山岳魔女オレンジサバス
東京都職員神垣茂は、突然、民間の『青梅山岳ガイド』に出向を言い渡された。
憮然と訪ねた事務所にいたのは、浮遊魔法使いの旗薄飛鳥とその姉で千里眼魔法使いの東雲の姉妹。
神垣は箒にのせられ救助現場へ。山の怖さと救助の無念さに神垣は衝撃を受ける。
数年前、山岳救助をしていた姉妹の父親が八ヶ岳で二次遭難で行方不明。その時から、ふたりに魔法が降りてきたと聞かされる。
ふたりは亡き父親の意志を継いで山岳救助活動をしていた。飛鳥がその活動の中に何かを求めているように感じた神垣は、自らも山岳救助を学びながら彼女を支えることを決意する。
そして、特殊山岳救助として、姉妹の父親が眠る雪の八ヶ岳の主峰赤岳への救助依頼が来る。
神垣には危険すぎると主張する飛鳥に、単独救助は厳禁だと食い下がる神垣。
意見がぶつかったまま、飛鳥と神垣は冬の八ヶ岳へ飛ぶ。
その家は、青梅線河辺駅から歩いてすぐにあった。青梅警察署に隣接する住宅地に、ぬるりと溶けこんだ三階建て。表札には旗薄とある。
冷たい雨が降る中、坊主頭にスーツ姿の偉丈夫神垣茂は、その家を見上げ「本当にここなのか」とその太い首をかしげた。
頭をよぎるのはここに来た理由。
――青梅に手伝いに行ってほしいんだ。先方が産休でね。数か月、いや半年かな。あ、詳細は現地で聞いて。
こう告げられたのが先週のこと。都職員である神垣に拒否は許されない。上司の禿げ頭を思いだしながら「ここで何をするんだか」と肩を落とした。
「いらっしゃーい」
不意に玄関が開け放たれ、マタニティ姿の女性が現れた。たれ目でほんわかした印象だが、神垣よりは明らかに年上だ。
「きみ、神垣君よねー? はいってはいってー」
「は、え?」
神垣は、インターフォンも押していないうちに現れた妊婦に腕をつかまれ、抵抗することもできず連れこまれた。
玄関で靴を脱がされ、スリッパをはかされ、廊下を歩き、神垣は部屋に案内される。中には、向きあった事務机といすが4つ。その机のひとつで、赤縁眼鏡でショートカットの女性がモニターを凝視していた。神垣と同じかやや年嵩だ。
「はい、ちゅうもーく。今日から手伝ってくれる神垣君よー。むっちむちの25歳!」
神垣の腕を掴んだ妊婦が声を張りあげる。流されるまま神垣は「あの、神垣です」と軽く会釈した。
眼鏡の女性がモニターから視線を外し「妹の旗薄飛鳥です」と小さく礼をする。
「あ、名乗るの忘れてた。私が姉の東雲ねー。苗字は違うけどー」
妊婦な東雲がペロッと舌を出す。そして神垣の二の腕を揉みはじめた。
「いい筋肉よねー。神垣君はラグビーやってたんだよねー」
「え、なんで、それを……」
慄く神垣の腕を、東雲はうっとりと揉み続ける。飛鳥はあきれ顔だ。
「姉さんのそのクセ、やめた方がいいよ。そのお兄さんも困ってるよ」
「あら、飛鳥だって筋肉は好きでしょー。父さんもそうだったしー」
「姉さんと一緒にしないで」
飛鳥がプイッとモニターに視線を戻した。今度は東雲があきれ顔だ。
「あの、」
神垣はおずおずと手をあげた。
「ここが自分のくるところ、ですか?」
「そうよー。都庁にね、神垣君のヘルプをお願いしたのよー」
「へ? 自分を、ですか? 自分まだ3年目で総務の仕事しか知らないんですが、何をするんですか」
「神垣君の頭脳にこの身体があればバッチリよー」
「に、肉体労働的な仕事、ですか?」
