表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

愛しい人が死んだ後に

作者: 春樹凜



 ────その日、大好きだった婚約者が死んだ。







 私には、ロニーという名前の一つ上の幼馴染がいた。

 私は伯爵家の三女、ロニーはうちの領地の隣を治める同じく伯爵家の嫡男で、親同士の仲がいいこともあって、赤ちゃんの頃から交流があり、私たちはまるで兄妹のように育った。


 ロニーも私も子供の頃からとても活発で、一緒に魚釣りに行ってびしょびしょになりながらも協力して大きな魚を捕まえたり、山に入ってどちらがたくさん昆虫を捕まえられるか競ったり、ロニーの家の庭にある大木に上って沈んでいく夕陽を並んで眺めたりして過ごしていた。

 

 彼はよく笑う人だった。

 綺麗な顔をくしゃくしゃとさせる笑い方で、見ているとこっちまで釣られてよく笑ってしまった。


 初めは異性として認識はしていなかったけど、気付けば私はロニーのことが好きになっていた。

 けれど彼はきっと私のことを、妹としてしか見ていないだろう。

 それに将来伯爵家を継ぐロニーには、既にいくつか縁談の話が来ていると聞いていた。その中には美しいと評判の名家のご令嬢の名前もあって、きっと彼女が選ばれるんだろうなと思っていた。


 だって成長したロニーはとても凛々しい顔立ちで、街を歩けば通りがかる女の子たちが思わず見惚れて足を止めていたほどだ。

 その上誰にでも優しい性格で、勉強もできて、やんちゃなところもあるけどそれが逆に彼のチャーミングさを引き出していて、非の打ちどころがなかった。


 対する私は、どこにでもいるような平凡な見た目だし、ロニーと釣り合いが取れていない。それこそロニーが例の令嬢と並んだらとてもお似合いなんだろうなと、考えただけで胸がチクリと痛んだ。


 それでも妹のような立ち位置でも、ロニーと一緒にいられるだけで幸せだった。

 だから彼が誰か別の女性のものになるまでは隣にいたいと思っていた。


 だけど。


「アンナ、俺、子供の頃からずっとお前のことが好きだったんだ」


 ロニーといつもの大木の枝に並んで座り、何度目か分からない夕陽を眺めていると、突然彼が私にそう告白してきたのだ。


 初めは夢かと思った。

 だって彼にとって私は妹みたいな存在のはずだと。

 

 それなのにこんな、私に都合のいいことを言われるなんてと信じられなくて、思わず自分の手の甲をつねったほどだ。けれど痛みが訪れても目の前の出来事が夢のように消えることはなかった。


