水溜まりに歪む月
秋月征人は後悔していた。
三年前、仲違いをした女の子と久し振りに会う約束をしたことを。
彼女が知り合いに高額商品を買わせようとした噂を耳にしたからだ。
はたして彼女は何の目的で秋月に会おうとしているのだろうか……。
『お久し振りです。今度、会ってくれませんか?』
久方ぶりのメッセージにしては味も素っ気もない文面に、僕は本人か疑うよりも先に噴き出してしまった。
ミサキ――、彼女の顔を最後に見たのは、もう三年前になる。
僕は卒業して慣れない仕事に駆けずり回る毎日。
学生時代のことを懐かしむ暇なんてなかった。
彼女との出会いは高校の文芸部。
ラノベぐらいしか読まない僕が何の因果かそこに放り込まれたのは、どこかの部活に所属しなければならないという学校側の規則のせいで。
ずるずると回答を先延ばしにした結果、文芸部以外は埋まってしまったからだ。
年に数回の部誌を発行する以外、目立った活動のない文芸部は上下関係も希薄でゆるい雰囲気が案外と性に合った。
部室に来れば部員たちは小説を読んでいるか原稿を書いているかで。
静かに時が過ぎる中、黙々と自分の作業を進めるには都合が良かった。
ミサキはほとんど部活には顔を出さなかったが、たまに顔を見せたときは一人で詩集を読んでいるような女の子だった。
襟元まで伸びたストレートの黒髪を後ろで二つに結わえただけの簡素な髪型。
校則通りの野暮ったい制服。
これで眼鏡でもかけていれば完璧だったろう。
絵に描いたような文学少女がいるという本人が聞けば噴飯物の第一印象だった。
お互いの存在は認識していただろうが、ひとつ下の学年だったので、こちらから話しかけることもなかった。
校内で見かけたときも、それは変わらない。
そんな希薄な関係が変化したきっかけを残念ながら僕は覚えていない。
ただ、あまりにも熱心に読んでいるので、どこがそんなに面白いのか聞いてみたことがあった。
「読んでいて言葉の背景を想像すると、楽しくなりませんか?」
「なんとなくハードルが高いように感じるんだが」
「和歌や俳句なら言葉の意味から時代背景まで、調べないとわからないことが多いですが、現代詩は普段使っている言葉ですから。感じるまま自由に読んで楽しめばいいんですよ」
自分の好きなものに興味を持ってくれたことが嬉しくて前のめりになる気持ちは痛いほどわかった。
ぐっと距離を詰めてきたミサキに対して及び腰になりながらボールを返す。
「マンガやラノベの方がわかりやすいかな、僕は」
「子供の頃から読んでいて気付かないかもしれませんが、マンガって結構ルールが複雑ですよ。知っていないと楽しめないお約束も多いですし。アメコミやバンド・デシネだと、読み難いって感じることがあるじゃないですか?」
「確かに……、慣れていないだけかもしれないね」
そうでしょうそうでしょうと何度も頷いた彼女は読んでいた本を差し出した。
手拭い柄のブックカバーがかかった文庫本。
彼女にとってそれがどういう価値を持つのか、なんとなく察せられた。
「まあ、一度読んでみてください。ちょっとだけ、ほんの出だしだけでも」
「……なんでそんな言い回しなんだよ」
その頃の僕は忙しくて心の余裕もない状態で、家と学校を往復するだけの生活。
元々、興味のないものに割く時間は苦痛としか感じない人間だ。
それでも、少しぐらい読んでみるかという気持ちにはさせられていた。
通学途中や休み時間に少しずつ読み進め、どうにかこうにか読み終えた頃には、ミサキとの距離はかなり縮まっていた。
顔を合わせる度に読みましたかどうでしたかと話しかけてくるからだ。
さっさと読み終えて楽になろうとした僕の気持ちもわかって欲しい。
「これ、返すよ。ありがとう」
「どうでしたか? 詩の魅力を感じましたか?」
「ほとんどは読み飛ばしたけどね」
「それでも気になる一編はあった、と?」
「飲み会で終電を逃してカラオケでオールした後、始発電車で出勤してくる会社員とすれ違う詩は、なんとなく気持ちがわかった」
彼女はしたり顔で胸を反らせた。
苦虫を噛み潰した顔の僕とは対照的に。
「なんとなく銀世界に最初の足跡を付けたような晴れやかな気持ちですね」
「……言っておくけど、詩の魅力に取り憑かれたわけじゃないからな」
そうは言っても本屋で詩集の棚を目で追ってしまうぐらいには、僕は嵌められていた。
それは彼女と決定的な仲違いをした後でも変わっていない。
あれから三年――。
何故、今頃になってメッセージを送ってきたのか。
僕の連絡先やSNSのアカウントは彼女に教えていなかったはず。
そういう規則だったし、それを破ってまで連絡を取ろうとは思っていなかった。
彼女の方から会おうとする程度には、気持ちも落ち着いたのかもしれない。
