あやかしの里 夢枕堂へようこそ
【記憶喪失の青年と和服美人な妖怪女店主の恋物語】
妖怪達が暮らす里で行き倒れていた青年は、一人で店を切り盛りする美しい女性──葉子に拾われる。
名前も生まれた場所も覚えていない青年に、葉子は「店のお手伝いをしてくれるから、貴方の名前はダイくんね」と安易な名前を付けてくれた。
けれども葉子の【夢枕堂】は普通の店ではない。
何故ならこの店には『誰かの記憶にあるもの』が売られているからだ。
──ここで働いていれば、いつか記憶を取り戻すきっかけが掴めるかもしれない。
ダイは葉子を不思議に思いながらも、夢枕堂での雑務をこなしていくことを決意する。
しかし、葉子はダイに何やら隠し事をしているようで……。
記憶が結ぶ縁と恋のあやかし物語、ここに開幕!
青年は、空腹で目が覚めた。
アジの焼ける良い匂いと、ふわりと優しく香る味噌。
これは味噌汁の香りだろうか? どうしようもなく食欲を刺激されて、腹がぐぅと鳴る。
「腹、減った……」
和食だ。それも、昔ながらの定番朝食メニュー。
そこに白米があれば完璧だ。
……ああ、きゅうりのぬか漬けなんてあったら最高だな。
食欲でみるみる覚醒していく思考の中、青年はそんな事を考えながら、もぞもぞと身体を起こす。
「あら、目が覚めたんですね。ちょうど良かった」
「……え?」
ふいに声をかけてきたのは、見知らぬ美女だった。それも、とびっきりの。
着物に身を包んだ和風美人の髪は、透けるような金色をしている。染めているのか地毛なのかは知らないが、黒地にピンクの牡丹の花をあしらった着物によく映えていた。
寝起きにとんでもない着物美女を目の当たりにした青年に、金髪の女性がにこやかに語りかける。
「貴方、うちの前で倒れてたんですよ。覚えてる?」
「……いえ、記憶にございません」
「あらまあ、本当に⁉︎ いやぁもう、朝の散歩にでも行こうかと玄関を出たらビックリしちゃって……!」
「そう……なんですか」
……言われても、特にピンと来ない。
この腹の空き具合からして、かなりの時間倒れていたのは確実だろうが。
「とにかく朝食が出来たので、腹ごしらえでもしませんか? そのついでに、貴方の事を聞かせ下さいな」
○
どうやら青年を拾ってくれた女性の名前は、夢枕葉子というらしい。
朝食をご馳走してくれたこの日本家屋の一部を店舗として、彼女が店主となって商売をしているそうだ。
「おーい、ダイくん! そっちが片付いたら、次は庭の草むしりを頼んでも良いかしら?」
「わ、分かりましたぁ! ……っとと」
食後、葉子に荷物を運ぶのを手伝ってほしいと頼まれた。
何が入っているのか、木箱を蔵の中へと運びながら返事をする。
縁側から顔を覗かせる葉子に向きながら答えたものだから、その拍子に足元がふらついてしまった。だが、手元から落とす前に踏みとどまった。
「ああ、あたしが急に声かけちゃったから……! ごめんなさい! 無理をしないで、貴方のペースでやって下さいね?」
「は、はい! こちらこそすみません。次から気を付けます!」
「こちらこそ本当にごめんなさい! それじゃあ、あたしは店番に戻るから、何かあったら聞きに来て下さいね。ええと、草刈り鎌は──」
「蔵の手前、右側の棚の一番下……ですよね?」
「ふふっ、そうそう。ダイくんは覚えが早くて助かるわ。それじゃあ、後は頼みましたよ」
「はーい!」
彼女……夢枕葉子は、深い森に囲まれたこの里で、ひとりの青年を拾った。
けれども彼には、自分が何者なのか……どこの誰なのかも分からない。記憶喪失というやつだったのだ。
記憶を失った彼に葉子が与えてくれたのは、一番に温かい寝床と食事。そして名前だった。
葉子が呼ぶ『ダイ』という名の由来は、『自分の仕事のお手伝いさん』の意味の『ダイ』である。
彼女は「あえて漢字を付けるなら、『大』かなぁ……」と、仮の名前を決めた時に呟いていたのを覚えている。
葉子にはネーミングセンスが無いのでは……という本音は、自分の胸の中にだけ留めておく。
それからダイは、葉子に世話をしてもらう代わりに彼女の手伝いをする事を志願した。
タダ飯喰らいの役立たずにはなりたくない。
何より、ダイには『この里』で頼れる人が彼女しか居なかったのだ。
何故ならここは、妖怪や幽霊が棲まう妖達の世界──妖魔界。
無力なただの人間が、誰の庇護も受けずにいれば……あっさりと喰われてしまう場所。だから葉子は、すぐにダイを家にあげてくれたのだろう。
……とはいえ、そんな話をされても実感が無いのは確かだった。
記憶も名前も失ったダイにとって、本来人間が暮らすべき世界と、妖魔界の決定的な違いすらも分からない。
ただ、夜中に用を足しに行った際、便器から女の子の手が伸びてきたり、ここ毎晩金縛りにあったり、天井裏から誰かの足音がしたり、葉子を探して背後から声をかけて振り向いた相手がのっぺらぼうだったり、うわぁ可愛いワンちゃんだ〜! と思って近付いたら小汚いおっさん顔をした人面犬だったりしたけれど……人間界でだって似たような事があった可能性もある。
