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MoMoKo

作者: 鍼野ひびき
掲載日:2026/03/20

 箱を開けると、古い布の匂いがふわりと立ち上った。防虫剤と埃と、どこか甘くて少し酸っぱい――母の着物をしまってあった押し入れの奥で嗅いだ匂いに似ていた。指先が触れたのは、綿を詰めた小さな塊。丸い頭、縫い目の粗い手足、そして目のあたりに施された黒い糸の刺繍。人形だった。私は一瞬、胸の奥がきゅうと縮むのを感じた。


「それは触らないほうがいいよ」


 祖母は台所の戸を開けたまま、短く言った。声に怒りはなく、ただ静かで、どこか遠いところから聞こえるようだった。私は人形を抱き上げ、膝の上に置いた。布は古く、ところどころ継ぎ当てがしてある。目の刺繍は左右で少しずれていて、笑っているのか、睨んでいるのか判別がつかない。


 娘が廊下を走ってきて、私の膝に飛び乗った。「ママ、なにそれ?」その声で、私は自分の名前が二つに裂けるのを感じた。ひとつは今の私、もうひとつは幼い私。幼い私が「ママ」と呼ぶ声を聞いたとき、いつも胸の奥に眠っている何かが目を覚ます。母の声の断片。古い歌の一節。手のひらの温度。記憶はいつも、匂いと音から戻ってくる。


 娘は人形をじっと見つめ、指でそっと触れた。「MoMoKoって呼ぶの?」私はその名前を口に出す前に、喉が詰まった。幼児語のような響き。母が私を呼んだときの、甘くて不器用な呼び方。祖母が顔をしかめる。彼女の目には、私が見たことのない影が差していた。


 夜になると、家の音が変わる。台所の水の匂い、柱時計の小さな刻み、娘の寝息。私は箱を片付けながら、人形を棚の隅に置き鍵をかけた。そこが安全だと思った。だが翌朝、目が覚めると人形は娘の枕元に寄り添っていた。私は確かに棚に置いた。鍵をかけたはずだ。夫は「子どもが遊んだんだろう」と言った。合理的な説明を探す彼の声は、私の不安を薄めるどころか、逆にその輪郭をはっきりさせた。


 記憶は小さな破片でやってくる。母の手が私の髪を撫でる感触。夜中に聞いた子守歌の一節。鏡に映った自分の首筋に、幼い頃に縫い付けられた布の匂いがするような錯覚。私はそれらを一つずつ拾い集め、合理的に並べ替えようとした。だが並べ替えれば並べ替えるほど、隙間が見えてくる。隙間に何かが潜んでいる気配がする。


 祖母の部屋の引き出しで、古い写真と一緒に小さな紙片を見つけた。鉛筆で走り書きされた文字。MoMoKo――母の字に似ている。写真の中の母は笑っている。笑顔の端に、何か不穏なものがあるように見えた。私はその写真を指でなぞり、指先に冷たいものが触れた気がした。


 娘は夜、知らない歌を口ずさむようになった。言葉は断片的で、私の耳には母の子守歌の一節と重なるところがある。ある晩、娘が眠りながら「ママ、来て」と囁いた。私はその声に引き寄せられるように、暗い廊下を歩いた。廊下の先、古い鏡の前で、娘は人形を抱いて座っていた。鏡の中の私たちの影が、ほんの少しだけずれて見えた。


 私は人形の目を見た。黒い糸の縫い目が、まるで私を見返すように光を吸い込んだ。何かが、ゆっくりと動き始める気配がした。息を止めると、家の中の音が一斉に近づいてきた。娘の呼吸、祖母の寝息、柱時計の針。どれもが同じリズムで、私の胸を締め付ける。


「触らないほうがいいよ」


 祖母の声が、またどこか遠くから聞こえた。私は人形を抱きしめる娘の肩に手を置いた。手のひらが布に触れた瞬間、幼い私の記憶が一つ、はっきりと戻ってきた。母の手の温度。母の唇が耳元で歌った、途切れ途切れの子守歌。私はそれを思い出したくなかった。だが思い出すことを止めることもできなかった。


