。隣にいる親友は一体何なのか。茜は戸惑った。もしただの遅刻だったなら、最初からいたかのように振る舞う度胸を今日子は見せない。おどおどと廊下からタイミングを見計らっていたはずだ。今日子はお転婆のようで、小心者な面がある。些細なケアレスミスが彼女の活発的思考を制限させるのだ。
「みんなおかしいね」
今日子が笑いかけてくるので、茜はぎこちなく応じた。
崇城は授業後、足早に職員室の峰岸の元へ足を運び、事の真相を尋ねた。
「え? 真午さんは今日も具合が悪いと欠席で……あれ?」
出席簿を開いた峰岸は目を疑う。真午今日子の枠にしっかりと、出席を意味する印が付けられていた。
「いや、あの……。あはは、最近記憶があやふやで……」
崇城は険しい顔で顎を上げ、彼女のデスクの角を竹ものさしでコツンと叩く。
「それでも二年一組の担任ですか?」
「あはは……。いや実は朝礼の時も真午さんについてちょっとした、いざこざというか」
「まだ何か?」
「彼女は昨日まで欠席だったんですけど、外出してるところを早根さんが見ていまして。でも東雲さんはちゃんと家にいたと真午さんのお母さんから聞いてるみたいで。じゃあアレは何だったんだ、ドッペルゲンガーだ、とかなんとか」
崇城は押し黙る。
「あ……あれ?」
峰岸は出席簿をまじまじと見つめ、苦笑しながら首をさする。
「あー……すいませぇん。昨日は出席してます、ね」
「何?」
出席簿にははっきりと印が付いていて、消しゴムで消したような形跡もない。
「おっかしいなぁ……」
自分で書いたはずなのに。峰岸は首を左右にひねる。
崇城も自身の出席簿を確認した。昨日の授業は鮮明に覚えている。真午はいなかった。はっきりと枠に斜線を引いた。それなのに。
(出席……)
間違いなく、東雲茜にその日の分のプリントをしっかりこの右手で渡している。「真午とは顔を合わせてないのか?」そう言って。
(昨日の出来事が、今日になって変化している?)
一体これは何だ。何かの魔法なのか。真午の仕業なのか。ありえない。
こうして崇城は図書室の司書にも協力してもらい、過去に似た現象が起きてないか調べ始めたのだった。




