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10、こんわくの今日子

   E


 早めに家を出た。オレンジ階段で夕刻を待つつもりだったが、彼は既に木陰に溶け込むように待っていた。まるで朝の陽ざしを望んでいないような、夜の国の王子だった彼と同じ仄暗い眼差しをどこともつかない方へ向けている。今日子はこれ以上行くのを拒みそうになりながらも上った。

 彼女の気配を察知したのか、夕刻はぱっと顔を向けて普段の爽やかな笑みを見せた。今日子はもうそれは無理をしているようにしか見えなかった。

「おはようマヒロ」

「おはよう」

 束の間の沈黙。言葉を待っているだろう夕刻と、今日子は見つめ合う。一晩考えて出した答えを伝える。

「あたしじゃなくって、終夜に出して」

「え?」

「昨日言ってた、夕刻くんを殺したって言った終夜。そいつに手紙書いてよ」

 夕刻は彼女が何を思っているのか悟り、朗らかに口角を上げた。

「それでいいのか? マヒロ」

「うん……。だってなんか……嫌だし」

「何が?」

 たどたどしい今日子は両手を組んだりこすり合わせたりと落ちつかない。

「お互い、違う世界だけど。それでもお互い自分のせいだとか言って責めてるの、なんというか、嫌な感じ」

 自分なりに気持ちを伝えると、夕刻は馬鹿にせず笑う。彼は両手で彼女の髪をとくように頭をなでた。慣れているのだろうか。今日子は頬を赤らめる。

「そっか。ごめんマヒロ、色々と悩ませてさ。わかった。マヒロの言う通りシューヤに書く。でも出すのはマヒロだ」

「あたし?」

「俺はその世界のあいつに接触してないからさ」

「なるほど……」

「今日中には書くから。それまで待ってて」

 二人は歩き出す。Y字路に着いた時、ちょうど茜が反対側の道から現れた。

「ああ、茜」

「おはよう茜。風邪治った?」

 二日休んだ茜はぎこちない笑みを浮かべる。目元にクマができていた。

「じゃああたし、急いでるから」

 と、彼女は鞄を担ぎ直して駆けていった。

「どうしたんだろう? そういえば朝間も変だったんだよね」

「光が?」

「なんか元気がなかったっていうか」

「ふぅん……。気がつかなかったな」


 茜の方から今日子に声をかけようとはせず、休み時間になれば早々と教室からいなくなった。珍しかった。朝間は他の男子と戯れてはしゃいでいたが、一人で輪ゴムをいじっている時は心ここにあらずといった具合で窓の方を見ていた。

 もしかして二人はうまくいっていないのだろうか。そう思った頃には昼休み。夕刻は図書室で黙々とBの世界の終夜への手紙を書き、今日子は前の世界で借りていたオギの本を探し出して隣で読むことにした。

「あ、それまだ読んだことなかった?」

「まだ途中だったんだよね。夕刻くんも好きなんだよね? えんじぇるす」

「マヒロが勧めてくれたんだよ。アルフィーみたいにみんな見かけが違ってて面白いよ」

「だよねっ。キャラはバラバラなんだけど、グループとしてまとまっているんだよねっ」

 本当はもっと語りたいけれど。

 放課後も手紙を書く。

「そういえば、あいつ図書委員なんだよね。茜と同じで」

 何となく呟いた時には、彼も真面目顔をやんわりと崩した。

 窓は夕日で金色に輝き、図書室のテーブルが淡く橙色に染まった。夕刻の髪も同じように輪郭を照り返していた。終夜が夜の国の王子なら、彼は夕の国の王子なのだろう。二つの国の境は曖昧で友好関係にあるのだ。そして夕方はあっという間に過ぎ去る。夕刻もまた、魔法が与えてくれた今だけの特別な存在なのかもしれなかった。それくらい彼はきれいだった。