 夜はまだ長い。家の奥で、何かが静かに息をしている。私はその息の音を聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。

 

 ◇

 

 朝が来るたびに、家の中の空気が少しずつ変わっていくのを感じた。光は同じはずなのに、畳の目や柱の木目が以前とは違う角度で私を見ているように思える。娘は相変わらず無邪気に遊び、夫は仕事に追われている。だが私の耳には、いつもどこかで子守歌の断片が反芻していた。短い旋律が、洗い物の音やシャワーの水音に混じって、ふとした瞬間に立ち上がる。


 人形は、確かにそこにあった。棚に置いたはずの人形が、いつの間にか娘のぬいぐるみ箱の中に紛れていたり、台所の椅子の背に寄りかかっていたりする。位置の変化は小さく、誰かのいたずらで説明できる範囲のものだった。だが説明できることが、私の不安を和らげるわけではなかった。説明がつくほどに、逆に何かが確かに動いているという輪郭がはっきりしてくる。


 ある日、娘が幼稚園から帰ると、私に向かってこう言った。「ママ、MoMoKoがね、夜にお話してくれたの」その言葉は、私の胸の中で何かを弾ませた。私は笑って受け流そうとしたが、娘の目が真剣だった。彼女は人形の耳元に顔を寄せる仕草をして、私に向かって囁くように続けた。「『おかえり』って。ママのこと、よく知ってるって言ったの」


 その夜、私は眠れなかった。夫は疲れて早く寝てしまい、祖母はいつものように夜更けに台所で何かをしていた。私はリビングの電気を消し、暗がりの中で娘の寝顔を見つめた。人形は娘の枕元に置かれていて、黒い刺繍の目が月明かりを吸い込んでいた。私はそっと手を伸ばし、人形の頭を撫でた。布は思ったよりも柔らかく、継ぎ目のところが少しざらついていた。触れた瞬間、また記憶が押し寄せた。幼い私が夜中に目を覚まし、母の膝にすがりついた感触。母の指先が私の髪を梳く音。母の唇が耳元で歌った、途切れ途切れの旋律。


 翌朝、祖母の様子がいつもと違った。朝食の支度をしながら、彼女は黙って窓の外を見ていた。私は勇気を出して聞いた。「あの人形、昔からあったんですか?」祖母は箸を止め、ゆっくりと首を振った。「昔から、というわけではない。あの子は……来たのよ」言葉を濁す祖母の手が震えているのを見て、私は胸が締め付けられた。彼女は何かを隠している。だが祖母は多くを語らない人だった。語らないことで守ろうとしているのか、あるいは語ることができないのか。


 私は押入れの奥をもう一度探した。埃を払い、古い箱を開けると、母の着物の端切れや、黄ばんだ手紙、そして小さな録音機が出てきた。録音機は古いテープ式で、再生ボタンを押すと、かすれたノイズの後に女性の声が聞こえた。声は低く、時折笑い声が混じる。私は息を呑んだ。声の主は母だった。言葉は断片的で、はっきりとは聞き取れない。だが確かに、私の名前を呼ぶような響きがあった。テープの最後には、子守歌のような旋律が、かすれたハミングで残されていた。


 その夜、私はテープを持って祖母の部屋に行った。祖母は縁側に座り、手に編み物を持っていた。私は録音機を差し出し、再生ボタンを押した。ノイズの中から母の声が流れ、祖母は目を閉じた。再生が終わると、祖母はゆっくりと息を吐いた。「あの子は、母さんの代わりだったのよ」彼女の声は震えていた。「母さんは、あの子に何かを託した。自分の代わりに、子守りをさせたのかもしれない。けれど、あの子はただの人形じゃなかった」


 私は言葉を失った。祖母の言葉は、私の中にある空白を指でなぞるように触れてきた。母が何を託したのか、なぜ人形がそこにあるのか。祖母は続けた。「母さんは、あの子を縫った。夜な夜な、布を継ぎ、糸を引き、声をかけていた。『これであなたが私の代わりになって』って。けれど、代わりになれるものなんて、ないのよ」