 それに私をまっすぐ見つめるロニーの顔は、夕陽よりも真っ赤に染まっていた。


 夢じゃない。

 あのロニーが、私に好きだって言っている。

 想っていたのは私だけじゃなかったんだと、嬉しくて思わず涙ぐみながら、私は答えた。


「嬉しい。……私もずっと、ロニーのことが好きだったの」


 そうしたら彼は緊張していた面持ちを見る見る間に崩し、大好きなくしゃっとした笑顔を見せて、こちらへ腕を伸ばすと私の体をぎゅっと抱きしめた。


「両親にアンナのことを話すよ。だからアンナ、俺と結婚してくれ。お前を誰よりも幸せな花嫁にしてみせるから」

「うん、私、ロニーのお嫁さんになりたい!」


 手に入らないと思っていたこの温もりが、これからはずっと隣にあるのだ。

 この時確かに私は幸せだった。


 お互いの両親に話をして了承をもらい、私はロニーの婚約者になった。

 恋人になった私たちの関係は少しだけ変化して、手を繋いだり、デートに行ったり、その帰りに初めてキスもした。


 けれど突如、その幸せは終わりを迎えた。




◯◯◯◯




 それは不幸な事故だった。

 私のところから自身の領地への帰り道、落石に巻き込まれて落馬し、ロニーはそのまま帰らぬ人になってしまったのだ。




 今、私の目の前の棺の中には、ロニーが横たわっている。

 このまま待っていれば目を開けて、あの大好きな笑顔を見せてくれるんじゃないかって思ってしまう。


 だけど彼の顔色は既に生気がなくて、額にかかる太陽のような明るい金の髪越しにそっと肌に触れても、あの時感じた温もりが戻ってくることはなかった。


 昨日までは、私の目の前でまだ生きていたのに。

 また明日、って笑顔で別れたのに。

 本当に、あっけなく、彼は逝ってしまった。


 涙なんてとうに枯れたあとも、体中の全ての水分を絞り出すかのように、私は泣き続けた。

 泣いて泣いて泣いて、それでも涙と一緒にこの悲しみが流れ出ることはなく、彼を失った喪失感と共に、胸の奥に積み重なっていく一方だった。


 ロニーの眠るお墓は私の家からも遠くない場所にあった。

 だから私はできるだけ彼の元を訪れ、一緒に過ごした。


「ねえロニー、もう春だよ。この時期の山頂にしか咲かないっていう花を見に、毎年苦労しながら一緒に山を登ってたよね。今年も行ってきたからここに摘んだお花置いておくね。だけど、やっぱり一人じゃ山登りも楽しくなかったよ」


「今年の夏はすごく暑いんだって。ふふっ、なら虫とりじゃなくて川遊びに行く方がいいかな。ロニー、去年よりも大物を捕まえるんだって張り切っていたわよね。だからほら、私があなたの代わりにとびきり大きな魚を捕ってきたわ。でも、一人だからすごく大変だった」


「少し肌寒くなってきたね。もうキノコ狩りの季節になっちゃった。そういえばロニーが間違えて毒のあるキノコを食べちゃって、笑いが止まらなくなったこともあったよね。あの頃が懐かしい。……ロニー、私もう笑えないの。どうしたらいいのかな」


「雪が降ると、二人で鼻の頭を真っ赤にさせながら大きな雪ダルマを作った日のことを思い出すの。試しに作ってみたんだけど、どう? ……やっぱり私一人じゃダメだよロニー。だってこんなに小さいのしか作れないのに」


 一緒に笑ったり喧嘩したりしながら毎日過ごして、その内に結婚して、子供もたくさん産んで────そんな生活が待っていたはずなのに。


 どんなに泣いても、願っても、彼が戻ってくることはない。そんなことは分かっている。

 

 それでも私は願ってしまう。


 ねえ、寂しいよ、会いたいよ。

 もう一回私に笑ってよ。好きだって言ってよ。

 幸せな花嫁にしてくれるって約束したじゃない。なんで私を置いていったの?

 私は、あなたがいなくなってから泣いてばかりだよ。

 

 一年過ぎて二年過ぎて、どれだけ季節が巡ろうとも、私はずっとロニーを忘れられない。

 抱えた想いは風化するどころか、募るばかりだった。

 

 そんな私だったけれど、婚約者がいなくなってしばらくすると、新しい縁談がいくつか舞い込むようになった。


 何人かと会って話をしたけれど、どうしても記憶の中のロニーと比べてしまう。

 顔も笑い方も性格も、当たり前だけど何もかもが違う。皆いい人たちだったけど、ロニーに強い未練がある私は、結局全てを断った。


「アンナ、辛いのはよく分かる。だがもうロニー君が亡くなって二年だ。いい加減前を向いて進む時だと思うぞ」

「そうよ。その方がきっと彼も喜ぶわ。悲しい気持ちも誰かと一緒にいればそのうちに少しずつなくなっていくはずよ。私たちは、あなたに幸せになってほしいの。だから他の誰かに目を向けるのも大切なことよ」


 両親はとても優しかった。本来なら無理やりにでも誰かとの縁談を推し進めても良かったのにそれをしなかったのは、私の意志を尊重し、気遣ってくれたからだ。


 けれど、前なんて向けない。


 今だって、ロニーのあの、見ただけで幸せになれる笑顔も、少し掠れたような低い声も、向けられた熱っぽい眼差しも、抱き締められた時に感じた体温も鼓動も、一緒に過ごした日々も会話も、全てを鮮明に思い出せるのだ。

