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薄明の時計館

掲載日:2026/06/30

一 雨の招待状


 海沿いの旧税関を改装した水明時計館は、夜の雨に濡れていた。


 石造りの外壁は黒く沈み、高い窓から漏れる灯りだけが、港へ続く石畳を細く照らしている。今夜、この館では「航海時計保存基金・特別競売会」が開かれていた。入場できるのは、事前審査を通った成人の寄付者と収集家、修復関係者だけである。


 橘澪は、入口脇のガラスに映る自分を一度だけ見た。


 淡い灰青色の長い髪。控えめな化粧。濃紺のワンピースと、上品な細身のコート。胸元の輪郭を整える補正パッドと、腰の線を自然に見せるコルセットは服の下に隠れ、歩き方も、笑い方も、声の高さも、すべてが「橘澪」という人物に合わせて調整されていた。


 鏡の中にいるのは、古い時計や書物を修復する若い女性に見えた。


 しかし本当の名は、黒瀬律。


 二十八歳。


 職業欄に書ける仕事はない。人の信用を盗み、偽名を使い、金が動く場所へ入り込む。それが律の生き方だった。


 彼は、単純に財布を抜き取るような盗みを好まなかった。警戒されるだけで、儲けも少ない。律が狙うのは、人が「この人なら大丈夫だ」と思い込む瞬間だった。


 丁寧な言葉。自然な身分証。控えめな笑顔。専門家らしい知識。


 人は鍵よりも、そういうものに弱い。


「橘さまですね。お待ちしておりました」


 受付に立つ女性が、柔らかく微笑んだ。


 胸元の名札には、「倉田佳代」とある。時計保存会の事務局長であり、今夜の実務を取り仕切る責任者らしい。


「ご招待いただき、ありがとうございます」


 澪は、少しだけ声を柔らかくした。


「展示される『黎明の航海時計』を、ぜひ拝見したくて」


「修復に関わる方には、特に見ていただきたい品です。十九世紀の日本近海で使われていたと伝わる時計で、今回の競売では最高額になる見込みです」


「貴重ですね」


「ええ。ただ、そのため警備も厳しくしています」


 倉田は小さく声を落とした。


「先月、別の慈善会で寄付金の保管証が盗まれる事件がありました。今回は、寄付金も落札保証金も、すべて専用の保管箱で管理します」


 律は驚いたように眉を寄せた。


「そんなことがあったのですか」


「困ったものです。善意で集まるお金まで狙う人がいる」


 その言葉に、律は微笑みを崩さなかった。


 内心では、むしろ冷静に状況を整理していた。


 寄付金。落札保証金。保管証。台帳。


 今夜の目的は、現金そのものではない。保管証の番号と、支払い記録の一覧を手に入れることだった。その情報があれば、後日、返金手続きを装って金を引き出せる。金庫を破る必要もない。誰かを脅す必要もない。


 必要なのは、数分の隙だけだ。


「こちらが名札です」


 受付係から渡された名札を胸元に留めたとき、律は視線を感じた。


 少し離れた柱のそばに、黒いスーツ姿の若い男が立っていた。


 背は高すぎない。髪は短く、首元まできっちりと詰めたシャツを着ている。細身だが、立ち方に無駄がなかった。来場者の服ではなく、靴底、手荷物、歩幅を見ている。


 ただの客ではない。


 律はそう判断した。


 男は、澪と目が合うと、軽く会釈した。


「橘さん。時計の修復をされているそうですね」


「ええ。小さな工房ですが」


「時計はお好きで?」


 律は、一瞬だけ考えてから答えた。


「好きというより、壊れたものを見ると、直せるかどうか考えてしまうんです」


 男は、その答えを少しだけ面白がるように見た。


「いい答えです」


「ありがとうございます。失礼ですが、どちらさまでしょう」


「伊吹と申します」


 名刺は出されなかった。


 律は、男の胸元に名札がないことに気づいた。


「関係者の方ですか」


「そんなところです」


 伊吹はそれだけ言うと、会場の奥へ歩いていった。


 律は、濡れたコートの袖を整えながら、その背中を見送った。


 今夜は、予定より少し面倒な仕事になりそうだった。


## 二 時計館の夜会


 水明時計館の展示室には、古い時計が並んでいた。


 振り子時計、懐中時計、船舶用クロノメーター、蒸気機関車で使われた懐中型の計時器。ガラスケースの中では、何十年、何百年も前に作られた歯車が、今も規則正しく動いている。


 会場には、収集家、企業経営者、修復家、研究者、寄付者が集まっていた。


 律は、誰とでも話せるように見せた。


 時計について専門的な質問をされれば、曖昧すぎない範囲で答える。知らない話題になれば、聞き手に回る。相手の趣味を褒め、所有物を褒め、話したい人には話させる。


 彼の偽装は、見た目だけではなかった。


 むしろ、会話の方が重要だった。


 服装や髪型は一度疑われれば終わる。しかし会話なら、相手自身に「この人は本物だ」と思わせることができる。


「その時計、裏蓋の刻印が綺麗ですね」


 律は、五十代ほどの男性に声をかけた。


 男性は矢部と名乗った。国内でも有数の時計収集家らしく、話し始めると止まらなかった。


「これは祖父から譲られたものなんですよ。戦前のスイス製でね。機械としては今の時計より不便だが、作り手の意地が見える」


「意地、ですか」


「大量生産ではない。壊れても直せるように作ってある。部品一つに意味がある。今の製品とは違う」


 律は、興味深そうにうなずいた。


 その間にも、会場の人の流れを確認する。


 受付。展示室。事務区画。非常階段。関係者用通路。


 保管箱が置かれているのは、受付奥の事務室だ。そこへ入るには、カードキーか、鍵が必要らしい。だが、競売会の途中で人の動きが増えれば、扉が開いたままになる可能性はある。