 祖母の話は断片的で、詳細は語られなかった。だが私の頭の中では、母の姿が少しずつ形を取り始めた。母は私が幼い頃、よく人形を抱いていた。母の手はいつも布を触っていて、私に歌を歌ってくれた。ある夜、母は泣きながら布を縫っていた。私はその光景を覚えている。だがその後のことは、私の記憶から抜け落ちていた。抜け落ちた部分に、何かが埋められている気がした。


 娘の様子はさらに変わっていった。幼稚園での出来事を話すとき、彼女は時折、私が子どもの頃にしていた仕草を真似したり、私の母がよく言っていた言葉を口にしたりした。夫はそれを「成長の一部だ」と笑って受け流すが、私にはそれが不気味に思えた。ある晩、娘が眠りながら目を開け、私を見つめて言った。「ママ、あの人はね、私にお話をしてくれるの。昔のことを、全部教えてくれるの」その声は幼く、しかしどこか年長者のような落ち着きがあった。


 私は娘の部屋の床に座り、人形の縫い目をじっと見つめた。縫い目は粗く、ところどころ糸がほつれている。だがよく見ると、糸の色が微妙に違っている箇所があり、そこには小さな布片が差し込まれていた。布片は母の着物の端切れと同じ柄だった。私は手が震え、布片を引っ張ってみた。すると、布の下から小さな紙切れが出てきた。紙には鉛筆で「忘れないで」とだけ書かれていた。文字は母の筆跡に似ていたが、どこか歪んでいた。


 その夜、私は眠れずに家の中を歩き回った。台所の窓から見える夜の庭は静かで、風が木の葉を揺らす音だけが聞こえた。私はふと、鏡の前に立ち止まった。鏡は古いもので、縁に細かな彫刻が施されている。鏡に映る自分の顔を見つめると、背後にあるはずのリビングの影が、ほんの少しだけずれて見えた。私は首をかしげ、目を細める。影は私の動きに完全には追随していない。まるで鏡の中の世界が、こちらとは別のリズムで呼吸しているようだった。


 翌朝、娘が幼稚園に行った後、私は家の奥にある小さな蔵を開けた。蔵は普段は鍵をかけているが、祖母は私に鍵を渡してくれた。「見ておいで」とだけ言った。蔵の中は薄暗く、古い家具や箱が積まれていた。私は埃を払いながら、箱を一つずつ開けていった。すると、底の方から小さな布の手袋と、さらに古い写真が出てきた。写真には母と祖母、そして見知らぬ女性が写っていた。三人は笑っているが、写真の端に写る影が妙に長く伸びているように見えた。


 箱の奥に、もう一つ小さな箱があった。蓋を開けると、中には人形の作りかけのパーツと、糸巻き、そして小さなメモが入っていた。メモには「これで終わるはずだった」とだけ書かれている。私は手が震え、メモを握りしめた。終わるはずだった、とは何が終わるのか。母の苦しみが、ここに残されているのか。


 その夜、娘が帰ってくると、彼女は私の手を引いて蔵の前に連れて行った。「ここにね、MoMoKoの友だちがいるの」娘は箱を指差した。私は箱の中身を見せると、娘は目を輝かせた。「あの人はね、昔のことを全部知ってるんだって。だから、私に教えてくれるの」娘の言葉は無邪気だが、私の胸には冷たいものが流れた。教える、という言葉が、何かを伝染させるように聞こえた。


 私はその夜、録音機をもう一度再生した。母の声が、かすれたノイズの中で私の名前を呼ぶ。テープの最後に、子守歌の断片が繰り返される。だが今回は、テープの奥に別の声が混じっているのに気づいた。低く、囁くような声。言葉にならない音が、母の歌に寄り添っている。私は再生を止め、手のひらで耳を塞いだ。音は消えたはずなのに、胸の奥でまだ鳴っている。