「ふふ、山岳救助がお仕事なのー」
「山岳救助ォ!?」
想定すらもしてなかった仕事内容に、神垣の口が半開きになる。
「あの、自分、山はまったく知らないですし、そもそも東京の山で遭難って――」
「登山道が整備されてる高尾山だって、毎年100件近く救助要請が発生してる」
強い口調で飛鳥が差しこんできた。彼女の眼鏡が神垣にさだまる。
神垣はレンズの奥の飛鳥の瞳に何かを感じ、黙った。
「ミシュランガイドの影響とかで登山者が増えて、それにつれて遭難も――っと電話」
プルルと鳴った電話を飛鳥がとる。
「はい青梅山岳ガイドです」
飛鳥は机の上にあったペンを握り、メモ紙の上を滑らせていく。
「高尾山、70代男性、稲荷山コースで下山中転倒、意識なし。随行者は奥さん。入山届は調査中。現地は豪雨、警察は手が回らない」
飛鳥が復唱する。その内容に、神垣は体を強張らせた。視線が飛鳥から離せない。
「現場に向かうので登山口に救急車の手配をお願いします。詳細は姉の東雲に連絡してください」
ガチャと受話器を置いた飛鳥が立ちあがる。
「雨だから低体温も心配。急がないと。姉さん、位置よろしく」
「わかったよー。あ、神垣君と一緒に行ってねー」
東雲の声に、飛鳥が振りかえる。
「わたしひとりで行けるって」
「だーめ。単独行動は厳禁でしょー。あ、神垣君、そこに父さんのレインウェアがあるからそれ着てー」
東雲が床に置いてある大きな袋を示した。「いても邪魔なだけなのに」と口を曲げた飛鳥が部屋から姿を消し、足早に階段をのぼる音が響く。神垣は東雲に顔を向けた。
「……マジですか」
「うんマジなのー。がんばって仕事を理解してねー」
柔らかながらも有無を言わさない東雲の声。神垣は悩みつつもレインウエアを着た。大柄な神垣にもやや大きいが、オレンジで目立つ色だ。
「よく似合ってる。飛鳥をお願いねー」
ひらひらと振られる東雲の手に送られ、神垣は廊下の奥にある階段をのぼる。階段の先は屋上になっていた。
そこにいたのは、雨のなか宙に浮く箒と、それに吊られた大きなナイロン袋と、オレンジのつば広とんがり帽子とロングポンチョを纏った飛鳥だった。
「魔女の、コスプレ?」
半笑いで立ち尽くす神垣に、フルフェイスのヘルメットが投げられた。飛鳥がさっと箒にまたがる。
「後ろに乗って、時間がないの!」
「は?」
神垣は、頼りなさ気に浮かぶ箒と焦りの色が浮かぶ飛鳥の顔を見比べた。脳裏に先ほどの復唱が思い出され、無言でヘルメットをかぶった。意味がわからないと心でぼやきながら箒をまたぐと飛鳥に手をとられ、彼女の腹に回された。
「しっかり掴まってないと落ちて死ぬから」
「死ぬ? うおぉぉ!」
神垣の疑問に答えはなく、箒は急発進した。景色が斜め下方に溶けていく。
「な、なんで、飛んで!」
青梅警察署があっという間に小さくなり、ふたりと箒は雨粒を弾き返しながら滑空していた。雨は速度と共に豪雨に変わり、レインウエアの上から容赦なく叩きつけてくる。
「のわぁぁッ!」
不意に箒が横に滑り、神垣は絶叫した。
なぜ飛鳥が魔女のような恰好で、なぜ自分が箒にまたがって飛んでいるのか、などと考える余裕はない。
ひたすら飛鳥にしがみついていた。
「せ、せめて、まっすぐ!」
「しゃべると舌噛むよ!」
神垣の泣き言を飛鳥が一喝する。
『こちら東雲ー。高尾署よりー、救急車の手配完了ー』