「マヒロ。できたよ」

 夕刻は英国風の透かし模様があるクリーム色の便箋を差し出す。

「相手を頭に浮かべながらポストに入れるんだ」

「うん。かわいい便箋だね」

 学校に一番近い郵便ポストに入れる直前、夕刻はプリクラを撮るのを提案した。違う世界のマヒロと出会った記念だった。今日子の行きつけでもあるセガのゲームセンターに立ち寄って、彼は慣れない手つきで操作した。

「駄目だ、全然わかんね」

「違うよ、こうだよ」

 面白おかしく画面越しに落書きした。夕刻は『これはマヒロだよ』と書いた。今日子も『これはゆうこくくんだよ』と書いた。やっと出来上がったプリクラを半分に分けた。夕刻は一枚を魔法の便箋に貼った。

「これで俺がこっちでは元気でいるって伝わるだろ?」

「いや、だったらあたしが写ってない方がよくない?」

「ひとりだったら証明写真みたいになるだろ?」

「いやいや、何ふたりでプリクラ撮ってんの? って引かれるよ?」

「ムカつくくらいの元気が出るならそれでいいさ」

 夕刻はウインクして笑った。

 音楽ゲームを一通り楽しみ、この世界の彼とも別れの時。いつも通り、オレンジ階段で。

「昨日と今日はありがとう。きみのことは忘れない」

「といっても、おんなじ真午今日子だからね」

「でも頭の中が違うよ。記憶が全然違う。少しずつみんながやっていることがずれてるから、自然と人間性も変わるんじゃないかな?」

「昨日はあたしのこと変わらないって言ったじゃん」

「そうだっけ?」

「そうだよ」

 もう一度、夕刻は今日子を抱きしめる。簡単なハグで、今回は短かった。

「バイバイ、マヒロ!」

 彼は大きく手を振り、自分の道へと走り去っていった。

(どうしよっかなあ……)

 今日子はまた悩みながら階段を下りていく。

 さて、これからどうする? 魔法の便箋がなくなった以上、夕刻に会う術は魔法の日記帳しかない。

 もう少しだけ。もうしばらくだけ。もうしばらくの間だけ彼が傍にいる世界へ。それからちゃんと元の世界に戻ろう。そうしたら……。

 未練が取れない染みとなって胸に広がっていく感じだ。その染みの元はなんだろう。

(……花瓶)

 花瓶のことはどうしよう。

 そもそもの、この生活を作った原因はそれだ。それが胸に魚の骨みたいにつっかえている。

 床に散らばる花瓶の破片が脳裏によぎる。その破片が形を歪ませ、画鋲の形へ……。

 ……なぜ画鋲なんかが頭の中に出てくるのだろう。今日子は足を止め、無意識だった頭をポンポンと叩く。画鋲を外に振り落すように。

 不意に襟首を掴まれた。画鋲が一気にばらまかれた。振り返ると、茜が真顔でいた。

「茜?」

 彼女は今日子の胸元のスカーフを掴み、そのまま階段を逆戻りする。

「ねぇ、ちょっと、ねぇ!」

 可愛らしい後姿から怒りのとげが見え隠れしていた。茜はきょろきょろと道を選びながらずんずんと進んだ。行き着いたのはあの公園だった。

 彼女は今までにない声で叫んだ。

「ひどいよマヒロ!」

「エッ……?」

 丸い大きな瞳は戸惑いと憤りで揺れていた。

「ひどいひどいひどい!」

「何がッ?」

 茜は荒い息でスカートのポケットから鉛筆を取り出す。その鉛筆は上半分が乱暴に折れてなくなっている。

「〈透明人間の鉛筆〉。朝間くんの」

「なんで……」

 なぜ彼女が持っている?

