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12、あまやどりの今日子

   F


 梅雨に入り、湿気が肌に感じ始めた。せっかくの休日も出かける気力を損なわせるどんよりと重たい空。そして雨。

 明日花とじゃんけんで負けた今日子は、録画用のDVDディスクを買いに出かけた。アメリカドラマにせよ日本のドラマにせよ、どうして推理ドラマは何シーズンも続いてしまうのだろうか。すぐに録画容量がなくなってしまうので、今日子は毎度うんざりしていた。

 犯人と動機さえわかってしまえばいちいちダビングしなくても良さそうなものなのだが、例えば『コールドケース』は事件当時のヒット曲が流れるという演出が、今日子にとって胸が打ち震え溜め息が出るほどのもので、もはや曲を聴くために見ている……ミュージックビデオのようなものだった。

 いつか、えんじぇるすも時代背景に映されるほどのすごいバンドに成長したらいいのに。などと彼女は上から目線で思う。そして口ずさむ。好きな歌で気を紛らわせないことには陰湿な雨にやらせそうだった。

 自転車を持たない(それだけで憂鬱!)今日子は徒歩で表通りの電気屋へ向かう。その帰りには雨が酷くなり始めていた。風がないだけマシで、早足で自宅へと急いだ。

 人道橋を渡っていると、髭川の岸辺に人影があった。群青色の傘を差したその人物は直立不動でいた。

 水かさが増し、流れが激しくなっている髭川。今日子は駆け足で人道橋を渡り切り、滑らないように階段を下りた。砂利で足を取られながら相手に近づいた。

 やっぱり。終夜だった。ぼうっとしているのか、川の流れる音で足音がかき消されているのか、彼は今日子の存在に気づいていない。

「終夜!」

 声を荒げると彼は目を見開いて傘を落とした。あっという間に雨でかき消されたが、今日子は彼の頬に伝う涙を見逃さなかった。

「何やってんの!」

 彼の傘を拾う。

「ほら、ちゃんと持って!」

「はい……」

 水音に負ける声で返事をして持ち手を掴む。あまりにも弱弱しかったので、今日子は強く手を添えてがっちりと握らせた。

「危ないから行くよ」

 今日子は彼の冷たい手首を鷲掴んで歩き出すが、二歩進むところでクンッと止まってしまう。彼がぼさっと立ち止まったままだったのだ。

「もう! あたしまでズボン濡れてきてるんだからねッ」

 強引に引っ張ると、彼はしぶしぶという感じで動き出した。


「で、なーんで俺んとこに来るんかねえ?」

 文房具屋の店主は頭をボリボリかきながら、腰かけている二人にタオルを渡す。

「だって近いもん。ほら、ちゃんと拭かないと風邪ひいちゃうよ」

 今日子は終夜の分のタオルを広げ、猫背になっている彼の頭にかけてあげた。

「俺の上着で良かったら貸すけど」

 店主はくたくたのシャツをひょいっと終夜に投げつけた。

「あの……」

 終夜は上目遣いで今日子を見る。

「何?」

「あっち向いてください……」

「え? ああゴメン」

 裾をまくる素振りを見せられ、彼女は慌てて上体を逸らした。

「おじさんも」

「あーはいはい」

 女子かよ、と心の中で毒づく。

 終夜はおもむろに自身の服を脱ぐ。もういいかな、と今日子が振り返ると一瞬、青紫色のあざが見えた。サンドバッグの痕跡だ。店主は一歩遅れて振り向いて呑気に、

「あーピッタリだ。俺が着ると肩なんて余裕でつまめるんだよね。あーなんか、あったかいの出そうか、飲み物。この天気じゃ誰も来ないし。ついでになんか買ってさ、売り上げ貢献してくれないかなぁ?」

 前回来た時より商品の種類が増えていた。キャンバスや額縁も以前はなかった。店主が書いたらしき夕焼けが美しい町の風景画や、サンマやら稲穂やらリアルな静物画が壁にかけられている。その代わり、ツバメの巣がなくなっていた。

