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木々の生い茂る森の中、荒い息をしながら辺りを見回す少年がいた。
「撒いたか?」
自然と漏れた言葉を認識すると、自分の足がもう一歩も歩けないと主張する。
近くの木に背中を預け、そのままずるずると座り込む少年の体には、小さな傷がいくつも見て取れた。
「ジョンの奴、上手く逃げられたかな……」
少年は先程まで一緒だった友達の心配をする。
二人で森の中を歩いていたら、運の悪い事にゴブリンに出くわした。
必死で逃げたが、ゴブリンは普通群れで行動する。
今回出会ったゴブリンも、ご多分に漏れず群れで行動していた。
冒険者にとってはなんでもないモンスターだが、何の武器も持っていない、あと少しで成人となる二人の少年には荷が勝ちすぎた。
気付けば完全に囲まれそうになっていたため、自らをおとりにして、ゴブリン達の包囲網に穴を開け、ジョンをそこから逃がす事にした。
自分もある程度ゴブリン達を引き付けたら、そのまま振り切ってやろうと目論んでいたが、命を狙われるというのは想像以上に体力を消耗する様で、逃げ切れると思い込んでいた彼の自尊心を木っ端微塵に打ち砕いていた。
「あいつがいるからって、油断しすぎた。あんなやつ、いなければいいと思ってたけど、ざまあねえや」
この村にある人物が現れてから、危険な生物は見かける事が無くなった。
それがいつの間にか、武器も持たずに森に入る油断につながった。
少年は溜め息を一つ付くと、空を見上げる。
「さて、ゴブリンに見つかる前にさっさと行くか」
掛け声をかけ立ち上がる。
周囲に気を配りながら、足音を立てぬよう慎重に歩き出す。
先程、かすかに見えた太陽の位置を確認したから、方向は合っているはずだ、と自分に言い聞かせ、くじけそうになる心を奮い立たせる。
疲労と緊張でうるさい位に鼓動を刻む心臓をなだめ、道なき道を進むと、木々の合間から人影が見えた。
ゴブリンかと思い、木の陰に身を隠しそっと様子を覗う。
「女の子?」
シルエットから、ゴブリンではないと判断した少年が目をこらすと、この場には不釣合いな少女が見えた。
手には森の中で拾ったと思われる木の枝を杖代わりにし、しきりに辺りを気にしている。
少年が軽く舌打ちをして少女に向かって走ると、彼の事に気付いた少女もまた、少年の元へ小走りに向かった。
「いまこの森にはゴブリンがいる。見つからなかったか?」
少年は警告を発しながら少女を見る。
肩まで伸ばした癖の無い黒髪に、大きな黒い瞳。
今まで少年が見た事のないような整った顔立ち。
命の脅威に晒されている事も忘れ、一瞬見惚れていると、少年の問いに頷いた少女は淡い桃色の唇を開く。
「カールさんですか?」
少年は、初めて会ったはずの少女が、自分の名前を知っている事に驚きながら答える。
「そうだけど、なんで俺の名前を知ってるんだ?」
「ジョンさんに聞きました。丁度ロッテさんとハンナさんも一緒にいたので、その時にお二人の事も聞きました」
「ジョンは無事逃げられたのか!?」
自分の置かれた状況を差し置いて友達の事を心配するカールに、好ましいものを感じたユリの口元には、自然と微笑みが浮かぶ。
「怪我をしていましたが、大事には至りませんでした。今頃は、もう村に戻っている頃かもしれません」
カールは安堵の溜め息を付く。
「よかった。ジョンが世話になったようだな、ありがとう」
「いいえ、私は大したことをしていません。ジョンさんが無事だったのは、身を挺して彼をかばったカールさんのお陰です」
「こそばゆい事を言わないでくれ。それよりも、なんで君が森の中に来た? 危険なのは分かっていただろう?」
「ロッテさんとハンナさん。そしてなにより、ジョンさんがカールさんの事を心配していました。私はあなたを連れ戻しに来たのです」
「君が?」
「はい。私はユリといいます。一応冒険者をしています」
