その九 ローゴン
螺旋階段を登るうち、踏み越えた段数に比例して、重く濃い空気がエドワードとコウタの二人にのしかかってきた。この上に、間違いなく何かがいる。強大な、何かが。そう予感させるには十分すぎるほどの圧力だった。
同時に、嫌な臭いが鼻をつく。むわりと、本能的な嫌悪感を引き立てる臭いだ。
腐臭か?
王国騎士団の大多数が返り討ちにされたというのに、ここまでの道中で亡骸は見かけなかった。つまり、ここから上に――騎士団の人達が命を落とした現場と、元凶が、待ち構えているのだろう。
大丈夫かコウタ
ふと後ろを見ると、くわを握るコウタの手が少し震えていた。何の解決にもならないが、エドワードが声をかける。
「大丈夫だべ、ここまで来たら引かねぇっぺ」
コウタはへへっと笑った。強がりに見えるが、彼の意思を踏みにじらぬよう、エドワードは改めて自分の後ろについてくるように頼んだ。
やがて、螺旋階段の終わりが見えてきた。二人は、四階へと上がる。
そこは、一階、二階と同じ仕切りのない大空間だったが、下の階に比べると、少し狭い。また、窓のような開口部はあるが薄暗い。そして、部屋全体からは強い腐臭が。床をよく見れば、拭き取ったのだろうが薄く血の跡が付いている。それも、広範囲に。やはりここで、騎士団はやられていったのだろう。
騎士団を壊滅状態にしたその元凶は、今まさに、二人の視線の先にいる。螺旋階段の反対側、窓のそばで佇むその生き物――ローゴンは、値踏みするように上がってきた二人を見ていた。
あれが、ローゴン。
身体から溢れ出ている圧力と邪気から見て、間違いないだろう。エドワードは心の中で呟いた。
薄闇の中にいるそれは、牛頭人身の魔物――ミノタウロスだった。二本の角が生えた闘牛の頭を、千切って人の身体に付けたような怪物だ。下半身には申し訳程度の黒いズボンを履いてはいるが、発達しすぎた逆三角形の上半身と、三メートルほどの体躯が相まって、顔から下を見ても「人」らしさは微塵も感じられない。
その手には、薄闇でもぎらりと輝く金属質の巨斧を持っていた。相当大きな武器だが、ローゴンと並べると人並みのサイズに思えてしまう。
そして、エドワードの意識は、ローゴンの隣にいる少女へと向く。
やはり、魔物側の生き物か。
二階でエドワード達を策にはめた、あの謎の少女だ。白いワンピースを突き破り、背中からまがまがしい黒い翼を生やしている。こちらも既に、一目見て人外だと分かる容姿をしている。
「人間――それも二人だけ。何だ、拍子抜けだ」
ローゴンが喋った。低く、重い声が、空間に響き渡る。それだけで、場の雰囲気が変わった。明らかに、今この場の空気を支配しているのはローゴンだ。
「み、ミノタウルス……! しかも、あの女の子も……」
ローゴンと、変貌した少女を見たコウタが、気圧されて思わず後ずさる。
すると、ローゴンは血走らせた目を、コウタだけに向ける。
「俺の事を、種族名で呼ぶんじゃねぇよ」
知能があり「個」としての意識が強い魔物は、それゆえ種族名で呼ばれることを嫌う傾向がある。そのような魔物は、自らが名乗った固有の名前で呼ばれたがるのだ。
エドワードは、ローゴンの張り裂けんほどの筋肉が僅かに盛り上がるのを見た。
次の瞬間――目の前の巨体が跳躍した。身体の重量からは違和感しかないほどの、天井高さすれすれの大ジャンプだ。
「俺の名は、ローゴンだ!!」
重力により加速力のついた大斧の一撃が、頭上からコウタを襲う。寸前でエドワードがコウタの横っ腹を蹴飛ばし、大斧は空ぶった――そう、大斧自体は空ぶったのだが、叩きつけられたその一撃は石の床面を大きく破壊した。その衝撃波で、エドワードとコウタはそれぞれ反対の壁まで吹っ飛ばされた。
床面はひび割れ、迫り上がり、陥没した。エドワードにとって、ある意味予想通りの予想外の破壊力だ。たが。
これは――ケタが二つほど違う――!
目の当たりにしたそれは、多少魔物を倒したことがある程度の「人間」エドワードと、「魔物のボス」ローゴンとの戦力差を、如実に物語っていた。
牛頭の血走った目は、尚もコウタの方をロックオンしている。コウタは壁に背を預け尻もちをつきながらも、何とかくわは握って構えたままだ。だが、ローゴンの持つ大斧と比べてしまえば、くわは爪楊枝ほどの存在感だ。
のしりとコウタへ近づくローゴンの背後へ、エドワードが走り出す。背骨を切り裂いてやろうと、剣を振りかぶった瞬間――こちらを向きもせずに乱雑に振るわれたローゴンの片腕が、エドワードを捉えてしまった。
咄嗟に片腕の木の盾でガードをするが、その衝撃はエドワードの持つ小さな木の盾で吸収できるはずもなく――盾は無残に破壊され、その破片と共にエドワードの身体も宙を舞うことになった。
再び壁に打ち付けられたエドワードは、ローゴンがコウタの目の前に辿り着いたその瞬間を見た。
「まず一匹」
大斧が振り上げられる。