1、ぶんきの今日子
〈きのうの今日子〉
A
真午今日子は二年生になった。山吹中等学校の始業式を終え、小学一年生からの親友である東雲茜と下校しているところだ。
二人の印象は見た目通りといっていい。今日子の三角形の濃い眉と頬骨は活発さを表していた。人当たりが良く、「マヒロ」と呼び親しまれている。歩く時はしっかりと、かかとからつま先へと地面を踏みしめ、肘を意識させるように腕を振る。すると二つ結びの後ろ髪がとんとんとんと肩甲骨に打ちつけられ跳ねる。
片や茜はおとなしい。青白い肌をして、ふっくらとした丸い頬は些細な運動をすれば淡い桃色に染まり、一筋の毛細血管が浮かび上がる。ショートヘアの猫っ毛は色素が薄く茶色。小学生の頃には「きのこ」や「アンパンマン」と男子にからかわれ、今日子が代わりに怒って追いかけ回した。歩く時は両手を胸に、軽く指を絡ませる。制服である白い襟とプリーツのない濃紺のスカートが、シスターを連想させた。
今日子が腹を抱えて「あはは」と上向きに笑えば、茜は肩を揺らして「うふふ」と下向きに笑い、今日子が大股でずんずん歩けば、茜は小股ですたすた歩いた。
「それじゃね」
「うん」
住宅街のY字路に差しかかると別れを告げて二手に分かれた。茜は右へ、今日子は左へ。
「山の息吹」から「山吹」と名付けられた、西区にある市立の学び舎は、開発され団地となった今でも地形に面影を残したままの「山」の道中に揺らぎなく位置している。山吹中よりも下に自宅がある今日子は、下校にはしばらく断続的な下りを要した。無論、登校となれば文字通りであり、その時間をだらだらと使いたくない彼女の力強い歩き方も当然の結果といえるだろう。健康的なふくらはぎがその証だ。
土手沿いに立ち並ぶ桜の花びらがまだら模様の絨毯となって路上に敷き詰められている。昨晩は雨だったせいだ。大きな水たまりがあって、足元にも桜並木があった。
一台の赤い軽自動車がガレージからバックで出てきて、ずん、と後輪が平面のコンクリート床からアスファルトの斜面に下りる。全体が道路に出てくる前に、よくもまあぶつけずに運転できるなとドライバーを感心しながら、今日子はさっと避けた。緩やかな下り坂からカーブしていけばオレンジ階段が下へと続いている。
オレンジ階段。彼女は物心ついた時からそう呼んでいる。夕方になるにつれ橙色に染まっていく階段だ。下から見上げれば、夕日は左右の建物に遮られることなく最上段へと沈んでいく。幼かった彼女にはそれが巨大なミカンに見えたのだった。
ジャンパースカートの裾を小刻みに揺らし、オレンジ階段をリズミカルに下りながら、今日子は日記のことを思い出した。彼女は小学一年生の夏休みから日記をつけ続けていた。家族や友だちの心に残った言葉や、腹が立ったこと。面白みのない平凡な日でも一行は書いた。例えば『夜ごはんはオムライスだった。おいしかった。』だけでもいいのだ。
今日から新学期。使用中の日記帳も残り一ページで区切りがいい。茜とはまた同じクラスになれたことだし、その喜びを綴って現代の日記帳を締めくくろうではないか。よって今日子はこのまま真っ直ぐ行くところ、二つ目の踊り場から左の細道に入った。駐輪してある酒屋の自転車を、上半身をねじって避ける。抜けるとダイダイ商店街に出た。
小判型の、挽き肉とジャガイモのバランスが絶妙のコロッケ屋や、常に「東京ブギウギ」が流れている婦人向けの服屋。「査定します」と日焼けした張り紙のある古本屋を通り過ぎると、今日子が一番利用しているカビ臭い文房具屋が小ぢんまりとある。
派手なガムボールマシンを尻目に、「閉店セール」と張り紙が無防備に開けっぱなしのガラス扉に貼られていた。目を丸くしながら土間に入ると臭いがいつにも増していた。埃が白く舞っている。今日子は「ハウスダストは鼻炎の素!」とハンディタイプのモップで掃除する母の姿を脳裏に浮かばせた。
前方の和室には小さめの段ボールが積まれていて、皿を真二つに割ったような肩甲骨を向けて整理をしている店主がいた。
「おじさん、やめんの?」
「やめるっていうか、この状態をやめる」
足音で気づいたのだろう。店主は少女のはきはきとした声に驚くことなく、ぬらりくらりと語る。
「もっとこう品数を増やそうと思って。学生さんも減ったし。ほら、老後の趣味とかに絵を始める人もいるじゃない。だから画材とかマルチにね。ついでに俺の絵も売ってみようかなと。俺芸大卒だし、絵うまいし」
金田一耕助を彷彿させる頭をささくれのある指でかくと、ふけがはらりと落ちる。今日子は眉間にしわを寄せ、欄間の上にできているツバメの巣に目を逸らした。
「それじゃあ閉店セールじゃなくて改装セール? また水道止められたん?」