 日々は変わらずに過ぎていくようで、しかし確実に何かが進行していた。人形の存在は、私の記憶の隙間を埋めるどころか、その隙間を広げていく。私は自分が何を守ろうとしているのか、何を恐れているのかがわからなくなってきた。ただ一つ確かなのは、あの布の塊が、私たちの生活の中心に静かに居座り続けているということだった。

 

 ◇

 

 夜が深くなるほど、家の音は私の鼓動と同じ速さで刻まれていった。時計の針が一つ進むたびに、床板の軋みが私の胸に小さな釘を打ち込む。娘の寝室のドアを開けると、枕元の人形だけがそこに残されていた。布はいつもより白っぽく見え、刺繍の目が月光を吸い込んでいた。娘の布団は乱れていて、毛布の端に小さな足跡の跡がついている。私は息を呑んだ。


「どこに行ったの」


 声は出なかった。喉の奥で何かが引き裂かれるように痛んだ。廊下に出ると、空気が冷たくなっていた。窓の外の風が木の葉を擦る音が、遠くの波のように聞こえる。私は裸足で廊下を走った。足の裏に伝わる畳の感触が、現実を確かめる唯一の手がかりだった。


 リビングの明かりは消えていて、祖母の部屋の襖は半分開いていた。祖母は縁側に座り、編み物をしているように見えたが、顔は前を向いたまま動かなかった。私が「おばあちゃん」と呼ぶと、彼女はゆっくりと首を振り、目を閉じたまま言った。「行きなさい。あの子のところへ」声は風に溶けるように弱かった。私は襖を押し開け、家の奥へと進んだ。


 家の最も古い部屋は、普段は鍵がかかっている。祖母が「見ておいで」と言った蔵の奥だ。私は鍵を取り出し、震える手で回した。鍵穴の中で金属が擦れる音が、私の鼓膜に鋭く刺さる。襖を開けると、そこは薄暗く、埃の匂いと古い布の匂いが混じっていた。中央には小さな座卓があり、その上に人形が置かれていた。人形は私がこれまで見たどの姿よりも整っていて、継ぎ目は丁寧に隠され、布は新しいように見えた。だが目だけは同じ黒い刺繍で、私を見据えていた。


 座卓の横には古い蓄音機があり、盤がゆっくりと回っている。私はそれに気づかなかった。針が溝に落ちる音が、部屋の静けさを切り裂いた。蓄音機からは、かすれた子守歌が流れていた。あのテープの声だ。母の声が、部屋の空気を震わせる。私は足がすくみ、座卓に近づくことができなかった。だがそのとき、背後で小さな足音がした。


「ママ」


 娘の声は遠く、しかし確かにそこにあった。振り返ると、襖の影の中に小さな人影が立っていた。娘は人形を抱きしめ、目を閉じていた。彼女の口元には微笑が浮かんでいる。だがその微笑は、幼い無邪気さとは違う、どこか古びたものだった。私は駆け寄り、娘を抱きしめようとした。だが彼女は私の腕をすり抜け、座卓の前に歩み寄った。


「MoMoKoがね、教えてくれたの。ママのこと、全部」娘の声は低く、年齢に似合わない落ち着きがあった。私はその言葉に凍りついた。座卓の上の人形が、ゆっくりと頭を傾けたように見えた。布の目が、私の胸の奥にある記憶を探るように動いた。


 蓄音機の子守歌が一段と大きくなり、部屋の空気が振動した。私は耳を塞ぎたくなったが、音は骨の中まで届いて消えなかった。歌の合間に、別の声が混じっている。低く、囁くような声。言葉にならない音が、母の歌に寄り添っている。私はその声の正体を知っている気がした。胸の奥で、幼い私が震えながら母の膝にすがっている映像が、鮮やかに蘇る。


