ぼくが少女をやめたのは
ぼくが少女をやめたのは、心がそれを拒んだから。
ぼくが少年をやめたのは、世界がそれを拒んだから。
地球最後の青年は、きっと人知れず絶滅を迎えるだろう。
母の仇を殺し尽くす――その復讐心だけが、彼を象るものだから。
生命はみな等しく尊いもの。カエルも、モルモットも命ある友人です。
いつの世も、子は親にそう教わって育つものらしいけど、それが見え透いた嘘であることはきっと誰もが大人になる内に理解していた。
沈没船から女子供を逃がすのは、次代に命を繋ぎたいから。
老人を山に棄てたのは、生産能力が期待できなかったから。
尊属殺人が重罪だったのは、血の絆が一等価値を持つと信じられていたから。
残念ながら、命には時価がある。時価は市況によって変化するものだ。たとえば今のトレンドでは、男であることが最大の商品価値を持つ。男を消費することが究極の贅沢なのだ。
なにせ人間の男は、今や絶滅危惧種の筆頭であるからして。
◇ ◇ ◇
〈私が作りました〉
ショーウィンドウの向こう側。メッセージ入りの顔写真が、手の平大の冷凍容器とともに陳列されている。写っている青年らは、みな揃いも揃って超がつくほどの美男子だ。しかも、全員が由緒正しき家系の血筋で、一流大学の出身者ときている。ここまで来ると、そのまんま犬猫の血統書みたいだ。
ぼくはメッセージの下に記された、製品表示に目を向ける。
〈ヨハン・クロックフォード。イギリスの名門、クロックフォード家十五代目当主、ジャン・クロックフォードの一人息子〉
〈ケンブリッジ産の白色人種で、髪は茶、瞳は青。身長もIQも198という、驚異のハイスペックを誇ります。生前は細身で引き締まった身体の持ち主でした。享年21歳。検査の結果、遺伝子病などは認められず、死因は“例のあのウイルス”と推定されています。男児を産みたい方にはオススメできません〉
〈生前の映像資料やサンプルボイスを視聴頂けます。ご興味のある方は、お近くのスタッフにお声がけください。初産減税の適用についても懇切丁寧にご説明いたします〉
〈まもなく抽出から100年が経過するため、割引セールの対象となります。本日即決で、店頭価格から50%お値引きの超特価。なんと、税込みで690万円です! お急ぎください!〉
かわいそうなヨハン・クロックフォード。
この青年も、まさか百年後に自分の精液がセールで買い叩かれることになるとは、夢にも思わなかったろうな。そう考えると、ぼくは込み上げる苦笑を抑えきれなくなる。くすくす笑っていると、ショップ店員――無論、女性だ――が気付いたらしく、ツカツカと歩み寄ってきた。
「どうしたの、お嬢ちゃん。まさか、その歳で入り用ってことはないわね?」
「もちろん。わたしにはまだまだ早いわ。きっと無駄撃ちになっちゃうものね」
ぼくは少女らしく、可憐に振る舞って見せた。店員もそれを当然の如く受け入れた。
このぼくが、世にも珍しい“男の子”であることに全く気が付いていないらしい。というより、きっと想像もしないのだ。二次性徴まっただ中の少年が現存していて、しかも自分の目の前にいるなんて奇蹟を。
「無駄撃ちなんて。あなた、どこでそんな破廉恥な言葉を覚えたの?」
「昔の映画を観たの。みんなが平気な顔して『ファック』って言ってた時代の」
「お止しなさい、そんなふしだらな。性交渉なんて、野蛮な猿がすることなのよ。ここに来ることだって適切とは言えないわ」
「そうね、確かにちょっと好奇心に従順すぎたかも。明日からもう少し自制してみるわ」
そう言って、ぼくは店を後にした。本当はもう少し見て回りたかったが、今みたいに店員に捕まってしまうのは面白くない。ぼくは心の中で中指を立てた。
古今東西、面倒臭い店員に捕まったときは、こちらも面倒臭い客に扮するに限る。コテコテの女言葉には辟易するけれど。
「こんなことやっていると、そのうち何かに目覚めそう……なんてね」
その昔、まだ人間の男がわんさといた時代。オンナオトコと呼ばれる人種があったらしい。男が絶滅一歩手前の現代では想像する他ないのだが、きっとミュージカルの男役を反転させたようなものだろう。