それでも喉に刺さった小骨のように気にはなる。
当時の数少ない知り合いに聞き回って、ようやくホンボシを突き止めた。
『ああ、悪い。俺が連絡先を教えちまった』
『おいおい、個人情報保護法を知ってるか?』
『どうしてもお前に礼がしたいって言ってたぜ』
『どんな礼だか見当もつかない』
『まあ、気を付けろよ。アイツ、バカ高い空気清浄機を薦めてきやがったからな』
完全にマルチ商法じゃないか……。
僕は頭を抱えた。
ミサキと会う約束した日は目前に迫っている。
期待半分だった再会も今は不安しかなかった。
「お久し振りです。せん……、秋月さん!」
「久し振り。なんだか随分、雰囲気が変わったな」
駅の改札口で待ち合わせたミサキは今時の大学生といった見た目になっていた。
ブラウンのショートボブに襟のついた黒のミニワンピース。
正直、声をかけられるまで彼女だとは思わなかった。
ひとまず落ち着いて話ができるように近くの喫茶店に入る。
注文を終えて店員が立ち去ると、待ち構えたようにミサキが口を開いた。
「秋月さんはどうしていました?」
「仕事、仕事、仕事だよ。客先に常駐しているSEだから肩身が狭くて」
「えっ、そんなに忙しいんですか。ちゃんと休んでます?」
「まあ、残業は多いけど休みは取れてるよ」
ミサキがこちらの体調を気遣うように僕の顔を覗き込む。
上目遣いの表情に思わず勘違いしそうになった。
駄目だ、駄目だ、彼女はどこかで牙をむいてくるかもしれない。
気を抜かないようにコップの水をあおった。
「でも意外ですね。プログラムに詳しいようには見えなかったのに」
「就職先がまったくなくてね。未経験でも拾ってくれたことには感謝してるさ」
「転職とか考えていないんですか?」
「そんなこと考える暇もなかったな。やっと仕事にも慣れてきたところさ」
「やりがいをぶら下げられて薄給で酷使されてません?」
「それなりに給料ももらっているよ。使う暇がないくらいだ」
「それなら、これからは頻繁に呼び出しても大丈夫ですね!」
あ、コレ、アカン流れや……。
完全にカモとしてロックオンされてしまったんやないか?!
マズイで、矛先を変えへんと空気清浄機どころか絵画も買わされてしまうで!!
僕の思考はパニックになってエセ関西弁に支配された。
ぐるぐると考えがまとまらないまま無言の時が流れる。
ミサキは微笑んだまま僕を見つめている。
その時、天啓のようにひとつの閃きが舞い降りた。
――攻撃は最大の防御だ。
「そうだね。僕も話したいことがあるからね」
「えっ、本当ですか?!」
「儲け話に興味はないか?」
「は、はい? 聞き間違いかもしれませんが、儲け話って言いました?」
目をぱちくりさせて僕を見るミサキ。
こちらから金の話を持ち出すなんて思ってもみなかっただろう。
調子に乗った僕の舌が回り出す。
「新型ウイルスの感染拡大で興行や飲食業はどこも青色吐息。インバウンド消費も激減している。今、世界中で求められているものはなんだと思う?」
「特効薬ですか?」
「そう、ワクチンだ。そしてアマテラス製薬が開発に成功したとの情報がある」
「それって、すごい秘密ですよね」
「もちろんさ。だが、それだけじゃない」
声を落として彼女の耳に口を近づける。
彼女を本気で騙すつもりはなかった。
胡散臭い話を自信満々に語って彼女の方から身を引いてもらえばいい。
「僕はアマテラス製薬の未公開株を購入するファンドに一枚噛んでいるんだ」
「未公開株を買えるってことですか?」
「その権利を持っている。資金があれば、もっと買い増しもできる」
ミサキの目が訝し気に細められた。
僕の意図は正確に伝わったようだ。
後はゆっくり彼女自身に考えてもらえばいいだろう。
僕はお手洗いに行くと言って席を立った。
しばらくして席に戻ってきた僕は、ミサキの向かいに中年男性が座っているのを見て首を傾げた。
相席をするにしては店の中はまばらな客足だ。
もしかすると、マルチ商法のサポート役を呼んだのかもしれない。
一筋縄ではいかなかったかと落胆しながら声をかける。
「こちらはどなたですか?」
「おっと失礼、私はこういう者です」
差し出された名刺を条件反射で受け取った。
名刺の肩書きを見て一瞬時が止まった。
『アマテラス製薬 代表取締役社長 双木真澄』
「我が社の社名を耳にしましてね。お話に割り込むのは無作法だと思いましたが、少し話をさせていただこうかと」
待て、待て、待て、アマテラス製薬なんて会社、本当にあったのか?!
驚きのあまり何度も名刺と双木と名乗る男の顔を見比べた。
「どうしたんです? ちょうどいいじゃないですか。社長から話を聞けるなんて、めったにないチャンスですよ」
ミサキの微笑みに背筋が寒くなる。
「そうでしょう? ねえ、先生」
「三崎……」





