“i”なんて曖昧で、まだ測れない僕たちは
風紀委員長を務める少年・春斗と、その“妹”になった後輩・桃。
はじめての連続に、戸惑う二人。
それでも、二人はゆっくりと家族になっていきます。
────不可解な胸の高鳴りは、まだ測れないままで。
親愛と恋愛。簡単にはわからないその境界線に迷って、惑って、それでも過ごしていく、日常の物語です。
父親の再婚相手の連れ子が、僕の後輩だった。
それはまだいい。けれども────
「えーっと……なにかあった?」
「いいえ。気にしないでください、です」
「はぁ」
新しい妹が、挙動不審すぎる。
浄玻璃のように透き通った瞳を、あっちこっちへ忙しなく動かす様子は、どこか小動物みたいだ。
「僕の部屋なんて、見てもなにも面白くないと思うけれど」
「そんなことないですよ。先輩の意外なところとかがわかって、ちょっと楽しいです」
園生 桃は、風紀委員会の副委員長である。
いいや、今は小鳥遊 桃と呼ぶべきか。
清廉潔白で青天白日、そして無表情。
そんな彼女が見せたほほえみに、少しどきりとする。
「春斗先輩って、いつも学校ではしっかりしているのに、お部屋の片付けは割と雑なタイプなのですね」
「あー、確かに自分のことには手が回ってないかも」
かくいう僕は、なぜか委員長を務めている。
風紀を守るものとして、ともども校舎を駆け回る。それが僕たちの関係だ。
それ以上でも、それ以下でもなかったのに。
こうして同じ屋根の下で暮らすことになるなんて、まったく想像できなかったわけである。
「そういえば。先輩にはこれを渡しておきますね」
「これは?」
「兄妹規則ノートです。しっかりじっくり読みこんでくださいね」
差し出された一冊のそれを受けとる。
そして、その題名を反芻する。うーん、やっぱり聞き覚えのない響きだな。
「これって、どんなことが書いてあるの?」
「ふふん、家族としての決まりごとですよ。きっちり守ってもらいますからね」
兄妹にも、ルールが必要なのだろうか?
少なくとも、一昨日までひとりっ子だった僕には分からないことだろうけれども。
百聞は一見にしかず。ひとまずは読んでみるとしよう。
「ふむふむ。規則第一条……」
*
風紀委員会の活動場所として与えられた空き教室、その扉ががらりと開かれる。
「うぃーっす、委員長と副委員長。ちょいと遅れましたー」
「藤崎、お前って本当に風紀委員としての自覚ある……?」
放課時刻から三十分も遅れてなお、それを「ちょいと」と表現するようなおおらかさは、さすがに問題だと思う。
今さら言ってもしょうがないので、胸にしまい込んでおくが。
「…………」
隣に座る桃は、こちらを気にせず書類と格闘している。
これまでと同じように。
(なんせ、規則らしいからな)
第一条、学内では兄妹であることを隠すように。
曰く、変に憶測してくる人が出てこないようにとのことである。
それについて異論はないが……。
「ところで、二人って結婚したん?」
藤崎の言葉に、桃が激しくむせる。
「違いますよ!? どうしてそうなるのですか!」
「……結婚したのは、僕たちの両親だよ」
諦めて、訂正をしておく。
隠すと言っても無理があるだろう。何せ、名字が変わっているのだから。
「実際、その相手の連れ子どうしだってことを知ったのは、つい昨日だけれども」
「そんなこともあるんだな」
規則が定められたその日のうちに、すでに一つに反してしまうなんてな。
いやはや、人生って分からないものである。
「こほん、藤崎先輩は校内の見回りに行ってきてくださいです」
「りょーかい。ところで撫子ちゃんは?」
「撫子先輩ならもう先に向かっていますよ。途中で合流してきちゃってください」
「へーい」
雑に返事をして、藤崎が教室を出ていく。
そうして、二人だけ残される。一瞬だけおりる沈黙。
「さて、どうしましょう先輩」
無音の帳は上げられる。
口調では平静を装っている桃ではあるものの、瞳はゆらゆらと揺れており、なんとなく見ていて面白い。
「別に、兄妹だって気づかれても何の問題もないんじゃないかな」
「本当にそうでしょうか? 考えてみてくださいです」
一転、こちらをじっと眺めてくる彼女。
その面持ちは真剣そのものだが、これってそんなに重要な話だったっけ?