「みんなで反省文書いてる時、朝間くんコレ使ってたでしょ? 朝間くんコレで……、何書いちゃったと思う?」

「反省文?」

「朝間くん、マヒロのこと好きなんだよ! それなのにあたしが告白したら『いいよ』って言って! 絶対無理だと思ってたのに! マヒロが相手なら仕方ないって思ってたのに! それって諦めたってこと? 妥協したってことだよねぇ?」

「ちょっと待ってよ! なんで朝間があたしのこと好きな訳? ていうか反省文、茜は書いてなかったでしょ?」

「最近頭どうかしてる! いっつも何かを忘れて! それってどうでもいいからなの? わざとド忘れしたフリしてるんでしょうッ!」

 この世界では茜もあの騒ぎに巻き込まれて反省文を書いているのは理解した。だが、最近ド忘ればかりというのはどういうことだ。

(まさか、別世界の?)

 過去、自分と同じように日記でこの世界に来ていた。そうとしか考えられなくて。

「マヒロ聞いてる!?」

「き、聞いてる。朝間は別に妥協なんか」

「じゃあマヒロの気を引こうとしてるのかも! 朝間くん結構、夕刻くんのことライバル視してたんだよ? いつも仲良くしてるから。ねぇ気づいてた?」

「あ、いや……」

「時々マヒロにちょっかい出すのも、そういうことなんだよ? でもマヒロは気づいてないみたいだったから、あたしにもチャンスはあると思ってた。なのに」

「で、でも、あたし、夕刻くんと付き合ってるし……」

 さらに茜はとがめる。

「そうだよね、抱き合うとか。いつの間になの?」

「え、知らな……」

「知らないよ! 言ってないじゃんそんなこと! どうして言ってくれないの!? また忘れたの!?」

「うわわ……」

 茜は目を潤ませながら罵声をぶちまける。涙が感情的に振りまかれるのも時間の問題だ。茜の泣き顔にきゅんとする男子は、今日子の知る限りでは少なくない。そして今日子もまた彼女の涙に弱かった。

(この世界のあたし、何で言ってないんだよぉ……)

 あたしなら絶対に言う。ああ、今では何とでも言える。もしかすると、校内の援助交際禁止の校則があるから言わなかったのでは……? 交際の事実が判明すれば、ものさし先生に愚痴愚痴と言われてしまう。

 いや、それとも過去何度も別世界の自分が行き来している内の成り行きだったのではないか。そう例えば、直感派がどうという会話をしたあの日がこの世界にもあったとすれば。勝手に別世界の自分が舞い上がって付き合いをオッケーにしてしまったのではないか。……ありえない話ではない。過去は何通りも存在しているのだ。宇宙に埋め尽くされるほどに無限大に違いない。

 今日子は冷や汗をかく。軽蔑の眼差しが痛い。穴があったら入りたい。ブラックホールに吸い込まれた方がまだましかもしれない。茜の怒号は止まらない。

「そりゃあすごい仲いいなぁって思ってたよ! 正式に付き合えばいいのにって! 一言くらい言ってくれたってよかったのに! あたしたち親友だよねぇッ!?」

 今日子は慌てながら小刻みに何度も頷く。

「もう信じらんない信じらんない鈍感! マヒロのせいであたしまでみんなに変な目で見られたんだよ!? 今でも陰で何か言われて! 恥ずかしくて前向けてらんない!」

「まさかそれで休んでたんじゃ……」

 茜はまたスカートのポケットから何かを取り出した。

「ちょっと、何……?」

 押しピンの針がぎらりと光る。茜は彼女を後ろへと追い詰め、自動販売機に押さえつけた。肩の部分の布地を引っ張り、押しピンをねじ込んだ。スカートにも。針は物質の硬さを無視していた。