 律は、焦っていなかった。


 盗みは、急ぐほど失敗する。


 会場の中央では、司会者が『黎明の航海時計』の説明を始めていた。


「こちらは、明治初期の船舶で使われたとされる航海時計です。正確な時刻を知ることは、当時の航海にとって命綱でした。船の位置を計算し、航路を決める。時計が狂えば、船が迷うこともあったのです」


 ガラスケースの中にある時計は、真鍮の外装を持ち、重厚な箱に収められていた。


 見た目は静かだった。


 だが、律には分かった。


 会場の誰もが、あれを見ている。


 寄付金よりも、あの時計の方が価値がある。


 そして価値があるものには、必ず狙う者がいる。


 競売会が始まって二十分ほど経ったころ、突然、矢部が声を上げた。


「ない」


 周囲が振り向いた。


 矢部は胸ポケットを探り、内ポケットを探り、持っていた革鞄の中まで確認した。


「寄付の封筒がない。さっきまであったんだ」


 会場の空気が変わった。


 倉田佳代がすぐに駆け寄り、受付係が周囲を確認する。参加者たちは不安そうに自分の鞄やポケットを押さえた。


「矢部さま、最後に封筒をご覧になったのはいつですか」


「この展示室だ。時計を見ていて、そのあと……」


「すぐ確認いたします。皆さま、少々お待ちください」


 律は、不安そうに眉を寄せた。


 だが、内心では時計を見ていた。


 騒ぎは、人の視線を一か所に集める。


 人が一か所を見るとき、別の場所は見られなくなる。


 律は矢部の足元を見た。


 展示台の下に、白い封筒が落ちている。


 彼は少し遅れてから、それを拾った。


「こちらではありませんか」


 矢部は、顔を上げた。


「ああ、それだ。よかった」


 会場には安堵のため息が広がった。


「すみません。落としただけだったようです」


 矢部は、何度も頭を下げた。


 倉田は笑顔を作ったが、目の奥には警戒が残っていた。


 律はその隙に、展示室の奥へ移動した。


 関係者用通路の扉が、少しだけ開いている。


 誰かが急いで通ったのだろう。


 律は、一度だけ周囲を見た。


 伊吹の姿はない。


 彼は扉の隙間から、静かに通路へ入った。


## 三 伊吹の視線


 通路の先には、事務室、資料室、倉庫、非常階段が並んでいた。


 展示室の華やかな空気とは違い、ここは古い建物の匂いがした。紙、油、金属、少し湿った木材。壁には職員用の案内板があり、金庫室の位置も示されている。


 律は歩みを止めず、案内板を一瞥した。


 保管箱は事務室の奥。


 事務室の扉にはカードリーダーが付いている。


 無理に開ける必要はない。今日、全部を持ち出す必要もない。鍵の種類と、警備員の配置だけ見れば十分だった。


「橘さん」


 背後から声がした。


 律は、振り返った。


 伊吹が通路の入口に立っていた。


「この先は、関係者以外立ち入り禁止です」


「あら、ごめんなさい」


 律は、少し困ったように笑った。


「お手洗いを探していて。展示室が広いので、方向が分からなくなってしまいました」


「お手洗いは反対側です」


「そうだったのですね」


「案内板も、入口にありました」


 律は、一瞬だけ黙った。


「見落としたのでしょうね」


「時計の修復をされる方が?」


 伊吹の声は変わらなかった。


 だが、その言葉には針があった。


「細部を見る仕事をしている人が、案内板を見落とすのは不自然だ、と?」


「不自然とは言っていません」


「言わない方が、怖いですね」


 律は笑った。


 伊吹も笑わなかった。


「橘さん。今夜は、少し騒がしいでしょう」


「そうですね」


「騒がしい場所では、人は普段と違う行動を取ります」


「たとえば?」


「必要のない場所へ行ったり。誰もいない通路を覚えたり。出口の位置を何度も見たり」


 律は、目を細めた。


「探偵さんみたいなことを言いますね」


「探偵です」


 伊吹は、初めて名刺を出した。


 そこには「朝霧調査事務所」と書かれていた。


 氏名は、朝霧湊。


「伊吹は偽名ですか」


「今夜は、そういう役目です」


「ずいぶん正直なんですね」


「正直に見せた方が、相手が動くこともあります」


 律は名刺を受け取った。


 紙の厚みを指先で確かめながら、朝霧湊という名前を記憶した。


「私は疑われているのですか」


「参加者全員を見ています」


「安心できませんね」


「安心しない方がいい夜もあります」


 伊吹は、通路の出口へ手を伸ばした。


「会場へ戻りましょう」


 律は、その横を通り過ぎた。


 背中を向けた瞬間、笑顔を消した。


 探偵。


 しかも、ただの警備補助ではない。


 自分の動き方を見ている。


 律は会場へ戻りながら、今夜の計画を修正した。


 台帳を盗み見るだけなら、別の日でもいい。


 だが、探偵のいる夜に逃げることは、律の性分に合わなかった。


 自分の作り上げた「橘澪」が、どこまで通用するのか。


 それを確かめずに帰ることは、負けに近い。


