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夏が空に落ち着いた頃になると、金森は学校を休みがちになった。地域のスポーツクラブに所属していた私は、休日の朝になると毎週のように小学校のグランドに通ってサッカーの教えを乞うていた。お昼を過ぎたあたりで練習は終わりを迎えるのだが、その日はほとんど練習に集中できなかった。それは、私の視界が、木陰に座る清澄とした少女の姿をとらえたがためである。それからの私は、彼女のことが気になって、己の散漫な集中力を自制することができなくなった。
炎天が隅々まで行きわたるグラウンドは、立っていることが嫌になるほど蒸し暑く、油蝉の鳴き声は、静寂の余韻を知らぬオーケストラのように、趣なく無秩序に己の自我を響かせていた。汗を吸い続けた練習着が、これ以上重くならぬほど不快になると、ようやくグラウンドに「ありがとうございました」 という挨拶が掛けられた。練習が終わるといつもと同じように自分のリュックのところまで歩み寄り、お茶を飲みながら、チームメイトと昨日見たテレビ番組の話題で盛り上がった。そうしながらも、私の注意は終始木陰のもとへと向けられていて、少女がまだそこにいるのかということを探っていた。私が横目で見たとき、彼女はどこにも行くことなく、涼しげな一所に腰かけていた。彼女はその木陰が唯一生きていける居場所であるかのように、その場所を離れようとしなかった。
友人が昼食を求めてこの場を離れる頃になっても、木陰の下の少女はそこにいた。だから私は汗だくのシャツを袋に詰めてリュックにしまい、乾いたシャツへと着替えを済ませると、彼女のもとへと駆け寄った。周りの友人は一様に私をからかい、にやけた視線を私に集めたが、彼女が澄ました顔色を崩さなかったので、私はその進路を後退させることなく彼女の木蔭へとたどり着くことができた。
金森はタオルと水の入ったペットボトルを大切そうに手にしていたが、夏の絵画に住み着く被写体のように、一粒の汗も流していなかった。座っている彼女は器用に睫を持ち上げて私を見上げた。「大丈夫?」 と私が話しかけると、「大丈夫よ」 と彼女は答えた。それから彼女は「サッカーうまいね」 とか「すごく暑いね」 といったありふれた話を続けて力弱く微笑んだ。その間もチームメイトは好奇の視線を私と彼女に向けていた。その方向を一度見てから「気になる?」 と彼女が問いかけたので、「べつに気にならん」 と私は答えた。しかし彼女はゆっくりと慎重に立ち上がり、「少し歩かない?」 と首をわずかに傾けた。彼女の髪が揺れるのを見てから、私は「いいよ」 と返事をした。
金森と私はイチョウの森に腰かけた。この場所まではチームメイトの視線も届かなかったし、学校の敷地の中で、最も涼しく直射日光を遮っている場所もまたここであった。イチョウの森の内側は、蝉こそ鳴くが、それ以外は静かだった。「大丈夫?」 と私は先ほどと同じ問いを繰り返し、彼女は「うん」 と頷いた。「何しとったの?」 と彼女の横顔に訊ねると、「見てただけ」 と彼女は答えて、その後しばらく黙りこんだ。夏の音が間を持たせてくれたが、イチョウの老木は頑としてその景色を動かさなかった。私は自然と老木の裂け目に視線を固定していた。
「見たかったの。サッカーしてるところを、見ておきたかったの」 と金森が語りかけた時、私は幾重にも折りたたまれた木漏れ日の下、彼女の影が欠落していることにはたと気付いた。彼女の影を探す私の視線が最初に向かったのは、やはりイチョウの木であった。その割れ目の奥の奥に、もう一人の彼女が押し込められているのではないかと不安に駆られたが、彼女の影の欠落は、私の単なる見間違いであった。私は深く安心して彼女の横顔に舞い戻った。彼女はおぼろげにイチョウを見つめるばかりだったが、時折私の隣に顔を向けた。目が合うと彼女は視線を地面によけて心地よい間をつくった。
それから金森は年頃の少女に似つかわしい話題を切り出した。雑誌の話やファッションの話やネイルの話を楽しそうにしていたが、私にはピンとこない話の方が多かった。それでも私がぎこちなく相槌を打つと、彼女は砂浜の波打ち際ではしゃぐ白い気泡のように、細やかで刹那にしか残らない晴れやかな表情をした。話題が学校のことに移ると、私にもよくわかった。だから会話が弾み、笑顔が増えた。話は自然な流れで友人の恋模様へと発展し、実に馴染んだ表情で「私も恋をしたかった」 と彼女は呟いた。
彼女の言葉は同級生がため息交じりにつぶやく、大人になりきれない子供の戯言とは一線を画していた。彼女がつぶやいたその一言は、文字の連なりだけでなく、その表情や息の量の中にさえ、未来という概念が含まれていなかった。その言葉は欠落と言うよりは諦めで、諦めと言うよりは摂理に近い響きで私の鼓膜に残留した。
金森が己の美しさを偽ろうとする理由はまさにこれなのだろうと私は思った。自分の歩みが今にも止まりそうなことを彼女は知っているのだ。美しさを内に閉じ込めることで、今際の静寂に彼女を苦しめ、引き留めようとする様々な雑念を、丹念に取り払っているのだ。老木の底知れぬ影は彼女の半歩より近くに接近していたのである。陰の暗闇は待つことしかしない。だから動くことを辞めつつあるのは彼女の方であった。金森は「卒業式までは生きたい」 と私に言ったが、その声には息しかこもっておらず、夏の湿気と混じりあうのは忽ちであった。
