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純白の雪が膝下にまで積もった朝、ホームルームの開始が十五分程ずらされたのをいいことに、私は数人の男子生徒と共に外に出て雪玉を投げ合った。灰色の空を見上げると、相変わらず雪が降っていたが、その白さの一つ一つはあたかも何もない空気から生まれ堕ちたかのようにその源を隠し続けた。この曇天のいったいどこから白で白を覆ったようなこの純粋な結晶が出来上がるものかと私は不思議に思った。
ひとしきり雪で遊び終えると、手袋の存在は無意味に冷たさを増幅させるだけで、凍った水分に対して無抵抗なまでに私の手の平を晒し続けた。教室のストーブの前に手袋を並べた私たちは、同時に自らの手も温めた。すると私の右手はストーブの温かさよりもはるかに深みのある暖によって、優しく、そして柔らかく包まれた。
赤木さんはホッカイロを握った両手で私の右手全体を暖めた。「あったかい?」 という彼女の言葉に、「まあ」 と朴訥に応える私がそこにいた。それは透き通った氷柱が空気を含んで透明に濁ることに似ていた。私はまだ初の気泡に埋もれていたのである。それでも彼女が彼女の意思で私の素肌に触れた時、私の網膜は靄を帯びずに晴れ渡った。私は夏の夜より着実に前進していることをこの時に知った。
「今日一緒に帰らへん?」 と話しかけた赤木さんを見ながら、「なんで?」 と彼女が渡してくれた懐炉を握りしめつつ私は訊ねた。「だって、今日は雪積もってるから、部活ないやん」 という彼女の言葉に「まあ」 と私は照れながら返した。彼女はそれを了解の意と解したらしく、満足した様子で自分の席へと戻っていった。直後に担任が教壇に立ち、遅れた時間のホームルームを簡潔に取り戻した。教室の後方ではストーブの頭で熱せられた透明な質量が密度を落として蜃気楼に揺れていた。
給食を食べ終えた後の昼休み、私は通常この時間を運動場で過ごすのだが、降雪が激しさを増したために室内で退屈な時間を過ごしていた。私が限りある時間を浪費していることに落胆したのか、今宮という男子生徒が私を別館の図書室へと誘ってくれた。私が図書館に足を踏み入れるのは入学早々のオリエンテーション以来のことであった。
今宮は学業に秀で、スポーツの才能にも恵まれていた。彼は己の能力を見せびらかすような類の人間ではなかったので、今宮は頭がいい、ということを知っている生徒でも、彼の期末テストが学年一位の成績であることを知っている者は少なかった。私がこれを知ったのは、彼と点数を競い合っていた負けず嫌いの友人が「あいつには敵わん」 と洩らしたがためであった。その時一緒に今宮の点数も聞き及び、そんな点数を取るやつが本当にいるものなのかと、己の不出来さと比べることもせず驚嘆したのである。
さて、そんな明晰な頭脳を持った今宮少年は、図書館の二階へと脇目も振らずに到達し、まるで筋肉を鍛えるために存在しているのかと思う程分厚い書籍を鷲掴みにして奥のテーブルへと放り投げると、イミダスと言う味気ない背表紙がこちらに向かって倒れ込んだ。「とりあえず座ろう。椅子は座られなきゃ椅子じゃないんだ。お尻と接していなけりゃその機能を発揮できないなんて、スケベだと思わないかい?」 彼は大人の口調で幼く笑った。
今宮のことなので、どうせ難しい言葉を紙面に吹きかけられたインクの中より見つけ出しては、己の知的な回路を刺激し、彼の小宇宙のような頭脳の片隅に解けやすい形態を残したまま保存しておくのだろうと私は思っていた。しかし彼は小難しく眉を狭めることはせず、奇麗に切りそろえられた爪の丸みを、細く並べられた文章にあてがっては、トントンと小さく叩くのであった。
彼が開いたページの中では、性を含んだ文字の羅列が身をくねらすように艶めかしく蠢いてはその所在を見えにくくした。それは私の視力が弱りかけたというわけではなく、私の意識が誰も居ぬはずの背中より後方に分散してしまったがために、頼りない視神経が細りを見せたのが原因であった。私は散漫な視力の中で文章をとらえることを諦め、黒を強調した太文字を凝視することでその言葉の意味を推し量ろうと努力した。
今宮が開いたカテゴリーに含まれる言葉や漢字の一つ一つは、その内側に淫靡を閉じ込め、内より激しく叩き叫ばれることによって、その形態にも変化を与えて歪に傾き、魅力を孕んだ風に見えた。それは土の古墳が古の遺体を取り込むことによってその外装を己の思惑を大きく上回る形で終着を見ることと似ていた。
私はそれら一つ一つの漢字が、あたかも帯を解かれた長襦袢の衣を、静寂の最中で押し広げられては熱を込められるかのように、その文字の一筆一筆が一画ずつするすると解けて白い太腿を露にしていく様を脳裏で思い描いては小さく震えた。平静を装い始めた私の意識が太文字以外の文をとらえ始めると、女を含んだそれらの言葉を説明する文字の連なりはあくまで冷静を装うようにして、できるだけありふれた言葉を法則的に使いこなすことによってのみその性格を適確に表現するのであった。私は明らかに興奮し、なんら現実味を帯びることなく、しかし一方では、肉感的に私の奥底に触れたがるインクの吹き溜まりに息を上げながら、頭の中で一本の老木がありありと浮かび上がっては屹立を繰り返すのであった。
今宮はどのような顔をしてこの性にあふれた紙面を読み耽っているのだろうと隣を見やると、彼はまるで草色鮮やかになびき渡る丘陵の頂で、清々しさの化身と化した若木の透き通るような木漏れ日の中、体躯を伸ばして身体と精神とを駆け巡る、高尚な哲学に指先だけを深く浸して、水面の張力を遊びに引き込んでいるかのような若々しい落ち着きを放っていた。彼は私の隣にいながら、およそ私と似通うところは見当たらなかった。
私はしばらく今宮を見ていた。しかし彼には人差し指を唇にあてがうもともとの癖や、瞳の黒さの中にさえ、矛盾というものが見当たらず、顕微鏡下に覗き見た塩が正六面体を保って結晶しているように、化学の趣をもって静謐を貫いていた。そして、好奇に淀んだ私の視線を見透かしたように、「君は赤木さんと付き合っているのかい?」 と不意に訊ねた。「付き合ってないて」 と私が答えると、「ふーん」 と抑揚なく私の言葉を遠くに見過ごし、「でも、好きなんだろう?」 と彼は続けた。「好きやないって」 という私の言葉は彼の鼓膜から不適のレッテルを貼られて感情の熱を帯びたまま無意味に朽ちた。