天国への教壇
2015年。少子高齢化を止めるため、日本政府は秘密裏に「ベンジャミン・バトン型生活による発育の改善」を目的とした施策を決行する。主人公・北村ハルヤを含む20名を対象に実験を行い、80歳の状態で生まれ、若返っていく新たな人類が生み出された。
次第に若返っていく体。発達していく脳髄。それらに順応できない心を抱え、20名は六年後の死に向かって人生を謳歌する。しかしその裏には、わが子を実験体とされた親たちの切なる思いもあり、事態は思わぬ方向へと展開していく。命の形は体とともに変化するのか? 時と共に変わるのか? 生と死を再定理するダーク系ラブコメディ。
時計の秒針が軋むみたいに、僕の節くれだった指がギリギリ鳴る。ランドセルの留め金を回すのにてこずっていた。滑る指先でやっとのこと留め金を回しきると、ふうと溜息をつく。これから日常が変わる、記念すべき入学式当日だというのに、僕には僕の当たり前がついて回る。それはどうやら、これから先もずっと続いていくように思えた。
いつも通りママに歯を磨いてもらった僕は、階段の手すりに体重をかけつつ、ママの手を頼りに、眼下に展開されている段差をよろよろと下りる。
やっぱりママはすごい。僕の行く先をはっきり見渡せる上に、手だってしっとりと濡れている。
僕とはどえらい違いだ…… 車だって運転できるし、重いものも持てる。その上、ブルーベリージャムの瓶のフタだって開けられる。階段を下りきると、廊下に設置された手すりにまた体を預けた。ママが僕を引っ張ってくれたから、ようやく前に歩いている感覚が得られた。玄関までたどり着けば、ようやく杖が手元に渡される。僕にとってこの杖は生命線だ――。
「筆箱持った?」ママが僕を訝しむのと同じくらい、僕だって僕自分が疑わしい。
「入れた気がする……」
「気がするんじゃだめ。今日から小学生でしょ?」
「ごめん、ランドセルの中見て」
「はいはい。……って、何コレ?」
ママが取り出して見せたのは、僕の筆箱ではなく、白色で奇妙なゴツゴツした物体。僕にはよく見えないが、ママにすらわからないのなら、僕ならばなおさらわからない。
だから「わからない」とだけ答えて、「筆箱は? あった?」
「あったよ。えらいじゃん」
へへ、と笑うと、その最中に咳き込む。痰が絡む。痰が絡んだ時はうがいをしろ、とママに言われてるけど、そんなちんたらしてたら入学式に遅れちゃう。ふと視界に入った白い鉢植えのディフェンバキアは、新しい葉を伸ばしたばかりだというのに、既に首を垂れていた。
喉の不快感をそのままに、ママの車に乗り込む。今年の春は少し寒くて、死にぞこないの桜がつぼみごと、ヴォギョヴォギョ落ちてしまってるらしい。
そのつぼみが朝露に濡れているせいで、ちょっとだけ路面が滑るから、気をつけなくちゃいけないねとママがハンドルを切る。そんなときに、僕はというと、見事にうつらうつらしてしまって次に目が覚めたときには――。
――教室にいた。
「起きろカスども!!」
おおよそこの世のものではないような怒鳴り声に、僕は飛び起きる。あたりを見渡すと、そこには色とりどりの服を着ている人たちが椅子に座っているようだった。ママの話を信用するなら、これがクラスメイトなる存在だろう。
「おっ、えらいな。お前が一番に起きたぞ。名前は……北村ハルヤだな」
目をこする。緑の壁の前に灰色の人影が立っていた。どうやら先ほどの怒声と今のねぎらうような声は、この灰色をした人影から発されたものらしいが。
「うん、起きたけどここは?」
「教室だ。お前らが勉強し、共に育ち、共に…… ってまだお前しか起きてないんだから、説明したって意味ねえやな。俺は無駄な説明はしたくなくてね」
彼はどんどんと床板を踏み鳴らしながら、僕のそばへとやってくる。そして僕の手を取ると、何やらつるつるとした、よくわからないものを渡してきた。僕は暫時、その物体を観察する。黄色をしており、透明なガラスのような部分が二つ。彼によると、これは“眼鏡”と呼ぶそうだ。
「……そもそも掛け方がわかんねえか」とまた彼は僕の手から眼鏡を乱雑に奪い取ると、僕の後ろ側から、その眼鏡とやらを装着してくれた。
刹那、僕は僕の脳髄から競り上がる混乱に巻き込まれ、目と耳と鼻と口、全身からゲロを吐きそうになる。クラスメートと思しき人々、その全員が年老いていたから。
ある者は点滴を打ったままで、体中が管まみれ。ある者は頭髪が一本も生えておらず、仰々しい機械に繋がれている。それと車いすで出席している人も多く、僕のように杖を突きながらでも、二本の脚で歩けるのはかなりレアなのだと思った。
だけどどうして、子供がいないのだろう。
「何コレ……」
「お前、鏡を見たことはあるか?」
「いや、無いけど。ママに鏡を見ることは禁止されてたから」
そう。鏡どころか僕がまだ幼い頃、亡くなった祖母の鏡を覗き込んだことがあり、すっ飛んで来たママからこっぴどく叱られた。
「そうか。お気の毒になぁ」
「どうして?」
