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イチョウの木  作者: マナブハジメ
中学時代
5/21

 中学へと進んだ私は加納と茜部の入り混じった教室の中で、窓枠よりわずかに切り取られた桜の花弁を遠目の中でぼかしていた。灰色の校舎に張られた長方形の白紙に釘付けになった私たちは、まず始めに自分の姓名を探し、続いて友の名を探した。暗い下駄箱に純白の登校靴を預けると教室へと歩き出し、初々しい眼差しをできうる限りに落ち着かせて錆色にくすんだ己の机を黙って探した。

小学時代の教師から引き継ぎがあったのか定かではないが、私と初瀬はまたしても同じクラス分けにはならなかった。おそらく彼と私が同じ教室の中で住処を得ることはもうないのだろうと私は思った。そのような憤りにも似た不満を水面下に説き伏せながら、担任の話に耳を傾けた私は、次第に教壇に立つ男の熱弁に引き込まれていった。「おはようございます」 と挨拶をしてから、彼は感謝の思いを忘れぬことの大切さを熱心に語った。純真に澄み渡った私たちにとってそれは洗脳に近い儀式であった。

 入学式が終わり、担任が教室に戻って来るまでの間、一人の女生徒が私の机の縁までやってきて、声を抑えながら「一緒のクラスになったね」 と真新しい制服の匂いを弾ませた。焦げ茶の木目に白く伸びる細い指から、紺の制服をたどって、私は赤木さんと顔を合わせた。彼女の名前は性別で分けられた五十音の並びの最前に位置していた。だから私は彼女が自分と同じクラスであることを知っていた。そこに感動は伴わなかったが、なぜだかこの一年はうまくやっていけるような気がした。彼女の笑顔が一瞬ぼやけて一つにまとまった。


 授業に慣れ始めると、世界が堕落したかのように下向きに垂れ下がり、偽りの重力に任せるままに、惰性のもとへと潜り込んだ。机に沈みこまぬための策として私は頬杖を覚えた。その姿勢で世界を斜めにとらえた私の視線は、円柱の美学へと昇華された新品のチョークに見入っていた。それらは分厚い教師の手中に含まれてはコツコツと美しく鳴いた。

 私はかねてより運動部に所属するつもりであったので、体験入部の全てを運動場で過ごした。初瀬と顔を合わせたこともあったが、結局私たちは別々の日に別々の部へと入部届けを提出した。私は相変わらずサッカーをすることを選んだ。初瀬は野球部に所属した。彼はもともと野球を習っていたのでその選択は予測の範囲の内にあった。

ただ、私は迷った。初瀬とキャッチボールをすることの多かった私は、野球に対する違和感が全くなかった。むしろ新鮮な空気を取り込むためにも、白球の下で三年間を過ごした方が充実するような気さえした。しかし私は最終的にサッカーを選んだ。そこには臆病に変化を撥ね退ける自分がいたのかもしれないし、やはりサッカーを好いている自分がいたのかもしれない。あるいはそのいずれでもないのかもしれなかった。

 梅雨に入ると教室に張り付けられた蛍光灯が明るさを増した。長雨は止む機会を見失ったかのようにわけもなく降り続いた。私は私の心の奥底が濛昧に沈まぬよう、努めて明るくふるまった。掃除の時間は箒片手に野球をして遊び、教師の気配に肝を冷やした。まだどこも汚れていない長袖の体操服に袖を通した赤木さんが、「私にも打たせてよ」 と私に向かって構えた。私は柔らかく乾いた雑巾を山なりに投げ、彼女は大きく空振りをした。

 部活がいつもの賑わいを見せるようになると、居場所を見つけたかのように油蝉が鳴き始め、眩しすぎる夏の季節が温度の上がったプールの水面できらりと光り、風の波紋が揺らめいた。七月に入るとようやく私たち一年生もボールに多く触れられるようになり、ゲーム形式の練習に参加できるようになった。私は待ち焦がれたかのように汗を流して土にまみれた。

 空白を多く残した期末試験が終わると、日々は夏休みを待つばかりとなった。返却された答案は、まだ人に見せられるものであったのだろうが、できるだけ人には言わないようにした。下校途中、初瀬とテストの話になったので、この時ばかりは、私の不満足だが勉強時間には正比例しているテスト結果を惜しげもなく披露した。笑うかと思った初瀬であったが、彼は溜息でこれに応えた。聞けば彼の期末結果は私の合計点数のはるか足元で低空飛行していたらしい。「大丈夫か」 と私が訊ねると「野球があるさ」 と彼は答えた。

 直射日光を避けもせず、シャツの襟を汗で濡らしながら、私は不変なる回転運動の中にいた。夏休み直前の教室の中で私の肩を叩くものがあったので振り向くと、暑さのせいか白いシャツの第一ボタンを控えめに外した赤木さんが「ねえねえ」 と言って明るく話しかけた。「一緒に花火行かへん?」 という、彼女の生温かい口腔から発せられた一言に、私の記憶は無防備にときめいた。私と初瀬は決定事項で、女生徒をもう一人増やすかという話になった。小学時代からの付き合いでもあるので「三人でもいいよ」 と私が言うと、少し考えてから「そっちがいいならいいよ」 と話がまとまった。

