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マルセル・デュシャン

(15)


 ――マルセル・デュシャン


 彼が美術史に残した事績については専門書が数多あるので、彼についての個人的な事柄を此処で書こうとは思わない。なので彼の事績について興味があれば是非全てそちらで調べてもらいたい。


 では何ゆえに彼を取り上げるのか。


 それは随筆家(エッセイスト)が「Artの体現者(アーティスト)」として、彼――デュシャンが「泉」というレディメイドを通じて行ったことについて個人的見解を踏まえ、其れが故に彼は「Artの体現者(アーティスト)」であると言いたいためである。


「泉」と言う作品は彼自身の手でサインをされて展示された。それだけなのに、それでレディメイドが別次元へと鑑賞者自身の感覚を何かから引き離して分離させる効果がある。

 それは一体何からだろう。


 考えてみて欲しい。


 それは今までの絵画を干渉するという近現代以前の芸術体験とは異なる体験をデュシャンは近現代に与えたと考えられないだろうか。


 ではその体験とは何か?

 そう、それは「自分と言う存在が如何に不安定か?」という自己認識である。そして「泉」と言う作品はその時代以後のホモ・サピエンスが抱える潜在的な共通認識(コモン)として抱える自己認識の鮮明さを露にさせたのである。


 それはルネサンス・ヒューマニズムからの完全なる離脱と独立で在り、ある意味、資本社会に生きるホモ・サピエンスの確立ともいえる意識づけをさせたと言える。


 つまりデュシャンは確実に「前時代」と「近現代」を「泉」と言う作品を鑑賞させることで自己認識を過去と離別させ「我は否定する、故に我在り」という「Art(アート)」を体現した「Artの体現者(アーティスト)」であると随筆家(エッセイスト)は言いたくて、彼について書いた。


 さてゴッホとデュシャンについて随筆家(エッセイスト)自身が書いたが、それは「芸術」と言う側面からである。


 だがこのボビンに巻き付く「糸」が今後、「外輪郭世界(アウトサイダー)」としてより鮮明になるのは資本社会においてである。


 それまでは現実的な移動、つまり異なる社会との接点は限定的だったが、産業革命以後、ホモ・サピエンスは時間を早めて、幾つもの社会と接触を持つことになった。それは結課として、ピカソにアフリカの民芸という刺激をあたえ、印象派には日本の浮世絵が印象を与えた。


 これらはまだ小さな部分で、本当はもっと大きなところで色んな「外輪郭世界(アウトサイダー)」と接触があったと想像される。それらはやがてボビンに糸として巻き付かれ、今「Art(アート)」は地球上のホモ・サピエンスの共通認識(コモン)になりつつある。まさに一つとして同化してゆこうとするホモ・サピエンスが持つ意識として。


 しかしながら随筆家(エッセイスト)は、まだ「Art(アート)」について一部の事例を通して説明書きを文面に起こしただけに過ぎない。



 ――「Art(アート)」と何か?


 それについて次項からまた書き進めて行きたい。




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