さまーたいむじゃむ
窓の外では、風がカーテンを膨らませていた。初夏の風は少し埃っぽく、けれどどこか乾いて軽やかだ。公団住宅の五階、南向きの部屋は、日が昇るとすぐに暑くなる。老人――佐原正吉は、椅子に深く腰掛け、風に揺れる白い布の向こうに微かにのぞく青空をぼんやりと眺めていた。
冷蔵庫が低い唸り声をあげている。まるで歳をとった犬が、眠りながら鼻を鳴らしているような音だった。古い冷蔵庫だった。妻の冴子が亡くなる前、もう買い替えようと言っていたが、結局そのままになった。扉の縁のゴムが緩んでいて、隙間から少しずつ冷気が漏れている。指でなぞるとしっとりとして、湿った夏の匂いがした。
佐原は立ち上がり、冷蔵庫を開けた。中には麦茶の入ったピッチャーと、買ってきたばかりの絹ごし豆腐が一丁。それから、皿に移したきゅうりの浅漬けがある。冴子が元気だったころは、こうしたものを手ずから漬けていた。塩加減が絶妙で、夏の盛りにも食が進んだ。だが、スーパーで買った浅漬けは、どこか味が平板だった。食べても、口の中に広がるのは塩気よりも、空虚さのほうだった。
皿を持ち、卓上に運び、ひとつ摘まむ。ぽり、と音がした。それだけの音だった。味も、香りも、もうこの年になればどうでもよくなる。食うというより、習慣として咀嚼する。それが生きているということなのだと、近頃では思う。
窓のそばには、鉢植えの朝顔がある。冴子が亡くなった翌年の初夏、娘が持ってきたものだ。「お父さん、ちゃんと水やってる?」と電話で問われるたび、佐原は「ああ」とだけ答える。実際には、忘れることのほうが多い。けれど、朝顔は律儀に咲く。つるを伸ばし、小さな紫の花をつけては、しおれていく。その繰り返しを見ていると、なんとなく自分の呼吸も、そこに重なる気がした。
その日、玄関のチャイムが鳴ったのは、昼下がりのことだった。耳が遠くなっていたが、ひときわ高いチャイム音に、佐原はわずかに眉をひそめた。
ドアを開けると、小学生くらいの少年が立っていた。麦藁帽子をかぶり、肩から赤い水筒を提げている。汗をかいているのか、顔が少し赤かった。
「……どうかしたのか」
佐原が問うと、少年はモジモジと足をもじらせながら言った。
「あの、上の階のおばあちゃん……いつもベランダにいたのに、昨日から見かけなくて……」
それを聞いて、佐原は一瞬息を呑んだ。上の階――六〇五号室の老婦人は、冴子が生前よく話していた相手だった。名前は失念していたが、ベランダ越しに苗を育てる話や、昔の夏の過ごし方をよく語っていたと聞いた。最近では見かけなかったが、確かに、いつもベランダに腰かけていた印象がある。
少年の視線の真剣さに押され、佐原はゆっくりと踵を返した。杖をつきながら階段を上る。エレベーターはあるが、こういうときは昔の習慣が勝る。
六〇五号室の前に立ち、インターホンを押す。反応はない。耳を澄ますと、中から冷蔵庫の唸り声が聞こえた。
その音が、どこか――自分の部屋と同じに思えた。部屋の中が静かであること、誰も返事をしないこと、そのことよりも、冷蔵庫の音が変にリアルに感じられた。生きている気配とは別の、生の残滓のような。
佐原は、管理人に連絡し、しばらくしてから合鍵を使って室内に入った。老婦人は、ソファに腰掛けたまま、冷たくなっていた。
警察が来て、救急隊が来て、騒がしさが過ぎ去った夕暮れ、佐原は再び自分の部屋に戻った。麦茶を注いで、窓辺に腰掛けた。風がまた、カーテンを揺らしている。
今日ほど、冷蔵庫の音が耳についた日はなかった。
あの老婦人も、あの冷蔵庫の音の中で、死を迎えたのかもしれない。テレビの音も、誰かの声もない部屋で、機械の唸り声だけを聞きながら。暑いのか寒いのかも、もはや分からなくなった肉体で、風の音を夢の中に聞きながら。
佐原は立ち上がり、冷蔵庫の中から豆腐を取り出した。皿に盛り、削り節を載せる。醤油をかける手元が少し震えた。冴子が生きていた頃は、これに青じそを添えていた。いまは、そうした手間ができない。
だが、箸でひとすくい口に運んだとき、不意に、妻の姿が浮かんだ。台所に立ち、彼に「ちゃんと食べなさいよ」と言っていた笑顔が。
その晩、佐原は冷蔵庫の電源を一時的に落とした。
静寂が訪れた。
耳に残るのは、外を吹く風の音だけだった。それは、冴子の声にも、亡くなった隣人の寝息にも似ていた。
佐原は、その音の中で、ゆっくりと目を閉じた。