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イチョウの木  作者: マナブハジメ
大学時代
21/21

21

 十一月の間に早稲田大学と慶応大学の法科大学院に合格した彩香は、大阪大学の結果を待つだけとなり、十二月の中旬に結果が発表された。すでに二つの大学から合格をもらっている彩香は、心に余裕があったのだろう。私と一緒に結果を見た彼女は、見事に合格していた。

 この時私は、彩香のことを眩しく思った。そうして私は、初めて彼女と出会った時のことを思い返した。欅の木漏れ日が縦横無尽に駆け巡る中で、少女の花貌が斜めにあり、小さな顎からこめかみを結ぶ鋭い曲線が、影を孕んで洗練されて、彼女はほとんど置物のようであった。そんな少女を遠くに見つめることしかできぬ私は、あらゆる記憶を頼りに彼女に性格を与え、声を与え、笑顔を与えた。彼女の在り様は未知であるぶん自由自在に変化した。

 彩香と付き合うようになってからもその印象に変化はなかった。彼女はよく笑い、時には無口で、時には情熱的だった。それらの移ろいをことごとく愛した私の精神は、紙粘土をもてあそぶ子供のように弱体したが、仄暗い部屋の内装は空言のように色を纏って明るくなった。

 黄緑のカーテンは陽を浴びずとも明るかったし、低反発の桃色のスリッパは、私一人でいたなら選択されぬという意味で、同棲の色合い艶やかに私の心を弾ませた。彩香はオムライスを作ると、卵の黄色にケチャップで何事かを描くのだが、その不慣れな赤の気まぐれに「失敗した」 とか「今日は成功」 など一喜一憂して小さな食卓を幸せで満たし、私はますます彼女なしでの生活を想像することが困難になっていた。彼女はほとんど私の未来の一部であった。

 しかし私は決意していた。これ以上彩香といることは、おそらく私を、さらには彼女をも不幸にするであろうことを私は予感していたのである。イチョウの影響下を未だ脱していないことに気付いた私の応対は、驚くほどに冷徹であった。どれほど幸福に満ち足りた過去であっても潔く切り捨てる残酷は、過去の教訓、あるいはそれをも上回る自愛の極致によりもたらされているのだろう。私は過去に多くのものを失いすぎた。負い目にも似たその種の感傷は、慣性の名の下に喪失したかと見せかけて、私の隣に安住していたのだ。

 罪の侵食を防ぐためにも私は私を守らねばならなかった。私にとって、彩香を失うことは未来を失うことと同等で、しかし彼女の紛失は連綿とした過去から紡ぎだされる逃れようのない必然であった。だからこそ私は己の決意で未来の一進路を断とうと決心したのである。老木の呪を私は呪った。

 師走の寒空に手を繋ぎ帰宅した私と彩香はいつものように夕飯を食べ、いつものように時間を過ごして別々にシャワーを浴びた。私はドライヤーで乱暴に髪を乾かしながら、彼女との別れを探っていた。私はできるだけひどい仕打ちをしたためて、別れ話を切り出そうと考えていた。そうでなければ麻薬のような彼女の存在を引き離すことは出来ぬと思ったからである。

本心を言えば、私は彩香と別れたくなかった。しかし、内定により物理的にも恋愛が色褪せていくことを予感していた私にとって、この時が一番の別れ際なのだと自分に言い聞かせることは、己の決心を鈍らせぬための最善の策であった。

 風呂上がりの上気した彩香の顔が私は一番好きであった。それはその恍惚にも似た表情が、この後の時間が何もない睡眠に落ち着いてしまうのか、それとも生臭い愛の抱擁にかわるのか、そのどちらが待ち受けているのかという、期待と、落胆と、恥辱と、平凡が、綯い交ぜになった、複雑な美しさを私に見せつけるからに他ならなかった。

そんな彩香の表情をさも平淡に裏切って、私は抑揚のない声色で別れ話を切り出した。私の身体は熱線に絡めとられたかのごとく灼熱の痛みがほとばしり、その窮屈な悲劇の中で、私の冷酷な頭蓋だけが彼女の顔色を見つめていた。別れを決めた私の網膜に少女は一段と美しく、くっきりと揺るがぬ彼女の輪郭が扇の木の葉と重なり、はらはらと舞った。私は待ち惚けのようにその景色を見つめるばかりで、泣いているのは少女であった。

 少女は激しく抵抗した。現実を捻じ曲げる彼女の努力は熱烈であったが、走光性の運命に抗おうとする蛾のように、その行為は無意味であった。目尻の皺を一段と深くしながら、彼女はなかなか納得しなかった。少女は泣き叫ぶようなことはせず、純粋な涙に私の本心を写し取ろうと試みた。もしかしたら、彼女がなかなか引き下がらぬのは、この時すでに私の本音を見出していたからなのかもしれない。しかし私の方も引くに引けなかった。

 私の冷酷が、少女の努力と、未来と、希望とが、丹念に綴られた薄汚いノートを引き裂いた時、彼女はぴたりと呼吸を止めた。そうして少女は私の目を見て一刻も揺るがず、私の喉が起伏した。

虹彩の穴の奥に何があるのかを懸命に探した少女は、すぐに解を得て私の足元にすがりついた。私はさらに、小さなテーブルの上にある六法全書をも乱雑に放ったが、彼女はそれに見向きもせずに、小柄な胸を私の太腿に押し当てるばかりで何の関心も払わなかった。

