堕ちた妖精のトゥシューズ
私にはもう限界だった。
夏目紗奈は小さいときに見たバレリーナに憧れてバレエを習いはじめた。周りより先にコンクールと舞台でのデビューさせてもらったものの、次第に周りに抜かされていく。
とくに同い年で同じバレエ団の佐津早苗と夕空あずさにはいつもコンクールで負ける。
そんな自分の能力の限界に彼女が気づいても、もがく紗奈。そんな彼女がバレエを辞めることを決意したのはある「勘違い」だった――――
堕ちてから三か月――――
「エカテリンブルクバレエ団&大味谷バレエ団共催 U15バレエ公演『眠りの森の美女』 オーロラ姫:佐津早苗、デジレ王子:ニコライ・リュミドリー、リラの精:夏目紗奈、フロリナ王女:夕空梓、ブルーバード:レウィ・マルコルフ」
オーケストラの音楽がホール全体に鳴り響いている。生演奏ではないけど、すごく迫力があるんだよね。その中で私はスポットライトを浴びながら、踊るんだ。
あの憧れていた役で。
出番まであともう少しかぁ。それはこの十二年間、多くの舞台を踏んできた結果。でも……――
お母さん、ありがとう
早苗、梓、先生、ごめんなさい
三歳のときにはじめて観たバレエに惹かれて入ったこのバレエ団。どんなときもあたたかく見守ってくれたお母さん。親不孝な娘はお母さんが託してくれたプロになるという夢を今日で捨てます。
早苗も梓も同じ年齢っていうことですぐに仲良くなったよね。舞台に先に立ったのは私だけれど、今や二人は『フェアリー・プリンセス』『猫のような町娘』って有名だよね。今年でこのU15はみんな卒業だけれど、二人が世界で活躍するところを私は客席から二人を見るね。
そして先生。先生はスタジオの中ではすっごく厳しくて、何回怒られたことだか。とはいえ、練習終わった後やこういう舞台が終わった後はいつも励ましの言葉をくれました。私があの晩、先生の言葉がだれに向けられたものなのかきちんと理解していれば――いや、違うか。
私は身体的にも精神的にももう限界です。今まで十二年間、ありがとうございました。
『眠りの森の美女』ではオーロラ姫を祝福し、王子を導くリラの精。今、身にまとっている豪華な刺繍が施されたうす紫色のパンケーキ・チュチュや、頭の上に載っているティアラは重いな。はじめてバレエを見たときの“リラの精”はかっこいいと思ってたのに、私は不恰好だな。
でも、今の精一杯、与えられた舞台で踊るだけ。
はじめてコンクールで優勝したキトリだって、みんなの後押しがあったから踊れたし、そこからの舞台やコンクールで踊ってきたガムザッティだって、サタネラだって、ジゼルだって私自身なんだから、踊れないはずがない!
すっと息を吐いて、そっと客席を見る。
私たちの踊りを見にきた人で埋め尽くされている場所はリラの精の登場を待ちわびている。
スポットライトの当たる部分へ出た。
オーロラ姫を祝福するために呼ばれた花の妖精たちの間を、ステップを踏みながら進んでいく。
ああ、そうか。彼女たちはまるで私の花道なんだ。
* * * * *
墜ちるまで、残り十二年――――
『第十五回 全日本クラシックバレエ・ガラコンサ―ト』
そう書かれた大きな看板が掲げられているホ―ルに次々と人が入っていく。
「ねぇ、今日はなにをみにきたの?」
少し短い黒髪を軽く結んだ日本人らしい顔立ちの少女、夏目紗奈もその一人で、母親の紗羅に連れられて来ていた。紗羅は娘を少し前から何度かこうやって観劇に連れてきていて、まだ三歳の彼女も今度はどんなものを観させてもらえるのかと楽しみにしていた。
「今日は『バレエ』っていって、音楽だけのダンスを観にきたんだよ」
母親の言葉にばれえ?と目を丸くして問いかける紗奈は、いつになく興奮していた。紗羅は紗奈の視線に目を合わせ、微笑みながら続ける。
「紗奈ってキラキラしたもの好きじゃん? 前のダンスも好きだったけど、今日のも気にいってくれるといいな」
その言葉にほんと!?と顔を綻ばせる紗奈。足取りが軽くなった二人はホールの中に入っていった。
「きれいだったぁ!!」
コンサートから帰宅したあとに紗奈は先ほど自分が綺麗だなと思ったものをその場にいなかった父親の春紀だけではなく、一緒にいた紗羅にまで見せていた。本物のバレリーナのように踊っている娘を二人は穏やかに見守っている。
「あら、紗奈、とっても気にいったのね」
紗羅と春紀はクスクスっと笑いあう。愛娘の機嫌のよさは今までの観劇以上のもので、どうやらかなり気にいったことがよくわかった。
「ねぇ、お母さん」
いつのまにかその一人舞台は終わり、母親のもとへ近づいた紗奈は母親にある"願い"を口にする。
「私、バレエを習いたい」
「え?」
紗奈は今まで観にいったものは帰ってきてまで興味を示さなかったから、今回もそんなものだろうと思っていた沙羅は、驚いて娘に反射的に尋ねてしまった。
「どうしたの急に。今までは習いたいって言わなかったよね?」
母親の質問に紗奈はあのねと前置きしてから説明しはじめる。
「紫色の女の人がくるくるーって回りながらぁ、足をこーやって、高ぁく上げるのが、かっこよかった」
どうやら娘は『眠れる森の美女』から《パ・ド・シス》リラの精の踊りに惹かれたようだ。
「そっかぁ。じゃあ今度、一回お稽古を見にいってみる?」
紗羅も子供のころ、母親に憧れてフルートを習いはじめた。今ではプロにも負けないほどの腕前に上達して、何回か知人のコンサートに出させてもらっている。
もしかしたらこの子は私以上に成長してプロになるのではないか。
そんな思いが彼女の中に生じていた。
うんっ!
