グッバイ小学校/フェアウェル先生
「卒業式にさ、ノリセンちょっと罠にかけようぜ。思い出作りにさ」
ぼくの友達の水原智也がそう言ったのは、ぼくらが小学校を卒業する日まであと一ヶ月を切った、冬が終わりかけ段々と厚着がうっとうしくなってきた、ある日の帰り道だった。ノリセン、というのはぼくらの担任で、本名は法本のりお。だから、学校ではノリノリとかノリセンとか呼ばれていた。
「いいねートモ、やろうやろう」
そう言ったのはぼくら三人組の中で一番悪いヤツ──いや、他の人から見たら大差ないのかな──の横代透だ。トオルがやるって言うのなら、もうそれはやるに決まったも同然だ。
「ソラもいいよな?」
隣にいるぼくの肩にコツンと手を当ててトオルは歯を見せて笑った。
六城翔──それが、ぼくの名前だ。ぼくらは名前順で後ろの方ということもあって、二クラスしかない同学年の中で気がつくと一緒に行動するのが当たり前のようになっていた。今では超がつくほど仲がいい。
***
あれはまだ六年生に上がったばかりの頃のこと。算数の小テストがあった日、ぼくらは示し合わせて三人が全員名前欄に水原智也と書きノリセンがどう応じるのか挑戦をしたことがある。
「お前ら、本当にくだらないこと考えたなァ」
その日の放課後、ノリセンに呼び出されたぼくらは職員室でわざとバツの悪そうな顔をしていた。大人は、ぼくらのこういう顔にちょっと弱いことを経験として知っている。
「いやあ、間違えちゃって」
「自分の名前間違えるやつがあるかァ」
ボリボリと頭を掻くと、ノリセンは答え合わせの済んだぼくらの答案三枚を机の上に並べた。62点と65点と88点。ぼくのやつは65点だ。
「まァ、先生くらいのプロなら字でどれが誰のかわかるんだが……」
そう言うと、ノリセンは62点の答案を持っていたボールペンでトントンと叩いた。
「これが、水原の」
ええっ違いますよぉ、とトモが反応する。その調子だ、とぼくは心の中でトモを応援した。まだ白旗を振る時じゃない。勝負はこれからなのだから。
「……それ、俺のです」
トオルが62点の答案を指差した。
「はァ?」
「いや、だから。それ、俺のです」
「ンなわけないだろ」
「俺のです」
「……」
これが、ぼくらの本当の狙いだった。字のクセからどの答案が誰のものか、ぼくらでもだいたい判別がついた。だから、どの答案が誰のものかバレるのは織り込み済みで、そこからノリセンをどう困らせるかがぼくらの本題だったのだ。ぼくとトモの頭のデキはどんぐりの背比べで大したことないレベルだが、トオルはそこそこ頭がいい。そこで、トモの答案をトオルのものだと言い張ればノリセンはどう反応するか試してみることにした、というわけだ。もしトオルの意見を鵜呑みにしたらそれをネタにノリセンをからかうし、トモのものだと言い張ればトモかぼくでは88点を取れるわけないと思っているんですか、とからかうつもりだった。
「お前らなァ」
ノリセンはそんなぼくらの企みをすぐさま見抜いていたのだろう。机の引き出しから赤ペンを取り出すと、きゅ、きゅ、と全員分の答案用紙の点数に真っ赤な斜線を引き、横に0を付け加えて書いた。
「ええっ」
「なーにが『ええっ』だ。お前ら今度中学生になるのにさァ、こんなことしてる場合か」
「でも」
「でももヘチマもないぞ。自分の名前も書けないようじゃァ零点も当たり前だ」
ノリセンはそう言うと、もう帰れと手のひらをヒラヒラとさせた。
他の人からすると逆恨み、と言うのだろう。ぼくらはこの時のことを今でも少なからず根に持っていて、なんとか仕返しをしようと一年間あれこれやってきたのだが、なかなかノリセンはぼくらの企みに引っかからなかった。特にトオルは、ノリセンの教師然とした態度が嫌いなようだった。ぼくらが何をやっても、叱りはするけど怒りはしないような、ある一線から踏み越えてこない感じ。トオルに言わせると、それはぼくらを舐めてるということだったが、ぼくにはよくわからない。
***
さて、そこに卒業式の日である。これがぼくらとノリセンの最終決戦だと思うとぼくら三人はがぜん、熱が入りまくった。
「卒業式の後、公民館でパーティあるじゃん。あそこ、そばに山あるしそこに落とし穴、掘ろうぜ」
トモの提案にぼくとトオルは大いに賛成して早速準備に取り掛かった。最後の最後にノリセンを落とし穴にはめる。こんなに素敵な作戦はない。そしてぼくらは、学校から少し離れた公民館の更に隅の方、山の際に落とし穴を掘り始めた。