「これは、あなたのための歌よ」誰かが言った。声は部屋のどこからともなく聞こえ、私の名前を呼んだ。振り向くと、鏡があった。鏡は部屋の隅に立てかけられていて、そこに映るのは私と娘と人形の影だ。だが鏡の中の私の顔は、ほんの少しだけ違って見えた。頬の線が柔らかく、目元に見覚えのある皺が寄っている。母の若い頃の顔が、私の顔に重なっているようだった。


 私は鏡に近づき、手を伸ばした。鏡の表面は冷たく、指先に微かな振動が伝わった。振動は次第に強くなり、まるで鏡の向こう側から誰かが私の手を引っ張っているようだった。娘が人形の縫い目を指でなぞりながら、低く歌を口ずさんでいる。歌詞は断片的で、私の記憶の中の子守歌と重なり合う。私はその歌の最後の一節を思い出した。幼い私が眠りにつく前に、母が耳元で囁いた言葉。「忘れないで」と。


「忘れないで」その言葉が、鏡の中から私に向かって繰り返された。声は母のものと同じで、しかしどこか歪んでいた。私は後ずさりし、座卓の縁に手をついた。布の目が光を吸い込み、私の動きを追っている。娘は人形を抱きしめ、私を見上げた。「ママ、あの人はね、私に言ったの。あなたはここにいるべきだって」


 その瞬間、部屋の空気が変わった。温度が下がり、息が白くなるほど冷たくなった。蓄音機の針が急に速く回り始め、子守歌の旋律がねじれたように歪んだ。私は耳鳴りがして、世界が遠ざかる感覚に襲われた。鏡の中の私の顔が、ゆっくりと笑い始める。笑いは私の口元からではなく、鏡の向こう側から漏れているようだった。


「あなたは、忘れたのね」鏡の中の声が言った。私の声ではない。母の声でもない。何かが私の名前を呼び、私の過去を引き裂こうとしている。私は叫びたかったが、声は出なかった。代わりに、幼い私の映像が鏡の中で踊り出した。母が布を縫い、私が膝にすがる。母の手が震え、糸が指に絡まる。最後に、母が私を抱きしめて「これでいいの」と呟く場面が、何度も繰り返された。


 娘が人形を抱きしめたまま、私の足元に膝をついた。「ママ、あの人が言ったの。あなたはここにいるべきだって。だから、ここにいるの」その言葉は祝福のようであり、宣告のようでもあった。私は娘の顔を見つめた。そこには私の幼い頃の面影があり、同時に見知らぬ深い静けさが宿っていた。


 私は手を伸ばし、娘の肩に触れた。布の温度が私の指先に伝わり、同時に何か冷たいものが私の胸に押し寄せた。記憶の隙間が一気に埋まるように、過去の断片が流れ込んできた。母が夜中に泣きながら布を縫った理由。誰かに奪われた夜。私が幼い頃に見た、母の最後の笑顔。すべてが一つの線で繋がり、私の中で意味を持ち始めた。


 だがその意味は、救いではなかった。母は自分の代わりに何かを作ろうとした。愛情を縫い込み、声を吹き込み、記憶を詰め込んだ。だが代わりになれるものなど、存在しない。代わりに生まれたのは、歪んだ模造品だった。私はその事実を理解した瞬間、胸の中に冷たい空洞ができるのを感じた。


 蓄音機の音が止まり、部屋は静寂に包まれた。鏡の中の笑いも消え、娘は私の膝に顔を埋めた。彼女の髪からは、母の香りに似た匂いがした。私はその匂いに頭がくらくらした。祖母の言葉が蘇る。「あの子は、母さんの代わりだったのよ」だが今、目の前にいるのは代わりではなく、継承だった。何かが、母から娘へと渡されている。


 私は立ち上がり、人形を掴んだ。布は思ったよりも重く、縫い目の奥に何かが詰まっている感触があった。引き裂きたい衝動に駆られ、私は力を込めた。だが布は簡単には裂けなかった。糸は強く、縫い目はしっかりと閉じられている。娘が私の手を握りしめ、目を見開いた。「やめて、ママ」その声は震えていた。