 それなのに、私は一体どうやって前を向いたらいいのか。


 だって前には────これから先の未来に、大好きなロニーはいないのに。


 頭では分かっている。

 私は貴族の娘だ。家の繁栄のために結婚するのは私たちの義務だ。それを放棄することはできない。

 好きだった人と結婚できないなんて、この世界ではよくあることだ。

 それに、両親にこれ以上心配をかけたくないという気持ちもある。


 だから私はズタズタに切り裂かれるような痛みを抱えた心を内に隠し、新しい婚約者を探すために、次の社交シーズンには、王都で開かれる夜会に出席する意思を伝えた。


 すると二人とも、ほっと安堵したような、そしてようやく一歩前へ踏み出す決意をした娘の姿を見られて喜んだ表情を見せた。




◯◯◯◯




 そして訪れた社交シーズン。

 王城で開かれた、この国の第二王子殿下の誕生日を祝う夜会に、私は出席していた。当然かなり大規模なもので、未婚の男女も数多く姿を見せている。


 その中でも私の立ち位置はかなり微妙なもので、二年前に婚約者を亡くし尚且つこれまで持ち込まれた縁談も全て断っている、特筆するところのない伯爵家の三女、ということもあり、ほとんど壁の花と化していた。


 それでも興味本位で近付く令息は数名いて、彼らと談笑したり、ダンスを踊ったりはした。

 楽しくなかった、ということはない。

 かといって、ロニー以上に愛せる可能性がある人間がいるかと問われると、いないという結論に達してしまう。


 似たような夜会に数日続けて出席し、けれども誰とも縁が結ばれることもないまま、このまま社交シーズンも終わるのかなと思っていた私だったけど、その一か月後、私はとある一人の男性と向き合って座っていた。


