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13、こうかいの今日子

「ごめんくださぁい」

「ああ、朝間さん」

 朝間の母親だ。ナイスタイミングだ。

「あのねぇハサミ。うちの旦那ったらまーた適当に買ってきちゃって。あたしは左利きだってのに、右ばっかりそろえて」

「理容鋏なら裏にあるんで」

「ピンでお願い」

「ピンしか置いてないですけど」

 店主はのっそりと立ち上がる。儲かっているのかと心配になるくらい、この店の商品はお手頃価格である。

「床屋さんのハサミもあるの?」

「うん。朝間さんなら買ってくれるし」

 今日子の質問に答え、店主は裏へ引っ込む。そして品ぞろえが豊富。ただ在庫は少なく、早い者勝ちである。

「おばさんはここのハサミが一番使いやすいの。スススッとね」

 朝間の母は散髪の動作をしてみせる。

「おばさん、この人の前髪切ってくれませんか?」

 朝間の母と目が合い、終夜はさっと前髪を隠す。

「ほらおばさんに見せて」

 隠す手をどかす朝間の母。真っ赤な唇の濃い化粧の顔がずいっと近づいて、終夜はのけ反る。

「あらら、伸ばしっぱなし。あんたせっかく旦那と違ってカッコイイ顔でできてるんだから見せないと損よぉ。ほらあ、佐々木蔵之介に似てるって言われたことない? おばさんがね、新品のハサミで切ってあげるから」

「お金ないです」

「お金なんていいわよぉ。文房具さーん! いらない新聞紙はなぁーい?」

 終夜は今日子を恨めしそうににらんだが、彼女は知らんぷりした。

 あっという間に終夜の前髪はバッツリと切られ、整えられた。朝間母の腕前は確かなもので、自らの手で切ったというBの世界の彼よりも見栄えが良かった。

「お、似合ってる似合ってる」

 店主も無精髭をざらざら触りながら絶賛する。

「落ちつかない……」

 慣れ親しんだ髪がない。終夜は青い顔で目の周りを触りまくる。

「文房具さんもそのぼさぼさな髪と髭。うちで何とかしましょうか? シャンプーもしたげるわよ」

「あー……。じゃあ今度で」

 つまり嫌だということだろう。

「そうそう今日子ちゃん。もしまた光が変なことしでかしたらおばさんに報告して頂戴ね。その時はグリグリしてあげるから」

 クレヨンしんちゃんのみさえヨロシクで両拳を見せつけられ、今日子は笑った。

 朝間の母が雨と共に去り、今日子と終夜も文房具屋を後にした。終夜はまだ俯いて目の周りをしきりに触っている。

「ほら、似合ってるから大丈夫だよ。カッコイイからさ」

 彼は手をゆっくり下ろし、前を見る。雲間から降り注ぐ太陽の光の筋が徐々に膨らみ、路面はキラキラと輝く。終夜は目を細め、あと一回だけ目の周りをこすった。

「……似合ってますか?」

 下にいる彼女に問いかけた。顔色がほんのり明るくなっていた。

「似合ってるよ。あとさ、別にあたしに対しても敬語使わなくていいよ、同級生だし」

「……わかった」

「夕刻くんは優しいからさ。きっと親友になれるよ」

「まるで彼のこと昔から知っているみたいだ」

「え、あ、いや、印象印象。雰囲気だよ、アハハ。あと朝間もさ、なんだかんだでいい奴だよ」

「知ってる。前、助けてくれた」

「何を?」

「街で小学生の頃の先輩に会って、いろいろ。朝間くんすごいんだ。年とか体格とか、そういうの関係ない」

 終夜は嬉しそうだ。

「その先輩って……、今は高校生?」

「うん」

「ああ……」

 茜ではなくなっている。あることないことのずれ。この世界の彼は未だにいじめを受けている。眩しいのか、彼は目を細めて微笑んだ。

「真午さんは変わってる、とても」

「そう……?」

「こうして向き合ってみると、何だか変な感じする」

「何それ」

「うまく説明できないんだけど、異星人みたいな感じ」

「あたしが? 異星人?」

 今日子は笑みを噛み殺した。

「なんだろう……。きみは真午さんだけど、真午さんじゃない。どうして僕、いつもうまくしゃべれない……」

「そんなことないよ。言いたいことわかるし。要するにあたしは他の世界から来て、成り変わってるってことでしょ?」

 それはまるで、あの魔法の日記帳の効果そのもの。

 やっぱり。おかしい。

 もしも、彼の感覚が本物だとすれば。

(あたしはこの世界のあたしじゃない?)

