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イチョウの木  作者: マナブハジメ
大学時代
20/21

20

 大学三年の冬に入ると、私は就職活動を始めねばならなかった。私がこれに後ろ向きな思いを抱くのは、小松彩香とすごす時間があまりにも幸せすぎたためである。私は大学時代のほとんどを彼女とすごした。

海遊館を訪れた時の彩香は蒼い水槽に手を差し出して、魚の動きを見つめていた。私はその後ろに立ち、分厚い硝子にくっきりと映る彼女の顔に見惚れていた。彼女の笑顔に魚が視線を背けると、なめらかな水中で光が曲がった。揺らめく光の中で、彩香の黒髪が翻り、私と彼女は手をつないだ。帰りに寄った観覧車の中で、私と彩香はキスをした。彼女は少し、震えていた。

 そんな記憶に浸りながらも、やはり私は就職活動をせねばならなかった。時世は深刻な不況であり、外資系投資銀行が軒並み立場を危うくする時分であったので、私たちの間では、鉄道だとかエネルギーだとか総合商社だとか、そういう社会基盤を支えるような企業が人気であった。

 面接に臨むにあたって自己分析が大切だという噂を耳にした私は、すぐにそれを実践しようと試みた。しかし私にはそれができなかった。自己を見つめることがどうしてもできなかったのである。長方形の鏡に映る見慣れた外装を目にすることはああも容易い一方で、己の内側に踏み入ることがこれほど困難であることに、私は閉口せざるを得なかった。

 私は明らかな不均衡の中にいた。私は独力で過去をこじ開けることができないでいるのだから。過去が景色を含むのは、その自発によるもので、私の意識とは無関係なのである。これは自身の主導権を私そのものが握っていないことをものがたり、私はただひたすら不安になった。

 するべきことを見失った私は、白く小さなテーブルの上で、法科大学院へ行くために黙々と勉強している彩香に救済を求めた。すると彼女は、「じゃあ、お互いの長所と短所を言い合いっこしよっか」 と提案した。彼女の無邪気は大麻のようだと私は思った。

私は彩香の人に流されない性格を褒め、メニューを開いてから四、五分は悩み続ける決断力のなさを短所として指摘した。次は彼女が私のことを指摘する番であったのに、彩香は私の後ろを見たまま唇を動かさなかった。いつものことだと彼女の態度を受け流しかけたその時に、「不思議やね」 と彼女は言った。

「時々強引で、そやかと思うと意気地がなくて。時々陽気で、そやかと思うとへこんどる。優しい時はとことん優しいくせに、冷たい時はとことん冷たくて、うちはときどき怖なんねん。この人ほんまにうちのことが好きなんやろかって。全然ちゃうもんを愛しとるんやないやろかって。でもな、これは多分やねんけど、うちはそういう危うさみたいな何かに惹かれてるような気がすんねん。自信はないけど、でも、そんな気がすんねん」

 私は彼女を抱きしめた。テーブルが傾き、消しゴムが落ちた。彩香の髪が床に零れて扇の形に広がった。私は彼女を覗き込み、彼女は私を高々と見上げた。彼女の声はかすかに響き、しかし私の自我には届かなかった。薄白い光が月のように部屋の中央にあり、私の影は彼女を覆った。彼女は動きを失って、動いているのは私だけ。許しを乞うような彼女の瞳が、私の夜を太くした。


 四月に入ると怒涛のように面接に追われた。この途方もなく忙しい期間、彩香は私の家に泊まり込み、私が帰宅する頃には夕飯を作って待っていてくれた。私はそのことが純粋に嬉しかった。疲労に鞭打たれた私の身体は、彩香の温もりにより活力を得て復活し、彼女はますます麻薬のようだと私は思った。

 面接の方はというと、これはほとんど苦痛でしかなかった。特に、地元について聞かれると、私は何も答えずに、面接そのものを諦めるようになっていた。結果はそれにともなってからきし駄目で、逆にそのことを彩香は密かに喜んだ。

彼女は大阪大学の法科大学院に進む予定で、私が就職のため意図的に浪人すれば、一緒にいられる時間が長引くからである。彩香は一言もそんなことなど口にしなかったが、自虐に満ち溢れたこの時の私の精神が、そう錯覚するのは無理ないことで、当然のことながら、そんな彼女の幻影を私は憎んだ。