ヘルメットから東雲の声が響く。
「飛鳥了解」
『千里眼で遭難者の位置を確認ー。座標はスマホに転送ー』
「ありがと! よし、急ぐよ」
「や、やめてぇぇ!」
豪雨と神垣の絶叫を切り裂いて箒がさらに加速。5分で高尾山上空に到着した。飛鳥が防水ケースに入ったスマホを取りだす。
「山頂から500メートルのとこか」
グンと箒が乱暴に動く。神垣は「もう許して」と泣きそうだった。
「いた、あそこ!」
「な、なにがですか?」
神垣は飛鳥が指差す先に、涙目を向けた。
豪雨の中、登山道にある斜面の途中で倒れている男性と、その脇にうずくまる女性。ふたりは激しい雨に晒されていた。
神垣の息がつまる。
「降りるよ」
飛鳥の声に箒が急降下、遭難者の横に停止した。飛鳥がさっと飛びおり、濡れそぼり小刻みに震える女性に近寄る。
「山岳救助です、もう大丈夫です」
飛鳥がにこやかに話しかけると、女性は力ない目をむけた。その光景に、神垣の胸がどうしようもなく痛む。
「飛鳥さん、自分も、何か!」
神垣は吠えた。
「神垣君は袋にある担架を組んで!」
「袋……これか!」
神垣は箒にぶら下がっている袋を開いた。中身は1メートル程のアルミパイプ数本、直角なパイプが4つ、アルミ製とナイロン製のシート。パイプには番号が書いてあった。
「番号順!」
飛鳥の指示が飛ぶ。
「こ、こうか!」
神垣はラグビーで使われる担架の形を思いおこし、組み始めた。
「くそ、指が動かない」
神垣はかじかむ指に悪態をつく。その背後で、飛鳥が男性の容態をみていた。
「意識なし。頭からの出血、なし」
飛鳥の顔に暗い影が差す。
「あ、あの、主人は、」
声を震わせる女性に、飛鳥が「大丈夫です」と微笑む。
「登山口に救急車を用意してあります。すぐにそこまで運びます」
「飛鳥さん、担架できました!」
「神垣君、この人の足を持ち上げて。担架を滑り込ませる」
「了解」
神垣は男性の脇に膝をつけた。
「持ち上げます」
神垣が男性の足を静かに持ちあげ、飛鳥がその下に担架を滑りこませる。足から腰、背中、頭と男性を担架に収めた。
飛鳥が担架全体にアルミシートをかぶせ、ナイロンの帯で固定した。箒が担架の上に浮かぶ。
「担架を吊るすから、このひもで結んで」
「ん、こうか」
神垣は担架の前後にそれぞれひもを通し、水平になるよう長さを調整する。
「奥さん、箒の後ろに腰かけられますか、そうそう、ゆっくりでいいですから」
飛鳥が体を支えながら女性を箒に横座りさせ、彼女をアルミシートでくるんだ。飛鳥も腰かけ、女性の肩を抱いた。
箒が浮きあがり、神垣の目線で止まる。
飛鳥の眼鏡が、神垣に向いた。
「すぐに戻ってくる。危ないから、絶対に、ここから動かないで」
強い口調に、神垣は黙ってうなずく。
箒は危なっかしく山を下りはじめ、雨で灰色に染まる視界から姿を消した。
篠突く雨の中、神垣は改めて周囲を見わたす。
足元の斜面は泥水に沈んでいた。視界は雨一色ですぐ向こうの山も灰色に塞がれている。あたりに生命の気配はない。
ヘルメットを叩きつける雨音に支配された、不気味な静寂に包まれていた。
「いやな、感じだ」
世界から取り残されたような不安が湧きあがる。
身体を這いずり始めた恐怖に、神垣はゴクリと喉を鳴らした。
「戻って、くるよなぁ」
神垣は、オレンジの魔女が消えた先を見つめた。