## 四 止まった振り子


 競売会の第二部が始まったころ、展示室の照明が少し落とされた。


 司会者が壇上に立ち、最初の競売品を紹介する。参加者たちは席に着き、寄付金の話題も先ほどの騒ぎも、いったん忘れたように見えた。


 そのとき、展示室の隅で、金属の擦れるような音がした。


 振り子時計が止まっていた。


 大きな古時計の針が、午後八時十四分を指したまま動かない。


「時計が止まっています」


 スタッフの一人が声を上げた。


 会場の人々の視線が、そちらへ流れる。


 修復担当者らしい男性が時計へ近づいた。三十代半ば、細い眼鏡をかけ、作業用の白い手袋をしている。名札には「佐伯結人」とあった。


「皆さま、少し離れてください。確認します」


 佐伯は、時計の裏側を調べ始めた。


 律は、その姿を見ていた。


 佐伯は、時計を見ているようで、周囲も見ていた。


 スタッフの位置。警備員の位置。事務室側の通路。


 そして、伊吹の姿。


 伊吹は展示室の入口近くに立ち、止まった時計ではなく、佐伯の靴底を見ていた。


 律は、その視線の意味を考えた。


 次の瞬間、倉田佳代が青い顔で会場へ入ってきた。


「保管箱の鍵がありません」


 周囲がざわめいた。


「どういうことですか」


「鍵管理台帳と、予備の鍵が見当たりません。事務室を確認していたのですが……」


 伊吹が、静かに近づいた。


「最後に鍵を確認したのは?」


「二十分ほど前です。受付係が保管箱へ寄付金を入れたときには、確かに」


「事務室へ出入りした人は」


「私と受付係、それから……」


 倉田は言葉を止めた。


 そのとき、会場の後方から男性の声がした。


「鍵なら、ここに落ちていたぞ」


 声の主は、先ほどから寄付額を大きな声で話していた三島という男性だった。


 四十代半ば。高級そうなスーツを着ているが、指先には落ち着きがない。


 三島の手には、鍵束があった。


「廊下に落ちていた。誰かが落としたんじゃないか」


 伊吹は、鍵束を受け取らなかった。


「どこの廊下ですか」


「事務室の近く」


「なぜ、そこへ?」


「お手洗いを探していた」


 律は、思わず笑いそうになった。


 同じ言い訳だった。


 だが伊吹は笑わない。


「三島さん。寄付の領収証を見せていただけますか」


「なぜだ」


「確認です」


 三島は不機嫌そうに胸ポケットから紙を出した。


 伊吹は受け取り、数秒だけ見た。


「これは、今日の受付で使っている用紙ではありません」


「何?」


「紙質も印刷も違う。受付の控えにも、あなたの名前はありません」


 三島の顔色が変わった。


「そんなはずはない」


「寄付をしたふりをして、返金手続きに必要な書類を作った。違いますか」


「証拠はあるのか」


「あなたの鞄の中に、同じ紙が入っているはずです」


 三島は、急に後ろへ下がった。


 その動きで、鞄の口が開いた。


 中から、複数の白い領収証用紙が見えた。


 警備員が近づき、三島の腕を押さえた。


「離せ」


「警察を呼びます」


 倉田が震える声で言った。


 三島は怒鳴りながら連れていかれた。


 会場は騒然としていた。


 多くの参加者は、これで事件が終わったと思った。


 偽造領収証。盗まれた鍵。寄付金詐欺。


 だが律は、そうは思わなかった。


 三島は浅い。


 鍵を見つけたと主張し、自分で偽造書類を持ち、警備の前で取り乱す。そんな男が、展示時計を止めるほど手の込んだ仕掛けを作るとは思えない。


 本当に危ない人物は、まだ会場にいる。


 律は、展示室の隅で振り子時計を調べる佐伯結人を見た。


 佐伯の白い手袋の指先に、銀色の粉が付いていた。


## 五 死んだ修復士の名


 事情聴取は、図書室として使われている小部屋で行われた。


 伊吹は机の向こうに座り、律はその正面に座っていた。窓の外には港の灯が見える。雨は弱くなっていたが、屋根から落ちる水滴が、一定の間隔で窓を叩いていた。


「七時二十分から七時三十分ごろ、どこにいましたか」


「展示室です。矢部さんと時計のお話をしていました」


「その後は」


「二階の回廊へ」


「誰かに会いましたか」


「あなたに」


 伊吹のペン先が止まった。


「よく覚えていますね」


「質問されたことは、覚えています」


「その前に、関係者通路へ入った理由は?」


「お手洗いを探していました」


「またですか」


「今日は方向感覚が悪いようです」


 律は柔らかく笑った。


 伊吹は、手元のメモを閉じた。


「橘さん。あなたの工房について聞かせてください」


「工房ですか」


「西新町にあるとおっしゃっていましたね」


「はい」


「何丁目ですか」


 律は答えた。


「近くに何がありますか」


「古書店と、古い喫茶店があります」


「店名は?」


 律は、一瞬だけ言葉を失った。


 西新町には、実際に古書店も喫茶店もある。しかし、工房があると設定した区画には、今は空き店舗しかない。


 伊吹は、静かに続けた。