「何これっ、魔法の押しピン!?」

「そうだよ、魔法の押しピン。〈最強の虫ピン〉だよ」

「なんであんたが持ってんのッ」

「あたし図書委員だよ? それに優等生でイイ子だし? あたしが持ってたって先生は何とも思わないもん」

「そんな、こんなのひどいよ」

「ひどいのはマヒロでしょ!? 反省してよ! あたしに対しても朝間くんに対しても! あんなに明るい朝間くんが作り笑いするなんて! わかった!?」

 茜はそう吐き捨てて行ってしまった。

「ちょっと! ちょっとどうすんのコレ! あたしはこの世界のあたしじゃないよ!」

 必死に呼び止めようにもむなしく、一人寂しく公園に取り残されてしまった。

「そんなぁ……。あたしのせいじゃないって……」

 嘆きが途方へ消えていく。

 日はどんどん落ち込み、暗くなる。夜の国が来る。しかし、終夜は来ない。

 上着は脱げるが、さすがにスカートを脱いで帰る訳にはいかず。座ることもできないで、ひたすら今日子はその場に立ち竦む。とんだとばっちりだ。

 この世界にいた真午今日子もどうかと思うが、妥協したというなら朝間に対しても怒るべきじゃないのか。茜の怒りの方向もイマイチ理解し切れずにいる。よっぽどショックだったのだろうかと、今この世界にいる今日子は考えてみる。

 もし手元に日記があれば、風邪を覚悟でこの場で翌朝を迎えても平気なのに。多分。新たな世界へ行けば、この押しピンは消えているはずだ。しかし怪我はそのままだったのだ。自分の身に起こったものが引き続くのだから、押しピンが刺さったまま自販機ごと飛ぶ可能性も捨てきれない。もしそうなれば、誰もこの〈最強の虫ピン〉を抜くことが不可能になるのでは。

 今日子は押しピンを触る。ひねろうとしてもびくともしない。これがいじめに使われたなら最悪だ。確かに『最凶』の虫ピンだ。

 押しピンを触っていると、じんわりと脳裏に映像がよみがえってくる。

そう、画鋲。小学生の頃。放課後のロッカーだ。

 外履きの靴を逆さにして、中に入っていた大量の画鋲を落とす終夜。チャラチャラといい音がした。夕日に照らされて、それが金ぴかに光っていた。

 今日子は床に散らばった画鋲を冷徹に見下ろす彼が怖かった。ちっぽけだけどトゲのある、不用心に触れれば怪我をする群れをわざと捨てて冷酷に見下している彼が怖かった。ただ靴を解放させただけだ。それが残虐行為に見えたのだった。

 思えば悲しい目をしていたかもしれない。当時から終夜は目にかかるほど前髪が長かった。目が合って、すぐ彼の方から逸らして、何事もなく靴を履き去っていった。残された今日子は悩んだ挙句、放置された無残なそれを誰も来ないうちにかき集めた。人差し指にチクリと刺さってしまいながらも、教室にあったケースに戻しておいた。これで彼が行なった残虐さの証拠隠滅だ。彼女の行動をたまたま見た茜が「どうしたの?」と聞いてきても、今日子は笑ってごまかしたのだった。これでまた終夜のいじめの実態が一つもみ消されたのだ。

 嫌気が差す。なぜここで立ち往生しているのか。時間ばかり無駄に過ぎ、すっかり日は暮れていた。

「もぉ……。誰でもいいから茜を呼んできてよぉ……」

 背中は電気熱で温かい。自動販売機の音が耳につくが、明かりがあって、辺りが無音じゃないだけマシだった。しかし空腹は覚える。財布はあるが水分で腹を満たしても尿意を催したら一巻の終わり。

 時計はこの角度から見つからない。家族も心配するだろう。今日子は溜め息をついてうなだれる。脚の浦が疲れてきた。座りたい。

 そのまま足元をボーッと見ていると、前方に誰かいる気がした。

 視線を感じる。かなり近くにいる。そいつは静かにこちらを凝視している。

「茜?」

 面を上げたが、そこには誰もいない。たちまち今日子は怖くなった。


 チリンチリン……。


 鈴の音がどこからともなく近づいてきた。逃げてきたのか、リードが繋がったままの中型の白い犬だった。息が詰まる今日子。彼女は幼い頃、二度も白い犬に追いかけられたことがあった。トラウマは避けられなかった。

「来ないで、来ないで」

 誰かいると嗅ぎつけたのだろう、犬はどんどん近づく。

「シッシッ……!」

 脚が震える。ギリギリに足を犬の頭に近づけて押しのけようとするが効果がない。

 自分の意に反して自分より大きな犬が来る――昔の恐怖を思い出す。彼女は最終手段を取った。素早くボタンをはずして上着を脱ぎ、チャックを下げてスカートも下ろし、一目散に逃げた。


 チリチリチリチリチリ!