 私は少女の全てを否定したつもりだった。彼女の懸命な愛を拒絶し、柔和な快楽の熱情を黙殺し、泥臭い努力の記録を安易に引き裂き、澄明な知性をさも軽々と投げ捨てたのだから。これで十分だろうと私は思った。無力な裸体に成り下がった少女に、いったい何が残るというのか。全てを剥ぎ取られた少女に、いったい何が残るというのか。私は何も望まなかった。ただひとつ、私と別れることを除いては。

 私は彼女を見下げて黙り、彼女は私を見上げて黙った。私の影が少女を覆って弧線の瞳がほのかにくすんだ。彼女の目が濡れているのがよく見えた。短くて長い沈黙の後に「うちにはあんたしかおらへんの」 と少女はつぶやき、彼女の元には私が残った。私だけが残っていた。邪な思惑から始まる長い歳月の中で、私は少女を籠絡していた。

 このあと、私と彩香は二人の関係を話し合った。彼女は遠距離恋愛が苦でないことや、彼女には私しかいないなどということを熱心に語り、「あなたも同じはずよ」 と同意を求めた。私はもはや己の本心に従順にならざるを得ず、彼女の話にいちいち頷き、終いには華奢な少女を抱きしめていた。彩香は私の腕の中で泣きながら笑い、その器用な表情の加減に女を見たとつくづく思った。私はやけに冷静で、後悔などはひとつもなかった。

黄色い月夜の深みの中で、私は彩香を抱きしめ続けた。


 銀鼠の雲間から時折のぞく浅葱の空は、雪解けに堕ちた水滴のように麗筆で、両手の人差し指と親指とでつくった四角い額が切り取る世界は、細々とした美しさを最大限に誇張して、私の網膜を逆さに通った。手を伸ばせば届くような風の流れも、小汚くまとめられた駅前の賑わいも、全てはまるで嘘のように景色にあって、しかし額に入らぬこれらの営みは平等の重みを与えられたまま私の外に沈んでいった。

 岐阜に帰郷した私を出迎えた母は、喜びを押し殺すように静かに笑って「おかえり」 と一言述べた。私は何もしゃべらず玄関をまたいで靴を脱ぎ、居間の片隅に荷物を置いた。多くを語りたがっている母の心情に勘付きながらも、私の唇は真一文字に触れ合って、母の期待を押し殺し続けた。母は諦めて台所に立ち、まな板の上で大根を切った。

 後姿だけとなった母の髪には白髪が混じって老いが明らかだった。それは生きる必然というよりは痛々しさの結晶で、私は激しく後悔をした。老衰した後れ毛の塩梅が、畳のにおいと混じって私をとても寂しくさせた。その景色に母の死を見たとは言わない。しかし彼女は、目に見えて若くなく、目に見えて孤独であった。だから私は、この家に帰ろうと強く思った。

 炬燵の上に置かれた蜜柑を見ながら、私はいつかの夜を思い出した。熱を出して寝込んだ夜である。あの時の私が、林檎ではなく蜜柑を選んでいたなら、私の今は異なる景色を私に見せていたであろうか。例えば、蜜柑の果実が潰れて弾けて、酸味ある果汁が舌の味覚の一所を刺激するように、私の未来の異なる部分を橙色に色めかせてくれたであろうか。そしてその酸を纏った流麗な液体の中で、私の過去を溶かしてくれたであろうか。揺るがしがたい過去の存在は変えられぬという意味で不完全であり、変わらぬという意味で完全であった。

 古めかしいストーブが灯油を燃やして部屋を暖かにしている。時折灯油の気泡が音を立てるストーブの上で、曲がった空気が陽炎のように朧いだ。現実の歪曲の中で、金森や初瀬や赤木さんが引き裂かれるように微笑んで、それら悲愴と穏やかが複雑に入り混じった幻影の曖昧は、ともすれば私に対する恨みや憎しみであったのかもしれないし、嫉妬や憧れであったのかもしれないし、友情や愛情であったのかもしれない。私は彼らの未来を奪って大きく育っていたのだから。

 翌朝、焦げ目のついた餅の二つ入った雑煮を、母と二人食卓につき、黙々と食べ終えた私は、雪の積もった道を歩いた。加納小学校の赤門を通ると、景色がほとんど錆つかず私の記憶と共に残っていること嬉しく思った。あの頃と何も変わっていなかった。運動場の土の色も、サッカーゴールの破れた加減も私の身体にぴたりと落ち着き、低く垂れこめた雲の具合までもが、私の帰りを受け入れている風に見えた。イチョウの森を私は目指した。

 重ね合わさった枝の複雑に雪の白さを拒んだ頂上は、土のにおいが鮮烈で、微生物の生と死を踏みにじって立ち上がる私の視界に、かの老木はそびえ立っていた。褐色に太いイチョウの根元に腰かけた私は、ポケットの中からライターを取り出し、かつて父がそうしたように、かじかむ指先で焔を灯した。

 楕円に揺れる先端の不安定を見つめながら、私の頭には瑠璃色の夜が忌まわしいほどありありと浮かび上がった。私はほとんど絶句した。しかし、彼の問い掛けに答えぬわけではないとも思った。私の中で父は枯れ、「お前は誰だ」 と問いかけた。「私はイチョウだ」 私は答えた。色気のない風景に、私の吐く息が透明に上昇した。青と銀朱の炎が所在なく揺らめいた。私は私の未来を思った。


最後まで読んでくださった方、お付き合いくださり、ありがとうございました。

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