「橘澪という修復士は、三年前に亡くなっています」


 律の笑顔が、ほんの少しだけ硬くなった。


「何をおっしゃっているのか、分かりません」


「あなたが使っている名刺の住所には、工房はありません」


「同姓同名かもしれません」


「亡くなった橘澪さんは、時計と古書の修復をしていました。あなたの設定と、ほぼ一致します」


「偶然でしょう」


「偶然にしては、よくできています」


 律は黙った。


 伊吹の目は冷たくなかった。


 ただ、逃げ道を塞ぐように静かだった。


「外見や声の作り方を疑っているわけではありません」


 伊吹は言った。


「あなたが誰として生きるかは、あなた自身の問題です。だが、死んだ人の名前を使い、他人の信用を盗むなら、話は別です」


「証拠があるのですか」


「今は、まだ」


「では、私は帰ってもいいでしょう」


 伊吹は、しばらく律を見た。


「いいえ」


「なぜですか」


「今夜は、あなたにも危険があるからです」


 律は初めて、本気で笑った。


「私に危険?」


「あなたは、別の犯人の存在に気づいています」


 伊吹はそう言った。


「そして、その犯人も、あなたに気づいている可能性があります」


 律の背中に、冷たいものが走った。


 佐伯。


 止まった時計。


 銀色の粉。


 展示品の『黎明の航海時計』。


 伊吹は、律が何を考えたかを見抜いたように続けた。


「佐伯結人は、時計館の主任修復士です。時計の構造をよく知っている。今夜の展示品にも、自由に近づける」


「彼が犯人だと?」


「まだ決めていません」


「でも、疑っている」


「あなたと同じ程度には」


 律は、口元だけで笑った。


「ずいぶん公平ですね」


「調査は、好き嫌いでやるものではないので」


 伊吹は立ち上がった。


「会場へ戻ってください。出口は封鎖されています」


「帰れないのですね」


「今夜は、誰も帰れません」


## 六 資料室の影


 律は会場へ戻らず、二階の資料室へ向かった。


 伊吹の言葉を信じたわけではない。


 だが、佐伯が危険だという判断は、自分の考えと一致していた。


 資料室には、古い時計の設計図、修復記録、航海日誌、寄付者名簿の複写などが保管されている。展示品の来歴を確認するため、関係者は頻繁に出入りしているらしい。


 扉は施錠されていなかった。


 律は中へ入った。


 古紙の匂いがした。棚には、厚いファイルと箱が並んでいる。中央の机には、今夜の展示品に関する資料が広げられていた。


 『黎明の航海時計・修復記録』


 律は表紙を開いた。


 中には、時計の写真と、内部構造の図面があった。


 その時計には、通常の航海時計にはない部品が組み込まれていた。


 小さな円盤状の歯車。


 説明には、「航路計算補助機構」と記されている。


 当時の船乗りが、緯度と経度を計算するために使った特殊部品らしい。時計そのものよりも、その機構に歴史的価値がある。


 律はページをめくった。


 修復記録の最後に、佐伯結人の署名があった。


 さらに、その下には別の書類が挟まっていた。


 保険会社からの通知。


 展示品が盗難・破損した場合、時計館には多額の保険金が支払われる。


 そして、修復責任者として佐伯の名が記されていた。


「見つけましたか」


 背後から声がした。


 律は振り向いた。


 佐伯結人が立っていた。


 白い手袋は外され、片手には工具箱を持っている。


「ここは関係者以外、立ち入り禁止です」


 佐伯は静かに言った。


 律は、資料を閉じた。


「あなたも、関係者用通路を歩いていましたね」


「私は修復士です」


「私は招待客です」


「橘澪さんでしたね」


 佐伯は、律の名札を見る。


「いや。黒瀬律さん、と呼んだ方がいいのかな」


 律の表情が止まった。


「探偵から聞いたのですか」


「いいえ。あなたの名刺を見た時点で、不自然だと思いました」


 佐伯は、机の上の資料を見た。


「死んだ修復士の名前を使う。ずいぶん大胆ですね」


「あなたに言われたくありません」


「何のことですか」


「保険金ですか。それとも時計の部品ですか」


 佐伯は、薄く笑った。


「なるほど。探偵ごっこを始めたわけですね」


「振り子時計を止めたのは、あなたでしょう」


「証拠は」


「銀色の粉が手袋に付いていました」


「研磨剤です。修復士なら使います」


「展示時計の近くに落ちていた」


「そこにいたのですから、落ちることもある」


 佐伯は、工具箱を机に置いた。


「でも、あなたはここで何をしているんですか。盗みに来た人が、別の盗みを止めようとしている」


 律は黙った。


 佐伯は、少しだけ首を傾けた。


「あなたは、自分だけが賢いと思っている。周囲の人間は、あなたが作った姿と声に騙されると思っている」


「違います」


「違わない。だから、こんな場所へ一人で来る」


 佐伯の声が低くなった。


「だが、今夜は運が悪かった。あなたは、本当に盗む人間の仕事を見てしまった」