嬉しそうな紗奈の返事に紗羅はどこか娘に期待する眼差しをむけていた。
そこは普通の住宅街にあった。
《大味谷バレエ団》と書かれたプレートがかけられた扉をノックし、入っていく少女たち。ときどき少年の姿も混じってるが、少女たちに比べれば少ない。
「おはようございますっ!!」
彼らは建物に入った瞬間、勢いよく挨拶をする。中の奥の方からおはようと返答があるが、誰も出てこない。しかし、そんなことを気にせず、靴をそろえて片付けてから奥へ入っていく少年少女たち。
そんな彼らをひょっこりと小さな部屋からのぞき見る小さな二つの瞳があった。
「あら、まただれか来たかしら?」
音がした扉の外を見た紗奈に話しかけたのは椅子に座っている白髪混じりの壮年の女性。柔和な印象を受ける人は大味谷愛子、彼女こそがこのバレエ団の主宰である。彼女は五十年以上も続くこのバレエ団を率いる女傑であり、ここではただの上品なマダムという印象しか受けないが、ひとたびレッスン場に入ればまるで阿修羅のような形相になる。しかし、彼女に師事を求めて県内外から子供たちを通わせている親がいるほど、このバレエ団は実績がある。彼女が厳しく教えるのはそういった実績もあるからこそだった。
ここはただの発表会ではなく、コンクールへの出場を目標とするところ。
紗羅はもう少し緩やかなバレエ団でもいいかと思っていたが、たまたまフルート奏者の知人の紹介で紹介されたので、一度ここの入団面談をしてもらうことにしたのだ。
愛子は先ほどから落ちつきのない紗奈の行動に、ただ興味があるのねぇと微笑んでいる。紗羅はその微笑みがどういった心境を表しているのかがわからなく、心配になってソワソワしていた。
「そうねぇ。今からレッスンをするから、見にいってみましょう」
そんな彼女の心配をよそに、愛子はそうしましょうと一人で頷き席を立って外に出る。紗羅もそのあとに続いて席を立ち、紗奈を連れて愛子のあとを追いかけた。
『アン、ドゥ、トロワ……――』
十五人ほどの子供たちが片手で棒につかまった状態で同じ動きをしている。部屋の脇にはアップライトピアノが置かれていて、若い女性が音をとっている。
先ほどまではしゃいでいた紗奈も、今はレッスンのほうに夢中になっている。
「じゃあ、バーを片付けて!!」
ひととおり動いたあと、先生の指示に従って部屋の中央に置いてあった棒を片付けはじめる子供たち。手分けして片づけた子供たちは部屋の中央に集まる。静かに若い女性の言葉を聞く子供たちの視線は真剣そのものだ。
独特な雰囲気に紗羅は飲みこまれそうになっていたが、気づいたら娘の姿がない。
どこかと思って部屋を探すと、いつ動いたのか彼女は今レッスンを受けている生徒たちの後ろに立っている。なにをしたいのか、もじもじしている。
「こら、紗奈……!!」
慌てて娘を連れ戻そうとしたが、愛子に引き止められる。先ほどと同じようにピアノの音が始まると同時に、今度は棒のないところで練習が始まった。
子供たちは一斉に同じ動きをしている。
曲にあわせてジャンプしたり、片足でステップしたりと。
紗羅はそっと紗奈の様子をうかがうと、ぎこちなく動いていた。なんの動きだろうかとじっと観察していると、それはただ、今レッスンを受けている子たちのマネしていることに気づいた。彼女たちに比べれば拙いものだが、それでもついていこうと必死に動いている。
それを見た紗羅は娘の熱意に負けた。ここまではっきりと興味を示した娘に母親は習わせることを認めざるを得なかった。
そして、紗奈の動きを観察していた愛子もまた感心していた。
「この子ならなんにでもなれそうね」
温かく紗奈を見ていた愛子の呟きは、誰にも聞こえていなかった。