 ロニーよりも暗めの髪色をしたその美丈夫は、私の姿をエメラルドのような鮮やかな色合いの瞳に映している。けれどその表情にはどこか陰りが見えた。


 彼はトルシス家のギルバート様で、次期公爵様でもある。

 驚いたことに、彼からの指名で私に縁談が入ったのだ。当然私よりもうんと地位もある方で、相手などよりどりみどりのはずだ。


 だから、未だに幼馴染に未練を残して縁談を全て断った、特に秀でたところのない私を指名してきたのが、両親も私も不思議だった。

 しかも彼と初めて顔を合わせたのは、今回参加したうちの夜会の一つで、本当にちらりと顔を合わせただけで、会話すらしていない。

 それが不思議で仕方がなく、かといって相手が相手なので断ることはできず、こうしてギルバート様とお会いすることになった。


 お見合いの場所として指定されたのは、王都にあるトルシス家のタウンハウスの一室だった。

 二人きりで話したいと言われ、両親の付き添いはない。


 うちのタウンハウスとは比べ物にならないほどの絢爛な造りのトルシス邸に内心尻込みしつつ、待っていたギルバート様と互いに自己紹介を兼ねた挨拶を交わす。


 噂通りの美貌のギルバート様は、さぞモテるのだろう。

 実際彼と懇意になりたい女性が、この間の夜会でも我先にと群がっていた。それでもロニーに全ての気持ちが傾いている私の心は、少しも揺らがなかった。


 そんなギルバート様と私は、席についてしばらくは他愛もない会話を交わす。


 けれどそれがふと途切れた時、彼は少しだけ躊躇したように口元を歪めたあと、ゆっくりと口を開いた。


「君はその、亡くなった婚約者のことを今も好いていると聞いたが、本当か?」


 両親には言われていた。

 まだロニーのことを好きだと縁談を望んだ相手に気付かれたら失礼に当たるから、もしそのことについて聞かれたら、きちんと否定しなさいと。


 自分の気持ちを否定すること、それはまるでロニーがこの世界に生きていたという彼の存在自体を否定するような気持ちになって、思わず唇を噛みしめる。


 けれど次に縁談が来たら受けると決めたのは私だ。 

 だから泣きそうになる気持ちを抑え、表情を作って口を開きかけたけど、ギルバート様はそんな私の様子に何か感じたのか待ったをかける。


「君が誰に何を言われたかは分からない。だが、頼むから本当のことを聞かせてほしい」

「────っ!」


 でもそれを伝えたら、この話はきっとなかったことになる。

 誰かを心の中に想っている妻なんて、みんな嫌に決まっている。両親の言いつけ通り、自身の心が痛んでも私は嘘をつくべきだ。


 それでも私を見つめるギルバート様の瞳がまるでこちらの心を見透かすような、それでいてあまりにも優しいもので、気付けば私の口はそれとは正反対の言葉を紡いでいた。


「…………私、は、今でもずっと、ロニーのことが好きです。彼のことは残念だったけどもう前を向けとか、私が誰かと結ばれた方が彼も喜ぶとか、周りの人にはたくさん言われます。だけど────駄目なんです」


 温かな春の日差しを浴びれば彼の笑顔が頭に浮かび、風に揺れるスミレの花を見ればその花が好きなんだと言った声を思い出し、気付けばいつもどこかに、何かに、私はロニーの欠片を探してしまう。

 たとえ五年経とうが十年経とうが、私の彼への気持ちが変わるなんてことはきっとないのだろう。


「みんな、忘れた方がもっと楽になるって言っていて。確かに会えないのは苦しいし悲しいし辛いです。だけどどうしても忘れられないんです。こんなにも好きで、大好きで、もう手を伸ばしたって届かないことも分かっているのに、それでも私の心はいうことを聞いてくれなくて……」


 気付けば私はここがどういった場なのかも忘れ、みっともない顔で泣いていた。


 そんな私に、ギルバート様は軽蔑するようなものでも憐れむような視線を向けるわけでもなく、淑女としてあるまじき行為をした私を非難するでもなく、タイミングを見計らい、持っていたハンカチを手渡してくれた。


「酷なことを答えさせてしまって、すまなかった」


 受け取ったハンカチでいまだに零れ落ちる涙を拭いながら、私は首を横に振る。


「むしろ私は、自分の気持ちに嘘をつく方がもっとずっと、辛かったですから。それよりこちらこそ、このようなみっともないところをお見せしてしまい、申し訳ありません」


 おそらく彼と会うのはこれが最後になるだろう。


 本当のことを、と言われたとはいえ、正直に自分とは違う別の誰かへの強い愛情を聞かされて、彼が私を選ぶはずがない。

 ただ、なぜギルバート様が私を指定したのかは謎のままだけど、もう彼と関わることはないのだろうから、今更理由を聞く気にもなれない。


 だからこの話はなかったことに、と宣告され、このまま別れるのかと思っていた。




◯◯◯◯

 



 けれどそれからすぐに、私は彼と婚約した。


 ギルバート様の一存で私が婚約者に選ばれたので、もしかしたら身分違いの伯爵家の娘なんて認めない、と彼の家族に言われるかもしれないと覚悟していたけど、幸いみんないい方たちばかりだった。

 むしろ、ギルバート様のことをよろしく頼むとお願いされたほどだ。


 そこからは、目が回る忙しさだった。

 なぜならいきなり貴族の中でも中堅どころの家の出で野山を自由に駆け回っていた私が、この国でも五本の指に入る歴史と力を持つ公爵家に嫁ぐためには、しなければならないことが山ほどあったからだ。


 社交シーズンが終わり、各々が戻る中、私は自分のところではなくギルバート様と一緒に公爵家の治める領地へと向かい、次期公爵夫人となるのに必要な教養やマナーを覚えたり、トルシス家の治める領地について学んだり、将来的には屋敷の管理も私の仕事になるので、夫人についてそのやり方を教わる毎日を過ごした。


 おかげで半年ほどで形になり、それから更に半年後に、私は正式に公爵家の一員として迎え入れられた。


 私とギルバート様との関係は良好で、私は彼との間に三人の子供を設け、公爵家に嫁いだ義務も果たすことができた。

 