思わずユリを値踏みするカール。
食い詰めた者や、盗賊崩れなどが集まるのが冒険者だと思っていたカールには、華奢な体に愛らしい顔立ちのユリはどうしても結びつかなかった。
「まあいい。それよりこの森から抜け出す事が先決だ。いくぞ」
自分とたいして歳の違わなそうな彼女が、冒険者だという事には半信半疑だったが、時間が惜しいカールは話を中断して歩き出す。
疲労は極限まで蓄積されていたが、ユリという道ずれが出来たために、疲れた体に鞭打つ。
元々責任感が強く、ジョンを逃がすために自らを囮にしたくらいだ。
可愛い少女が一緒ともなれば、年頃の少年の限界などあってないような物だ。
ユリも周囲に気を配りながら、彼の後ろに続いた。
「ちっ! こっちもダメだ」
しばらく森の中を彷徨ったカールは、木の陰から辺りを覗いながら舌打ちする。
彼の前方に、小柄な人影が見える。
大きさからいっても、こんな所に子供が一人でうろちょろしていないかぎり、ゴブリンの可能性が高い。
もちろん本当に子供がいたとしたら、とっくにゴブリンに襲われている。
つまり、相手に気づかれずに一撃で仕留められなければ、仲間を呼ばれる可能性が高い。
手持ちに武器が無い現状では難しいだろう。
しばらくその場で様子を覗っていたが、ゴブリンに動く気配は無い。
手詰まりか? と思われたところで、カールはふと辺りの風景に見覚えがある事に気付く。
彼にとってそれは、地獄にたらされた蜘蛛の糸のようだった。
「こっちだ!」
ユリに声を掛け、藪をかき分け進む。
程なく、蔦の生い茂る大岩の前に辿り着いた。
ジョンが蔦をかき分けると、人一人が身をかがめてやっと潜れる様な穴が口をあけていた。
ひるんだ様子も無くカールが中に入り、立ち尽くしていたユリを誘う。
ユリが入ると、穴の中は入り口ほど狭くは無く、奥にゆくにつれ広がっているようだった。
「座ったらどうだ?」
奥の方でごそごそ何かを探しているカールがユリに言う。
ゴブリン達の姿が頭にちらつき、悩んだユリだったが、入り口に近い所で腰を降ろし、蔦の隙間から外を覗う事にした。
しばらく奥の方で地面をまさぐっていたカールが、おもむろに立ち上がると、手に何かを持ってユリの隣に座る。
「何か探していたようですけれど?」
ユリの問いに、カールは薄ら入る太陽の光に手に入ったものをかざす。
「子供の頃に隠しておいた短剣だ」
この洞窟は、カールとジョンが子供の頃から(もう直ぐ成人するとはいえ、まだ彼は子供だ)遊ぶのに使っていた洞窟だ。
そして手に握るのは、その頃に両親に内緒で持ちだした短剣だった。
固着して張り付いた鞘から強引に短剣を引き抜き、錆が浮いているが何とか使えそうだと判断したカールは、座ったまま軽く素振りし、感触を確かめた後鞘に戻す。
得物が出来た事で心に余裕が出来たカールは、これからの事を考える。
蔦に覆われたこの洞窟は、村の大人達にも見つけられた事が無いため、ゴブリン達が二人を見つける事は絶望的だろう。
人心地付いたカールは、隣に座るユリに話しかける。
「このまま夜を待って、闇にまぎれて森から脱出しよう」
だが、彼の提案にユリは頭を振る。
「ゴブリンは暗視の能力があります。日が落ちたとしても、彼等には影響がありません」
カールは顎に手をやる。
「夜目の利かない俺達の方が不利になるという事か」
カールの導き出した答えにユリが頷く。
「暗くなる前に動かなければならないのは間違い有りませんが、それまでもう少し休みませんか? 私、少し疲れてしまいました」
バツが悪そうに言うユリ。
だが、カールは彼女がここに来るまでの間、息一つ切らさず、なおかつ周囲に気を配っていた事に気付いていた。
彼女が休みたいと言ったのも、今にも倒れそうなカールの自尊心を傷つけない様に、休憩させようとした方便なのだろう。
「そうだな、少し休もうか」
カールは心の中で感謝しつつ、彼女の提案に乗る事にした。