口紅を塗って、髭もスネ毛も綺麗に剃って、女性らしい格好――これも想像する他ないのだが、スカートが女性性の象徴という話もあるからきっとそうなのだろう――スカート姿で街を出歩いていたのだ。たぶん。
本人が好んでそういう装いをするのは自由だろうが、生憎とぼくは女装の趣味はない。今のように、“女装”という単語そのものが死語と化している時代でも、ぼくはぼくの見掛けに違和感を覚えてしまう。たとえば、フリフリのスカートに。ムダ毛のない四肢に。
ぼくが映画で観た男たちは、ガサガサしていて固そうだった。男にも色々な種類があって、ぼくの見たものが唯一無二の正解とは思わないが、きっと本来あるぼくの未来はあんな感じなんだと思う。実現し得ないことはほぼ確定しているのだが。
「良い、信乃? 私はあなたを男の子だとは思いませんからね」
母はよく、そう言って聞かせる。それがぼくを守るためだと言い添えて。
もし、男であることが知れれば、“例のあのウイルス”に耐性を持っていることが知れれば、周りが放っておくはずがない。研究施設に缶詰にされて、二度と自由の身にはなれないだろう。私が施設長でもそうする。というのが、細菌学者である母の言い分だった。
プロ直々の警告は、幼いぼくを萎縮させるにはかなり効果的だったが、それでも「今だって十分に自由を奪われているじゃないか」という主張はやめなかった。最終的にいつもうまく丸め込まれてしまうけれど、いつかは一泡吹かせてやるのだ。
――そんな風に、母への対抗心を新たにした時だった。自宅から火の手が上がっているのを目にしたのは。
◇ ◇ ◇
母は自宅の書斎で死んでいた。死因は、焼死でも窒息死でもなく失血死。全身を刃物で数十回に渡って刺されていたことが、検死の結果判明した。
ぼくの元を訪れた刑事たちは、母が殺された理由について思い当たることがないか頻繁に問うてきたものだが、すべて「いいえ」と答えてやった。母は、細菌研究と育児のことしか頭にない無欲な人だったから、誰かの恨みを買うはずもない、とも話した。
しかし、実際のところぼくには心当たりがあった。母は、ぼくの為に殺されたのかも知れない。ぼくという無二の研究材料と、それによって得られた研究成果の為に殺される羽目に遭ったのだと、直感していた。
もしかしたら母は、研究仲間の誰かにぼくが男であることを打ち明けてしまったのかも知れない――そう思うと、母の友人を名乗る身元引受人たちがみな殺人者に見えてくる。だから、ぼくは彼女たちの提案をすべて蹴って、五年間の施設生活を選んだ。誰も信用できなかった。
あの日。母の命日に、ぼくは子供であることをやめたのだ。
他人を信じず、己の知恵と力を高めることだけ考えてきた。金を手に入れるために、闇市で精液を売ったことさえある。ぼくは持てる時間の全てを費やして、彼女たちの情報を掻き集めた。
たとえば、母の研究を引き継いだ自称友人たちが、男児の復活に着手したこと。
彼女らの被造物が、ある体細胞を元に生み出されたクローンであること。
そして、生み出された男児たちが半年と経たずに死んでいること。
そこからぼくは、ぼくの商品価値がまだ生きていることを理解した。彼女らが母を殺すだけでは飽き足らず、ぼくの分身を造った端から死なせている可能性に行き着いた。
――そして、それを確かめる日がついに到来する。
十八歳の春、ぼくは施設を後にする。これからぼくは、我が身をエサに仇たちをおびき出し、一人一人の罪を暴いていく。彼女らの研究が世界を破滅から救うものだとしても、ぼくには一切関心がない。なぜって、ぼくは思い知らせなくちゃいけないからだ。
命が不等価であるということを。
人殺しの罪は、世界を救おうと消えないということを。
「行ってきます、かあさん」
ぼくは今日、母の母校に入学する。待っているのは盗人。それに、殺人者だ。
母と兄弟たちの――あるいは自分自身の仇を討つために、ぼくはここにやって来た。だからだろうか。正門前に散るソメイヨシノの群れが、ぼくを歓迎しているように思えた。