 一番上の息子が大きくなった頃、重い風邪を患って以来ギルバート様の体調が芳しくないこともあり、少し早いが当主の座を息子に譲り、私たちは本宅から少し離れた別邸へと移り住むことになった。

 そこで彼のお世話をしながら、これまで激務だった日々が嘘のようにのんびりと過ごした。


 そして、別邸へやってきてから五年後。

 春の花が色付き始める頃、私よりも先に、彼は静かに息を引き取った。


 多くの人に慕われていたギルバート様の葬儀には、たくさんの人が集まってくれた。

 皆がすすり泣く声が聞こえる中、蓋が締まる直前、私はギルバート様が眠る棺の前へ足を進めると、一輪の百合の花をそっと胸の上に置き、心の底から願う。


 ────もしも来世というものがあるのなら、次こそはギルバート様が、この花が一番好きだと言っていた彼の想い人と、どうか結ばれますようにと。




◯◯◯◯




「私も君と一緒なんだ」


 お見合いのあの日、泣きじゃくり目を真っ赤に腫らしながら鼻を啜る私の前で、ギルバート様は小さな声でそう呟いた。


 予想外の言葉にどういうことなのかと首を傾げていると、彼は小さく息を吐き、意を決したように、とつとつと語り始めた。


 ギルバート様には、とても仲の良い幼馴染のミリヤという二つ年下の女の子がいた。

 その子は侯爵家の次女で、近い年齢の子があまり近くにいなかったことから、よく彼女と一緒に遊んでいたという。


 ただ体があまり強くなかったようで、もっぱら部屋で本を読むのが常だったそうだが、それでも一緒に過ごす時間は心地よく、互いに恋に落ちるのに時間はかからなかった。

 だが彼女の体調に不安があるため、なかなか婚約の話は進まなかった。


「ミリヤは私と結婚して公爵夫人となるために、辛い治療を乗り越え、主治医も驚くほどに奇跡的に回復したんだ。あとは一年程経過を観察する必要はあったが、おそらく問題はないだろうとまで言ってもらってな。だからこそ両親も私たちの仲を認めてくれて、一年後に彼女との婚約を発表することになり、その準備を進めていた。────その、矢先だったんだ。ミリヤの容体が、急変したのは」


 それはあっという間の出来事で。

 彼女は二日間苦しんだ後、そのまま息を引き取った。

 無事を祈りながら愛する人の手を握っていたギルバート様が、見守る前で。


「私は何もできなかった。苦しむミリヤに声をかけ、手を握り、その命の灯が消えていく様を、見ることしか……」


 その時のことを思い出したのか、ギルバート様の目にはうっすらと涙が浮かぶ。


「……約束、していたんだ。彼女を幸せにすると。結婚したら、公爵邸の庭に、ミリヤの好きな白い百合をたくさん植えて、開花の時期になったら、それを見ながら毎年、一緒に、庭で二人でお茶をしよう、と。っ、だが、それを私は、叶えてやることが、できなかった」

 

 何をしていても頭に浮かぶのはこの世から消えてしまった彼女のことで、思い出すだけで彼女への愛おしさと、もう会えないという現実に心が抉れるほどの苦しさを覚えるのだと。


 婚約者候補だった幼馴染を失い、事情を知る周囲の人間はみなギルバート様に労りの声をかけるが、他人に何をどう言われたところで愛する人が帰ってくるはずもなく、痛みが薄れることも取り除かれることもない。


 そして数年もすれば、未だに愛する人を心の中に宿すギルバート様に対し、告げられる言葉は残酷なものだった。


「忘れろと。皆私に口々に言う。友人や両親だけじゃない。私の将来のためにも、もういなくなってしまった娘のことは忘れてほしいと、侯爵家からもな。……だが、私にはどうしても無理なんだ」


