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イチョウの木  作者: マナブハジメ
高校時代
16/21

16

 文化祭当日は紺碧に晴れ渡り、東洲斎写楽の浮世絵を模した果てしない横断幕が校舎にかけられ、それと並列で筆された、白梅祭の三文字が、蝉の賑やかに活力を得た。ちょうど垂れ幕の範囲に入った私たちの教室は、風が入らず熱がこもったが、私はそれを不快と感じず、むしろこの学舎で過ごす最後の夏が始まったのだと感慨深げに団扇を扇いだ。

 開幕式が終わると、カーテンが開き切らずにまだ暗さの残る体育館を駆け抜けて、自主制作映画のビラを撒いた。そのあとすぐに、体育館下の土間へと急いでダンスの準備に奔走した。女生徒たちはいかにも夏らしい浴衣姿で祭りを彩り、私たち男子生徒は黒い長袖のジャケットを羽織って夏の暑さを増幅させた。私たちは円陣を組み、今日の成功を絶叫に願った。普段は声を荒げぬ担任でさえ、声を枯らすのを厭わなかった。

 三十人いる女生徒は、桃色の紙を張った団扇と細やかに裂き開かれた暖色のボンボンとを交互に使い分けて、振る舞い続ける笑顔の懸命や、乱れぬ一挙手一投足に、惜しみない拍手を浴びた。彼女らからのバトンを受けた私たち男子八人は、顔を絵の具で汚して、鼠色のぼろ布を纏い、スリラーを踊った。曲が終わると再び女子に繋いで、その短い間に私たちは顔を洗ってジャケットを羽織い、次の曲であるカナシミブルーの出だしを待った。

 踊りを終えた私たちには津波のような拍手が送られ、その拍手のほとんどは同学年の友人で埋め尽くされていたのだが、それでも私たちは例えようのないほどの幸福の切れ端が、こんなにも味気ないコンクリの土間の片隅にこぼれ落ちていることを止め処なく思い知らされた。遮蔽した空間に、いつまで経っても感動の余韻が反響していた。

 この後はしばらくカメラで撮り合う時間が続き、フラッシュの閃きや甲高いシャッター音など、それら一つ一つが異様なまでに心地よく、私は我を忘れて友と抱き合い、飛び合い、そうしてまた抱擁し合った。夏にこぼれる汗の交わりが癒着にも似て私を喜びに籠絡した。しかし白シャツに落とされた一点の染みが、その他すべての純白を戯言のように呑みこんで、汚らしさの象徴と化すように、私の中では不本意なまでに底の見えない不安が膨れ上がり、それは忽ち過去のイチョウに集約された。

 私は小学の時代より後にイチョウの木を見たことが一度だけある。それは高校の合格発表日の夕暮れであり、己の進路を強く決意するためにもその行為は必要だった。私は心の底から「逃げなければならぬ」 と思った。陽を繕う金森から居場所を奪ったイチョウの木。月下より繋がる初瀬と赤木さんと私との繋がりに生温かい早熟の愛を孕ませたイチョウの木。私の幸福はいつも決まって寸前で消え失せ、あるいはそれは私が求めれば求めるほど、私の隣を去っていくのである。これら罪深き所業をさも平然と差し置いて、かの老木はふくふくと太って苔を生やし、春の息吹に屹立していた。

 この時私は、眼前にそびえ立つ老木が少しも動かぬことを歴然と思い知らされた。それは大地に根を張る植物にとって、ごく自然なことであろうが、この時の私にとっては驚くほどに意外であった。時の経過が過去の記憶を薄めるように、年月の歩みが豊かな肌に皺を植え付けるように、私が年を刻めばイチョウの木肌はぼろぼろと崩れ落ち、痩せ衰えていくであろうと私は過信していた。しかしそれは誤りで、動くことができるのは唯一私の方だけであったのだ。

「逃げなければならない」 という思いの薄まる時分がひと時だけあった。それは、禁忌に歪んだ父の死に触れた時である。父は最期、「お前は誰だ」 と私を睨んだ。瑠璃色の丸々とした眼球が、蒼い月夜に無抵抗で、私は死人の世界を垣間見た。彼岸と此岸の紙一重は、私の身体を見事に透かして自己の薄まりを私に与えた。自身の不在は世界の不在で、私はイチョウを忘れてしまった。そうして私は過去の不幸を高校の時代に再び繰り返すところであったのだ。

 土間を離れた私は、映画が放映されている教室へと急いで向かった。友人は映画の出来栄えに手ごたえをつかんで、賑わう教室の青写真を確信していた。階段を駆け上がり、視聴覚室の扉をあけると、人の少なさがかえって鮮烈に目にとまり、隣にいる友人は「結局映画は俺らの自己満足やったんやな」 とひどい脱力に肩を落とした。まばらに座った生徒の間を冷房の冷たさが駆け巡り、私の腕は鳥肌となって収縮した。そうして私は確信したのだ。老木の面影が地中深くに根を伸ばすこの土地に居残っていては、私は一生幸福を味わえぬであろうことを。「逃げねばならぬ」 と私は思った。