ところがこれが思ってた以上に大変で、本格的な春はまだもう少し先だったけど放課後ぼくらは毎日汗だくになりながら穴を掘った。
ある日、ぜえぜえと喘ぎながらこの作戦の立案者のトモが音を上げた。
「なあ、これ俺らが疲れるだけじゃね?」
「はあ!?」
今更、な話だった。ぼくは呆れたがトモは続ける。
「だってさ、なんか上手くいく気がしないし。それに──」
トモはちらっと穴の脇に積んである石たちに目をやった。「ノリセンが落ちるだけじゃ面白くないから」と、これらの石はトオルが持ってきたものだ。ノリセンが穴に落ちたら上から少しだけ石を落とすというのだ。正直、これにはぼくも少し引いたが、特に何も言わなかった。
「……ここまでやってきてやめる、って言うのかよ」
掘っていたスコップの手を止め、明らかに苛ついた声でトオルがトモを睨みつけた。慌ててぼくは二人の間に入って、「まあ、まあ」とトオルをなだめた。
「小学校最後のイベントだしさ、トモもここまできたら最後までやろうよ」
ぼくはそうトモに言うと、スコップを地面に突き立てた。
「もう少しだしさ」
「……うん」
それからその日は、ぼくらは無言で黙々と穴を掘った。帰り際、誤って誰かが落ちないように穴にスノコを渡し近くの枯れ葉を乗せていると、カラスが数羽、がぁがぁとぼくらの上空で鳴き立てた。
「──カラスが鳴くから帰りましょーう」
トオルはそんな替え歌を一人呟くように歌うと、「じゃあ」と言って先に一人で帰っていった。ぼくとトモはぼんやりとその場に佇んで、沈みゆく夕陽の赤と空の青の間の、ほの暗い境界線をただ見上げていた。なんとなく、今日はトオルと距離を置いて帰りたい気分だった。
「……やっぱりまだ怒ってるのかな」
「トモが変なこと言うから」
「ごめん」
でも、とトモが言い募りそうになるのを制して、ぼくは「いいから」とだけ言った。それでもまだ何か言いたげなトモを無視して、ぼくは穴のそばに積んである石を手に取ると、一つ、二つと山の奥の方へと投げた。石はどれも手のひらサイズで、ちょうど投げやすい。夕方六時のサイレンがもう家へ帰れとぼくらを急かしていたけど、ぼくとトモはそれから数分の間、穴のそばでただ黙って思い思いにしていた。
それから数日後の卒業式まで残り一週間もない晴れた日、ぼくらは落とし穴を完成させた。トオルとトモはあれ以来少しぎこちない関係になっていたけど、それでもぼくらは三人で穴を作り上げた。深さがだいたい二メートルにもなる、立派な穴だ。穴を前にしてぼくら三人は並んでスマホで写真を撮りあった。この時ばかりはトモも少しはしゃいで笑顔だったので、ぼくはほっとしたのを覚えている。
「これで、ノリセンも真っ逆さまだな」
ノリセンが穴にはまる様を想像して、ぼくらはこれまでの労苦を互いにねぎらった。
そして迎えた卒業式の日──
ぼくらは正装をして式を過ごした。予行練習通りに式が進むなか、ぼくらの気がかりはずっとノリセンをどう穴にはめるか、ということで、壇上の偉い人の話も最後の合唱も、気がそぞろだった。
「オォイ」
卒業式を終え校庭で一時歓談していると、ぼくら三人のところへノリセンがやってきた。
「お前ら、式中全然集中してなかったなァ」
「そ、そんなことないですよ……」
と、ぼくらは声を揃えて否定した。
「……まァ、卒業おめでとう。中学生になるんだから、もう小学校には帰ってくるなよォ」
「帰ってきませんよォ!」
ぼくらはノリセンのマネをすると、わぁっと校庭を駆け出した。後ろで、ノリセンがこれからぼくらが罠を仕掛けているとも知らずにおおらかに笑っている。遠くで、誰かのお母さんが「じゃあ皆さん、公民館に行きましょうか」と言い出していた。
公民館ではジュースやお菓子が用意されていた。ビンゴゲームや早押しクイズ大会なんかをしているうちに、あっという間に時間は過ぎさり夕方となり、いよいよ解散──ぼくらにとっての最後の勝負が始まった。ぼくらは予め打ち合わせていたように先に親たちに帰ってもらって、人が減って閑散となってきたところでこっそりと穴のそばへと行き、落下防止のスノコを外して薄いビニールシートを穴に張ると、再び枯れ葉をその上に敷き詰めた。
「──できたな」
ぼくらは穴の位置がわかるようにするために、不自然にならないよう木の枝をそれとなく並べ、実行時のお互いの立ち位置を確認する。