 私は理解した。

 どうしてトルシス家が────ギルバート様が、私との婚約の話を望んだのか。


 私たちは同じなのだ。

 もういないんだと分かっていても、忘れろと言われても、捨てることのできない感情を抱えている。

 そしてこの気持ちがなくなることは、一生ない。

 この命が尽きるまで、私たちの想いはこの世からいなくなったただ一人にだけ注がれる。


 それでも誰かと結婚し、子を為し、家を存続させなければならない。そういう立場に、私もギルバート様もいる。


「君のことを妻として愛する努力はするつもりだ。それに君の願いはなんでも叶える。生活に不自由しないようにも努める。だが……おそらく私は、ミリヤへの愛情を捨て去ることはできない。勝手なことを言っているのは十分承知の上だが、できればそれを許してはもらえないか」


 ギルバート様はきっと、同じ痛みを抱える人間が相手でなければこのようなことは言わなかっただろう。 

 持っている気持ちを誰にも伝えずに誰かを娶り、心を偽りながら生きていくつもりだった。

 けれど彼は私を見つけた。


 私はギルバート様の心情が痛いほど理解できる。だって私がそうなのだ。

 

 忘れたくはない。覚えておきたい。

 世界中の誰もがその人の存在を忘れてしまっても、ここに生きていたということを。


 だからこそせめて自分たちが死ぬまでは、たとえ誰かと結婚しても、結婚相手よりも、あの人を愛しているという記憶をそのまま残しておきたい。

 この気持ちを新しい人に書き換えたくはないのだ。


 私も努力はする。ギルバート様を夫として愛そうとする努力は。

 だけど私たちは二人とも結局、亡くなった人への想いは超えられないし、むしろ超えたくないと思っている。どう愛したところで、一番にはなりえない。


 それでも私は構わない。

 だから私は、真実を全て曝け出してくれたギルバート様に向かって居住まいを正すと、正直な気持ちを打ち明けた。


「…………私の一番はこの命がある限り、ずっとロニーだけです。それを認めてください。その代わり私も、あなたの一番の座を求めることはありません。それで良ければこのお話、受けさせてください」


 こうして私たちの婚約は、その日のうちに成立することとなった。




○○○○




 ギルバート様と私の結婚の経緯は色々あったが、それでも私たちの間には、家族としての愛情と、事情を知るがゆえの友人としての情があった。


「ミリヤは甘いものが好きだったんだが、こっそり食べているところを主治医に見つかって怒られていたことがあったんだ。その時彼女はチョコレートを食べていたんだが、食べ過ぎて鼻血を出してしまったんだ」

「でもそれを用意したのはギルバート様なんじゃないですか? どうせあなたのことだから、ミリヤに可愛くおねだりされたら断れなかったんでしょう」

「なぜ分かるんだ」

「当たり前ですよ。何年一緒に夫婦をしてきたと思っているんですか」

「……だが仕方がないだろう。普段は外に出ることもできない彼女からの頼みだ。一応一日の数には注意するよう伝えていたんだが」

「ですか、仕方ありませんよね。好きな物って我慢するのは難しいですし」

「だがそれ以来チョコレートの差し入れは少し控えるようになったんだ」


 こんなふうにギルバート様からは、ミリヤの話をよく聞いた。

 勿論逆もある。


「前にロニーと大喧嘩したことがあって、数日間口をきかなかったことがあったんです。でもロニーが贈り物を持って謝りに来てくれて」

「もしかしてあれじゃないのか? 君がいつも使っている羽ペン」

「よく分かりましたね」

「アンナはとてもあのペンを大切に扱っているだろう? それに君があれで文字を書いている時は、あまり芳しくない書類の類でもどこか幸せそうな表情をしている」

「そうなんです! 実はそのペンって、ロニーが私に初めて自分のお金で買ってくれたもので。もうずいぶん経ちますし、かなり汚れも目立ってきたんですけどだからなかなか買い替える気にはなれないんですよね」

「いいんじゃないか。まだ使えるんだ。それにこんなに使ってもらえて、きっとロニーも喜んでいるだろう」


 夫婦二人でいる時に限るけど、私は私の愛する人の話をすることができて、そしてそれを聞いてくれる人がいて、とても幸せだった。多分ギルバート様も同じ気持ちだったはずだ。


