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廊下を歩いていると肩を叩かれることが多くなった。彼ら彼女らはみな一様に赤木さんのことについて、あたかも心配で夜も眠れぬ野兎のようなふりをして、私に訊ねるのである。正直なところ、私も赤木さんの近況に詳しいわけではなかった。あの日を境に連絡を取り合う回数を極端に減らしていたせいである。不可解な欠席を増やし始めた彼女への興味は、次第に私にも感染を見せ始め、初瀬と共に下校する約束を早急に取り付けさせた。
木枯らしの合間に私と初瀬は語りを合わせた。初瀬の首元は昨年と同じく臙脂に包まれ、それでも彼は「寒いな」 と言った。私が赤木さんの話を切り出した時、彼はおもむろに「できたかもしれん」 と言葉を結んだ。初冬の風が私の頭をひどく冷やした。
よく見ると初瀬は少し痩せたように見えた。夏に部活が終わったことを思えば体重を増していても不思議ではない時期にあって、彼の出張った頬骨は違和感を持って私の視界に映し出された。「できたって?」 と私が問うと、「妊娠やて」 と彼は答えた。
意外なことに、私は冷静を保っていた。初瀬は赤木さんの近況や、彼らの関係についてまで、赤裸々なまでに語ってくれた。彼は自然な流れで番の肉体を結び合わせたのだと私に言ったが、私には到底そうは思えず、初瀬がそう感じているのは、おそらく彼が赤木さんの手中に、あるいは彼女の胎の中に取り籠められてしまっているからだろうと根拠なく思った。彼は控えめに二人の愛を語ったが、私には生臭い肉体の鼓動しか伝わらず、粘々しい情熱の絡まりは、彼の憐れを誇張するばかりであった。
初瀬は明らかに無防備を晒していた。野球があるうちは彼の身体は部活に満ち溢れていたが、中体連が終わると白球はひとまず彼に年度末にある高校入試への変貌を要求した。彼は他の生徒や私でさえ意識し始めた受験というものと向き合わねばならぬはずだった。しかし彼はそれをしなかった。かわりに彼は赤木さんを見た。輪郭の曖昧な彼女の出で立ちは、石墨に黒々と強調される勉学の苛立ちと対極に立つことで、初瀬をたちまち虜にしたのだろう。そうして彼は己の腑抜けな空白を赤木さんにより深々と満たされ、狂おしいほどに彼女の熱を欲してしまった。
およそ一年前に初瀬からの告白を受け取った赤木さんは、今日までの月日を遠いと感じたのだろうか、それとも、近いと感じたのだろうか。今思えば、彼女はずいぶん前からこうなることを願っていたような気がする。それはおそらく、小学の夏の夜、月下に三人腰を並べて、大イチョウを仰ぎ見た時から、あるいはそれ以前から、彼女の「愛」への追及は始まっていたのだろうと私は思う。
赤木さんは近しい友人に自分のことを「アカちゃん」 と呼ばせた。そうすることで、彼女本来の姿を眩ませることに成功していた。そのあだ名は、まだ仲も深まらぬうちから我々の間に浸透しており、机を並べる透き通った世界しか知らぬ学友の瞳の奥底に、隈なく、そして無抵抗に、嬰児の面影を張り付けたのだ。
なぜ私だけが彼女のことを「赤木さん」 と呼び続けていたのかはわからない。わからぬというのは、今の私には理解に及ばぬだけであって、当時の私はもしかしたなら彼女の笑顔に初恋を感じていたのかもしれないし、初瀬と同じ土俵に立つことを嫌がっていただけなのかもしれない。しかしいずれにしても、私の網膜で嬰児の幻影は産声を上げず、周囲の雑音により幾重にも折りたたまれ、捻じ曲げられた、ただの私的な印象、あるいは理想の中でのみ、彼女は動きを覚えていった。
他の生徒は「アカちゃん」 と呼ぶことで、彼女を幼く可憐に育てた。しかし彼らの中で育ったのは、巧みな虚実の傀儡で、その糸の操りは魔性にも似た滑らかさで彼女の肢体に息吹を与えた。私は彼女を「赤木さん」 と呼ぶことで無自覚に彼女の本質と近接したが、無条件で居心地の良さを覚える周囲との調和の中に彼女の本音を埋めてしまった。時折彼女がぼやけるのは、間違いなくそのせいであった。
赤木さんは、私たちが思っていたより遥かに大人で、女で、愛を欲していたのだ。しかもそれは形なき愛ではなく、熱を帯びた行為の愛であり、生命を孕んだ形ある愛だったのだ。簡単には逃れることの出来ぬ、複雑で、難解で、責任を含んだ、血の通った愛を、彼女は欲していたのである。彼女の二重は理想と現実の狭間であった。
さて、赤木さんを語る初瀬はひどく幸せそうな血色をして私の聞き耳を生き生きとさせたが、何も手を加えぬならいずれはこの世に目を開くであろう二人の間の生命に話が及ぶと、彼はかわいそうなほど無力な子供になり下がり、その顔色を不安一色に染め上げた。彼は赤木さんとの二人の間で今後のことは考えると言ったが、この段階ではもはや二人の両親の介入は避けられそうになく、未熟な彼の考えがどこまで尊重されるかは預かり知れぬところであった。