 受験生に冬休みなどなく、ほんの少しの年末と年始だけを除いて、私は高校の教室で級友と共にセンター試験対策に明け暮れた。マークシートは鉛筆で塗りつぶすのだが、その楕円を外側から塗りつぶすのか、内側から塗りつぶすのかという、ともすれば瑣末過ぎて意識にも上らぬような話を、教師は教壇の上に立ち、大真面目に語って、生徒の美麗な眼差しを集めた。

缶詰にされた私たちが解放されるのは、窓外が暗みを帯び始める時刻であり、帰りの街灯は鈍い明りを灰色の雲に灯していた。自転車で岐阜駅に着いた私は、久しぶりに今宮に会った。彼は足切りにならない程度にセンターは頑張るさ、と私に話したが、何割くらい取れそうかと訊ねると、「九割は固いだろうね」 と唇を指でかきながら答えた。私はというと、国語と日本史の出来次第では八割を切ることもあったが、概ね八割程度は取れるであろうと見込みをつけていた。私は大阪大学の経済学部に志望を決めていた。

 私と今宮はノートや参考書を開くことなく、ただ漠然と話を重ねた。もはや私にとって勉強を教わることなどどうでもよく、彼と語り合うことのみが、とてつもない重みを持っていた。私は今宮と受験の話をしたり高校の話をしたりすることで、受験の不安を解消し、精神の安定と飛躍を同時に得ていた。それは圧倒的な絵画の傑作を前に、己の雑念が昇華されることに酷似していて、さらには傑作を盗んだ罪人が、それに見惚れて自己との重なりを錯覚することと同じであった。私は今宮と語り合うことで、根拠のない自信を着々と蓄えていたのである。

 ふいに私は「マークシートってどうやって埋めとる?」 と今宮に訊ねた。彼は鉛筆を持つふりをして自分の感覚を確認し、「真ん中からかな」 と私の目を見据えた。今宮が中心から塗りつぶすのは、少なくとも真ん中さえ埋まっていれば機械が誤読することはないだろうから、というなんとも合理的な理由であり、私は自分が楕円の外枠から塗り潰すわけを考えた。しかし私は己の行動に説明を与えることができなかった。これは私の行動が言語の外にあるのではなく、ただ単純に、私が私を知らぬということを赤裸にするのみであった。


 センター試験の自己採点結果を教室で記入し終えた私は、友人と共に焼きそばパンを食べながら、冬の景色を瞳にあてた。私立大学を受験しない私には、筆記試験だけが残されており、浪人を考えていない私にとって、国立大学一つしか受けぬという現実はなかなかに苛酷であった。この期間は今宮に会うこともなかったために、精神的な疲労は壮絶で、さらには塾に通わず独学のみで勉強してきたという事実が、なぜだか今頃無性にコンプレックスとなり、この不安は今宮とすごした時間の積み重ねをもってしても解消されることはなかった。

 無限の不安を彼方に押しやるためにも私は机に向かい続けた。それはホテルで過ごす筆記試験の前夜まで続けられ、ついに私は大阪大学豊中キャンパスで試験を受けた。コツコツと音のなる薄い解答用紙と、艶やかで幅の浅い机の滑らかな冷たさを、私は今でも覚えている。

新幹線を使って家に帰ると、翌日の朝に高校へ赴き、パソコンの電源を入れた。インターネットで解答速報を見終えた私は、背後で「どうだ?」 と訊ねる担任に、「五分五分ですね」 と味気なく答えた。

 しかし声のそっけなさとは裏腹に、私はほとんど合格を確信していた。センター試験はなんとか八割を超えた程度で、楽観視できるような点数ではなかったし、筆記の国語や英語も合格を確信できるようなものではなかった。それでも私が大阪大学に通う自分を前向きに想像できたのは、おそらく数学の点数が満点であろうことに起因していた。よりどころのない私の心を支えるにはそれ一つで十分だった。

 合格発表日の朝も同じように高校のパソコンで合否を確認した私は、背後で心配そうに、私の受験番号も知らぬくせに、数字だけが規則的に並ぶ画面をありありとのぞく担任教師に向かって、「受かってます」 とできるだけ抑揚のない声色で伝えた。彼は私に情熱の籠った握手を求め、私はそれに喜んで応えた。

 私の歓喜は弥生の寒空に異様であった。葉の抜け落ちた(けやき)が伸ばす細々とした枝の先は、肌理細やかに上昇し、土より上る水の潤いを毛細な血管のように空へと還元することで、亜麻色の樹皮を単調な世界に色めき立たせた。雲間に覗く夕暮れが、雲の端々を黄金に輝かせた時、私の身体は小さく震えた。私に摂り付くイチョウの呪縛からようやく逃避できるのだと、私は一人、涙を流して空を眺めた。一朶の雲が、風に吹かれて茜を隠した。


 ○○○


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