 そんな生活も、ギルバート様が亡くなったことで終わりを告げた。


 気付けばロニーと過ごしたよりも長い年月を、私はギルバート様と生きたことになる。

 

 私にとってギルバート様は、この世界では、私の子どもたちと同じくらい────ロニーの次に大切な存在で。


 そんな彼がいなくなってしまって、ロニーのことを話せる人もいなくなり寂しさを覚えるけれど、庭に植えた百合とスミレの世話をしつつ、私は残りの人生を穏やかな心地で過ごした。


 そしてギルバート様が亡くなってから十五年後。

 老衰により息を引き取る間際、私は残された子どもたちにあるお願いをする。


 棺の中には、スミレの花を入れてほしいと。


 私の好きな花がスミレだと思っている子どもたちは、泣きながらそれを了承してくれた。

 それが好きだったのは私ではないけれど、真実を伝えるつもりはなかった。


 私は私の人生のほとんどを、トルシス家の人間として捧げた。

 だからこそ最後くらいはギルバート様のように、ただのロニーを愛したアンナとして死にたかった。


 そして私は満足げに目を瞑る。

 この魂が、次はロニーと共にいられるようにと願いながら。




◯◯◯◯




「…………」


 目を開くと、そこには私の顔を、今にも泣き出しそうな顔で覗きこむ夫の姿があった。


「あら、ロックス。……どうしてそんな顔をしているの?」


 私がそっと腕を伸ばすと、ロックスは私をぎゅっと抱き締める。


 泣き出しそう、というのは見間違えだった。だって既に彼は泣いていたから。


「アメリ、よかった! 本当に、目を覚ましてくれてよかった! このまま目覚めなかったらどうしようかと思って……」


 そして泣き続ける夫から話を聞くと、どうやら私はスリに遭い、そのスリが私の鞄を力づくで取った拍子に階段から足を滑らせて落ちて、頭を強く打ち付け、三日間意識不明の状態だったらしい。


 スリはすぐさま近くを歩いていた通行人の男性によって取り押さえられたという。

 愛する奥様の誕生日に贈るため、大きな百合の花束を買った帰りだったらしく、その花束で降りてきたスリの男の横っ面を思いっ切り叩き、倒れ込んだ隙に確保してくれたそうだ。


「体調はどう? 何かおかしいところとかは? どこか痛むところはない??」


 ロックスに尋ねられ、ぼんやりする頭で考える。


 そういえば、なんだか随分と長くて、それに懐かしいような、そんな夢を見ていた気がする。


 それはどこか物悲しく、けれど幸せで、ちょっぴり切ない、そんな感情が湧き上がってくるような不思議な夢だった。とはいっても、内容は全然思い出せないのだけど。


 他に何かおかしいところや痛いところがあるかと問われると……。


「そういえば頭が痛いわね。耐えられないほどではないんだけれど」

「……だって君の頭からは血もたくさん出ていて、ずっと止まらなくて、医者には最悪を覚悟しててくれって言われたくらいだからね」


 けれど私はこうして生きている。


「……ごめんなさい、心配をかけてしまったわね」


 愛しい人の背中をそっと撫でると、彼は私から体を離し、涙はまだ流れているけど、端正だとよく言われる顔をくしゃくしゃっとして笑った。


「いいんだ。アメリが無事に戻ってきてくれたからそれで十分だ」



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
とてもすてきなお話でした。悲しい話だと思っていたらラストでハッピーエンドになるなんていいお話でしたね。百合の花の人はギルバートで奥さんはミリヤ。アメリとロックスはアンナとロニー。スミレの花がでてくるよ…
ラストにスタンディングオベーションしたくなりました
引ったくりを取り押さえた人は帰宅後ちょっとひしゃげちゃった百合の花束を買い足したチョコレートと一緒に謝りながら奥さんに渡すんですね。それを奥さんは笑って受け取るんです分かります。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