 店主が飲み物を用意しに消えている間、今日子は終夜に問いただす。

「ねぇ、なんで泣いてたの?」

「え……?」

「泣いてたでしょ、あたし見たよ。あそこ危ないげんよ? 何であそこにいたん?」

 終夜はどっぷりと暗い顔をする。まるでしおれかけのヒマワリのようだ。

「川を見てると、何も考えないで済むから……」

「何それ」

「僕の代わりに怒ったり、悲しんだりしてくれるから……。だから何も考えないです」

「嫌なことあったの……? 教えてよ。あたし何でも聞くよ」

 暴行された直後だったのだろうか?

 終夜は言うことをためらっている。口を開けたかと思うと、口ごもって閉じる。今日子を見ては俯き、言い渋ってようやく、歯切れ悪くもしゃべった。

「嫌な夢を見た。全然眠れなくて、夜中の十一時くらいまで起きてて……、やっと寝た。そしたら夢を見た」

「どういう夢?」

 終夜は思いつめた顔つきで、

「……僕のせいで…………。夕刻くん、死ぬんだと思う」

「……なんで……?」

 今日子は引きつった笑みで尋ねた。

「夕刻くん、僕と仲良くするべきじゃないんだ。じゃなきゃ川に飲み込まれる」

「そんなこと言っちゃ駄目だって。だったら川に行かなきゃいいじゃん、ね?」

 それは彼自身もわかっていることで。終夜は消極的だった。月明かりのない夜の先にある道を見据えるように、ぶつぶつと語り続ける。

「気づいたらいる。それで飲み込まれて……、目が覚める。夜中の十二時に起きている。……真午さんは、今日と明日の間に入ったことありますか?」

「間?」

 彼は神妙に頷く。

「十一時五九分とか?」

 彼は首を横に振った。

「まだそれは今日だから。でも十二時になったら明日になっていて、それはもう明日じゃなくて今日だから」

「じゃあ、何? よくわかんないんだけど」

「今日と明日の間は現在でも未来でもなくて。僕も初めての経験だったからよくわからないけど……。例えるならドラえもんがタイムマシンに乗っている時、みたいな……」

 今日子はクッと笑う。終夜はショックの色で「僕は真面目に」と肩を丸めた。

「ごめん、ごめん。つまり四次元空間ってこと?」

 終夜は頭を垂らし、流れるように言う。

「いろんな僕が僕を見る。絶望と希望と。ある僕はうらやましそうにして、ある僕は怒りに満ちている……。そしてある僕は言うんだ。『日記はどうした?』」

 今日子はクッと喉を詰まらせる。

「えっと……。それって」

「それはあれだぁ。〈ドッペルダイアリー〉」

 店主があくびをするように口を開いた。彼は湯呑と菓子の包みが三つずつ乗ったお盆を畳に置いた。

「何ですかそれは……?」

「俺のご先祖様の作った魔法の日記帳」

「そんな物が、あるんですか?」

 終夜は長い前髪を左右に分けて視界を良くさせる。その目は他の子どもと変わらない、好奇心のある目だ。

「さぁ。全部処分したって聞いてるけど、どうなんだろうね? 探せば案外見つかったりして。その時は遺言通り燃やして処分しないといけないんだよね」

 店主は緑茶をすする。今日子も黙ったまま湯呑を手にした。沸かしたての湯だ。温かくて手のひらがじんわりとする。

(じゃあ、なんであたしに売ってくれたんかなぁ?)

 あれこそが魔法の日記だったということに気づかなかったのか? 〈自己満足の日記〉とは違う魔法の日記なのか? Bの世界の終夜だって持っていたのだ。きっと彼の性格なら、店主が来るまで待って、それからきちんと代金を払ったはずだ。店主だって、その日記が売り物かどうか確認したはずだ。あれ? どうだったかな?