もし大人が中絶の道を二人に示したならば、それは血の通う愛の堕胎を意味し、愛の剥奪を受けた赤木さんがどのような精神に追い込まれるかは到底想像できるものではないし、そんな彼女を血の一滴まで愛おしく思う初瀬の純愛が、どのような反応を覚えるかを想像することは、私の脳裏に悲劇と喪失を交互に浮かび上がらせるばかりで、もはや私がどう足掻こうと二人の未来に手を貸すことはできぬのだということを強く刻みつけるだけであった。
私はこの後、初瀬と二人で赤木さんの家を訪問し、ジャージ姿の彼女と面会した。彼女の家の中は、私が思っているほど暗く落ち込んではいなかった。それでも彼女らの未来がどのように転ぶかは、未定の不確実に澱んでいるようで、これから二人は予断の許せぬ毎日をただひたすらに歩き続けることしかできないのだなと、それはまさしく他人事のようにして私の心に浮かび上がった。
この時の赤木さんは実に脈絡なく色々な話を私に聞かせた。それは学友の話であり、部活の話であり、遊びの話であったりしたが、それらはことごとく彼女の不安の裏返しであり、その仄暗に吸い込まれるままに、初瀬と赤木さんはさらに距離を縮めて互いの熱を頼りにしているように見えた。理想と現実の一致を身籠った赤木さんは、恍惚に肉付きの頬を染めやかすのではなく、一人の幼い女生徒として、自身の近い未来を案じていたのである。そのことが私をいちいち安心させた。
赤木さんがイチョウの夜の話をした時、私は得も言われぬ喪失感を味わったのだが、それはもう二度とあの夜には戻れぬのだという郷愁の喪失であり、過去に捕らわれ続けている己自身の自覚でもあった。
玄関を外に跨ぎ、街路の冷やかさに逆説の炎を感じた私の身体は、何もない歩道に生温かな息を吐いた。遠くに映る初瀬の背中には臙脂のマフラーが赤々と滲み出し、痛いくらいに地面に垂れている。私は密かに、彼の分まで生きてやらねばならぬと、砂色の空に固く誓った。
高校受験の合間は私に様々なものを整理させた。まずは浅黒い肌を持つ小柄な少女との関係である。比較の優劣がまだ抜けていない私にとって、初瀬と赤木さんの関係は少なからず、私を男として焦らせた。蝋色の夜、少女と錆びれた校舎の隙間で待ち合わせた私は、浅い段差に腰を下ろして彼女の脇に手をまわした。少女は事より先にまず接吻を求めたが、私は唾液の交わりになど興味はなく、その生臭い絡まりに対して嫌悪すら覚えて、頑なにその行為を拒み続けた。私の興味の向かうのは、まだ味わったことのない、女の乳房の柔らかさそれだけであった。
そうして私は女の曲線に手を置いた。さも優しげに私の指をめり込ませてくれると信じた脂肪の湾曲はしかし、恐ろしいまでに固く凍りつき、私の指先を受け入れなかった。それは彼女が身につけている下着のせいであったのだが、私の傷つきやすい刹那の自尊は、そのわずかな薄みに撥ねつけられることで、冷や水を浴びせられたかの如く無様に委縮し、意気地を失い、興奮を諦めた。
浅黒い少女の肌は、蝋色の暗闇に水気を増して艶やかに照り輝いたが、私の興醒めに気付くと彼女はすぐさま私の傍らを離れて、軽蔑にも似た溜息をこもらせた。この件で彼女は私のことを決定的に不能と決め付け、互いの関係を終わらせることを後日私に要求した。私は何の未練もなくその要求を快諾し、液晶画面をぱたりと閉じた。
二つ目は進路のことである。私は残り少なくなった受験期間、必死に机に齧りつき、一にも二にも勉強をした。両親も驚くくらいのこの変貌は、岐阜県立加納高等学校の合格を持って晴れやかな結実を果たした。この結果はほとんど奇跡と言ってよく、この奇跡をもたらしたのは「逃げねばならぬ」 という陰鬱とした強迫観念と、初瀬を思う情熱とであった。私はとにかく県外の大学に行くことだけを心に決めていた。
最後は初瀬と赤木さんのことである。二人は大人の暗い口穴から延々説き続けられる、念仏のような体裁の呪縛に堪え忍び、二人の愛を貫き通した。特に初瀬は長い期間頭を下げ続けていたらしい。私は彼の純愛と決意に心を打たれ、己の変化を自己に沸々と促した。後に赤木さんは赤子を産むのだが、今後の生活のことも考えると、初瀬は高校へ進学すること叶わず、野球部の監督の口利きで、下水管工事を請け負う事務所で働く道を選ぶより仕方なかった。
初瀬は最後、幸せそうな笑顔を私に見せたが、私にはやはり彼のことが可哀そうに思えるのであった。もはや彼は自分の意思だけで晴れやかな未来を選ぶことはできないのだから。私は彼に背を向けた。初瀬はいつまでも私の背中に手を振っていた。それに気付かぬふりをして、私は解けかけた靴紐を強く結び直した。桜色に開き始めた蕾が綺麗事のように冬を流して、花粉を宙にふわりと舞わせた。鼻に衝く春風の中で、私は私の未来を思った。
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