 律は一歩下がった。


「何を盗むつもりですか」


「時計です」


「『黎明の航海時計』を?」


「正確には、中の部品だけでいい」


「保険金と、部品の売却益。二重に取る」


 佐伯は否定しなかった。


「元々、あれはここに置かれるべき時計じゃない。海外の収集家が欲しがっている。彼らにとって、文化財も、歴史も、金になるかどうかだけです」


「あなたも同じでしょう」


「違う」


「何が」


「私は、価値が分かる人間に渡すだけです」


 律は笑いそうになった。


 自分も似たような理屈を使ってきた。


 盗まれる側が油断している。金を持つ者は、失っても困らない。自分は少し取るだけだ。


 だが、佐伯の言葉を聞くと、その理屈が急に醜く見えた。


「探偵には知らせないのですか」


 佐伯が言った。


「知らせれば、あなたの偽名も終わる」


「脅しているんですか」


「取引です」


 佐伯は、工具箱を閉じた。


「今夜、あなたは何も見なかった。私はあなたのことを言わない。互いに静かに帰る」


「出口は封鎖されています」


「なら、抜け道を使えばいい」


「あなたが時計を盗んだあとに?」


「そのころには、皆こちらを疑う余裕がない」


 佐伯は資料室の窓の外を見た。


 雨はまた強くなり始めていた。


「選びなさい。探偵の手柄になるか。自分の身を守るか」


 律は、佐伯の横をすり抜けようとした。


 その瞬間、佐伯が腕を掴んだ。


「どこへ行く」


「化粧室です」


「嘘をつくとき、あなたは笑いすぎる」


 律は、腕を振りほどこうとした。


 佐伯の力は強かった。


 机が揺れ、資料が床に落ちる。律はとっさに佐伯の手首をひねり、工具箱を蹴った。金属の工具が床に散らばった。


 佐伯が舌打ちする。


「面倒な人だ」


 律は、扉へ走った。


 背後で佐伯の靴音が響いた。


## 七 逃げる者と追う者


 律は廊下を走った。


 ワンピースの裾を片手で押さえ、濡れた床を滑らないように進む。後ろから佐伯が追ってくる。資料室の騒ぎを聞いた者は、まだいない。


 階段を下りれば展示室へ戻れる。


 だが展示室へ行けば、伊吹がいる。


 伊吹に見つかれば、自分の偽名も、侵入も、すべて終わる。


 律は一瞬だけ迷った。


 その迷いが、佐伯との差を決めた。


 佐伯は迷わず、非常階段側へ向かった。


 彼の目的は、時計だ。


 律は反射的にその後を追った。


 自分でも理由は分からなかった。


 佐伯が時計を盗めば、会場の人間が危険になる。佐伯が逃げれば、律も巻き込まれる。自分の偽名が佐伯に知られている以上、放置すれば後で脅される。


 合理的な理由はいくつもあった。


 だが本当は、佐伯に「見なかったことにしろ」と言われたのが気に入らなかった。


 律は非常階段の踊り場に出た。


 下の階から、誰かの足音が近づいてくる。


「橘さん」


 伊吹だった。


 律は立ち止まった。


「佐伯が時計を狙っています」


「どこへ行った」


「非常階段の下です」


「あなたはなぜ追っている」


「説明は後で」


 伊吹は数秒だけ律を見た。


 その目は、信じているわけでも、疑っているわけでもなかった。


 判断している目だった。


「先に行ってください」


「あなたは」


「出口を塞ぎます」


 律は頷いた。


 二人は別々の方向へ走った。


 展示室へ戻ると、会場は混乱していた。


 照明が一部消え、スタッフが走り回っている。『黎明の航海時計』のガラスケースは開けられ、時計はまだ中にあるが、箱の蓋が外されていた。


 佐伯が、その前に立っている。


 手には細い工具。


 時計の裏蓋が開いている。


「佐伯さん!」


 律が叫ぶ。


 佐伯は振り向いた。


「遅かったですね」


 彼の手には、小さな円盤状の歯車があった。


 航路計算補助機構。


 『黎明の航海時計』の中で最も価値のある部品。


「それを戻してください」


「あなたが言うことですか」


「戻せ」


 律の声が低くなった。


 佐伯は笑った。


「偽名で潜り込んだ人間が、正義の味方をするんですか」


「正義じゃない」


「では何です」


「お前に、私のことを使わせない」


 佐伯は、歯車をポケットへ入れた。


「なら、止めてみてください」


 その瞬間、会場の照明が完全に消えた。


 暗闇の中で、人々の悲鳴が響く。


 律は、佐伯の足音を追った。


 だが、次の瞬間、背後から強い力で腕を掴まれた。


「動かないで」


 伊吹の声だった。


「違う、佐伯が」


「分かっています」


「なら離して」


「あなたも逃げるつもりだった」


「今は違う」


「証明できますか」


 律は、息を飲んだ。


 暗闇の中で、伊吹の手は強かった。


 律が腕を振りほどこうとした瞬間、足元に落ちていた展示用のコードに引っかかった。


 体勢が崩れる。


 伊吹も巻き込まれ、二人は壁際の給水槽へぶつかった。


 古い館の消火設備用の水が、床へあふれた。


