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イチョウの木  作者: マナブハジメ
中学時代
6/21

 薄墨色の空に色彩の花が咲き、遅れてドンと夜が収縮した。その音は夜の上を歩こうとする者の尊大な跫音にも似ていたが、私の周りにそのような人影は見当たらなかった。私の傍らにいるのは赤木さんただ一人であり、私たちの周りを見知らぬ大人や子供が何度となく往復するだけである。清く流れる長良川のせせらぎに映る花火の景色も綺麗であったが、やはり、深く落ちた黒塗りの夜に、赤や緑や青の火薬が散りばめられる様子が、最も直接的に私の意識を集中させた。

 川辺に転がる丸みを帯びた石に座りながら、私と赤木さんはこの夜に浸った。途中で焼きそばとたこ焼きを買い、それらを二人で分け合った。調子に任せて一口で放り込まれたたこ焼きの内側から、口内を焼き尽くすほどの熱さを感じて、私が固まり身悶えた時、赤木さんは慌てながらも私の鞄からレモンティーを取り出し、その蓋を急いで開けて私に差し出した。

 私はすがるようにして差し出された紅茶を飲み、己を落ち着かせた。レモンの味ともわからぬ心地よい甘さが喉を通り抜けて肌触りよく腹に溜まった。「ありがとう」 とペットボトルを返すと、赤木さんの顔が正面に入り、心配そうに私を見つめる彼女の眉間のさらに中央に、何も映らぬ虚無の空白が張り付いているのを私は見た。それは、空白であり、空白ではない、と言ってもよいほどに矛盾に満ちた空虚であった。それは時として鏡面のように花火の明かりを写し取り、華やかな変幻自在を披露したし、時にそれは深海を寝床とする生き物のように得体の知れない暗さを見せた。しかしそれはすぐに彼女の大きな両目によって注意をそらされ、希薄化し、誰の目にもとまらぬように彼女の内へと閉じていった。私は所在なく自分の飲み物を口に含んで喉に流した。

 大玉の花火が漆黒の闇に枝垂れ柳の煌めきを残すと、長良川の花火大会は終わりを迎えた。結局初瀬は現れなかった。帰り際の屋台でかき氷を買った私たちであったが、人混みが一向に進まぬせいで、大して歩かぬうちにそれを食べ終えてしまった。相変わらず赤木さんはぎこちなく歩いたので、時折彼女は私の隣を離れて人の波にさらわれそうになった。

 私たちの周りを歩く男女がそうするように、私と彼女も手をつなぐことができたのなら、どんなにこの気持ちが解放されるであろうかと私は思った。しかし私にはそれができなかった。私が自然に手をつなごうと試みても、それはどんなに努力したところで不自然な行為に陥ってしまったし、それは努力している時点で自然な行為になるはずがないのだということに、その時の私は気付いていなかった。それでも私は努力を続けた。

私の手の甲が、彼女の手の甲に触れた時、緊張を伴ったいらぬ汗とともに、私の虹彩は過去に開かれ、瞳のわずかな裏側で、刹那の残像を残して素早く消えた。私は一瞬の静止画の中で、鋭利に尖った扇の輪郭を見た。その先端が私の網膜をかすめると、生臭い血液の代わりに、ぬるい乳白色の靄がかかって、それより先を曖昧に閉ざした。そうして私は、赤木さんと私とを繋ぎ止めるための努力を辞めた。苦痛とも快楽とも異なる、真っ白な脱力が私の肩から指先にほとばしり、私の隣には色味を失った無色の体温だけがぴったりと寄り添った。

 私が気付いた時には、赤木さんは彼女の細い指先で、私の裾をいじらしく握っていた。私は己に怒りを覚えて、情けなく彼女との会話に終始するにとどまった。私は己を恥じた。それより以降の彼女との会話は、いつまで経っても私の耳には残らなかった。


 季節が冬を迎えると石油の匂いが教室に満ちた。誰かが灯油をこぼしたらしかったが、それはすぐさま雑巾によってふき取られて薄く伸び、照り輝いた。ホッカイロが懐に居所を見つけ始めると、私たちの間では異性からそれを受け取り、すでに温かみを帯びた皺くちゃな懐炉を、机の下で握りしめるという行為が男女を問わずに流行りを見せた。私もその流行に便乗して、どのような思いで温められたのかもわからぬ異性の摩擦と鉄粉の発熱により、小さく灯った暖を得た。

 加納中学は合唱に力を入れている学舎であった。朝であれ、帰る間際であれ、生徒の歌声が廊下に響くのだが、私は他の男子生徒がそうするように合唱に対して不真面目な態度をとった。口をわずかにしか開けないか、あるいは全く開けないのである。それは必ずしも明確な意志を持つ抵抗ではなかった。現に私は教師の視線がこちらに向くと、大きく口を開いて発声を伴わない歌声を披露した。指揮者が腕を上げると一斉に足を開き、歌の姿勢をつくる様は、機械仕掛けの鳩時計のように正確なリズムを淡々と刻んだ。

 クラスの合唱に対して熱意を抱けない私であったが、それは私が音楽を嫌っているという意味ではなかった。あえて言うのであれば、私は音楽の授業が好きであった。しかしそれは純粋な好意ではなかった。音楽の授業と言う限られた時間の中でのみ、私の視界の真ん中では上質のシャツを肌に被せた女性教師が立っていたのである。彼女の存在と合唱とが同居した時においてのみ、私の好意は数列に並んだ同級生を軽々と飛び越え、声帯を振るわすことを厭わなかった。

 彼女の衣服は、いつも決まって胸のあたりで綺麗に皺をなくして、張り詰めた曲線の弧を描いた。それは男子生徒の間でたちまち噂になり、音楽の二文字は卑猥に歪められたが、彼女の澄みきった発声は、心を落ち着かせない男たちの間にも緊張感を忘れさせなかった。

 私は彼らと似たような立ち位置にあったが、私の視線は他の男子生徒よりもやや上にあった。私の視覚は彼女のきりりと釣り上った目尻を注視していた。明らかな二重が彼女の容姿から焦げ茶の瞳をくっきりと切り取り、宙に浮かせていたのである。それは力強く私の意識に語りかけ、容易いやり取りの内に気品の権威と結びついた。

 音楽教師が私の近くを通ると、大人の女性の匂いがした。それはきつくもなく弱くもないちょうどよい強さを保って私の鼻腔を通過し、鼻の後ろで絶として存在する髄鞘を目隠しのままに太らせた。これにより、教師に対する私の姿勢は反射の服従へとより一層近付けられたが、彼女のまぶたが押し広げられれば広げられるほど、私の意識は恍惚の絹に包まれた。

 彼女の匂いはイチョウのそれとは対岸に位置していた。それにもかかわらず彼女が傍を通ると、私の虹彩はイチョウの景色を張り付けた。それは私をひどく混乱させたが、やがて慣れた。音楽教師が私の視界で扇の光背を張り付けた時、私は得も言われぬ興奮を無自覚の内に覚えるようになっていた。


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