 次第に私の就職活動は、彩香の期待を裏切る悦と重なって、私を突き動かした。面接の苦手な私であったが、一社だけ例外があった。その企業の面接では、私は過去を綺麗に思い出すことができたのである。そうして私は唯一この企業だけから内定を得た。中部電力であった。


 すでに単位が揃っていた私は、大学で過ごす全ての時間を彩香とすごした。彼女は私がいることもお構いなしで勉強に集中し、そんな彼女の集中力を私は羨ましく思った。大学に近いからという理由で彼女は頻繁に私の家に泊まった。派遣のアルバイトで私がいない間は教室で学友と学び合い、夜になって帰宅する頃になると、彼女は石橋駅界隈で私を出迎え、部屋の扉を一緒にあけるのである。私の白いテーブルは、彼女の努力と、未来と、希望とで皺くちゃになった、分厚い書物で埋め尽くされた。

 夏休みの間も大学は機能していたので、昼食は四階食堂でとることが多かった。夏の暑さも蝉のうるささも、これが豊中で過ごす最後の夏なのだと思えば少しも不快ではなかった。阪大坂の途中で無残に潰れた油蝉の死骸も、透き通る翅を持つツクツクボウシのおかしな鳴き声も、それらは全て景色に馴染んで私の足裏と一つになった。歩くたびに私は、高校の時代に祈った、逃避の願いが今ここに実現されていることをひしひしと味わった。

 四階食堂で唐揚げ定食をたのんだ私は、窓際に座って外を眺めた。湿った風に吹かれるたびに木々の緑が輝いて、新築の校舎は一粒の穢れも纏わぬままに天空の下で陽を浴びていた。時々煌めく窓の硝子は、手垢の一つも許さずに、潔癖を貫き内側を透かした。その先に見えるのは、冷やかに曇った階段の連続だけであった。

 私の前に座る彩香は当たり前のようにノートを開いて、細く硬いピンクの色をしたシャープペンシルをせわしなく動かしていた。唐揚げ定食を食べ終えた私は、金赤のお盆を端に寄せて、いつもなら鞄から本を取り出し読むのだが、この日はそれを家に忘れてきたのですることもなく、仕方がないので壁に掛けられた大画面のテレビを見た。

 テレビと言っても民放が流されているわけではなく、サークルの宣伝だとか、イベント告知だとか、学長の話だとかが、繰り返し流されるだけの画面であった。しかし今まで私はこの薄い画面にそのような繰り返しが流されていたことを知らず、その内容を一つも把握していなかった。この時私は、見ようとしなければ世界は容易に姿を隠し通せることを知ったのだ。この世は案外器用であった。だから私の驚きは壮絶で、絶望に変わるのは忽ちであった。

 画面は厳かな学位授与式を映し出していた。黒に青い筋の入ったガウンを羽織った、おそらくは博士課程を修了するのであろう人々の頭上には四角い帽子がのせられて、それとほとんど変わらぬ姿をした学長が、気品ある光に包まれて壇上に立っていた。私はこれこそ大学であると思い、目を丸くした。

暗い会場の最中で、ステージ一所だけにくすんだ明りが厳かで、その静謐や、緊張や、内にひた隠しにした喜びが、ことごとくアカデミックであり、私が今いる豊中キャンパスや講義を聴いている五番教室は、その風合いの埒外であった。私は大学の外にいたのだ。ならば私はどこにいたのか。この四年という長い歳月を、一体どこで過ごしてきたというのか。

 画面の中で話を終えた学長が礼をした時、それは姿を現した。堂々たる大阪大学の象徴は、ふてぶてしさの欠片も見せずに男の背後に潜んでいたのだ。私はこの世界を激しく憎んだ。そして、それに気付かず今まで過ごしてきた私自信を憐れに憎んだ。私の虹彩を鮮烈に突き抜けた学章は、扇の輪郭くっきりと、イチョウの葉っぱを描いて幕の中央に蔓延っていた。私はどこからも逃げ延びてなどいなかった。私の時間はイチョウの肚中にあったのだ。


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