「いいですか。高校生というのは想像力豊かな生き物です」
「は、はぁ……」
「火のないところに煙は立たないとは言いますが。私たちが兄妹だと広まれば、いわゆる火がそこに点くわけです」
いつにもなく熱のこもった口調の桃。なにやら思うことがあるようなので、いったん口をつぐんで続きを聞く。
「自分たちのうかがい知れぬ裏の関係というものは、いつだって彼ら彼女らを引きつけるものです」
言っていることはわからなくもないので、ゆっくりと首肯しておく。
「こと、私たちは校内組織のなかの委員長と副委員長。陰謀のたぐいは盛りあがる立場です」
「なるほど……」
「ですので、もしかしたら二人はつき合っているんじゃ、というような噂が生まれます」
「ちょっと待って?」
急に話の方向性が斜め上へと向かっていった。
「それはおかしいと思うんだ。普通、兄妹ってわかったらそうは考えないんじゃないかな」
「確かに普通であればそうですね。しかし、私たちの場合はそうではありません」
弛緩した雰囲気のなかにありながら、彼女の瞳だけは真っすぐである。
「もともと兄妹だったわけではなく、知りあって、そのあとに家族となったわけです。つまるところは、禁断の恋ってことですね」
「そんな事実はないのだから、堂々としていれば問題ないさ」
「……むっ、それもそうですね」
どうやら、落ち着いたようである。
あまり長く一緒にいたわけではないが、それでも一年近くは同じ委員会で活動をしてきたのだ。
なので、桃のことはおおよそわかってきたと思っていたのだが。
「寝不足なのか、つい暴走してしまいましたね」
恥ずかしそうに顔を隠す彼女を見ながら。
“無表情な後輩”としての枠組みのなかだけで、僕は桃という少女を見ていたんだなと、ふと思った。
「さっ、仕事はまだまだあるからね。進めていこう」
しばらくすれば、藤崎と撫子も戻ってくるだろう。
その前に、ひと通りの書類仕事は終わらせておきたい。
日が暮れるのが早い季節だから、てきぱきと業務をこなしていかないと、帰るころには真っ暗だから。
*
遠くの稜線へと、太陽が沈んでいく。
歩きながら、それをぼんやりと眺めて。
「そういえば、帰る方向も同じなんだったね」
いつもなら一人で見ていた夕景。しかし、隣にはもう一人、僕よりもずっと背の低い後輩の少女。
今はまだ慣れないけれども、いつかはこれが当たり前になるのだろう。
「私は春斗先輩とは真逆の方向でしたからね。気をつけないと、前に住んでいたほうに歩いていってしまいそうです」
「これまでは、それが自然だったからね」
未だに不自然なことだらけなのは、僕も彼女も同じみたいだ。
「そういえば」
ふと思いだしたことを、桃に告げる。
「規則の第二条。“校外では、お互いを名前で呼ぶように”だっけ?」
「はい、そうですね。いつまでも先輩後輩ではいられないので」
辺りを見渡す。高校からはしばらく歩いてきたので、学生の姿はない。
「せっかくだから、少し練習でもしないか?」
「ふむ。それもそうですね」
立ち止まって、彼女を真っすぐ見つめる。
艶めいた長い黒髪が、空の緋色を反射して煌めく。
「んー、んんっ」
珍妙な咳ばらいで一拍開けてから、おずおずと言葉を発する。
「…………桃」
こうして、下の名前で呼ぶのははじめてかもしれない。
また。また、はじめてである。
他愛ないことのはずなのに、それがどうしてこんなに楽しいのだろう。
こんなにも、ドキドキするのだろう。
「えへへっ、なんか変な感じですね、これ」
どこか気恥ずかしい雰囲気をごまかすように、彼女はくすりと笑う。
僕も、笑ってみせる。
「それじゃ、次は私の番ですね。……えっと」
すこし困ったようにはにかんで、それから。
「春斗……お兄ちゃん?」
心臓が、とくん、と鳴った。
「やっぱりおかしいですねこれ、笑ってしまいます」
顔を隠す桃。ちらりとのぞく頬は、夕陽のためか仄かに赤い。
きっと、僕だってそうだろう。
「さっ、帰ろうか」
なんでもないような声音で、呼びかける。
心臓の早鐘に知らないふりをして。
そうして、再び歩きだす。
彼女の狭い歩幅に合わせて、ゆっくりと。
*
「ん〜〜っ!」
簡単に設えられたベッドの上、ぬいぐるみを抱いてごろごろと転がります。
荷解きの終わっていない、殺風景なお部屋の中には、私だけ。
だから、ひとりごとを聞いているのは、このもふもふだけです。
「ちょっとは、近づけたかな……?」
声にならないように、唇だけを動かして。
はると、おにいちゃん。
そう、呼んでみてしまいます。
「〜〜〜〜!」
ごろろんごろろん転がります。自分でもおかしなことしてるな、って思います。
「これまでは、あまり踏み出せなかったけど」
窓の外、まんまるなお月様を眺めて。
「兄妹なら、いちゃつきは合法ですので……!」
「だから、覚悟してくださいね」
ぬいぐるみにも届かないような声が、月夜に消えていきました。