以前までの生活をまるで覚えていないのだから、可能性は無限大なのだ。
そして葉子はというと「記憶が戻るまでは不安だろうから、しばらく住み込みで働いてみるのも良いんじゃない?」と、ダイの申し出を快諾。
そのまま二人──本当に二人きりなのかは怪しいが──の共同生活が始まったのであった。
汗だくになりながら草むしりを終えたダイは、葉子に報告すべく店舗の方へ向かう。
彼女の切り盛りする店の名は【夢枕堂】。
葉子は【大抵のものなら何でも揃う、みんなの思い出のお店】を謳い文句にして、雑貨から食品、最新のデジタル機器まで幅広く販売しているのだ。
それを聞いた時には驚いたが、理由を聞けば何となく納得出来た。
──夢枕葉子は、記憶を司る妖怪であるという。
彼女の持つ能力によって、人間界に住む者達の記憶の中からデータを引っこ抜き、具現化させる事が可能なのだという。
そうして妖魔界に持ち込んだ品々を店舗に置き、それらを必要とする客に販売している。
そうした商品の中に、ダイの記憶を取り戻す手掛かりがあるかもしれない。
故に葉子は「それまでのんびりと仕事を手伝いながら暮らせばいいよ」と、笑って言ってくれた。
今の彼女の姿が真実なのか、ダイには判らない。
けれどもダイは、遅かれ早かれ死んでいたかもしれない自分を救ってくれた葉子に、少しでも恩返しをしたいと思ったのだ。
「葉子さん、庭の草むしりが終わったのでご報告に……」
「あっ……!」
「あら、ご苦労様」
屋敷の東側に位置する夢枕堂の店舗スペースに顔を出すと、葉子が客の相手をしていた。
客は細身の成人女性。見た目は三十代ぐらいで、着物姿の葉子とは対照的に、近代的なジーンズとシャツを着た普通の人だ。
彼女達を見比べてみると、葉子の方が若々しく見える。二十代前半ぐらいだろうか?
あくまで外見だけの話ではあるが。
「す、すみません! 接客中でしたか。では俺は、もうこれで失礼を──」
「いいえ、その必要は無いわ」
急いでその場を立ち去ろうとしたダイを、何故か葉子が引き留める。
不思議に思って振り返ると、
「どれだけの付き合いになるかは分からないけれど、貴方はあたしのお手伝いさんになってくれるんでしょう?」
「は、はい」
「それなら夢枕堂がどんな商売をしているのか、よーく知ってもらわなくっちゃ。今回はダイくんにも付き合ってもらいますよ?」
そう言って、ずらりと商品が並んでごちゃついた店内をバックに、金髪和風美人な妖怪はニッコリと笑うのだった。
○
ダイは葉子に言われて、整理したばかりの蔵から大きな木箱を引っ張り出してきた。
箱のサイズはダイの背丈と同じぐらい。けれども、この箱はそこまで重くはなかった。
「葉子さん、言われた通りに持って来ましたけど……」
「これから何をするのか分からないって顔ね。まあ、ちょっと見ていてくださいな」
葉子は懐から白い水の入った小瓶を取り出し、床に置かれた木箱の蓋をそっと開ける。
中には真っ白な人形が横たわっていた。大人とも子供ともいえない中途半端な大きさの、球体関節人形だ。
腕や脚の関節にボール状のものが組み込まれており、本物の人間のように、自由に関節を動かせる人形である。
人形の横で両膝をついた葉子は、客の女性へ視線を向けた。
「間宮はるかさん。これからご依頼の人形を『完成』させますので、少しお手を拝借してもよろしいかしら?」
「は、はい。お願い……します」
言いながら差し出した葉子の手の上に、間宮と呼ばれた女性の手が重ねられた。
「さあ、よく見ていて。これがあたしの──妖術よ」
次の瞬間、箱の中の人形がグニャリと歪む。
すると、葉子が手にしていた小瓶の中身は何故か消えていた。
人形はみるみるうちに縮み、白い肌が徐々に色付いていった。
髪が生え、爪が桜色になり、顔の輪郭もハッキリとしていく。
最後に、緑色のポロシャツとグレーのハーフパンツを着た姿に変わった。
人形が変貌したのは、小学校低学年ぐらいの男の子。
それを見た間宮の悲鳴にも似た声が、彼女の唇から漏れる。
「竜星……竜星っ!」
途端、間宮の目からぽろりと雫が溢れた。
○
その日の夜。
葉子に聞いたところ、彼女はこの里に飛んできた間宮はるかの『生き霊』であったらしい。
彼女は幼い息子を事故で亡くし、【もう一度息子に会いたい】という強い念が、その生き霊を夢枕堂へ飛ばしたのだという。
「ここには妖怪以外にも、彼女のような人もやって来るの 。そんな人達の手助けになればと、あたしはこのお店を始めたわけなのです」
そう言って、冷えた緑茶を流し込む葉子。
ダイはガラスのコップに目を落としながら、間宮親子の事を考える。
「……あの親子は、これからどうするんでしょうね」
「気になる?」
「そりゃあ気になりますよ」
ダイが頷くと、葉子は待ってました! と言わんばかりに瞳を輝かせた。