表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
イチョウの木  作者: マナブハジメ
中学時代
9/21

 終わりと始まりを一緒くたに含んだ春の匂いが鼻の先より後頭をすり抜けて、哀と喜を表裏に含んだ感情の切れ端を敏感に掠めていった。私の新たなクラスは賑やかな生徒で埋め尽くされ、男子生徒は生の気力に満ち溢れていたし、女生徒は顔立ちの整いつつあるものが何人かいた。始業の教室が一向に落ち着きを見せぬのは、一年の始まりがもたらす高揚によるものではなく、この室内で恒常化する日常の第一日目にすぎなかった。

 醜い脂肪を衣服の下にたんまりとため込んだ国語教師が、赤や黄や青や白のチョークを巧みに使いこなして、まっさらな黒板に彼の経験によって培われた思考の整理を理路整然と並べ立てた時、私は教師の美しさを知り、彼の板書をノートに書き写すことによってのみ私の授業は受動の充実を得た。そしてそのような行為は教師の思考を模写することと極めて等しく、私の教師に対する向き合い方は、ますます逆らいを知らぬ小動物への成り下がりを見せるのであった。

 しかしこのような反射の権威が疑問の幻影を燻らせることもしばしばあった。そのような疑念が薄く積もり始めた初夏の昼下がり、私のクラスは、かの美しき女性教師が教鞭をとる音楽の授業を受けていた。夏らしく白いシャツ一枚を肌に合わせた音楽教師は、私たちを束ねるのに苦労していた。私たちにとって椅子に座らぬ授業は授業として認識されていなかった。音楽の時間は合唱台にていつでも歌声を響かせられるようにしていたため、机とは無縁の授業であったのだ。

 私の新しい学級は内なるエネルギーを合唱に込めることを厭わなかった。私も元来歌うことは好きであったので、大きく歌った。クラスメイトと声を合わせることはとても清々しく、時には興奮を覚えるほどであった。しかしパートごとに分かれて行うパート練習が始まると、私たちの秩序は忽ち崩壊を見せ始め、崩落する陸橋のごとく、けたたましい散らばりと水しぶきを押し上げては灰燼へと帰すのであった。

 授業と無関係の話が盛り上がりを見せ始めても、音楽教師は我々を叱ろうとはしなかった。彼女はよほどのことがない限りその逆鱗を見せぬということは、友人伝いに私の耳にも入っていたのだが、これは彼女が意図的に用いた彼女自身の授業スタイルであったのだろう。だから私たちは、彼女の過去の積み重ねであるはずの授業スタイルを逆手にとることで自由に振る舞い、時にそれは度を越した。

体操着を腰まで下ろした背の高い女生徒が、そのルーズな衣服に合わせるようにふらふらと教師の背後に近付くと、「先生って胸大きいよね」 と白いシャツに浮かぶ二つの柔和な曲線を、あられもなく揉みしだいたのである。私の中では驚きに端を発した卑猥な興奮が陰に含まれては色めき立った。その衝撃ゆえに、私の網膜はこの時の光景を余すことなく覚えている。

女生徒の細長い指先が皺のない張り詰めた胸元に柔らかくめり込むと、羞恥と性欲と女とが含まれた曲線の質量が彼女の理性の制御を上回り、おおよそ対の造形をなす肉体とは思えぬほどに法則性なく上下左右と乱れて揺れた。そうして教師は「きゃっ」 とその手を振りほどき、開いてもいない彼女の胸元を必死に隠した。化粧の装いを見せない彼女の両耳はまるで紅をさしたかのようになめらかで透明な素肌を透かしていた。

「きゃっ」 と漏らした音楽教師の声は、生来男子に備わらぬ音の響きで艶めかしい沈黙をつくった。それは実に女性らしい反応であったが、孤高の気品と同列を成す教師の権威を失墜させるには十分だった。彼女は単なる女であり、この時ばかりは少女にさえ見えた。彼女の後ろで乳を揉んだ女生徒の方が、はるかに大人びて見えたのである。

 当の女生徒は無邪気に笑い続けて「あんたも揉んでみる?」 と私を誘ったが、私は首を振ることしか知らぬブリキのように彼女の誘いを断った。平静を取り戻すふりをした音楽教師が指揮を振るうと、私たちの方まで何かを取り繕うようなふりをして、残りの時間を消化した。合唱台の上で足を広げた私の視線は教師の胸より離れることはなく、私の音楽も他の生徒と同じく卑猥の肉塊へと落とし込まれたのであった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