 焦ってくる。

「どうしたの?」

 終夜は彼女の露骨に曇った顔を不思議そうに見下ろしている。

「ううん、なんでもないよ」

 Bの世界の彼が教えてくれた、元の世界に戻る方法。肝心な部分をし忘れている。

「じゃああたし、帰るね」

 走った。

 靴を脱ぎ捨て、自室に飛び込んだ。勉強机に置いてある魔法の日記帳を手に取った。

 呆気に取られる。あのペイズリー柄のレリーフが施されていなかった。つるつるの革表紙。昨日まではこんなのではなかった。しかし、ページを開いてみるとそこには確かに自分で書いた日記がつづられている。

 魔法の日記帳ではなくなっていた。この世界の今日子は、魔法の日記帳を所有していないということなのか。

 今日子はプリクラを探した。机の引き出しや本棚。CDラックにチェスト。どこをあさっても見つからない。

「なんでなんで……ッ」

 夕刻との大切な思い出が消えている。彼と撮影したことになっていないからなのか。

「ちょっと今日子。DVDは?」

 明日花が不機嫌な顔でドアを開けた。

「ちょっと待って!」

 妹の叫びに明日花はぎょっとする。

 今日子は文房具屋へ駆け戻った。頭の中がこんがらがっていた。

「おじさん!」

「ん」

 店主は畳に腰かけたままDVDディスクの入った袋を差し出す。今日子が戻って来るのを待っていたのだ。しかし彼女はそんなもののために戻ってきたのではない。

「おじさん! 魔法の日記帳って、全部で何種類あるの!?」

「知らないよそんなの。俺興味なかったし」

「でも一つは知ってるじゃん! あのドッぺ」

「〈ドッペルダイアリー〉でしょ? 好きな世界に行き来できるやつ」

 今日子は血の気が引いた。

「それって自己……、〈自己満足の日記〉とか」

「ああそう、よく知ってるじゃん。〈ドッペルダイアリー〉が正式の商品名なの」

 今日子は滑らしそうになった袋の持ち手を強く握った。

「でもあれ、親父が言ってた話を覚えてる限りじゃあ、自己満足じゃないよね」

「え?」

「あれね、その世界に現在進行形で自分がいないと行けない訳ね。だって日記って自分を主体に書く訳だから。だから死んでたり、存在してないと、行けない。いい?」

 今日子は小刻みにうなずく。

「で、その日記を使うに当たって、理想的なことを並べる。例えば宝くじで三億円当たった。そして行く。三億円は自分の物で使い放題。満足。じゃあ、元々その世界にいた自分は? 満足だと思う?」

 答える前に店主は続ける。

「満足じゃない。だって自分の物だった三億円が突然現れたもう一人の自分に取られちゃったんだから」

「でも、待って。その元々いた自分はどこにいるの?」

「へ?」

「だって別の世界からその世界に来たら、同じ人間が二人できちゃうよ」

 今まで一度も、もう一人の真午今日子を見かけたことはない。

「それは俺も知らないよ。全然興味なかったから。まぁ、注意書きは家のどっかにあるんだけど。とりあえず日記とか見つけたら処分ってだけ覚えてた。とりあえず〈ドッペルダイアリー〉の〝ドッペル〟ってドッペルゲンガーのドッペルだな」

「ドッペルゲンガー? 出会ったら死んじゃうっていう?」

「そうそう。俺の先祖もそれで死んだんだって。分身の魔法とかならともかく、同じ世界、同じ時間軸、同じ地点に全くの同一人物は二人もいらないっていう法則だよ。インクライン・サークシャーの『正しい世界の十戒』の一つね。まぁ、出会わなかったら大丈夫ってこと。……今日子ちゃんさっきから顔色悪いけど、さっきの饅頭当たった?」

 店主は謝罪の色なしに彼女の顔を覗き込んだ。

「違います」

 袋の持ち手をクシャクシャと音を立てる。ザラザラとした感触が汗でべっとりとしていた。

「もう、ないんですか……? その日記」

 掠れそうになったのを、どうにかはっきりと問う。

「ないんじゃない?」

「ははは」

 せめて濁してほしかった。今日子はとぼとぼと帰路についた。

 DVDディスクはリビングのソファに落とす。明日花が何かをぶつぶつと文句を言っていたが耳に入らない。

 ベッドに潜り込み、大きな溜め息をつき続けた。

「ちゃんと謝ればよかったなぁ……」

 今更ながら花瓶のことを後悔する。あの時ちゃんと、逃げずに職員室に戻って峰岸先生に謝っておけば。謝って怒られて。それで終わっていたのに。もう遅い。もう元の世界には戻れないのだ。今頃、本当の自分の家族はどうしているだろうか。行方不明になった娘を探しているのだろうか。

 何もかも忘れたい。そう思い、散らかっているCDに手を伸ばした。これも違う。これも違う。

「あれ……?」

 えんじぇるすのCDがない。この世界の自分は興味を持たなかったのか。それとも、最初からそんなバンドグループなど存在していないのか。

「もう嫌だ……」

 心を癒してくれるものがない。布団を丸めるようにかき寄せて抱きしめた。どうか全てが夢であるようにと涙で濡らした。

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