夏に賑やかな蝉の声が一瞬の隙間に入り、静寂と余韻が入り混じった時、生温かな風と共に一つの疑問にも似た感覚が私の中で芽生え始めた。それは、陽に照らして完璧に隠しているはずの彼女の美しさが、私の前ではその全貌を現すことを躊躇っていないということであった。
それに気付くと私の鼓動は突如として脚光を浴び始め、私の身体は緊張の渦潮へとたちまちにして引き込まれた。好き、という二文字が私の中で浮かび上がり、輪郭を強め始めると、それは酸を纏った浅葱のリトマス紙のように急激に色合いを増していった。
自分の中に芽生えた感覚を視覚的に確認せねばならぬと思った私は、己の内心を悟られぬよう、微々たる動きを瞬時に連続させながら、金森に視線を合わせた。そうして私は彼女のくっきりとした輪郭を見た。見て終わりではなく、それは同時に私の中に立ち込める躊躇いという名のうす靄を遠い片隅へと追いやった。
私の緊張は彼女に伝染した。伝染してなお彼女は彼女の輪郭を薄めなかった。かくも女性とは強いものなのかと半ば感心する私とは裏腹に、彼女は凛としたまま沈黙の中に居場所を見つけた。金森の瞳は私の不安定な虹彩を映したまま動かなくなった。動いていいのは私だけだった。イチョウの森が風に吹かれてさざめいた。
私の脳裏では、あらゆる妄想が自制を忘れて駆け巡った。例えばそれは、彼女の三日月のような唇に口付するというものであった。しかし硬直した初な意識がすんでのところでそれら一つ一つの妄想を握り潰した。ぎこちない時間が二人の間でのみしばらく続いた。
さざなみが止むと、私は彼女の瞳が透明に透き通っていることに気付いた。彼女はこの瞬間に何かを望んでいるわけではなく、ただただ隣に寄り添うことだけを大切に思っている風に見えた。私の顔は羞恥の念に染まったが、金森はとても幸せそうな顔をしていた。
時折手と手が触れ合うと、彼女はいちいち下を向いた。私はいちいちイチョウを見上げ、この瞬間が永久に続くことを強く願った。
長い夏休みを挟んで学校は再開した。幾段にも続く四角い階段を一段飛ばしで上り終えた私は、久しぶりの友と挨拶を交わして席に着いた。私の目が金森を見つけると彼女はにっこり微笑んだ。そうして時計の針が進むように、小刻みに日々は流れて、教師が座る後ろにある、粗品のカレンダーが、ぎざぎざにめくられた。その間、彼女は、この教室に登校する日を徐々に減らしていった。
秋の色合いが深まる朝に、一輪の白い百合の花が机上に咲いた。肌寒い歩道の風に紛れるようにして、金森は私の前からいなくなり、私の隣に空白をつくった。この空白を埋めることは万物をもってしても不可能なように私には思えた。
私たちは彼女の葬儀に参列したが、その形式ばった行為のどこにも彼女の面影を見つけることは出来なかった。喪服を着こんだ教師が、ハンカチを握りながら浮かべる、泥のような涙を見ながら、私には彼らの悲しみが理解できなかった。どうして探さないのかと私は思った。こうしている間にも、彼女の残像は逃避し続けているかも知れぬというのに。額に入れられた彼女の痛々しい笑顔に本当の金森を重ね合わせることはどうしてもできなかった。だから私は探し続けた。大人は粛々と嗚咽を漏らすだけだった。
私の足は彼女の陰の内側へと向かっていた。残り火のような紅に染まる空の下で、イチョウの森は夕闇に紛れようとしていた。私はその思惑を阻止するべく、早足で石段を上り、頂に出た。金森がこの世界に留まるとしたらこの場所しかなかった。彼女が完璧に張り付けた陽の外装を取り払うことができるのは、唯一陰の肚の中だけなのだから。彼女は木陰の中でさえ口数を減らした。薄暗い木陰は彼女の美しさを見えにくくしたが、私の前ではその輪郭を隠さなかった。だからこの場は、私と彼女が再開するには最もふさわしい場所であった。彼女が彼女の美しさを惜しげもなく解放できるのがこの場所であるのだから。泥のような涙を流す大人の網膜から離脱することに成功した彼女は、必ず透明に微笑みかけてくれるであろうと私は信じた。その美しさを余すことなく私の胸に託してくれるであろうと、何かに取りつかれたようにして、私は盲目の悦にどっぷりとつかった。そうして私はイチョウの老木を見上げ、そして、絶句した。
黄色く染まったイチョウの老木は、例えようのないほどに美しくその景色を私に見せつけた。肩の力が抜け落ちた私の前に、ひらひらとイチョウの葉が舞い降りた。扇の輪郭がくっきりと闇に映え、膨張色を身にまとった大イチョウは、それ単独で陽を含んでいるようだった。そこにはもう金森の居場所はなかった。気付けば大木の下に散りばめられた、丸く小さい銀杏から放たれる、腐乱臭にも似たその独特の匂いがこの森を覆い尽くして、赤々と燃え盛る虚空へと立ち上っていた。そうして私は脱力しながら俄に悟った。
ついに彼女は黄蘗色に化粧した深い老木に籠絡されてしまったのだと。
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