【サクッと読める短編】月の喫煙所
月で生まれ育ったマチにとって、地球はいつも分厚いガラスの向こうにあった。
幼いころから、何度もそう思っていた。月面都市を覆う特殊防護ガラスの向こう、漆黒の宇宙に浮かぶ地球は、いつも青かった。
月の夜空には無数の星がある。そのなかで地球だけは、月から見ればすぐ近くに浮かぶひとつの青い光として、特別な存在感を放っていた。青い海に白い雲が入り混じり、刻一刻とその表情を変えていく。
35万7千キロメートル。数字だけを見れば、宇宙規模ではそれほど遠くない距離なのかもしれない。それでもマチには、いつまでも届かない距離に思えた。
月と地球を結ぶ定期船は、ひと月に一度だけ運航していた。決められた日にしか飛ばず、料金も決して安くはない。それでも、月で暮らす人々にとっては、地球へ渡るための現実的な手段だった。指定船なら、もっと自由に行き来できる。ただ、その料金はさらに高く、そう気軽に使えるものではなかった。
マチは月面港の宇宙船整備士として働いていた。まだ一年ほどしか経っていない。仕事柄、地球からやってきた人々を目にする機会は多かった。
地球の人間を見るのが好きだった。仕事を終えると、乗降ゲートの二階にあるガラス張りの喫煙所へ行く。そこからなら、地球からやってきた人々の姿がよく見えた。
彼らは、月の人間より少しだけ遠いところにいるように見えた。話す言葉も、着ている服も、持っている荷物も、それほど変わらない。それなのに、地球から来たというだけで、どこか別の世界の人間のように思えた。
そのなかに、ひとり、毎月同じ男がいた。
オレンジ色のリュックを背負った、背の高い男だった。短い金髪に、よく鍛えられた身体。顔も、マチの好みだった。年齢は自分とそう変わらないように見える。月に恋人でもいるのだろうか。そんなことまで考えてしまった。
名前すら知らない男だった。
それなのに、いつからか、定期船が近づくと彼の姿を探すようになった。
ある月、整備中に燃料をまともに浴びた。作業服も顔も油まみれで、マチは慌てて持ち場を離れた。そのとき、目の前からあの男が歩いてきた。いつもは喫煙所のガラス越しにしか見ない顔が、ほんの数歩先にある。
近くで見ると、思っていたよりずっと背が高かった。
マチは顔を伏せた。
よりによって、こんな油まみれの姿を見られたくはなかった。
また別の月、喫煙所で煙草を吸いながら男を眺めていたとき、ふいに目が合った。
ずっと見ていたことが、ばれてしまったかもしれない。
逃げるように喫煙所を出て、廊下を歩きながら、自分はまるでストーカーではないかと思うと、恥ずかしくなった。
それでも、翌月が来るのを待っていた。
そして、待ちに待ったその日、男は先に喫煙所にいた。
煙草をくわえ、伏せた目で窓の外を見ている。
マチは少し離れたところに座った。
男の指先から細い煙が立ちのぼり、その煙がガラスの向こうの宇宙の暗闇へ溶けていく。煙草をくわえる唇も、ほどよく血管の浮いた手も、煙を吐くときにわずかに動く喉仏も、遠目からでもわかる長いまつげも、綺麗な横顔も、なぜか目が離せなかった。
気がつけば、マチは火のついていない煙草を、ただくわえているだけだった。
男がこちらを見た。
「火、いります?」
差し出されたライターの小さな火が、二人の間に灯った。マチは礼を言って、恥ずかしそうに男が差し出した火で煙草に火をつけた。
そこから、少しずつ話をするようになった。
その日、男はエドと名乗った。
マチも、自分の名前を教えた。
地球には行ったことがないと言うと、エドは笑った。
「じゃあ、俺のお嫁さんになったら、来られますね。ハハ」
地球のノリじみた冗談だったのだろうけど、マチは、まんざらでもなかった。
それから二年間、二人は月に一度、同じ喫煙所で会った。
煙草は一本から二本になり、やがて三本になった。話すことは、その月によって違った。たいした話をしない日もあった。それでも二人は、次の月になればまたここで会った。
ただ、連絡先を交換することはなかった。
喫煙所を出れば、互いに違う道へと歩みだす。それだけだった。それだけの関係だった。
二年も続けば、知らないことのほうが少しずつ減っていく。
エドは地球生まれで、マチより一歳年上の29歳。軍人で、辛いものが好きだった。コーヒーにはミルクを入れる。幼いころに両親を亡くし、今は弟の大学の学費を支えている。煙草を吸うときは、いつも深く煙を吸い込む。そして笑うと、頬に小さなえくぼができる。
マチはいつしか、地球のことよりも、エドのことをひとつ知るほうが嬉しくなっていた。
地球がどれほど美しいかより、エドが何を考えているのか知りたかった。
そのころから、月と地球の間では、少しずつ不穏な噂が聞かれるようになった。
「次の定期船が最後になるかも」
同僚のニッキーからそう聞いたとき、マチは何も言えなかった。
