円環を貫く者/やがて屍か英雄か
平凡な男子高校生の日常は突然、断ち切られる。
気がつけば見知らぬ土地で、見知らぬ男女に見下ろされていた。
「そなたには魔法陣を破壊してもらう」
言うことを聞けば日本に帰してくれるという女に、少年はこわごわ頷いた。言われるがまま、連れられた荒野で魔術によって編まれた円環、魔法陣を破壊するも瞬きの後に立っていたのは少年の知る日本ではなく、異形の獣と魔法陣がひしめく戦場だった。
「戦わなければ死ぬ」
突きつけられた現実に少年は銃を掲げて戦うことを選ぶ。
なぜ彼は招ばれたのか。なぜ獣が人よりも優れた魔術を扱うのか。なぜ人類は滅びに向かっているのか。
戦いのなかで世界を知るごとに、絶望ばかりが濃さを増す。それでも、彼は銃を手放さない。
「わかったよ……全部ぶち壊してやる!」
魔術を持たない少年が貫いたその先に、希望はあるのか。
《魔法に銃で挑む、絶望に彩られたバトルファンタジー》
風に乗って耳に届くのは、低く歌うような声。術者が呪いの言葉をつむぐたび、緻密な蛍光色の線が宙を走り、魔法陣が完成に近づいていく。
薄曇りの空に照らされた砂色の荒野にあって、その異様な色彩はひどく目を引いた。
「あれを壊せってか」
魔法陣を崖から見下ろす少年は、身を低くし蛍光色の滑空を見つめてそのときを待つ。
地面についたひざに石ころが食い込んで痛む。けれど視線を定め集中すると痛みも、吹き荒れる風の音も遠ざかっていく。表情の抜け落ちた彼の左瞳には、魔法陣を構成する光だけが映される。
呼吸も忘れ、編み上げられる魔法陣の光をただ見つめること、しばし。流れるように紡がれる光の陣の完成が間近に迫った、その瞬間。
―――いまだ。
彼の左腕が火を噴いた。
肩から指先までの長さを持つ銃から放たれた弾丸は、乾いた空気を切り裂き、魔法陣を目がけて飛んでいく。
ちいさな塊が吸い込まれるように向かったそこは、緻密に編まれていく魔法陣の、その均衡を保つためのほんの一節。
そこが音もなく、撃ち抜かれた。
過たず的を射抜かれ、複雑に編まれていた蛍光色はほろほろと宙に崩れていく。今にも発動しようとしていた魔法陣はあっけなく崩れ、行き場をなくした力が四散したらしい。
不意に吹き付けた風と舞い上がった砂ぼこりに、身構えていた術者が袖で顔を覆い隠し、その身を守っている。
「……見事だ」
少年の背後から響いた声には、感嘆の響きが宿っていた。
「見事だ、オモトよ。召喚陣にそなたが現れたときは、その貧弱ななりで何ができようと思ったものだが」
遅れて届いた風の余波によって、艶やかな長髪が風に舞う。
「我が眼とこやつの利き腕を贄としただけのことはある」
風によって露わになった女性の左目からは、そこにはまっているべき眼球が失われていた。
真っ黒い眼窩をさらす彼女の横に立つ男の左腕の袖は、風に吹かれるまま宙に遊ぶ。
見るからに鍛えられた体躯が収まる服のなかで、片袖の頼りない薄さは目についた。袖のなかにあるべき男の腕は、もはや存在しないのだろう。
「のう? 勇者よ」
片目が失われてもなお美しい女性は真っ黒い眼窩と強い光を宿した瞳で、勇者と呼ばれた少年、万年青を見据えて、唇を吊り上げている。
挑発的な彼女の言葉に、少年は黙って立ち尽くした。
勇者などと呼ばれたが、万年青は至って平凡な高校生だ。
特別足が速いわけでもなく、特別頭が良いわけでもない。身長も体重も同年代の平均値に近く、剣どころか、格闘技や武術をおさめたこともない。
誇れることと言えば、この年まで虫歯の一本もなく大きな怪我や病気もせず生きてきたことくらい。
そんな高校生が見知らぬ土地で見知らぬ人に『勇者』呼ばわりされるなど、明らかにおかしい。
そうは思うものの、自分の立ち位置もわからない今、むやみと相手を刺激するようなことは口にできなかった。胸のうちで悪態をつくのがせいぜいだ。
―――召喚してくれとか頼んでねえよ、なんて言えるわけねえな。俺ほんとにただの高校生なのに……。
愚痴をこぼしかけて、けれど自身の左腕、そこに生えた銃が目に入りことばを無くす。
そう、生えていた。
黒々とした銃身や照準具を備えた銃は、武骨さのなかにところどころ生物的な部位を交えて、彼の肩から生えているのだ。およそただの高校生の身体にあるはずのない部位が、万年青の左腕があるはずの位置におさまっていた。
―――意味がわからねえ。なんで俺の腕がこんなおかしなことになってんだ。左眼もなんか、違和感あるし……そもそもここはどこなんだ。
彼は自問する。けれど答えは出ない。答えを導くためのヒントすら持たない彼がいくら考えたところで、何もわからなかった。
わかっているのは、ほんの数分前に平凡な日常が断絶されたことだけだ。
いつもの教室から突然変わった景色に驚く暇もなく、少年はこの男女に連れ出された。そして「魔法陣を壊せば帰してやる」と言われるがままに左手の銃を操ったのだ。
馴染みのないはずの銃であるのに、扱えたことはありがたい。おかげで見知らぬ男女からの要求に応えられたのだから。