 冷たい水が律の顔にかかる。


 頬を伝っていた化粧が滲み、ファンデーションが指先に移った。


「離して」


 律はもう一度、伊吹の手を振りほどこうとした。


 その拍子に、髪を固定していた留め具が外れた。


 長い灰青色のウィッグが、肩から滑り落ちた。


 伊吹は一瞬だけ目を見開いた。


 だが、驚いたのは律の方だった。


 髪が外れたことで、隠していたものが急に奪われた気がした。


 律はとっさにウィッグを掴もうとした。


 伊吹の方が早かった。


「やめてください」


「返せ」


「今は逃げるために使わせない」


 伊吹は、濡れたウィッグを床から拾い上げ、少し離れた棚の上に置いた。


 律は、顔に残る化粧を手の甲で拭った。


 しかし水に濡れた肌は、もう「橘澪」の輪郭を保てなかった。


 頬の影も、眉の線も、作り込んだ目元も崩れていく。


 伊吹は、律の顔を見ていた。


「黒瀬律」


 偽名ではない名前で呼ばれた。


「あなたは、橘澪ではない」


 律は、息を荒くしながら笑った。


「知っていたのでしょう」


「確信は今です」


「では、満足ですか」


「満足する理由がない」


 伊吹の声は静かだった。


「あなたが誰の服を着るか、どんな髪型を選ぶかは問題ではない。問題は、人の名前と信用を盗んだことです」


「説教ですか」


「事実です」


 律は、濡れた床に手をついた。


 服の下では、姿勢を整えるための補正具がずれ、腰のコルセットが息苦しく食い込んでいた。自分が長い時間をかけて組み立てた「橘澪」が、雨水と混乱の中で崩れていく。


 それが悔しかった。


 だが、その悔しさより先に、展示室の奥から金属音がした。


 佐伯が逃げようとしている。


「佐伯だ」


 律が言った。


 伊吹は、すぐに立ち上がった。


「どこへ行った」


「裏の荷物搬入口。時計の部品を持っている」


「あなたはここにいろ」


「無理です」


「黒瀬さん」


「佐伯は私の偽名を知っている」


 伊吹は、わずかに眉を動かした。


「逃げたら、後で私を脅せる。ここで逃がせば、私は終わる」


「だから追う?」


「そうです」


 伊吹は、数秒だけ律を見た。


 そして、床に落ちていた名札を拾った。


 濡れた紙には「橘澪」と書かれている。


 伊吹はそれを見てから、静かに言った。


「なら、走ってください」


## 八 男装の探偵


 荷物搬入口は、館の裏側にあった。


 古い鉄扉の向こうには、雨に濡れた搬入路が続いている。港に面した道は暗く、遠くに停泊する船の灯りだけが揺れていた。


 佐伯は、搬入口の前に立っていた。


 片手には工具箱。もう片方の手には、取り外した歯車を入れた小さなケース。


「やはり来ましたか」


 律と伊吹を見て、佐伯は笑った。


「探偵と詐欺師。ずいぶん奇妙な組み合わせですね」


「部品を返せ」


 伊吹が言った。


「返せば、私の人生が終わる」


「盗めば終わらないとでも?」


「少なくとも、金は残る」


 佐伯は、搬入口の外へ一歩下がった。


 雨がスーツの肩を濡らす。


 その瞬間、律は気づいた。


 佐伯の足元に、細いワイヤーが伸びている。


 搬入口の上にある古いシャッター装置へつながっていた。


 佐伯は、逃げるためにシャッターを落とすつもりだ。こちらを中に閉じ込め、自分だけ外へ出る。


「伊吹さん、下がって」


 律が叫んだ。


 佐伯がワイヤーを引いた。


 金属のシャッターが、激しい音を立てて落ち始める。


 伊吹は律の腕を引き、二人は横へ飛んだ。


 シャッターは床すれすれまで落ち、搬入口は閉ざされた。


 しかし佐伯は外に出られなかった。


 律が叫んだ瞬間、彼も反射的に後ろへ下がっていた。


 佐伯は、シャッターの向こう側にいる。


 だが、その手には時計の部品がある。


「これは、お前たちには届かない」


 佐伯の声が、金属板の向こうから響いた。


「外には別の車が待っている」


 伊吹は、シャッターの隙間から外を見た。


「車のナンバーは控えています」


「いつ?」


「あなたが工具箱を運んだとき」


 佐伯は黙った。


「館の裏に止まっている白いバン。登録者は、時計修復会社ではない。海外輸出代行業者です」


「……」


「あなたは最初から、保険金と部品の売却益を得るつもりだった。時計を壊す必要はなかった。部品だけを抜き、事故に見せかける。振り子時計を止めたのは、警備員の目を逸らすため」


 伊吹は、シャッターに近づいた。


「三島の偽造領収証は偶然でした。あなたは、あの混乱を利用しただけ」


「証拠は」


「部品の写真を撮った監視映像があります」


「停電だ」


「停電したのは展示室だけです。事務室と搬入口のカメラは別系統です」


 佐伯の呼吸が、向こう側で荒くなった。


 律は、伊吹の横顔を見た。


 さっきまで「伊吹」という男に見えた人物は、雨に濡れた短髪の下で、少しだけ髪留めを外していた。緊張で乱れた髪が耳元に落ち、声の抑揚も先ほどまでとは微妙に違っている。