 私は人形を抱きしめ、耳元で囁いた。「ごめんね、もう終わりにする」だがその言葉は自分に向けられたものでもあった。母のために、私のために、娘のために。私は人形を床に置き、火をつけることを考えた。だがそのとき、鏡の中の私が微笑んだ。微笑みは優しく、誘うようだった。私はその微笑みに引き寄せられ、気づけば鏡に手を伸ばしていた。


 鏡の表面は冷たく、しかし指先はすっと中に吸い込まれるような感覚があった。娘の手が私の袖を引っ張る。私は振り返り、彼女の顔を見る。そこには確かな愛情があり、同時に何か決定的な変化が宿っていた。私は最後に深く息を吸い込み、鏡の向こうの世界へと手を伸ばした。

 

 ◇

 

 鏡の冷たさが指先から腕の内側へと広がり、世界が一瞬、薄い膜のように揺れた。私はその揺らぎに吸い込まれるように手を伸ばした。布団の重み、娘の小さな手の温度、祖母のかすれた声――それらが一斉に遠ざかり、代わりに母の声が近づいてきた。母の声は優しく、しかしどこか決意に満ちていた。


「来て」


 その一語が、私の胸の奥の空洞を満たすように響いた。私は鏡の縁に指をかけ、ゆっくりと体を引き寄せた。鏡の表面は粘るように抵抗し、次の瞬間、私はすっと中に滑り込んだ。冷気が全身を包み、視界が白く滲む。鏡の向こう側は、私が知っている家のはずなのに、色が少しだけ薄く、時間がゆっくりと流れているようだった。


 向こう側の部屋には、母がいた。若い頃の母の顔が、私を見下ろしていた。彼女は布を抱え、針を動かしている。針先に光が反射し、糸が空気を切る音が小さく鳴った。母の隣には、私の幼い姿が座っていて、膝にすがりついている。私の胸は締め付けられ、言葉が出なかった。母は私を見て、微笑んだ。その微笑みは、慰めでもあり、諦観でもあった。


「あなたが来るのを待っていたのよ」母の声は、私の記憶の中の声と同じだった。だがそこには、もう一つ別の響きが混じっている。人形の縫い目の奥から漏れるような、低い囁き。私はその囁きが、自分の中にある何かを呼び覚ますのを感じた。


 向こう側の私が、ゆっくりと立ち上がった。幼い私が母の膝から離れ、私の方へと歩み寄る。彼女の目は私を見ているが、どこか遠くを見ているようでもあった。私は手を伸ばし、彼女の髪を撫でた。髪は柔らかく、母の香りがした。安堵が胸を満たす――それはほんの一瞬のことだった。


 背後で、蓄音機の針がまた動き出した。子守歌がゆっくりと流れ、歌詞の断片が部屋の空気を満たす。歌は私の名前を呼び、私の過去を一つずつ並べ替えていく。私は気づくと、母の手に抱かれていた。針の音と母の鼓動が重なり、世界が一点に収束する感覚に襲われた。


「これでいいのよ」母が囁いた。言葉は祝福にも、呪いにも聞こえた。私はその言葉の意味を理解しようとしたが、理解はいつの間にか形を変え、私の中に溶け込んでいった。母の手が私の背中を撫でるたびに、私の記憶の欠片が一つずつ埋められていく。埋められるたびに、私の輪郭が薄れていくのを感じた。


 向こう側の世界は穏やかだった。だが穏やかさの底には、深い静寂が横たわっている。静寂は満たされることを知らず、何かを飲み込もうとする。私はその渦に引き寄せられ、気づけば自分の名前が遠くで誰かに呼ばれているのを聞いた。呼び声は娘の声でも、祖母の声でも、夫の声でもない。人形の縫い目の奥から漏れる、低い合唱のような音だった。


「忘れないで」その言葉が、また繰り返された。私はそれに応えるように、母の胸に顔を埋めた。暖かさが全身を包み、同時に冷たさが背筋を走った。何かが私の中で変わり始めている。母の記憶が私の中に流れ込み、私の記憶が向こう側へと流れ出していく。交換のような、継承のような、取り替えられるような感覚。


