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後期が始まると法経棟で授業が行われるようになった。今までの時間割は一般教養が全てを埋めていたために、自分が経済学部生であることをほとんど意識しなかった私も、この時からようやく己の所属を自覚するようになった。
法経棟で一番広い教室は五番教室なのだが、この大きな空間には机や椅子やカーテンや黒板に至るまで、洗練された美しさというものが幽かにもなく、しかしそういう陳腐な装いが広大な空間に統一されていることで、かえって威厳の風合いを身につけて学び舎としての地位を誇示しているように見えた。「ここが大学だ」 と思った私は、競技場のように配列された座席の上から教授の授業に聞き入った。
教室が変わればキャンパスを歩く道筋も変わって来る。だから私は豊中キャンパスの異なる景色に触れることで、大学の奥深さを知るように感じた。中でも特に私の目をひいたのは、経済学部生向けの見慣れぬ掲示板に張られた、背赤後家蜘蛛への注意喚起だとか、上回生がたむろする校舎の間の小道に生える植物の、深く垂れこめた緑の影だとか、そういう定型と不定が明瞭に区分されている景色ではなく、欅の隙間に萌葱の木漏れ日を浴びながら絵筆を摘む華奢な少女の滑らかな筆先と、真四角に張られた亜麻のカンバスであった。
私が初めに注意を惹かれたのは、欅の下で油絵を描く少女を含めたその景色全体であった。おそらくそれはそのような風景が大学のそこかしこに点在しているわけではないために、私の記憶に印象深く残ったのだろう。そしてその風景は、ただの丸太が、険しい彫刻刀により切削されることで、一個の作品に仕上がるように、私の網膜、あるいは嗜好の偏見により、余分な景色が削ぎ落とされることで、絹のような輪郭を持つ少女だけを浮き彫りにした。
少女のいる景色に対して何も思わなかったと言えば嘘になる。私は彼女を他の生徒と同じように見ることが、どうしてもできなかったのだから。なぜなら彼女は驚くほどに金森の面影と酷似していた。いや、私の内面では、もはや彼女は金森だった。
晴れの日も曇りの日も少女はパイプ椅子に座って絵を描き続けたが、雨の日は傘の色とりどりに絵の具を奪われたかのように、彼女はどこにもいなかった。不安に思った私は「いつもの子、おらへんね」 と藤村に話しかけた。「いつもの子って?」 と訊ねられた私は、「いつもあそこで絵を描いてる子のことやて」 と雨に降られる欅の下を指差した。すると藤村は、「ああ、小松さんのことね」 と不意に固有名詞を口にした。
意外なことに、少女と藤村は同じ高校を卒業していた。驚く私を尻目に彼は、少女が法学部の学生であることや、すごくマイペースな性格であることを話して聞かせた。私の心は出し抜かれたように寒くなったが、彼はそんな私の変化に気付かず、垂れた瞳を小憎たらしく輝かせていた。彼の眼は雨粒のように水気を増した。歩道に溢れた水溜りが逆さの空を輝洸に揺らし、彼の表情の生きた加減が私の傘を暗色に照らし続けた。
藤村を介して小松さんと知り合った私は、よく三人でランチを食べた。私の向かいでは彼女と藤村が並んで座り、私はいつも一人であった。藤村は席につく寸前まで私の隣が空白なのを気にかけて、どこかぎこちない表情を見せるのだが、彼のそういう無罪の優しさが私の自尊を傷つけた。
しかし私が彼を嫌いにならぬ理由は、その気遣いが彼の本質であることを知っているからであり、それゆえ私の嫌悪は消化しきれぬ吐瀉物のように、醜い形で私自身にはね返ってくるのであった。
ある日私は小松さんを二人だけの食事に誘った。返信メールを待つ私の身体は、緊張にときめいて胸の内側が細かく震えるのを私は感じた。彼女は短く「いいよ」 と答えた。
バイトを早く切り上げた私は梅田で彼女と落ち合った。木枯らしの通り過ぎた夜の下で彼女のチークがほのかに赤く、私の心は沸き立った。人波に浮き立つ彼女の横顔が私を見つけると、少女は口角を押し上げて控えめに微笑み、私の隣に駆け寄った。
歩きながら私は藤村を思った。背の低い小松さんと並んで歩いて初めて私は藤村の表情の真意に気が付いた。左利きの彼が腕をこわばらせて食事をとるのは、少女の腕に触れぬがためで、神経質に私の目ばかりを見てしゃべるのは、己の好意を目の裏側に発露させぬためであったのだと私は思った。彼が私の空白に戸惑うのは、その潔白の純粋に、彼の潜めた恋心が映らぬよう陰鬱に願い続けているからに他ならなかった。
それでもやはり、私は藤村を嫌いにならなかった。いま小松さんが私の隣にいる限り、彼のことを嫌いに思うはずがなく、なぜならそれは、私の至福が比較の重みで推し量られているからに他ならず、これを許容することが私に課せられた課題であるのだと大袈裟に考えてみたりもした。つまり私は自分自身を過保護に育てた。だから私は己の実寸に気付くのに果てしない時間を費やしているのかもしれない。少女の肩が私に触れて、月下の夜が鉛のように煌めいた。
イタリア料理の店に入った私たちは、パスタを頼んで、ピザを分け合った。会話の途中で店内が暗転すると、ミラーボールが螺旋の光を縦横無尽にして、誕生日を祝福する音楽が流された。四人掛けのテーブル席で祝福される女性客は、口元を手のひらで覆って喜びを表した。私は彼女の唇が笑っているのか、あるいは意図した祝いを嘲笑っているのか、どちらなのかを考えた。そうして赤の他人に拍手を贈り続ける私の視線と彼女の視線が交わった。
彼女の瞳を、複雑に回る光の中で見た私は、栗色に流れる髪が綺麗だとか、透明感のある肌が美しいだとか、そういう感想を抱くより先に、黒く縁取られた目尻の鋭さや、棘のように乾燥した、ささくれとも見える髪先が目に入った。そうした彼女の繕った美意識が不用意に綻ぶさまは、虚構の崩落そのままに、しかし破片となって形を自由にし、再び虚構を積み重ねているように見えた。彼女はまさしく女であった。
小松さんに視線を戻すと、彼女の黒髪は艶やかに美しかった。小松さんは「素敵やね」 と微笑んで、最後のピザを私に預けた。それを食べ終えた私の下に伝票が置かれて、男性店員が背を向けた。お支払い額、と書かれた小奇麗な紙面を見つめた少女は、「おいしかったね」 と半分の金額を差し出した。私はもう半分を差し出して、会計係に手渡した。別れ際の夜の片隅で私の過去が微かに開き、次に失うべき友の陰影に切なさを覚えた。まだ辛さを味わうことのできる己の良心に、私はひどく安堵した。




