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転生、そして覚醒

 その日、東京の空は曇っていた。


 斉藤圭一、四十五歳。都内の中堅商社に勤めるサラリーマン。歴史と軍事をこよなく愛する独身男は、いつも通りに朝のニュースをスマホで流し見しながら、出勤のため駅の階段を駆け下りていた。耳にはイヤホン、頭の中は一九世紀末のアフガニスタン情勢のことでいっぱいだった。


「アブドゥッラフマーン・ハーンが即位してすぐの段階で軍制改革ができれば、イギリスとロシアの干渉に対抗できたはずなんだよな……」


 その瞬間だった。


 足元がズルリと滑り、体が宙を舞う。咄嗟の叫びも間に合わず、硬い階段に頭を打ちつける衝撃。世界が回転し、耳鳴りとともに光が走った。


 ……そして、すべてが闇に沈んだ。



 目を覚ましたとき、彼は見知らぬ天井を見つめていた。


 土壁に織物、煤けた木梁の天井。空気は乾燥し、どこか薬草の香りが漂っている。彼はゆっくりと体を起こした。異様に重く、筋肉が張っていた。長年の運動不足の自分にはあり得ない感触だった。


「……え?」


 低く、濁った声が喉から漏れた。自分の声ではない。慌てて身の回りを見回し、傍らの真鍮の水差しを覗き込む。


 そこに映ったのは、鋭い目つきの髭面の男だった。顔立ちは明らかに異国のもの——中東系、それも……どこかで見たような気がする。


 困惑の最中、木製の扉が音を立てて開いた。ターバンを巻いた男たちが入ってきて、彼の姿を見るなり一斉に膝をついた。


「アズィズ将軍! 目覚められましたか!」


「……アズィズ?」


 その言葉を聞いた瞬間、頭の奥がぐらりと揺れた。奇妙な記憶が一気に流れ込んでくる。言葉、風景、戦い、血。脳に染み込んでくるのは、自分のものではない人生の記憶だった。


 自分はアズィズ・シャー。パシュトゥーン人部族の首長の息子であり、現在はアブドゥッラフマーン・ハーンの命でカブールに駐留する将校——。


 その名と記憶が、体に馴染んでいく。


 いや、違う。


 斉藤圭一であった男は、その記憶を完全に受け入れることを拒まなかった。むしろ、歓喜に近い感情が沸き上がっていた。


(マジかよ……)


 彼は心の中で呟いた。


(よりによって、十九世紀末のアフガニスタンに転生って……俺が一番研究してた時代じゃないか!)


 アブドゥッラフマーン・ハーンが即位し、イギリスの支援で中央集権化を進める激動の時代。軍制改革、産業導入、部族制の解体。もし、このタイミングで現代知識を用いれば、アフガニスタンの未来は変えられるかもしれない。


 それはかつて、自室のノートに書き綴っていた妄想——否、戦略計画だった。


「……火器の導入、徴兵制、中央政庁の強化、外国語教育、測量局……」


 呟きながら、彼はゆっくりと立ち上がった。足取りは不安定だったが、兵士たちが慌てて支えようとするのを、手で制する。


「だいじょうぶだ、立てる」


 自分でも驚くほど、パシュトゥーン語が口から自然に出た。アズィズの記憶が、自分の中に確かに融合している。


 外に出ると、目の前にはカブールの街並みが広がっていた。乾いた空気、土埃、遠くに聳える雪を被った山々。砦のような建物が並ぶ王都。音と匂いと温度が、確かに彼の五感を刺激していた。


「俺は……生きてる。そして……」


 彼は、かつての日本語で、心の中で呟いた。


「俺がこの国を変える」


 それは夢物語だった。だが今、その夢を現実にできる機会が目の前にある。


 アズィズ・シャー——パシュトゥーン人の将軍。その肉体と地位を手にした男は、静かに歩き出した。


 その背に、近代アフガニスタンという国家の運命がのしかかることを、彼はまだ知らない。

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