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イチョウの木  作者: マナブハジメ
中学時代
10/21

10

 秋と言うにはまだ暑さの残る不定の季節に、私たちの学年は飛騨高山へと修学旅行に赴いた。観光街を歩くと普段は目にせぬ原色が幾度も目の端々に入り込み、そのたびに私の興味は土産屋に向けられ、歩く速度をたびたび落とした。大抵の店には、さるぼぼ、が置いてあるのだが、それら表情を持たぬ文字通り無口の人形は、あたかも私に外装の無意味さを悟らせようと心掛けているように見えた。そしてそれらは焔を帯びて、私の内に語りかけるのである。

 焔の語らいが私に何を授けようとしていたのかはよくわからない。彼らが私に通じる言語を用いていたのかも定かではない。しかし彼らの無口な言葉は、いつか見た夕闇の虚空を思い出させた。銀杏の薫りと共にある、とても悲しい記憶である。だから私はできるだけ、さるぼぼ、が目に入らぬよう工夫して歩いたのだが、私の努力は生地のない傘のごとく無力と等しく重なった。

 明るくはしゃぐ友人たちの中にあって、私は潮の満ち引きにも似た複雑な気持ちに苛まれたのだが、黒の海面の遥かに浮かぶ白面の月が、いつまで経っても美しいように、クラスメイトとの屈託のない会話の投げ合いに意識の集中を見出すことで、その悲しみを忘却に潜めた。次第に明るみを帯び始めた私の闊歩は、しかしすぐさまバスの窮屈に押し込められることで低い天井に突き当たり、月の丸みを四角の中に見失った。

 バスは緩やかに揺れながら山の中腹にある宿泊所を目指した。校舎にもよく似た造りの宿泊所にたどり着くと、私たちは各々部屋へと足を急がせ、畳に大きく寝そべった。少し時間をおいた後、旅のしおりが書き記すままに食堂へと集められた二年の生徒は全員そろって夕食の時間を過ごした。修学旅行の夕食とは常々豪華さとは無縁であるのだが、この夜も同じく、給食とさして変わらぬ、栄養バランスのみに気を配ったような味気ない献立が、藁半紙の質感を隠そうともせず私たちの前に粛々と並べられるのであった。

それでも葉の上に乗せられた朴葉味噌は火で炙られることにより、唯一非日常の香りを漂わせて、大して肥えてもいない私たちの舌根を喜ばせた。私は朴葉味噌を純白の米に乗せることで何杯もご飯をお代わりした。白い米粒は黄色にも似た飴色を帯びて味わいを深くした。


 あわただしい風呂の時間に私が衣服を脱いでいると、仲の良い男子生徒が突然カメラを取り出し、私の半裸を写真に収めた。それはあまりに不意打ちであり、私はひどく狼狽した。カメラのフィルムの茶鼠の中に、私の影が切り取られてしまったのではないかと不安に思ったがためである。もっと直截的な表現をするなら、私は私の金森を、とられてしまったかのような気がしたのである。彼が持つ使い捨ての箱に備え付けられている歪んだレンズによって。

「やめろよ」 と私がカメラを取り上げようとすると、「頼まれたんやて」 と彼は苦しい言い訳をした。私は頑ななまでに彼の行為を咎め続けて、現像した写真は私以外の誰にも渡さぬという約束を、恫喝にも似た勢いで取り付けると、それでようやく許しを覚えた。被写体の私と同じように上半身を裸にした彼は、撮影したことをひどく後悔しながら靴下を脱いでいたであろう。

他の生徒と同じようにタオルを腰に巻いた私は、シャワーを浴びて湯に浸かった。乳白に濁った温泉の波紋が私の身体に当たって弾け、皮膚を刺激する液体の温度が隙間を見つけて私の身体に沁み込んだ。時折私の心に浮かぶ霧のかかった情の世界は、湯気の揺らめきが靄を作ることにより、今ここに現実との重なりを見せ始めた。

湯につかる私の脳裏には空白ばかりが目立ちを見せて、それ以外何も浮かんでは来なかった。霧であり、靄であり、空白である私の内面は、何かしらの色合いを欲していた。しかしそれは眩しすぎては身が持たぬということを私は心得ていたし、原色に満ち溢れていては箍が外れたように、私は私を見失うであろうということも知っていた。それはおそらく、カメラのフラッシュが私をあまりに激昂させることに、つい先ほど気付いたからであるのだろう。