 鈴の音がやって来る。恐怖の対象が追いかけてくると逃げ足も速くなるというが、犬の脚力には敵わない。

「うわーん……!」

「うわあああああああっ!」

 般若面の茜が全速力で走ってきた。これには犬もびっくりしてUターンをした。

「わぁああああ! わぁあああああっ!」

 丸い舌を突き出させ、額に深いしわを作って、茜は犬を追いかける。鈴の音が遠くへ消えた。

「はぁあっ、はぁあっ」

 上品な髪もスカートも乱れて、あの清楚な少女の姿はなかった。

「マヒロぉ! マヒロごめん! あたしどうかしてたぁ!」

「あ、いいよいいよ……」

「護身用で持ってたのに……。こんなことに使うなんて……。本当にごめん……! ごめんなさい……。ごめんなさい……!」

 茜はボロボロと泣き崩れてへたり込む。

「ああもう、いいよぉ……。あたし今、スパッツ……」

 今日子にとって人生一番の恥ずかしい出来事になった。

 魔法の押しピンを外してもらい、スカートを履く今日子。その間、彼女は茜に事情を説明した。茜はずっと驚いてばかりだった。

「魔法の日記帳? マヒロは違う世界のマヒロなの?」

「うん。文房具屋さんで買ったんだ」

「そうだったんだ……」

「言わなくてごめん」

 茜は必死に首を振る。

「ううん! 魔法道具って世間に知られているようで信じない人もいるし、魔法道具だと知らないで使ってたっていう人もいるし」

 今日子は苦笑い。それは自分だ。

「魔法撲滅を推奨する人の中には、道具を持ってるだけで危険度関係なしに罰するべきだって言う人もいて。ほら、海外で人に頼まれて知らずに麻薬を運んでしまって、それで死刑になっちゃったっていうニュースあったでしょ? それからドライバーが飲酒してるってわかってて車を運転させたら駄目だとか。魔法道具もそんな風にしようって唱えてる人もいるの。何が言いたいかって言うと、秘密にしてて正解だった。……たぶん」

 またまた今日子は苦笑い。本当に唾が苦く感じてくる。彼女は茜がいつもの茜に戻っていて安堵していた。

「じゃあアメリカとか大変だね。輪ゴムとか流行してるんでしょ?」

「そうなの。特に赤と黒は確認しようがなくて、本物かどうか実験せずにそのまま燃やして処分するんだって。それで輪ゴムの製造会社には着色料の規制があって、わざわざ他の色に上塗りされないように加工してる所もあるくらいなの」

「わぁ、なんか勉強になる」

「この世界ではね。マヒロの世界ではないの? そういうの」

「歴史の授業で色々習ったけど、魔法使いは最初から存在しないって先生が言ってた。昔いた魔女はみんな詐欺とか麻薬製造と売買してた犯罪者で、だから裁判にかけられて死んで、魔女狩りもただのシケイだって言ってた。私の刑って書いて私刑ね。魔法なんてでたらめだ、まだ世間に認知されてなかった科学の吹きだまりなんだーってさ」

「じゃあそっちでは無くなりつつあるのかな? 魔法」

「ハリーポッターとか超人気だけど」

「こっちでもすっごいよ。再来年にね、クディッチ大会が日本で開催されるんだけど、彼もイギリス代表で出場するんだって」

「え?」

「おかしいよね。魔法撲滅だーって騒いでる人も、この時期になるとおとなしくなるんだからねー」

 茜はころころと笑った。

 二人は夜道を歩く。怖くないように手を繋ぐ。

 民家の明かり。外に漏れる夕飯の良い匂い。浴室からの湯煙。何もかも暖かい。当たり前のようで、もしかしたら偶然そういう世界に飛び続けているだけかもしれない。今日子は運が良かっただけかもしれない。