「よし、いくぞ──」
公民館に戻ると幸いなことに大人たちは後片付けに忙しくなっていて、最後まで残っているつもりであろうノリセンも段々と帰り始めたクラスメイトたちを送り出すだけで手持ち無沙汰気味になっていた。──これはチャンスだ。ぼくらはノリセンに声をかけた。
「お。なんだお前らまだ居たのか。なんだァ、寂しいんだろう」
ノリセンはいつもの調子だったが、少しだけ寂しそうだ。
「先生、実は……」
「ぼくらから先生に贈り物があるんです」
無論、まったくのデタラメだ。
「ほーゥ」
ノリセンはぼくら三人をじっと見つめると、少し笑った。
「本当かァ?」
「本当!でも、ここだと他の人いて恥ずかしいから、こっちに来て」
と、上手い具合にぼくらはノリセンを公民館の外へと連れ出すことに成功した。
「オイオイオイ、なんでこんなとこまで」
「いいから、いいから」
ぼくらは穴の手前に一列になると、ちょうど穴の中央にノリセンが立つよう、
「先生、ここに立ってください」
と言った。
「おう、なんだなんだ」
そう言ってぼくらの狙い通りにノリセンが足を踏み出すと、ぼ、と音を立てノリセンは落とし穴へと落ちた。何もかも、ぼくらの思い通りにいった。お互いに顔を見合わせるとぼくらは勝利の雄叫びをあげる。
「っしゃー!」
どうだ参ったか、とぼくらはノリセンを見ようと落とし穴の中を覗き込んだ。
──何もかも上手くいったけど、上手くいきすぎた。
ノリセンは、穴の中で左足のかかとの辺りを両手で抑えてうめいていた。上からは頭頂部だけで、顔は見えなかった。おそらく、不意の落下で上手く着地ができなかったのだろう。それで足をくじいたのだ。ぼくとトモは気まずくて顔を見合わせた。
「どうしよう」
「どう……って」
ぼくらが逡巡していると穴の中から
「お前ら」
と、ノリセンが今まで聞いたことがない声でぼくらに吠えた。大抵のことは鷹揚にのらりくらりとぼくらを叱ってきたノリセンが、今まで見せたこともない憤怒の形相で穴の底からぼくらを睨んでいる。
「甘やかしておけば、どこまでも調子乗りやがって……」
ノリセンは穴の壁に寄りかかりながらズルズルと這って立つと、手を伸ばして穴の淵へと手をかけた。どうしようかと隣のトオルを見ると、トオルもぼくが今までに見たことのない顔をしていた。──トオルは、これ以上ないほど顔を崩して笑っていた。
「はははっ」
……今にして思うと、きっとトオルはノリセンの本心や本音の部分を覗きたかったのだと思う。ぼくも、多分トモも、そんなトオルのことを理解できないけれど、トオルはそういうヤツだ。ノリセン──法本のりおが自分に対して本音も本音、腹の底の更に深い底で何を思っているのか。教師というヴェールの向こうを暴くためにトオルはこれまで散々いたずらを働いてきて、この時ようやくその願いがかなったのだ。きっと、そうだ。
穴の淵に立ちノリセンを見下ろすトオルの右手には石が握られていた。そして、トオルは片足をなんとか穴の壁に引っ掛けようとしているノリセンの頭にめがけて石を思い切り投げつけた。鈍い音とノリセンの、「ぐ」という声がしたと思うと穴の中にノリセンが倒れる音がした。
「石は落とすだけって!」
トモがトオルに掴みかかったがトオルは、
「落としただろ」
と言って、ぼくの方を見て「なあ」と、同意を求めてきた。ぼくが即答できずまごついていると、トオルはわざとらしいため息をついて、
「お前らつまんねえの」
と呟いた。そして、掴んでいたトモの手を振り払うと、積んであった石を穴の中へと次々と投げ込んでいった。ぼくらが何もできずにただ呆然と見ている内に、石は全て投げ入れられてしまった。そしてトオルは手についた汚れを落とすように手をはたき、そのまま何も言わずに帰っていった。穴の中は、静まり返っている。きぃきぃききき、と鳥がどこかで鳴いていて、夕陽がぼくらや木々の影を伸ばしていた。影が差し暗くなっているであろう穴の中の様子を覗く勇気は、ぼくらにはなかった。
「……帰ろうか」
「……」
ぼくとトモはお互いに黙り込んだまま、とぼとぼと公民館から家へと帰った。せっかくの卒業式が台無しの気分だ。別れ際、
「じゃ」
とトモに声をかけたがトモは何も反応を見せず、ただただ下を向いてトモは家の方へと歩いていった。