 風呂からあがり、布団が並べられる頃になると、両親に無理を言って買ってもらった携帯電話が活躍を見せた。十時を過ぎると教師らに電気を消すよう言われるのだが、失脚した蛍光灯の下で暗闇が部屋の隅々まで行きわたると、小さな液晶は鋭い光を空中に解き放ち、眠れぬ夜を描きだした。私たちはそれをせねば生きていくことのできぬ機織りの老婆のように、器用な手つきでメールを打った。

 私たちのメールの行き先は上階にいるはずの女子たちのもとであり、それら目に見えぬ繋がりの中で、私たちの指先は、興奮の指紋を浅い突起に押し付けて送信を表示させた。携帯の光はフラッシュのそれとは異なり、月光のそれと似た風合いを身につけて夜の中心に高く昇った。窓の外に映る三日月は、偽りの輝きを放ち続けて、音のない夜を閑静に照らし出し、水で伸ばした絵画のような、儚さの滲み出た趣を輪郭に潜めて窓枠に収まり、質素な壁に飾られていた。それは動けぬ夜の色合いを帯びて私たちに静寂を求めた。私たちの夜は眠らぬ教師らの手中により綿密に支配されていたのである。

 時刻が深まり始めると、メールの内容は「誰々ちゃんが寝ちゃったよう」 など、夜の脱落者を刻々と書き連ねるばかりになった。そのたびに私は落胆し、できることなら彼女らを叩き起こして、夜長の底へと導きたい気持に駆られた。しかし他の部屋の男子生徒から教師脱落の報告が入ると、眠気を帯びた我々の夜は、息を吹き返したかのように血行を取り戻した。それを知った女生徒の一人に呼ばれた私は、男の階と女の階とを結ぶ階段の踊り場で密かに落ち合った。唐紅(からくれない)の絨毯が敷かれた、広くも狭くもない真ん中の空間で、彼女は恋を囁いた。

 彼女の恋は愚直に私を求めていた。彼女は生まれたてのふやけた皮膚を持つ赤子が、初めて言葉を知った時のような幼さで「好きなんやけど」 と唇を動かし、その振幅は一定の音域を保ったまま味気なく私の耳元へ届けられた。彼女の声だけを聞いていたなら、この瞬間は何者かによって創作された、彼女にとっての罰ゲームか何かの類なのではないかと疑うこともできただろう。しかし私は、この一言が彼女の本心であることを、恐れ多くも見抜いていた。

 彼女の肌は浅黒く、生命に満ち溢れていた。髪は短く切りそろえられ、背は低いのだが、発育途中の豊満さが、野に蔓延る男たちの視界の中で魅力を増し始め、彼女自身もそのことに気付きつつあるようだった。まぶたに奥深く開かれた彼女の水晶体は、縷々とした少女の思いをその本意とは裏腹に、一瞬の透明な閃きの中に託し込んだ。幸いなことに私は彼女の不本意な刹那を見逃さなかった。

 私はほとんど迷わなかった。このままの中学生活を続けていては、己を暗く閉じ込めることにつながるのではないかと我ながら危惧していたし、なによりいつまで経っても輪郭の薄まらぬ太い老木と、剥げることの知らない黄蘗色の落葉に、気付かぬうちに取り込まれてしまうのではないかと恐れていたからである。死の瞻望を裏に孕んだかの幻影から離脱することでのみ、私は私の回帰を享受できるものだと信じていたのだ。

しかし難しいことに、イチョウの中には金森がいる。私が彼女の残り香を手放すには過去の記憶は幸せすぎた。私はいつもこのようにして意思の勇敢を振り落とされるのである。

浅黒い少女との間に迷いの沈黙が落ちた。私は少女を嘗めるようにして見た。彼女は意思の強そうな顔立ちをしていたが、まだどこか不安定なのを隠しきれずに小さく留まっているように見えた。小柄な身体を抱きしめたのなら、全てが私の範囲に収まり、彼女は息を忘れて細かく震えるのであろうと私は思った。

次第に私は情欲を覚えて、例えば私が「胸を揉ませろ」 と言ったなら、彼女は喜んで乳房を夜に曝すだろうとか、「下腹部に口付けをしろ」 と命じれば、尻尾を揺らす駄犬に成り下がることを厭わないだろうとか、そういう残虐な妄想に行き着いた。

 気付けば私は彼女と金森との相違を無意識の内に探し始めて、過去との接点を一切含まぬという条件でのみ、少女との関係を繋げようという妥協を見出した。その点彼女は過去との重なりが極めて少なく、彼女の浅黒い肌や、髪の短さや、小柄な体形が、私をひどく安心させた。そうして私と私のイチョウは彼女の恋を受け入れた。老木が肥しを含んで膨らんだ。


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