「お前今、おじいちゃんおばあちゃんなのはクラスメイトだけだと思ってるだろ?」
「うん」
「ほれ、先生の鏡を貸してやるから見てみろよ」
「ええ、やだよ」
「は?」
「ママに怒られる」
プッ、と吹き出す音がした。顔を真っ赤にした先生が、嘲笑を堪えられずに吹き出したのだ。すると間もなく、まるでカラスのような笑い声が教室中に響き渡る。そのけたたましい耳障りな声で、クラスの何人かが目を覚まし、何ごともなかったかのようにまた眠りについた。
「いやほんと、そのナリでママって笑わせるよな。もう一回言ってみろよ、ママって」
「……どういうこと?」
「どういうことって、いや、そろそろ察しろよ。あ、脳みそは小学一年生なんだっけ」
まるで意図が掴めない僕を差し置いて、先生は教壇へ上がる。そして、そこに書かれた文字を読めとばかりに、バンバンと黒板へ手を打ち付けた。
「読めるか?」
彼はまだ笑いをこらえている。狐のようにとがった、切れ長の目で僕を見下す。
「読めない」
「じゃあ読んでやる。『ようこそ、ベンジャミン・バトンのみなさま』」
「どういうこと?」
なお僕が質問を投げかけると、彼はイラっとした表情を浮かべながら、眉をヒクつかせ、分厚いハードカバーの本を開く。隣の席に座ったおばあちゃんが、あくびと共に起きたので、お互いに小声で「おはよう」とだけ挨拶を交わした。
「うーん、この場合、俺は先生だから教えてやる義務があったような」
何をもったいぶっているのだろうか。黒板の方を睨めつけるかのように、僕らへは背を向けている先生。まるで僕らに興味などないみたいだった。
窓から降り注ぐ陽光が温かい。不思議とこの教室は無音に包まれていて、気のせいでなければ学校には僕らしかいないみたいだ。眼鏡を少し持ち上げながら、ゆっくりと目をこする。しかし眼鏡をかけ直した瞬間、視界の端に映った“僕の手”は……。
「ようするにお前らは今、子供だけどおじいちゃんだってこと」
老人の手だった。
できることなら今すぐ死んでしまいたい気分だった。何だこれは。僕は子供だとばかり思っていたけど、「このクラスメイトたちのように老人ではない」と思っていたけど、まるっきり僕も同じ状況だってこと。だけれど奇妙だ。僕の記憶が確かなら、つい先日六歳の誕生日を祝ってもらったばかりだっていうのに、なぜこんなにも老けているのだろうか。
「おお、パニクってるな」
「先生! 僕もう生きてたくない」僕はたまらずそう吐き捨てた。
「バカ言え! お前らに今死なれちゃ、俺だってただじゃ済まねえ!」
「そんなの知るか!」
「バーカ、死ね! いや、死んじゃダメだけど、ここにいる奴らのほとんどは、お前みたいに鏡を禁止されてないはずだ。つまり自分が老人だってことも、とっくに受け入れて生きてきてんだよ! お前みたいにホントのことを知って一分かそこらみたいな奴が、甘ったれたことを言うんじゃねえ!!」
先生ってこんなに乱暴な口調で喋るものなのか。とはいえ僕も完全に気圧されてしまって、二の句が継げない。
そしてとうとう、先生の怒声にクラスメイトの全員が目を覚ます。
「全員起きたか。手短に言うぞ。お前らは全員、ベンジャミン・バトンだ。つまりこれから小学六年生までの間、どんどん若返っていく」
「六年生になったら……どうなるんですか?」
低い皺枯れ声で、後ろの席のおじいさんが訊ねた。
「卒業する。この世をな」
「どういうこと?」僕はたまらず問いただす。
「……死ぬってことだよ」
教室内が騒然とした。
今の話が本当だとしたら、僕らはあと六年間しか、寿命が残されていないことになる。そして人生が逆行するかのように、若返っていくとも。
どう考えたっておかしい。クラスメイト全員、各々が慌てふためき、何人かは車いすから転げ落ちてしまった。僕だって例外ではないけど、体を動かすのが怖いから脳みその中だけで完結しているような感じだ。
「やかましい!!」
先生の一喝に対し、一人が怒声を浴びせる。
「当たり前だろ! もうちょびっとしか生きられねえとか、俺聞いてねえよ!」
「今聞かせたろうが!!」
めちゃくちゃだ。
「最後まで聞け! お前らは日本で数少ない被験体だ」
「被験体?」
「オツムが弱いからわからんだろうけど、この国は今『少子高齢化社会』という重大な危機に瀕してる。だからジジババには早く死んでもらわないと困るってワケ」
質問に答えないばかりか、あまりにもモラルに欠けた説明が続いた。
そしてそれはなおも続く。
「だがジジババになれば自分の子どもや孫、仕事仲間や余りある友人に執着して、死ぬのが嫌になってくるだろ。だから赤ちゃんの状態で、世の中とのつながりが一番弱い状態で死んでもらうことにした」
「お前らが六年間でやってもらうことは一つしかない。より多く子を孕み、孕ませ、産め。この実験がうまくいけば、やがては次世代の日本人全員に、このベンジャミン・バトン方式が適用されるんだ。俺にもがっぽりと金が入る。いいだろ? 喜べ。お前らの青春はこれから、もう間もなく幕を開ける」