 階段を下りるごとに、夜空が遠くなる。

「マヒロはいつ元の世界に帰るの?」

「まだ決めてないんだ……。でも今夜にはまた次の世界に飛ぶつもり」

「でもそっちの世界の夕刻くんは心配しない?」

「ううん、元々転校してきてないんだよね」

 茜は気の毒そうな顔をする。

「てことは運命の相手も違うってことだよね。それともいつか出会うようにできてるのかな?」

「できてるかなぁ? ここの夕刻くんもね、少しずつずれてるって言ってたから」

「そっか……。偶然が噛み合うから運命だもんね」

 今日子の家に到着した。

「ただいま」

「今日子、遅かったじゃない」

 玄関のドアを開けるなり、ばたばたと母が険しい顔をして来た。

「すいません。あたしの用事に付き合ってもらっていました」

 茜が健気に頭を下げる。

「あら、そうなの? 帰り大丈夫?」

「はい」

 彼女は明るい笑顔で返事をした。母も茜のそれには弱かった。

「お母さん! 噴き出てるよ!」

「あらららら!」

 明日花の呼びかけに慌てて引っ込む母。肉じゃがの匂いがする。

「本当に一人大丈夫?」

「うん。朝間くんの輪ゴムもあるから。お守りなの」

 茜は手首の黄色いそれを見せる。

「それは本物?」

「本物。高校生が持ってたんだけど、朝間くんがかっぱらったの。『お前が持ってろ』だって。先生には内緒だよ?」

 こそりと言う。『かっぱらった』だなんて、口調もすっかり昔と比べて品が落ちている。

「かっこいいとこあんじゃん」

 今日子がそう言うと、茜は顔を赤らめ、ためらいがちに笑みを浮かべる。

「マヒロ。今日は本当にごめん。ちゃんと償うから」

「あはは、でもあたしは」

「わかってる。だから、もしもまた違うマヒロがこっちに来た時は協力するの。また最近のこと丸っきりド忘れしてるなって思ったら、それはきっと違う世界のマヒロなんじゃないかって、まずは疑うことにするから。朝間くんにもそう言っとく。……あたし、負けないからね。少しずつでも朝間くんに好かれるように笑顔でいる」

「もう、ホントに茜ってば健気。あたしが男なら絶対好きになるよ」

「うふふ。じゃあね」

 茜も今日子を抱きしめ、出ていった。玄関のドアが閉じられた後も、今日子はぽつんとそこに佇んでいた。

 元の世界か。次の世界か。

 そして決めた。

 戻ろう!

 夕刻には会えないが、仕方ない。ページは残しておいて、またいつか会いたくなったら使うのだ。


 寝る前にまた日記を開く。と、手を止めた。

(……どうやって戻るんだっけ?)

 Bの世界の終夜に出会った頃のページを確認する。戻り方について書き留めていなかった。彼の言っていたことを思い出そうとした。自分が夕刻を殺したという話の印象が強かったせいでどうしても曖昧にしか思い出せない。

 本当のことを書けばいいんだよね、確か。

 今日子は焦りながらも、新しいページに花瓶を割った日の日付を書く。


 『峰岸先生の青い花びんを割ったのは私です。放課後、水を変えた後に落ちて割れました。怖くなったのでそのまま家に帰りました。ごめんなさい。』


「ごめんなさい」

 初めて嘘を書いたあのページ。あの慌てふためいている文章を見ると、何だか馬鹿らしく思えた。たかだか五万の花瓶だ。ああ、そうだ。弁償しろと言われたら、今までのお年玉を免罪符の如く突きつけてやろう。ああ、そうだ!

 さあ、戻ろう!

 日記にプリクラを挟んだ。

 どうか元の世界に。そう強く念じながら眠りについた。

 時間が来て、日記が光る。膨張した日記は今日子を飲み込むと、一気に縮み部屋から消えた。

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