 抵抗する感覚が消えたのか、私が抵抗をやめたのか、もうわからなかった。


 気がつくと、私は鏡の向こうで膝をついていた。手には人形が抱かれている。布は新しく、縫い目は丁寧に隠されていた。私の指先には、母の指の感触が残っている。鏡の向こうの母は、満足そうに微笑み、針を置いた。彼女は私の頭を撫で、そしてゆっくりと立ち上がると、部屋の隅へと歩いていった。振り返りざまに、母は一言だけ言った。


「行きなさい。あなたの番よ」


 私は立ち上がり、鏡の縁に手をかけた。向こう側の世界は静かで、しかし確かに生きている。私は自分が何を選んだのか、何を失ったのかを考える余裕がなかった。選択は既に終わっていたのかもしれない。私の中にある母の声が、優しく、しかし確固たる調子で繰り返される。


 鏡の向こうから、私の名前が呼ばれた。呼び声は娘の声で、しかしどこか年長者の落ち着きがあった。「ママ、ここにいて」その声に、私は微笑んだ。微笑みは自然で、そしてどこか遠い。私は人形を抱きしめ、ゆっくりと歩き出した。部屋の扉が静かに閉まる音がして、世界はまた一つの静寂に包まれた。


 ――


 翌朝、祖母は縁側で編み物をしていた。夫は仕事へ出かけ、いつもの時間に家を出た。娘はリビングのソファに座り、人形を膝に抱えていた。彼女の顔には、昨夜とは違う落ち着きが宿っている。私はその顔を見て、胸の奥が冷たくなるのを感じた。娘は私に向かって微笑み、そして小さな声で歌い始めた。歌は私の幼い頃の子守歌と同じ旋律だったが、どこか違って聞こえた。歌詞の端々に、私の知らない言葉が混じっている。


「ママ、覚えてる? あの人が言ってたの。ここにいるべきだって」


 私は言葉を返すことができなかった。口を開けると、向こう側の世界の残響が喉の奥から漏れ出すような気がした。鏡はリビングの隅に立てかけられていて、そこに映る私の姿は穏やかだった。だが鏡の中の私の目は、どこか違って見えた。深いところに、母の影が宿っている。


 祖母がゆっくりと立ち上がり、私の肩に手を置いた。彼女の手は温かく、しかしその温かさは慰めではなく、確認のように感じられた。祖母は小さく息を吐き、編み物をしまうと、静かに言った。「よく来たね」その声には、安堵と諦めのような静けさが混じっていた。


 私は娘の頭を撫で、彼女の髪から母の香りを嗅いだ。香りは甘く、少し酸っぱく、どこか懐かしい。私はその香りに目眩を覚えながら、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。外では風が木の葉を揺らし、柱時計が小さく時を刻む。日常は戻ってきたように見えた。だが日常の縁には、細い亀裂が走っている。亀裂の向こう側から、かすかな歌声が漏れてくる。


 私はその歌声を聞きながら、手の中の人形の縫い目を指でなぞった。糸の色が微かに変わり、布片の柄が母の着物と重なる。娘は私の膝に顔を埋め、安心したように息を吐いた。私はその重みを感じながら、胸の中に残る空洞を見つめた。空洞は埋まっている。だが埋まったものは、私だけのものではなかった。


 窓の外で、風がまた歌を運んできた。歌は遠く、しかし確かに聞こえる。私は目を閉じ、歌に身を任せた。歌の最後の一節が、私の耳元で囁かれる。


「忘れないで」


 その言葉は優しく、そして決して消えない。私はそれを胸にしまい込み、ゆっくりと息を吐いた。外の光が差し込み、部屋の影が伸びる。日常は続く。だが日常の縁には、いつもあの布の塊が座っている。私はそれを見つめ、微笑むことしかできなかった。微笑みは本物かもしれないし、そうでないかもしれない。どちらにせよ、世界はもう一度、静かに呼吸を始めていた。


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