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イチョウの木  作者: マナブハジメ
高校時代
14/21

14

 院内の個室に横たわる父の肌は黄疸に染まり、筋肉が削げ落ちることで父の面影は白骨の標本と似通ったが、父の落ちこぼれたまぶたの麓で燦然と輝く玉露のような瞳の煌めきは、唯一命ある声となって私の身体を暖かにした。私が病室を訪れると、父は必死に唇を開いた。しかしこの時の父はもはや自分一人の力で軽やかに舌先を扱うこと能はず、丸くなった語尾の歯痒さに同じ言葉を何度も繰り返し、私は聞き取れぬところは正直に聞き返し、短くない時間の中でわずかなやり取りをすることがやっとであった。

 この頃になると、さすがの私も己の非力を嘆きに嘆いた。私は母と気持ちを同じくし、父がこれほどの病に伏さねばならぬのは、己の過去が不純に澱み切り、その泥のような、罪のような破片の一部が、父の体を蝕んでいるのだと激しく自分を責め立てた。だから私は無意味な行為に意味を見出し、それをひたすらに実行することで、父の病が遠く消え去るのだと強く信じた。

 例えば私は夕食を抜いた。私が感じる腹の満腹は、父の空腹と表裏をなして錯覚に陥り、私がひたすらに空腹を耐え忍ぶことは、それすなわち父の満腹に繋がるはずだと私は思った。例えば私は長い夜道を全力で走った。私が疲労に息を上げ、鉄の血だまりを喉の渇きに感じたとしても、夜の裏には朝があるように、父の身体には清水の潤いが湧きあがるであろうと私は信じた。


 ある日私が病室を訪れると、入室の前に母が立ちはだかり、父の容体を深刻に伝えた。どうやら父の癌は脳にまで転移しているらしく、私が個室に足を踏み入れても、ベッドに埋もれた父の目は一向に動かなかった。半開きの口腔からは飾り気のない呼吸しか聞こえず、それはほとんど空調の機械と同じリズムで振幅を刻み、そこにあるはずの父の姿はただの人型の容器にすぎず、有限の内側を持つという意味において、家屋のそれと変わりがなかった。僅かに首を傾けた父のみすぼらしい顔色は、しかしすぐさま天井へと舞い戻り、私のこと無視でとらえた。

 父は私を忘れていた。それでも私はいつか父は私のことを思い出してくれるはずだと自分自身に言い聞かせ、無意味な行為を熱心に繰り返した。するべきことはいくらでもあった。私より一秒先にある事象は、隈なく全てが父の命と結びつき、記憶の回復に繋がっているのだから。私は父が再び私の名を呼んでくれる日を待ち続けた。

忘却に置き去りにされた私の過去を取り戻すためには、それ以外に方法はなかった。私は父の記憶からの欠落を知らされて初めて、父のことを愛おしく思った。私が運動するのが得意なのも、サッカーが好きなのも、それは余すところなく父の影響であり、父の存在なくして今の自分がいないことを、まざまざと思い知らされたのだ。次第に私の意識と感情は、私と父とを重なり合わせ、深海の無音にも似たその重なりの静けさの中で、私の本心が永遠父の子であり続けたいと慟哭するのを極めて空しく響かせた。夜の深みに電話が鳴った。

医師は母の後ろで立ち尽くし、私を父のもとへと近づけた。母はほとんど骨と皮だけとになった父の手を私に預け、かけるべき言葉を嗚咽の震えに滲ませた。私は私だけの意思で父の顔をのぞき見た。私は父に声をかけ続け、何かの拍子に私の名前を口走ることを期待した。薄情に成り下がった力弱い掌に私の熱を伝えることで、父の唇が私の意図した形に蠢くことを切に願った。そうして父はようやく声を絞り出し、瑠璃色のビー玉のような瞳を夜の暗闇に見開いた。今際の父は「お前は誰だ」 と声を枯らして息絶えた。

 父の死に際の一言は、私の過去と、家族と、剰え私自身をも否定していた。私と父との重なりはあっけなく打ち砕かれ、父の四筆は拒絶の交わりで禁忌に変貌し、私はとめどない途方に暮れ果てた。ただ母は、「あんたは大学に行きなさい」 と私の背中を推してくれた。もはやそれだけが母の唯一の願いであった。

日々の経過は私の頭を落ち着かせ、金銭的に私立は無理でも、国立大学ならばなんとかなるのではないかと思うに至った。文理選択は文系を選んだ。それは父が技術者であったことが、この時の敏感な私の感受で、ある種の方向付けをされてしまい、文系を選ぶに至ったのかもしれなかった。私は塾に行くことなど到底叶わず、独学で勉強せざるを得なかった。気付けば私は勉学に打ち込み、部活を辞めていた。それはもはや禁忌のしがらみを一つ一つ丹念に振りほどいていることと同じであった。意外なことに、世界は色味を失うことなく、かえって新鮮な空気を頬に這わせて私の世界を輝かせた。この空が青いのはきっと、この世の全てを水に流すためなのだろうと私は思った。二年の月日が過去に流れた。


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