その日の夜、ぼくは全然眠れずにいた。ベッドの中で何度も寝返りをうって、ノリセンがあれからどうなったのか考える。トオルが投げた石で気絶しただけで、ノリセンはあの後穴から這い出て今頃カンカンに怒っているのかもしれない。うん、そうに違いない。思い返してみるとあの時トオルはそこまで力を込めて投げていなかったような気がする。それに石が頭にぶつかったのは見たけど血が出てる感じじゃなかった。それにトオルが頭を狙って投げたのはその一投だけで、あとは適当に穴に投げ込んでいただけだ。それにそれに──
「ソラ、ソラ」
いつの間にか眠っていたぼくは、両親に揺り起こされて夜中に目が覚めた。壁にかかっている時計を見ると、ちょうど日付がかわるくらいだった。まだ寝ぼけて少しまどろんでいるぼくに両親は
「着替えて下に降りてきなさい」
とだけ言い残して部屋から出ていった。まだ完全に目が覚めていなかったけど、ぼくは頭の片隅でノリセンのことだ、と悟った。ノロノロと着替えて階段を下りると、両親はパジャマ姿のまま明かりもつけずに真っ暗な玄関口に立っている。ぼくに背を向けているから、二人がどんな顔をしているのかぼくにはわからない。
「……何」
叱られるのかな、と思いながら恐る恐る二人の背中に問いかけたけど、二人はただ玄関の方をじっと見ているようだった。
「ねぇ──」
「来た」
ぼくがなおも問い詰めようとした時、チャイムも鳴らさずにがちゃ、と玄関が開いた。
「お迎えに来ました」
暗くてよく見えなかったけど、女性の声できちんとした感じからぼくは婦警さんだと直感する。開いた玄関の隙間から、家の前の道路に普通車が停まっているのがおぼろげながら見えた。パトカーじゃないのは深夜でぼくが子供だからなのかな、などと思う。
「どうも」
深々とその人にお父さんが頭を下げた。お母さんも黙って少し頭を下げている。
「いえ、これも仕事ですから……では」
「ええ」
そう言うと大人たちは、少し後ろにいたぼくの両腕をぐいと引っ張って、「ほら、ほら」と、家の外へと連れ出そうとし始めた。ぼくは腰を落として精一杯抵抗して、
「違うんだよ!ぼくじゃなくてトオルがしたんだよ!」
と叫んだ。
一瞬、大人たちは顔を互いに見合わせると、さっきより強い力でぼくを玄関の外へと引きずり出した。勢いでぼくはそのまま停まっていた車の後部座席のドアによろけるようにしてぶつかった。そこで、車の後部座席にトオルとトモが乗っていることに気がついた。
「トオル。トモ」
ぼくが驚いていると、背後にやってきた婦警が後部座席のドアを開け、
「さあ」
と言った。ぼくを囲むようにして、お父さんとお母さん、そして婦警さんが立っているのでぼくは乗るしかなかった。車に乗り込んだぼくが最初に気がついたのは、トオルもトモも小さく震えていたことだった。ぼくも、震えている。ぼくらはただ、黙って暗い車の中に座ってた。とてもお喋りをする気にはなれない。
外で両親と二言三言会話をしていた婦警さんがばたんと音を立て運転席に乗り込むと、ぼくはずっと気になっていることを尋ねた。
「あの、ノリセン……法本先生はどうなったんですか」
すると、今更心配している振り?といった感じに婦警さんは鼻で笑い、ぐいと首だけこちらに向けて後部座席で小さくなっているぼくらを蔑んだ目で眺めた。
「あなたたちには、もう、関係のないことでしょう」
ただ、と小声で言うと前の方を向き直りながら婦警さんはこう言った。
「再来月の誕生日に向け、奥さんと子どもさんでサプライズを計画していたようですけどね」
やっぱり死んじゃったんだ、とトモは呟いて嗚咽を漏らした。泣き震えているトモの隣でぼくはうなだれる。
「でも、そんなつもりじゃなかったのに……」
「そんなつもりじゃなかった!なんとまあ、素敵な言い訳ね」
「言い訳じゃない、本当なんです。まさか、こんなことになるなんて」
「……いい加減にしなさい。あなたたち、今年で十三歳になるんでしょう──」
それなら自分の責任は自分で持つことね、と婦警さんは言い放った。トモの泣き声が高まりトオルがドンと地団駄を踏んだけど、そんなことをしても何も変わらなかった。
「さあ、行きますよ」
ぼくらを乗せた車はヘッドライトも点けずに暗闇の中をゆるゆると滑り出す。離れていく家の前でお父さんとお母さんがかすかに手を振って見送っているのを、ぼくはただ、ぼんやりと眺めている。婦警さんの鳴らした車のクラクションが、眠れる静かな町へと飲まれ消えていった。