仕事を終えてからも、身体のどこかに力が入らなかった。何日か熱を出して寝込んだ。
その間に、最後の定期便は欠航になっていたなんて、マチは知る由もなかった。
それでも、次の月にはエドが来る。
マチは、そう思っていた。
最後の定期船が入港するはずだった日、マチは小さな箱を持って喫煙所へ向かった。
なかには、月の砂——レゴリスを使って作られたガラスの小さな兎の置物が入っている。
地球には、月に兎がいるという話があるらしい。だから、それを見つけたときから、いつかエドに渡そうと思っていた。
箱には、マチの大好きな地球の色をしたリボンを結んだ。
——青いリボンだった。
約束をしたわけではない。
それでも、エドは必ず来ると思っていた。
マチは煙草に火をつけた。
一本。
もう一本。
乗降ゲートを何度見ても、オレンジ色のリュックは見えなかった。
やがて、喫煙所の外から声が聞こえた。
今日が最後の定期船になるはずだったけど、その便も、もう数日前に欠航となったという。
箱を握ったまま、マチは動けなかった。
会えない。
もう、会えない。
そう思ったとき、初めて気づいた。
エドに連絡するすべを、何ひとつ持っていない。
あれほど毎月会っていたのに、ふたりの間には、メールアドレスひとつ繋がっていなかった。
マチは泣いた。
あのとき聞いておけばよかった。いくらでも聞くチャンスはあった。
それなのに、どうして聞かなかったのだろう。
来月も会えると思っていたからだ。
来月という言葉が、いつまでも続くと思っていたからだ。
一週間が過ぎても、マチはエドを想い続けた。
地球へ行く方法を調べた。いちばん安く行ける方法。指定船の料金。地球に知り合いを探す方法。軍人の名簿を探せないかとも考えた。
眠れない夜が増えた。仕事でもミスをするようになった。
その日も、整備を終えたマチは、油のついた作業服のまま無心に月面港を歩いていた。もう、考えるのにも疲れていた。
そのとき、後ろから腕をつかまれた。
振り返ると、そこに息を切らした男が立っていた。髪は乱れていた。いつものオレンジ色のリュックが肩からずれている。ひどく疲れているように見えた。
それでも、マチにはすぐにわかった。
「……エ、ド?」
男はしばらく何も言わなかった。息を整えるように何度か深く呼吸して、それから、困ったように笑った。
「指定船で来た」
マチは言葉を失った。
「もう会えないと思ったら、居ても立っても居られなかった」
指定船。
それが、どれほど高いものなのか、マチは知っていた。
エドは、自分にもう一度会うために、それを使った。
「俺は、マチが好きだ」
あまりにも真っ直ぐだった。
「会いたい。キスしたい。もっと触れたい。できれば、その……ああいうことやそういうこともしたい。一緒にいろんな場所へ行ってみたい。マチみたいな可愛い子供も欲しい。年を取っても一緒にいたい。海の近くの町に住んで、二人で暮らしたい。そして、死ぬまで一緒にいたい」
まるで軍人が作戦目標を一つずつ報告しているみたいだった。
マチは、しばらく彼の顔を見つめていた。それから、笑った。涙が出た。
どうしてもっと早く気づかなかったのだろう。
毎月ここに来ていたのは、自分だけではなかった。
エドもまた、月に一度、マチに会うために喫煙所に来ていたのだ。
マチはエドの服の襟をつかんだ。
そして、すべての迷いが晴れたかのように、エドの唇に自分の唇を重ねた。
「これも私の、ずっと前からしたかったこと」
離れると、二人とも少し笑った。額を寄せ、鼻先を触れ合わせる。すぐそばにある互いの瞳を、静かに見つめた。
そしてまた、確かめ合うように唇を重ねた。
月と地球のあいだには、35万7千キロメートルの距離もある。
けれど、エドにとって、その距離はひとっ飛びにすぎなかった。黒い宇宙に浮かぶ月という名の小さな衛星に、マチがいる。それだけで、その距離はもう遠いものではなかった。
分厚い特殊防護ガラスの内側にある、小さなガラス張りの喫煙所で育まれた恋は、二人が気づかないまま、長い時間をかけて、月と地球のあいだにある距離さえも、少しずつ縮めていった。
片想いのち、両想い。
今日、二人のあいだを満たしていたのは、煙草の煙ではなく、どこまでも澄んだ想いだった。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
本作は、短編シリーズ【片想いのち、両想い】の第一弾になります。
「片想いから始まり、最後には両想いになる」そんな恋のお話を、これからも一編ずつ綴っていけたらと思っています。
ご感想やリアクション、些細な評価でも、大変うれしく思います。
少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。
それでは本日も、よい一日になりますように。
南雲