「魔法の日記帳だから処分するんですか?」

 終夜の問いに、店主はうなりつつ菓子の包みを開け、橙色の丸い菓子を半分に割った。白餡(しろあん)の中に杏子の砂糖漬けが入っている。橙、白、橙と綺麗な層だ。匂いを嗅いでから半分をパクリと一口。味わって、緑茶で飲み込むのを終夜と今日子は待った。

「んん、魔法ってさ、どういう意味で魔法って言うんだろうね?」

 二人はこの男が何を言いたいのかわからなかった。店主は眼鏡の曇りを指の腹で拭い、ズレを直した。

「人を惑わす法則か。悪魔の法律か。俺は悪魔の方法だと解釈してるんだけど」

「悪魔の、方法?」

 終夜は聞き間違えではないか確かめるように言い返した。

「んん。〝魔〟ってあんまりいい意味じゃないでしょ。あんまり悪い方法に頼っちゃいけないってこと。要するに悪魔の契約も闇金も、同じ」

 今日子は耳が痛かった。大丈夫。もう使わない。夕刻が転入してきた今、魔法の日記帳を使う理由はない。彼女は焼き菓子を丸ごと一口で頬張った。白餡は甘さ控えめだが、杏子の砂糖漬けの甘味が、噛むほど餡に絡んできた。今日子は目を細めた。緑茶よりも紅茶の方が会うかもしれない。けれど店主は組み合わせなんか考えない男だ。

「ちなみにコレ、賞味期限二日前に切れてるよ」

「んンーッ!」

 客人にそれを出すか? 今日子のふくれた顔に、終夜はプッと吹き出すように失笑。

「だからかなぁ」

 店主は今日子を気にせず天井を見上げ、ぼんやりとしゃべる。

「魔法道具の技師って、大体みんな本職じゃあないんだよね。のめり込むとヤバいんだよ。伝統でも何でも、いつでも辞めれるようにしないと。とりあえず文房具一家は、もう魔法道具は作りません。俺は、ただの、画家、です!」

 自分に言い聞かせるように見えた。

「ふんふぉうぐうゃはふへ(文房具屋じゃなくて?)」

「俺ね、世界中の美術館を巡るのが夢なんだよ。ルーブル美術館にメトロポリタン美術館にウフィチィ美術館。ボストン美術館もいいね。死ぬまでにはね、おじいさんになってからでもいいから。どこでもドアがあったらなぁ」

「ふぃふぃうんごうううぁいいんうぁ(秘密道具はいいんだ)……」

「だってあれは魔法じゃないじゃん」

 聞き取っている店主の真顔に苦笑しながら、今日子は賞味期限切れのおいしい焼き菓子をもぐもぐさせ、緑茶を飲みほす。甘さのあとに苦みが口内に残った。

「僕もどこでもドア、ほしいです」

「あんたまでそんなこと言うか」

「中国帰りたい」

 終夜は切実な色を目に浮かべていた。今日子は口内に残ったあんこを舌で絡め取るのを止めた。

 最初から日本に来ていなかったら。言葉の壁は当然なかったし、中国には彼の急成長の段階を見た友だちも大勢いたはずだ。いじめを受けることはなかっただろう。

「終夜」

「はい」

「……髪、切ろっか」

「え?」

 このタイミングで、なぜそんなことを口にしたのか、今日子も自分がわからなかった。ただふっと思いついたことをそのまま言葉にする。

「うっとうしいもん、その前髪。のれんみたいだし。目ぇ悪くなるよ」

「悪くないから、このままでいいです」

 終夜は咄嗟に前髪を大きな右手で隠す。

「女子のあたしが言ってるんだよ?」

「前髪切ったら、見えます」

「見えるからいいんじゃん」

「目が合う」

 恥ずかしがる終夜。

「理容院ならすぐそこだから行けば?」

 店主は左を指差す。あの激しい雨は収まっていた。終夜は慌てて首を横に振る。そこへ、どっしりした小柄なおばさんが店内に入ってきた。

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