―――これでこの腕ともお別れか。いや、名残惜しくはないけど。
万年青は慣れない左腕を気にしながら立ち上がる。見た目はいかついが、重さは元の左腕とそう変わらないらしい。
難なく立った彼は自身の左腕をしげしげと眺めている。
「では、さっそくだが」
眼窩を隠す飾り布をまといながら、女性が口を開く。
「そなたに働いてもらう」
「え?」
思わぬ言葉に、刺激しないようにと考えていたことなど忘れて彼は声をあげた。
「話が違う! 魔法陣なら壊しただろ。言う通りにしたら日本に、元の世界に帰してくれるって!」
叫んだ少年の頬を風がなでた。吹き付けるのではなく、ぐるりと取り囲むように噴いた風。
違和感を覚えて視界の端に走る蛍光色を目で追った彼は、絶句する。
―――囲まれている。
蛍光色の文様で編み込まれた魔法陣が、彼を囲うように地面に浮かび上がっていた。
「は?」
「魔法陣とはな。詠唱によって編み上げるだけでなく、事前に描いておき任意の瞬間に発動することもできるのだ。覚えておくといい」
「ちょ!」
少年にろくな言葉を発する間も与えず、周囲の魔法陣が強く輝く。
彼の身体を包み込んだ光は魔法陣の中央に収束し、音もなく掻き消える。光が消えるのとともに、少年もまた消え失せていた。
「ふん」
誰もいなくなった崖を見て、女性が鼻を鳴らす。
「我らの頼みが魔法陣ひとつだなどと、誰が言うたか」
女性が「のう?」と嘲笑を浮かべるのに、隻腕の男が「は」と低く短く答えた。
彼女は消えた少年の行方など気にする風もなく、踵を返す。堂々としたその背中に男が続く。片腕での歩行に未だ慣れないのか、男の身体は左右に大きく揺れている。
「勇者どのには、ぜひとも我が国を救ってもらわねば」
乾いた大地を踏みしめながら、女性は誰にともなくつぶやく。
「世界中にはびこる魔獣どもを殲滅するまで、すべての『魔法陣を壊して』もらわねばな」
くくっ、と笑う女性の肩に隻腕の男が外套をかけようとして、し損なう。彼女の右肩だけにかかってしまった外套を直そうと、身じろいだ男の左袖が風に揺れた。
「……良い。自分でする」
「申し訳ありません、姫さま」
自らの手で外套を引き上げた女性に、男は静かに頭を下げた。
無表情に、感情をうかがわせない声で話す男の隻腕に目を向けて、彼女は表情を歪める。その目に浮かぶのは、万年青に向けていた見下すような色ではない。
「謝るな。そなたの、将軍になるまでに鍛え上げた腕を贄としたのは私なのだ」
「……は」
感情を押し殺した声に、男が返事とも言えないうなりをこぼす。曖昧な声は風に吹かれて彼女に届かなかったのか、否か。
それきり互いに黙り込んだまま、ふたりは荒野を去った。
※
「なんだよ、これ……」
魔法陣の光に呑まれた万年青は、瞬きの間に知らない場所に移動していた。日本から連れて来られたときも同じように突然だった。
だが、ここが日本ではないと彼は確信する。
見渡せば、さっきまで立っていたのとそう変わらない崖のうえだ。日本にもこのような土地はあるだろう。
それでも、ここが彼の知る日本ではないと万年青は確信していた。
異様なまでの遠景を捉えられるようになった彼の左眼が、見下ろした荒野に人と人でない者たちがひしめき合っているのを捉えていた。
見渡す限りの大地に蠢くのは、無数の生き物たち。
人の軍勢とぶつかる最前線にいるのは、イノシシだろうか。いや、イノシシの牙が射出されるはずがない。鎧を身に着けた大人を四、五人まとめて貫けるのがイノシシの牙であっていいはずがない。
剣と見紛う角を振りかざすシカのとなりでは、鎧を身に着けたクマが異様に大きな体躯で俊敏に腕を振り回し、手近な人をえぐり千切り投げ飛ばしている。
人の血しぶきが舞うさらに上空を群れて飛ぶのは、スズメだろうか。見た目は万年青の知っているスズメにそっくりだが、きっと違う。
なぜなら、スズメは魔法陣を編んだりしない。群れで編み上げた魔法陣で雷を発生させ、人びとに絶望を降らせたりしない。
イノシシが、シカが、クマが、スズメが、その身に蛍光色の文様を浮かび上がらせて人を圧倒するはずがない。
万年青の知る日本ではあり得ない光景が広がっていた。
「まじかよ……」
呆然とつぶやく少年の頬を流れ弾ならぬこぼれた魔術が掠めていった。
頬が熱くなり、遅れて痛みがやってくる。ひりつく痛みをあおるように、乾いた風が傷口に吹き付けた。
―――あ、これ無理。死んだわ。
へたり込みそうになった万年青の腕を誰かが引き、彼はされるがまま後ずさって尻もちをついた。
崖の端から離れたことで、視界を埋め尽くしていた濃厚な死がぐんと範囲を減らした。ようやく呼吸ができる、と忙しく空気を取り込みながら顔を上げた万年青は、見上げた先に居た人物に戸惑い眉を寄せた。
見覚えがあるような、無いような。
「あんた、魔法陣のとこにいた……?」
呆然とつぶやく彼を見下ろしているのは、先ほど万年青が撃ち壊した魔法陣を構築していた魔術師の青年だった。