 律は初めて、その違和感の正体を理解した。


「伊吹じゃないんですね」


 伊吹は、こちらを見なかった。


「朝霧湊です」


「女性だった」


「そのことに、今気づくんですか」


「男装していたから」


「そうですね」


 朝霧は、淡々と答えた。


「今夜は、館内に入り込んでいる人物がいると聞いていました。警備員らしく見える男より、少し地味な関係者に見えた方が都合が良かった」


「探偵まで偽名で、格好も変えるんですね」


「必要なら」


「私と同じだ」


 朝霧は、初めて律を見た。


「違う」


「何が」


「私は、相手を騙して金を取るために名を使っていない」


 律は返せなかった。


 そのとき、シャッターの向こうから、激しい音がした。


 佐伯が外側から、何かでシャッターをこじ開けようとしている。


「逃げる気です」


 律が言った。


「警察がもう来ます」


「間に合わないかもしれない」


 朝霧は無線機を取り出した。


「裏口。佐伯が外側にいる。車両を確認して」


 返答がある前に、佐伯はシャッター脇の非常用レバーを操作したらしい。


 金属板が、少しだけ持ち上がった。


 その隙間から、佐伯の手が入る。


 朝霧が近づこうとした。


 律は先に動いた。


 床に落ちていた古い展示用の棒を拾い、シャッターの隙間へ差し込んだ。


 佐伯の手が引っ込む。


「黒瀬さん、危ない」


「逃がしたら困るんです」


「なぜ」


「さっき言ったでしょう。あいつは私の名前を知っている」


 律は、濡れた顔のまま笑った。


「今夜は、あなたに返り討ちにあった。これ以上、別のやつに勝たせる気はない」


 朝霧は、一瞬だけ黙った。


 その直後、外から警察車両のサイレンが聞こえた。


 佐伯は逃げようとした。


 だが、搬入路の両側にはすでに館の警備員が回っていた。白いバンの前には、警察官が立っている。


 数分後、佐伯結人は確保された。


 小さなケースから、『黎明の航海時計』の航路計算補助機構が見つかった。


 佐伯の工具箱には、展示時計を短時間停止させるための研磨剤と、保険事故を装うための細工道具が入っていた。


 時計は、元の場所へ戻された。


 ただし、今夜の騒ぎで、誰ももう競売を続ける気にはなれなかった。


## 九 橘澪の終わり


 午前零時を過ぎたころ、水明時計館の展示室には、数人だけが残っていた。


 倉田佳代は、警察への説明を終えたあと、疲れた顔で椅子に座っていた。矢部は時計館の職員に連れられ、静かに帰った。三島は、偽造書類と不正返金の疑いで警察へ引き渡された。


 律は、事務室の前に立っていた。


 濡れたウィッグは、ビニール袋に入れられていた。


 灰青色の髪。橘澪という名前。修復士らしい名刺。丁寧な声。


 今夜、すべてが壊れた。


 朝霧湊は、黒いスーツの上着を脱ぎ、濡れた袖を絞っていた。男装用に着ていたシャツの襟元を少し緩め、首元の固いネクタイを外している。


 律は、彼女の方を見た。


「通報しますか」


「何を」


「私のことです」


「します」


 朝霧は、迷わず答えた。


「偽名で会場に入り、関係者区画へ侵入した。少なくとも、それは事実です」


「そうですか」


「ただし、あなたが佐伯の逃走を妨げ、部品の回収に協力したことも報告します」


「情状酌量?」


「それを決めるのは私ではありません」


 律は、壁にもたれた。


「厳しいですね」


「仕事なので」


「あなたは、人の顔を剥がす仕事なんですね」


 朝霧は、少しだけ考えた。


「違います」


「違わないでしょう。今夜、私のウィッグを外して、化粧が崩れた顔を見た」


「あなたが逃げようとしたから止めた」


「同じことです」


「違う」


 朝霧の声が、少し強くなった。


「あなたがどんな姿を選ぶかを暴きたかったわけではない。あなたが、死んだ人の名前を使って誰かを騙していたから止めた」


 律は黙った。


「黒瀬さん。姿は嘘ではありません。あなたが自分で選んだなら、それはあなたの一部でしょう」


 朝霧は続けた。


「でも、犯罪のために他人の人生を使えば、その人の名前まで盗むことになる」


 律は、床を見た。


 橘澪という修復士が、本当にいた。


 時計を直し、古書を直し、壊れたものを元へ戻す仕事をしていた。


 律は、その人の名を借りて、人の信用を壊していた。


 今まで、それを深く考えたことはなかった。


「私は、あの人のことを知らない」


 律は小さく言った。


「橘澪という人を」


「知らなくても、使った」


「分かっています」


 朝霧は答えなかった。


 それが一番苦しかった。


「あなたは、なぜ探偵になったんですか」


 律が聞いた。


「人を疑うためですか」


「人を疑うこともあります」


「楽しいですか」


「楽しくはない」


 朝霧は窓の外を見た。


「昔、私の家族が詐欺に遭いました。金だけではなく、本人確認書類や契約書まで使われた。父は、自分の名前が知らないところで使われていることに耐えられなかった」


 律は聞いていた。


「それで、取り返したいと思ったんですか」


「失ったものを全部取り返すことはできません。でも、次に同じことが起きるのを止めることはできる」


 朝霧は、律を見る。


「あなたにも、まだ選べることはある」


「警察へ行ったあとに?」


「そのあとに」


 律は笑った。


 今夜初めて、自分のための笑顔ではなかった。


「ずいぶん面倒な探偵ですね」


「よく言われます」


## 十 歯車の行方


 その後の捜査で、佐伯結人の計画は明らかになった。


 佐伯は、時計館の経営悪化を利用し、展示品の保険契約を調べていた。『黎明の航海時計』の中にある航路計算補助機構は、海外の違法収集家の間で高値がつくと知り、部品だけを盗み出すことを考えた。