 正直なところ、赤木さんから誘われたのは意外だった。帰る方向が同じということもあり、私と初瀬と彼女が一緒に歩くという場面は何度かあった。何度かあったが、それは意図して訪れたものではなく、あくまでタイミングの話にとどまった。私が覚えている範囲では、彼女と同時に正門を出たという記憶は一つもない。

 しかし思い返せば彼女はよく私に話しかけるようにも思われた。それは女生徒と関わることの少ない私にとって、無記名の女子に話しかけられるということ自体が、ある意味特別な記憶であるからそう思われたのかもしれないし、彼女の少し高い女性らしい音域が、私に生来備わっていない欠落を補う形で、意識のどこかにそっと肌を触れ合わせたからなのかもしれなかった。


 八月初めの朝、青く澄み渡った空の深淵で、重く乾いた音が、湿度に包まれるようにしてドンと響いた。限りある空間の中で叩かれる和太鼓のように、その音は私の腹の中を掻き混ぜ、あわよくば私の胸の中心にまで這い上がろうとした。私はそれを拒むつもりはなかったのだが、その音塊は横隔膜の途中で剥がれ落ち、地面に落ちて蒸発した。

 昼前に行われた花火の試し打ちを耳に入れながら、私は部活に励んでいた。当日同級生に花火を観に行かないかと誘われたのだが、約束があるからと言って私はそれを断った。休憩時間に「誰と行くの?」 と仲間の一人が私に訊ねた。「アカちゃんだろ?」 と私が答える前に誰かが答えると、「お前ら付き合っとるの?」 という話になった。私が「初瀬も一緒に行く」 と言うと、「お前らほんとに仲がいいな」 という話になり、茜部の小学校を出たチームメイトもそれに大きく頷いた。

 練習が終わると我々と入れ違うようにして、野球部が練習の準備を始めた。運動場を使うのはサッカー部が午前中で、野球部が午後であるというのが、拘束力を持たぬ暗黙の了解であった。初瀬とすれ違った私は「また後で」 と言葉を交わした後、体育館と校舎とを結ぶ張りぼての屋根の下で、汗を冷やしてくれるはずの風を待った。

三段ほどの段差に腰かけてバドミントン部の声を背中に当てていた私は、なめらかなコンクリートに涼を覚えて時間の隙間を一人で過ごした。間もなく体育館内でお辞儀のあいさつが終わると、タオルを額に当てた赤木さんが現れ、私に話しかけた。彼女の髪先が汗に濡れ、黒さを増して固まっていた。

 野球部は練習の長いことで有名であったが、この日も初瀬はなかなか解放されなかった。打ち上げ花火の開始時間は予め決められており、その予定時刻が私たちのためだけに変更されるということはあり得ない。私と赤木さんはコンビニで買ったアイスクリームを食べながら野球部の練習を見ていた。バッティング練習の最中、打球が緑色に張られた外野のネットまで転がったことをいいことに、初瀬は私たちの近くまで寄ってきて「先に行っとって」 と帽子の爪先に隠れて詫びを入れた。「終わらんの?」 と私が訊ねると、横目でちらりと赤木さんの浴衣姿を目に入れながら「無理っぽい」 と彼は答えた。人混みの中で落ち合えるかどうかは定かでないが、初瀬をこの場に残したまま、とりあえずの待ち合わせ場所と時間だけを決めて、私と赤木さんは長良川の河川敷を頭に描いた。

 駅までの間、私は自転車を漕ぎ、赤木さんはいつかの夜のように、私の背中で言葉を囁いた。彼女は私の腰に手を置いて、「背が伸びたね」 と言い、何か言葉を続けたようであったが、彼女の話は風に吹かれるままに私の耳より後ろに流れて電信柱の丸みに消えた。会話が迂回することを私はもどかしく思ったが、彼女が私に預ける左右の手の平は、常に一定の力で彼女の軽やかな体重の一部を私のベルトに押し当てるのであった。

 駅の南口に自転車を置いた私たちは、そこからバスに乗り換えた。ほとんどバスに乗らない私であったが、この日の車内が普段より混雑していることはすぐにわかった。一人用の座席に赤木さんを座らせると、私はその隣で立ちながら、健やかに造形された彼女の眼鼻立ちをそれとなく見つめた。そうして平素とは異なる彼女の姿にしばらく見惚れた。

 彼女は一斤(いっこん)(ぞめ)に濃淡を織り交ぜながら描かれた花々が映える浴衣を美しく着こなしていた。生地に彩りを添えるべく写し取られた黄色い花弁が、所々でぼやけて、彼女の全体に優しげな輪郭を与えている。複雑に押し上げられた彼女の黒髪の下で、顎から首元に伸びるくっきりとした流線の骨格が、私の偏った視界の中で他の女性と彼女とを大きく隔てていた。

 車道の混雑のため、バスが全く動かなくなると、他の乗客たちがそうするように、私たちも次なるバス停を待たずして歩道に降りた。赤木さんは足元をカラコロと前進させ、不慣れに歩いた。安定さを欠いた彼女のぎこちなさが、私と赤木さんとの距離を縮めた。

途中でコンビニに立ち寄り、飲み物を買った。私はスポーツドリンクを選び、彼女はレモンティーを選んだ。一口飲んでから、私の使い古した肩掛け鞄に二つのペットボトルをしまうと、人の数はますます多くなり、橙色に照らされた屋台の連なりが、夏の夜風に祭りの匂いを織り交ぜた。


 

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