「うん。止められた。どうしてだろうね、そういう日に限って雨は降らないんだよ」
牛乳ビンの底のように分厚い丸眼鏡に無精髭の、目がくぼんでいる馬面をのんびりと向ける。いつの間にか亡き父親から継いで店を経営しているこの男。歳はいくつなのか、老けた二十代でもありえるし、四十代でも頷ける。三世代にわたって外見が酷似して、まるで何十年も前からこの店を構えているような錯覚を陥るほどだ。
「だからテルテル坊主が逆さに吊るしてあるん?」
ティッシュ製のテルテル坊主が頭を下にして、長押に貼られたテープから吊るされている。
「こんなんしても降らないよ」
今日子は昨晩の雨のことをすっかり忘れていた。
「我欲のために近所に迷惑かけちゃ駄目だし。そりゃあ神様は許さないよね。でも一応」
「別にそういう意味で言ったんじゃないよ」
こうして店主との会話が噛み合わないことがしばしば。けれども今日子にとって文房具屋の店主は信頼できる人物だった。幼稚園児の頃から和室に上がり込んではクレヨンで絵を描き、作品を飾ってもらい、小学生になってからは母親がパートから帰ってくるまで面倒を見てくれた、よきおじさんだ。彼女は「きっといいお父さんになれるよ」と何度もおだてて、決まって店主は「紹介してよ、可愛い先生を」と本気かもわからない台詞を吐く。今日子にとって店主は茜の次に親友だと勝手に思っていた。
「ところで、授業用ノート買いに来たんでしょ。それとも日記帳?」
「両方。あとシャー芯」
「電卓ここね。ちょっとこれ物置に運んでくるから、お金はここに置いといてよ。おつりはここから出して」
店主は「よっこいしょい」と段ボールを二箱重ねて抱えて、奥の台所から左折する。平べったい体のどこに筋肉が詰まっているのだろうと今日子は思った。
「盗んじゃったらどうするん?」
「今日子ちゃんはそんなことしないでしょ」
店主はそう言い残した。
「せんけどさ……」
ほどなくしてビワの木のある小さな庭をよたよた歩く後ろ姿が台所から見ることができた。縁側のところを曲がったところに物置があるらしいのだが、今日子はそこまで行ったことがない。何度かこっそり挑戦しかけたことはあるが、店主は今のような言葉を使って好奇心を信用で包み込んできたのだ。裏切ったらもうこの店に入れてもらえないと幼心で解釈してしまい、結果興味を失ってしまった。どうせ在庫でごちゃごちゃしているのだ。
今日子は授業用のノートを色違いに五冊と日記帳を一冊、それからシャーペンの芯を二セット手に取る。売り上げに貢献したと彼女は思った。
店主が言うのも忘れていた消費税も含めて電卓で計算すると、上着の裏ポケットからサクランボ柄のがま口財布を取り出して、小銭を畳の上に一枚ずつ置いていく。
ふと、斜め左にあった茶色いノートに目が留まる。店主が持っていった段ボールの下敷きになっていた物だった。
手に取ると一ページも使われていない。折った形跡もない。ペイズリー柄のレリーフが施されている革の表紙。触るとぼこぼこしていた。表紙には筆記体で【Diary of Stationer`s】と書かれていた。指で文字をなぞりながら「でぃありー……? だいありー?」と声に出して、日記帳だと気づく。
「ねぇ! 畳にあった茶色のノート! これいーいー?」
声を張った。返事がなければ戻ってくるまで待とうと思った。すると「あぁ」というあくびのように気の抜けた返事が聞こえた気がする。今日子は鞄に購入した物を詰め込み、代金の書き置きを残して文房具屋を後にした。
店を出て右に曲がるや黒い壁に立ちはだかり、あわやぶつかるところだった。学ランを着た同級生の男子、終夜静平が突っ立っていた。彼も同じクラスだ。昔から大人だと間違えられるほど高身長で、寡黙。今日子は小学生の頃から彼を知っていて、苦手意識を持っていた。
「どいてください」
終夜は微妙に唇を動かして、ぼそりと言った。前髪の間から覗く暗い目でにらまれた今日子は「あ、ごめん」と横に一歩、カニ歩き。終夜は一目すると、黙って文房具屋の中へと入っていく。
(なぁに、あの根暗? くっらぁ)
今日子は口を尖らせて大きな背中を疎ましくにらみ、小走りで帰宅した。
終夜は視線を巡らした。店主がいない。和室まで歩むと、斜め右にあったごく普通のノートが目に入る。
「なんだ、結局いらんのか」
戻ってきた店主は言う。終夜は微妙に首をかしげていた。
「今日子ちゃん。それ欲しいって言うから。ところで何買う?」
「消しゴム」
「ほおい」
一羽のツバメが店内に入ってきた。終夜の頭上から巣へ戻ると、ひょっこりと雛が顔を出して餌欲しさにピーチクパーチク鳴き出した。