 時計そのものが盗まれれば、すぐに追跡される。


 だが、内部部品だけが消え、展示中の事故によって壊れたように見えれば、発覚は遅れる。佐伯は時計を一時停止させ、会場を混乱させ、保管箱の鍵が消えたように見せかけるため、事務室の鍵を別の場所へ移した。


 そこへ三島の不正返金計画が重なった。


 三島は、佐伯とは無関係だった。


 偶然、同じ夜に別の犯罪を実行しようとしただけだった。


 会場は二重に混乱し、佐伯にとっては都合がよかった。


 だが、朝霧湊は、佐伯の靴底に付いた研磨剤と、時計停止の仕組みを見抜いた。


 律は、佐伯が盗みの計画を持っていることに気づき、結果として部品の回収を助けた。


 そして律自身についても、偽名使用と不法侵入の事実が明らかになった。


 警察で事情を聞かれた際、律は最初、いつものように黙っていた。


 自分の経歴を曖昧にし、質問の隙を探し、相手が知っている情報だけを測る。


 だが、朝霧の言葉が頭から離れなかった。


 姿は嘘ではない。


 犯罪のために、他人の名前を使うことが問題なのだ。


 律は、これまでに使った偽名と、過去に関わった返金詐欺の方法を話した。


 自分に不利になることは分かっていた。


 だが、逃げ続ければ、また誰かの名前を使うことになる。


 また、誰かの生活を壊す。


 それだけは、今夜を境に嫌だった。


## 十一 春の修復工房


 半年後。


 黒瀬律は、小さな舞台衣装工房で働いていた。


 場所は、以前「橘澪の工房がある」と偽っていた西新町ではない。港から少し離れた、古い商店街の二階だった。


 裁縫、衣装の補修、舞台用の小道具の修理。


 最初は糸の通し方さえ不器用だった。ミシンの扱いも、布地の種類も、何も分からなかった。だが、細かい作業を覚えることは苦ではなかった。


 むしろ、自分の手で何かを作ることは、偽名を作るより難しく、だからこそ少しだけ面白かった。


 衣装工房の責任者は、律の過去を知っていた。


 それでも採用した。


「嘘を作るのが得意なら、本物の衣装を作る方へ使いなさい」


 最初にそう言われた。


 律は、返す言葉がなかった。


 その日、工房の階段を上がってきた客がいた。


 黒いジャケット。短い髪。以前と同じ、姿勢のぶれない歩き方。


 朝霧湊だった。


「お久しぶりですね」


 律は、作業台から顔を上げた。


「依頼ですか」


「時計館の職員から聞きました。今度、保存会の広報展示をやるそうです」


「時計館が?」


「来場者向けに、昔の修復士たちの仕事を紹介する展示です。衣装や小道具の再現が必要らしい」


 朝霧は、紙袋を差し出した。


 中には、古い修復士用の作業服の写真が入っていた。


「黒瀬さんに頼みたいそうです」


「私に?」


「あなたは、細部を作るのが得意でしょう」


 律は、写真を見た。


 古い作業服。袖口の縫い目。工具を入れるための小さなポケット。染みの残った布地。


 修復士が着ていた服。


 時計を直す人の服。


「橘澪さんの資料も、展示に入るそうです」


 律の手が止まった。


「そうですか」


「名前を借りた人のことを、今度はちゃんと知る機会になるかもしれません」


 朝霧の言い方は、相変わらず少し厳しかった。


 だが、律は不思議と腹が立たなかった。


「朝霧さん」


「何ですか」


「今度は、伊吹という偽名を使わないんですか」


「必要がないので」


「男装もしない?」


「必要ならします」


 律は笑った。


「あなたは、本当に面倒な人ですね」


「また言いましたね」


「褒めています」


「そうは聞こえません」


 窓の外では、春の風が商店街の旗を揺らしていた。


 律は、写真をもう一度見た。


 過去を消すことはできない。


 偽名を使ったことも、盗みを計画したことも、会場で逃げようとしたことも消えない。


 だが、壊したものをすべて放置する必要もない。


 時計は、止まっても直せることがある。


 ただし、元に戻すには、歯車を正しい場所へ戻さなければならない。


 律は、作業台の上の布を整えた。


「分かりました。引き受けます」


 朝霧は頷いた。


「ありがとうございます」


「ただし、安くはありません」


「真っ当な請求なら払います」


「探偵さんの経費ですか」


「保存会の予算です」


「それなら、少し高くしましょう」


 朝霧は、初めて声を出して笑った。


 律も笑った。


 今度の笑顔は、誰かを騙すためのものではなかった。


 窓の外では、遠くの港から汽笛が聞こえた。


 それは、古い時計館の夜を思い出させる音だった。


 だが律は、もう逃げ道を数えていなかった。


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